見出し画像

憧れながら、恐れている

最近、人生がつまらないと思うことが増えていた。
そんなはずはないのに気づいたらそういう思考に陥ってしまっていることに、正直焦っていた。

誰かと会い、なんとなく、初めから決まっていた流れかのようにほとんど惰性で飲み屋に入り、適当に酔っ払っていろんなことを有耶無耶にして帰る。そんなことを何度も経験して、ときめかないことにお金をかけるべきではないのも薄々わかっている。

だから、今日は散歩をして帰ろうと提案した。それが結構当たりだった。京セラドームの周りを一周して帰ることにして、友達とのバイバイを先延ばしにした。ドームは大きいから見えているうちは大丈夫、そう言いながら話が盛り上がり、本当はとっくに曲がるべきところを過ぎているのもわかっていた。振り返って見ることはしなかった。あれそういえば、なんて友達の方からも言って欲しくないと思っていた。昼過ぎから遊んだのに夜9時のようやく解散というところに来て、一番話したいことを話せている感覚。それでも、お酒を飲まないと話せないよりかはずっと良かった。

こんな風な、プライスレスな幸せこそ本物だ、と思う。少し違う言い方をすると、幸せは自給自足であるべきだと思う。特定の他者がいないと成り立たないものは、偽物とまではいかないけれど本物ではなくて、ましてやこれからが保証されていないような人と育む幸せなどは、ほとんど幻みたいなもの。まあ、それに酔いしれることも1度くらいはあってもいいけれど。
お金をかければ簡単に手に入るものも、どこかずるをしているような感じがする。シンデレラの魔法みたいに一時的で、夢の中みたいに嘘っぽい。子供の頃、欲しかったものを沢山貰ったのにそれが夢だった時の虚しさを思い出す。

自給自足といえば、ペンとメモだけを持って自分の内面と向き合うことは自給自足であるように思う。社会人になり、文字を書くことや文章を綴ることが格段に減り、久しぶりに買った日記帳は数ページ書くだけで疲弊した。それでも、疲れはするものの、消耗している感じはなく、むしろ生産しているような感覚だった。

何を『生産』と感じ何を『消費』と感じるかが、その人の本質的な性質を表していると思う。人と話すことで満たされる人もいるだろうけれど、私にはそれが救いになる一方で、やっぱり少なからず消耗する方の人間だった。好きだけれど向いていない。向いていないとは、他者と比べると劣るということ。向いていないことをすると人は擦り減る。要するに、それは私にとっては『消費』なのだと思う。

消費ではなく、生産をしなくてはならないと、ずっと思ってきた。
だけど、社会人になり、時間をお金に変え、そのお金で生活を成り立たせる日々の中で、何が消費でなにが生産なのかが分からなくなった。
日々いっぱいいっぱいで生き繋ぎぐ私にできたのは、働いて擦り減った分のマイナスを他者やお金で満たすことくらいだった。
お酒を飲んでは寂しくなって、迷惑をかけない程度の薄い関係性の人と会い寝不足なままお金を稼ぐために仕事に向かう。そんな日々が、どこに向かうのか分からなかった。いつになればマイナスがプラスになるのだろうと途方もない気持ちだった。
一人暮らしを始めてすぐの頃にかさんだ出費のマイナスが埋まり貯金残高が少しずつ増えてきたけれど、心のマイナスの埋め方がわからなくなっていた。一人暮らしや仕事に慣れたかと聞かれても、よく分からなかった。余裕はずっと無かったし、これが慣れたということなのか分からなかった。ただ、今日も明日も別に生きてはいけるだろうな、というだけだった。
やりたいことはずっと先にはあって、でも今の私には今日明日の私が大丈夫にする程度の力しかなくて、「ずっと先」にはずっとずっと本当にいつまで経っても届かないような気がしていた。

だけど、簡単なことだったのかもしれない。友達と話しながら、大学生の頃をふと思い返していた。マイペースな者同士、たまに思いついたみたいに会話をする。推しにお金をかけていた友達が、もっと自分にお金をかけていればよかったと嘆きながら、最近はユーキャンの講座を一括で購入して数ヶ月放置している話が心底面白くて、2人で大笑いした。
そんな私も、大学生がもうほぼ終わるという頃に購入した水彩画のオンライン講座を、思っていたよりも忙しかった日々に埋もれてほとんど受講できないままに期限を切らしてしまった。


社会人になり稼いだお金を思う存分娯楽に注ぐ事ができなくなり、あの頃は無駄な出費を平気でしていたなと後悔混じりに思ったけれど、だからこそ心が満たされていたのかもしれないなとも思う。経験をお金に変える事が当時はできていた。身になるかどうかはさておいておいて、気になるから行動する。余裕があったからできていたのだし、それができていたからこそ余裕が生まれていたのかもしれない。

最近、日々がつまらないのは変化がないからだ、という趣旨の動画を見た。節約だと思って実りのなさそうなものにお金をかけることを嫌い、知らず知らずのうちにものすごく守りに入っていたなと思う。新しい経験だとか、自分が向上心を持てる物事にすらも、消費は良くないと、時間とお金を惜しんでいた。本当は、頭の中ではあれもこれも気になっている。野望だらけのはずなのに、今の生活はどこかつまらなくて平坦だ。

夏になると、過去のことを強烈に思い出すのは私だけだろうか。懐かしい曲が無性に聴きたくなって、GReeeeNやファンモン、そのほか当時聴き漁っていた曲たちをランダムに流した。そうするとなんだか、今私が私だと思っているものはほんの表面でしかないのだな、という気がした。今の私は時系列の中の1つの点だけど、私自身はちゃんと生きてきた線上にいて、何もないように感じていたのも、今の私しか見ていないのだから当然だ、と思った。その私が全てだと思い込んでいた今の私は、薄々向いていないと感じる仕事をして、個性を活かす事も殺すこともできずに中途半端に笑ってやり過ごし、向上心がないから頑張れないことに嫌気がさしている。
何もない、この日々がどこに向かうのか分からない、なんて思うのも当然だった。

憧れながら、失うこと、傷つくことを何処かで恐れていた。無茶なことはしたくなくて、この歳で、たかが知れているような気で勝手に人生を俯瞰していた。取り組んだ先に何があるのか、なんて思わずに絵を描いて本を読んでいられたのはせいぜい小学生の頃までだろうか。あの頃は、絵を描く本を読む、時間そのものが豊かだった。


お金も時間も、惜しむところを間違えたらだめだなと思う。
楽しいけれど自分が消耗するような誘いにはできるだけ乗らないこと。
それと反対に、たとえ何にもならないかもしれなくたって、自分がプラスだと感じることはそれ自体に意義があるから惜しまずにお金も時間も沢山使うこと。むしろ、使わなきゃいけない。
生産をして生きていけば幸せだろう。なにを生産と感じるかは私が1番分かっている。
こんな風にひとつの文章を仕上げることも私にとっては生産だから、これからもたまには間違えてしまうけれど、またこうやって生きていけばいい、明日も。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?