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陽キャな保育士が 産後うつになった話

はじめに

 恋愛は別として、見えない糸を信じている。ほんの一瞬目にした本のタイトル、順番を待つ後ろの人たちの会話の中、すっと意識が持っていかれてしまう瞬間。ドラマチックな出来事ではないけれど、きっと今の自分に必要な啓示であるはずなのに、大抵その形はぼんやりしていることが多い。私にとって、「産後うつ」というパワーワードがまさにソレだった。はじめての出産から1年以上たったある日。たまたま手にしたパンフレットの内容に、恐怖と安堵と後悔が入り混じって愕然とした。そこに書いたあったのは、いつかの私だったから。
 誤解のないようにはじめに伝えておきますが、医療機関で「産後うつ」と診断されたわけではない。だから、これからの話は、本当に治療が必要な人にとっては何の参考にもならないかもしれない。ただ、もしも教育・福祉関係の仕事をしながらママになり、自分で自分に生業という呪いをかけてしまっている人たちの見えない糸になってくれたらと願う。どうか、あの日の私に届きますように。

1,保育士の夢、破れる

 高1年の夏。進路希望調査と書かれた紙を前に胸は熱くなっていた。密かに憧れていた保育士の夢。優しかったすみれ先生のような保育士になりたい。幼少期の頃、私が通っていたのは幼稚園。いま思えば、幼稚園教諭と保育士の違いも分からなかったけれど、ただただ純粋な思いで近県の保育系短期大学を3校記入して提出した。あとは、その道を目指すだけ。そう思っていた。

1週間後。進路希望調査を元に、担任と2者面談が行われた。「「保育士希望って書いてあるけど、これ本気?」。
担任いわく、保育士は毎年希望者が多く、離職率も高い。それに、平均給与も低いため、就職先としておすすめできない。別の職種にも目をむけてみたらどうか。学年に2クラスだけの進学コースを受け持つ先生は、四年生大学に送り出さないと俺たちの評価もヤバいのよと、暗に言っていた。子どもの頃から空気を読むことだけは得意だったせいか、すぐさま地元の国立大学の教育学部に希望を変更。こうして「保育士になりたい」という夢は、16歳の夏に消えてしまった。それから3年。進んだのは地元の国立大学ではなく、東京の私立大学。しかも、経済学部に合格した。当時の学力で入学できる学科を選んだ結果、夢とは遠い場所で新生活をスタートさせたのだ。それなりに単位を取得し、専門外で学ぶことができた高等学校教員免許も取得。みんあと同じようにグレーのスーツを着て就職活動を行い、幼児教育とは程遠い一般企業へ就職した。ベルトコンベアーの上に乗っていれば、自動的に結婚して、子どもを産んで、幸せになる。基本的に物事をあまり深く考えない陽キャな私は、毎日ごはんが食べれて、恋人がいて、時々友だちを遊んで過ごせればそれでいいと、無難な毎日をのらりくらりと過ごしていた。

 でも、常に燃えカスのように胸のすみっこに残り続ける「保育士」の3文字。社会人2年目の秋。昼夜逆転の生活が続き体調を崩したことをきっかけに、そのカスに火がついてしまった。真夜中に通信教育のチラシからハガキを破り取り、翌日ポストに投函した瞬間から人生が一変した。

2,やっぱり子どもが好き

 保育士になると決意して2年。学生時代よりも勉強に打ち込み、2度目のトライで国家試験に合格。25歳。地元の公立保育園の保育補助として、遅咲きの保育士デビューを果たすことができた。高校1年生の時から温め、つぶされ、くすぶっていた夢が叶ったのだ。
 出勤初日。担当する0歳の子どもを抱っこした瞬間、それまでぼんやりとしていた「子どもが好き」という思いが、「やっぱり好き」という確信に変わったことを今でもはっきりと覚えている。保育士というと、最近はやたらと労働環境が問題視されているけど、私が勤務していた10年以上前から言われていることは何も変わらない。何30年前に高校の担任が言っていた通り、給与は平均以下だし、休憩時間はあってないようなものだ。休日でも、結局は「先生」というイメージがつきまとうから、だらしない格好で過ごすことはできない。ベテランの先生になればなるほど保育以外の仕事が増え、家庭との両立でバランスを崩していく姿も見てきた。

 それでもやり過ごせていまうのは、「やっぱり子どもが好き」というピュアな思い。一緒に喜びながら、泣きながら、日々の成長をそばで見守れることに、大きなやりがいも感じることができる。きっと福祉系の仕事を生業とする人のほとんどが陥ってしまう、悲しくも仕方のない性なのかもしれない。しかも、同じピュアな情熱を持った仲間同士。相性が合う人が増えれば増えるほど、最高の職場になってしまうから厄介なのだ。めったにないことかもしれないが、私がお世話になった保育園の先生はみんな陽気で、悩みも、仕事も分担し合える雰囲気にあふれていた。保育園にはそれぞれの家庭で過ごす子どもたちが集まるから、園児の数だけ様々な問題が起こる。卒園までの間、保護者との信頼関係をいかに築けるかが保育のカギといってもいい。これは、未婚で子どものいない先生にとっては正直かかえきれないほどのプレッシャーになのだ。保護者対応でどんなに落ち込むことがあっても、やっぱり保育士が天職だと思わせてくれたのは、当時の仲間のおかげだろう。

3,切迫早産という呪縛

 13歳の頃から生理不順で婦人科に通院していた私は、20歳の時に「自然妊娠は難しい」と告げられた。漢方薬や針治療、女性ホルモンをアップさせるというパワーストーンまであらゆるものを試してみたけれど、年齢を重ねても子宮は微動だにせず。30歳を過ぎても、月経は年に4回程度。普通ではない状態が長年続き、妊娠を希望するなら治療が必要となるレベルとまで言われていた。しかし今でも不思議なのだが、34歳で0歳児クラスの担任をするようになって急に月経周期が安定(とはいっても60日周期くらい)。まさに、人体の神秘。見えないホルモンか、はたまた母性の源というものがあるのか、子宮は命を宿そうとエンジンをかけ始めてくれた。時を同じくそて良縁にも恵まれ、35歳の春に結婚。その年の夏に、自然妊娠が発覚した。

 とはいえ、喜びもつかのま。微量の出血がずっと続いていた。もしやと思い婦人科に駆け込むと、切迫流産のリスクありと診断。すぐに職場に連絡を入れ、1ヵ月の休暇を申請した。夏場というのにカーテンを閉め切った部屋で、ただじっとお腹を見つめる日々。子どもが好きな自分にかぎって、なんでこうなるの?もしかして、高校生の時に友達に借りた漫画を返していないから?それとも、小学生の時に友だちに意地悪をしたから? 自分がこれまでしてきた悪事を思い返しては、「すべての罪を償うから、どうかお腹の子の命だけは助けてほしい。これからの人生で、何一ついいことがなくたっていい」と祈り、落ち込むことしかできなかった。それから1ヵ月。無事に心拍を確認。安定期に入り職場に復帰したものの、お腹の張りが続き、大事を取って予定よりも早めに産休に入らせてもらうことになった。産休2日目。妊娠7ヵ月の健診へ向かうと、切迫早産と診断。ただちに入院が必要とされ、出産準備もままならないまま病室へ運ばれた。切迫流産と早産を経験したことで、「『この子を守るのは、自分しかいない』。保育士として、母として、これまで学んできた知識と情熱をわが子に精一杯注ごう」と固く誓ったのだった。

4,保育士だから助けはいらない

 早産だからと陣痛を止めてみたり、陣痛が弱いからと促進してみたり、山あり谷ありだった出産。医療の力でしっかりとお腹の中で育った長男は、産んでみれば3,512gと超Bigサイズ。思い描いてマタニティライフより辛いことが2,000倍上回ったせいか、わが子をはじめて抱っこした時は「もうこの瞬間で人生終わってもいい」と感じたほど。同時に、母としての使命感スイッチが最強レベルでON。この母性スイッチが、のちのち自分を壊していくことになるのだけれど…。出産した病院は、完全母乳を推進しているため当日から母子同室。産後2時間程度休んでから、子どもが眠っているベットを押して病室へ戻った。陣痛から出産まで70時間。身体の痛みと寝不足でフラフラだったが、その瞬間から子どもの世話はママの役割となる。看護師さんから「保育士さんだから、おむつや抱っこは慣れっこですよね?」と声を掛けられ、迷うことなく「はい」と答えた。この瞬間から、助けを求めることはできない。担任していた子ども達よりもずっと軽い新生児のわが子。抱っこだって腰に負担が少ないからラクだし、何より私が産んだ子どもだ。一人で面倒を見るのは当然。出産前に学んだ産後の暮らしは、すべて子どもが中心の幸せな時間。自分の心と身体が出産前と180度変わってしまうことは、これっぽっちも頭にしみ込んでいなかった。産んだ瞬間から母になる。母性は自然とわき出る。そう信じていた。21時に産まれた息子は、完全に昼夜逆転の生活スタイル。担当医も「赤ちゃんって、そういうものだから。眠りたいときに眠って、お腹が空いた時におっぱいをあげていれば、リズムも整っていくよ」。なるほど。子どもの欲するサインを見逃さないようにしなくては。ベットで眠っている間もじっと顔を見つめ、「いつ起きるの?」「そろそろオムツ?」とそわそわ。意識は常にクリアになっていて、鳴き声を感知するアンテナが日に日に敏感になっていることに喜びさえ感じていた。

そんな私にはじめての異変が起こったのは、退院前夜だった。

5,まさか私に限って

 真夜中。また息子が泣き始めた。ベットサイドのランプを点けて、おむつをチェックする。30分前に交換したはずなのに、もう青いラインが見えていた。新しいおむつに交換し抱っこをしたものの、一向に泣き止む気配がない。おっぱいをあげてみるものの、「そうじゃない」と火がついたように泣き始めた。その声を聞きつけ、夜勤の看護師さんが見回りにやってきた。事情を話すと、「明日からお家に帰るしね。もしかするとママの緊張が伝わっているのかな?」全く気持ちの晴れない言葉を残して、仕事に戻っていった。え?泣いているのは私のせいなの?出産してからほとんど眠らないでずっと面倒みているのに、それでもまだ足りないってこと?いま目の前で起こっていることのすべてが、母親としての力量不足と責められているようで、涙が流れ始めた。悲しいわけじゃない。この子のことがさっぱりわからない。産後の急激なホルモンの変化で心身のバランスが崩れることは知っていたけど、きっとそうではない。ただ、自分の母としての才能が足りないだけだ。だって、私は保育士だから。専門職なんだから。泣いている理由がわからないなんて、あってはいけない。それなのに、それなのに、何も何もかもがうまくいかない。心が重たい。そうだ。今ごろ夫は静かな部屋でゆっくり眠っているのだろうか?私はこうして何日も眠らずに、ずっとわが子の世話をしているというのに。でも、弱音を吐くわけにはいかない。だって、保育士だから。今よりももっともっと頑張らないと、親として周囲に認めてもらえない。保育士のくせにわが子1人もうまく育てられないのか。きっとこんな風に後ろ指を指されてしまうのだ。だから、これまで今以上に子育てに集中しなくては。うっすらと朝日が差し込む病室で、自分を苦しめる「保育士だから」という呪文を何度も何度も唱え、笑顔の仮面を張りつけて病院を後にした。

 自分のペースで生活したいからと里帰りはせず、アパートでの子育てをスタートさせた。退院日は季節外れの猛暑日。例年よりも早く満開になった桜が、迷惑そうに熱風に吹かれていた。和室に敷いた新生児用の布団に息子を降ろし、1週間ぶりにダイニングテーブルでお茶を飲んだ。小さなシルエットが部屋に馴染まなくて、ちょっとだけ笑えてきた。いつもの場所ではじまった3人の暮らし。「これからよろしくね」ほんのりと熱を帯びたほっぺをさすりながら、思い描く”やさしいママ”っぽく声をかけた。

6,暗黒の1ヵ月

 退院から1週間後。息子を連れて再び産科を訪れた。体重が増えずに退院したため、念のため1週間ごとに通院するようにアドバイスされたのだ。問診の結果、おっぱいの量が足りていないから、授乳後にミルクをあげるように指導された。2時間おきに飲ませていたけど、どうやらしっかりと飲むことができていなかったらしい。別室に呼ばれて「正しい授乳方法」を助産師さんに教わった。その瞬間、これまでとは違うギアが入ってしまい、口にするものすべてに敏感になってしまった。おっぱいのためにと異常に水分を取り、香辛料、カフェイン、化学調味料が入っているものを避けるようになった。すべては、わが子の成長のため。おっぱいの回数とミルクの量、おむつの交換回数をチェックするのが、1日の全てになった。眠っている間、ほこりを吸い込まないように、雑菌がつかないように、音を立てないように掃除や消毒を続けた。洗濯も息子の洋服やタオル類だけは別に洗い、大人の汚れが移らないように細心の注意を払う。夫以外の大人と話すのは実母くらい。スマホの小さな画面だけが、世界の全てで、子育ての悩みを解決してくる万能なツールとなっていた。日を追うごとに、子育てに対するワクワク感が薄れ、辛さ、イライラ、夫への不満で心がざわつくようになっていった。それでも「しんどい」と口に出すことはできない。そんなことを言ったら、子どもに申し訳ない。きっとまた何か悪いことが起きてしまう。切迫流産のことを思い出さなくては。「産まれてきてくれてありがとう」。無理やり自分に言い聞かせ、同時に、もしかしたら虐待を起こすのは自分のような人間なのかもしれないと恐怖に襲われるようになった。もうこんな日々が続くのなら、かわいいこの子を抱えたまま死んでしまったほうが幸せなのかも。気がつけば泣いている息子を見ながら、ただ座っているだけの時間が増えていった。陽キャだった保育士は、もうどこにもいなくなってしまった。

7,もはや私ではない

 産後2ヵ月を過ぎたころ。市の保健師さんによる「赤ちゃん訪問」が行われた。成長の様子とママの悩みを丁寧にヒヤリングしてくれたが、弱音をこれっぽちも吐くことができなかった。夜中、全然眠ってくれない息子に腹が立ってそばにあったタオルを壁に投げつけた、時々どうしようもなく大声を出して怒鳴ってしまう、日中訳もなく子どもと一緒に泣いてしまう、産後からほとんど眠れない。聞いて欲しいこと、助けて欲しいことは山ほどあった。でも、そんなことを口にしたら「要観察」の烙印を押されてしまいそうで、「ちょっと大変なこともあるけど、今だけだと割り切ってがんばります」と笑顔で答えた。いい母親だと思われたい。保健士さんに目をつけられたら最後だ。出産して性格すらもゆがんでしまったのだろう。これまで気にならなかった、夫が玄関の扉を閉める音さえも気に食わないようになっていった。
 「産後うつについて」。息子が1歳を過ぎたころ、たまたま目に留まったパンフレットに10のチェック項目が記載してあった。「笑うことができて、物事のおもしろい面もわかった」「物事を楽しみに待つことができた」「はっきりとした理由もないのに不安になったり、心配になったりした」「はっきりとした理由もないのに恐怖に襲われた」「することがたくさんあって大変だった」「不幸せな気分で、眠りにくかった」「悲しくなったり、みじめになったりした」「不幸せ気分で、泣いていた」「自分自身を傷つけるという考えが浮かんできた」。そこに書いてあったのは、完全に”産後の隠し通してきた姿”そのものだった。パンフレットの続きには、「妊娠中および産後1年未満に死亡した女性のデータを分析。その結果、全357例の死亡事例中102列自殺によるものであり、中でも出産後1年未満の自殺が92例に上る」と書いてある。やっぱりそうだ。私も”そっち側”の人間だったんだ。これから、「子どもが好き」なんて言えない。保育士には戻れない。「あなたは母親失格です」と言われたような気持になって、そっとパンフレットを閉じた。
 
 あれから8年。その後この夏6歳になる娘も後誕生し、現在は2人のママをやっている。人生とは全く予想がつかないもので、「産後うつ」のパンフレットを閉じた3年後、「産後うつ」を予防するためのサークルをスタートさせ。あの時もっと現実に向き合えばよかったという後悔が原動力となった。ああすればよかった、こうすればよかった。生きていれば後悔することの方が多いだろうけど、産後だけは違う。後悔した頃には、遅いのだ。キラキラした子育て情報誌の片隅にふんわりと書いてあるぐ程度の情報では足りない。「子育て=楽しい、幸せ」という刷り込みと同じくらい、産後ママの変化を発信し続けなくてはいけない。コロナ感染防止対策としてマスクがあっという間にスタンダードになったように、産後の心の変化も「当たり前」として受け入れる世の中になって欲しい。産前の自分と産後の自分は違って当然。その変化をママ自身も、そしてパートナーも、家族もみんなが受け入れてくれたら、それはちっとも恥ずかしいことではないのだから。保育士だからって、「できない」「辛い」と弱音を吐いていい。料理人だって、まずいご飯を作ることだってある。弘法だってへたくそな字を書くのだ。心の弱さを吐き出すことは、生きる強さなのだ。もしもタイムマシーンがあるのなら、退院前夜の病室に戻って、あの頃の自分にそっと見えない糸を垂らしてあげたい。

8,陽キャな保育士の現在

 子どもとの暮らし。すなわち、思い通りにならない日々の始まりでもある。トイレもお風呂も、食事だってままならない。部屋はどんどんおもちゃに浸食され、自分時間は削られていく。二の腕は太くなり、抱っこ期間が終了すれば重力に沿って変わっていく。尖りまくっていた神経は図太くなり、小さいなことには目をつぶり、あきらめ上手になる。どんどん弱音も吐くようになる。出産のビフォーアフターは、想像以上に劇的だ。だって、分娩台で我を忘れて叫んだ瞬間から、私たちには格好をつけている隙がないのだから。わが子の体調が悪くなったらパニックになるし、歩き出した瞬間は自然と涙がこぼれる。これまでうまくコントロールしてきた喜怒哀楽のスイッチがすべて裸になって、四季の変化にすら敏感になってくる。子育ては、人が今よりも人になるための営みなのだ。
 陽キャだった保育士は、産後うつを予防するための活動をしながら、子育て情報を発信する仕事を続けている。外でも、家の中でも、子どものことで頭がいっぱいの日々。結局は、「疑問を持ったこともあったけど、やっぱり子どもが好き」なようだ。そして、少しだけ、ほんの少しだけ、子育てをしている自分に誇りを持てるようになった。保育士だからではない。もがきながら「母」になろうと頑張り続けたあの日の自分が、こちらにむかってエールを送ってくれているから。そして、子育ては今日も続いていく。





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