干潟の伝統漁4

ハゼの手づかみ漁

ハゼは夜、干潮の干潟で寝る。初の事例報告

 海水温の下がり始まる9月から10月にかけて、ハゼは深場に入る前、冬支度なのか、夜半に干潮時の干潟で寝る。ウソだと思う人がいるかもしれないが事実だ。ひと休みしているだけかと思っていると、手づかみにしてもじっとしているので多分寝ているのだと思うしかない。
 大きさは体調15㌢~20㌢とほとんど型がそろっている。深場に入るヒネハゼ、落ちハゼ級だ。夜8時過ぎごろ、大潮の干潮時、干潟はすっかり潮が引いて干潟のほとんどは干出している。干出とはいっても波と水流でできた轍(わだち)、くぼ地など起伏がある。くぼ地は1㌢ほどの水たまりとなっていて、ハゼはここで寝ている。一つのくぼ地に1匹ずつ行儀よく並んでいる場合もある。すべて爆睡中だ。
 取ったハゼの入れ物は大きな竹ザル。米揚げザルと呼ばれる深ザルで通称・一斗ザルという。直径36~38㌢、深さ23~25㌢の大きさ、この一斗ザルを手に干潟に入る。約500~1000㍍ある満潮の干潮時の海面と海浜の境目である汀線まで進む。汀線の沖はアマモ場。アマモ場は大潮の干潮時でも水深が1㍍弱あり、急に深くなる。
 夜漁なので照明、明かり、カンテラがいる。ヘッドライトを付けられる小型バッテリーが普及する以前は、カーバイトのガス灯が照明となった。カーバイトのガス灯はカーバイトのタンクに落とす水量が多いほどアセチレンガスが多く発生し、照明の炎が大きくなって明るくなる。風が強いと炎が揺らいだりして照度が低くなるほか、炎を消えることもある。
 カンテラで干潟を照らす。月夜の晩なら目が慣れれば、照明はいらないぐらいだ。くぼ地のあちこちにハゼがいる。照明を当てても、近づいても逃げない。ザルをくぼ地のわきに置いて、利き腕でハゼをわしづかみにする。ハゼは手づかみにされても、きつく握らない限りほとんど動かない。満月の夜は照明がなくても良く見えた。
 体長はどれも20㌢程度と大きく、ヒネハゼ級だ。潮が上げてくるまでの小1時間で大ザルの3分の1ほど取った、ざっと200匹はいる。2人で行けば、400匹は取れる。
 いったん、手づかみ漁をした場所には2,3日、ハゼの姿はまばら。だから同じ場所で手づかみ漁ができるのは大潮のひと晩だけ。秋は夜、干満の差が大きい。大潮の間中、つかみ取りをする場合、場所を変える。2晩の漁で400匹以上の漁獲となる。
 ハゼは持ち帰り、粗塩を振ってぬめりを落とし、水洗いして日陰干しする。水分がとれたころを見計らって、木炭コンロの七輪で炭火を熾(おこ)す。火が起きたら金網を置いて、その網にハゼを置く。軽く焦げ目ができた状態に焼き上げる。焼き上げたハゼはむしろの上で天日干しする。カチカチになったら俵に入れて保存した。

正月の甘露煮、出汁用

 正月の雑煮の出汁はこの焼きハゼ。正月用の甘露煮もこの焼きハゼを使う。これが江戸前では当たり前だった。江戸と何らかの交流のあった関東地域の田舎では、江戸言葉だけでなく、江戸の気風を含めてあらゆる文化、特に江戸前の食文化が伝わった。田舎だけに江戸から明治の世になっても後世まで江戸前の食文化が継承された。
 今でも焼きハゼを作っているのは宮城県石巻市の北上川河口近くで漁をする人だけ。もう出汁を取るほど多くのハゼは取れない。江戸時代半ばから、武士が竹竿を手にハゼ釣りをした。このハゼは恐らく、出汁用か甘露煮用に使ったと推測できる。
 海から離れた地域では湖沼、河川で取った体長5~7㌢程度の小さなマブナやワカサギを甘露煮用にする。狩猟が盛んな山間部では猪の腿(すね)の干し肉を削って出汁にした。土地土地でたんぱく源の摂取の仕方、出汁の取り方はさまざまで、地元で採捕された魚介や鳥獣の肉など地のものを使うのが当たり前だった。
 ハゼの研究者であった昭和天皇にハゼの手づかみ漁を知らせたいと20代のころから思ったいたが遅かった。このことを知れば、きっと干潟の夜漁、ハゼの手づかみ漁に出かけたかもしれないと思った。
 ハゼの手づかみ漁を知る人は夜の干潟でカンテラ漁をする人だけ。昼間だけ漁の人、夜の干潟の生態を知ろうとしない学者や研究者はもちろんも知らないことだった。どんな報道でも取り上げられることはなかった。だから、これが国内で初の報告事例となる。

ハマグリの大脱走

 高校生のころ、1960年代半ばごろだったと思う。東京湾での水銀、PCB汚染がニュースになった。魚は一切売れなくなった。ウナギもワタリガニ(ガザミ)も売れなくなった。沖合の中層引きで取るイワシもススキ、ススキに成長する前のフッコも全く売れなくなった。これが1年間続いた。専業漁師は魚を取ってもカネにできず、日々の生活に困窮した。
 夏のある日の午後2時ごろ、いつものようにひと泳ぎしようと、上げ潮の干潟に入った。やはり深さが胸辺りまでないと泳いだ気分にはならないと、どんどん沖合に出た。干潟は大潮の干潮時、浜辺から沖合500~1000㍍ほど干出する。大潮の満潮のなる1時間ほど前だった。干潟の中ほどの辺りで、海面が腰まで来た。上げ潮の海はプランクトンが多いせいか、だいたい濁っている。底まで見通せない。足の底がゴツゴツする。手でそのゴツゴツをつかんだ。なんと大粒のハマグリだった。
 

汚濁、汚染に弱いハマグリ

 ゴツゴツの場所は推定で縦横約10㍍、広さ約100平方㍍ぐらいだった。家に帰って話したら、そこはハマグリの養貝場だと教えてくれた。養貝場とはハマグリが自然産卵する場所。ハマグリやアサリの産卵後、ふ化した固体のプランクトン幼生は海中を浮遊。干潟や浅場に着底する。ほとんどの幼生は近場に着底するとみられているが、遠くまで浮遊するのもあるという。
 東京湾流は一般に左巻きで太平洋から流入し千葉県側に入って沿岸部を流れ湾奥まで上り、湾奥から神奈川県沿いに流れて太平洋に出るとされている。横浜市域の干潟でアサリが結構取れる。地元では地元のアサリが産卵して稚貝が育ったと自慢している。あくまでも推測だが、千葉県側で産卵した幼生が流れ着いた可能性があると思っている。
 漁師たちは当然ながら、ハマグリの生息場所が養貝場だということを知っていた。「李下(りか)に冠をたださず」ということわざがあるように、あらぬ疑いをかけられないように、漁師たちは養貝場に立ち入ることはもちろん、近づくことさえしなかった。知らないのは子供だけ「まさか、取ってこねえよな。泥棒になっちまうから」。「入っちゃ、ダメだ」ときつく言われた。養貝場のハマグリを持ち帰ったら泥棒、盗人になる。

苦潮がわいた

 翌日も午後2時ごろ、上げ潮の干潟に入った。怖いもの見たさに再び養貝場に行った。足の底にゴツゴツしたあたりはなかった。養貝場とみられる場所のあちこち、どこを踏んでもハマグリがいる感触は全くなかった。あれほどいたハマグリがいなかった。姿を消していた。こんなことって、あるのか。不思議なことがあるものだと思った。
 夏場の海は赤潮が毎年発生していた。この年は青潮も沸いていた。漁師たちは仲間内で赤潮、青潮の区別なく「「ニガショ(苦潮)がわいた」と話していた。干上がった干潟のあちこちに行き絶え絶えのアカエイが散見できた。ボラの死骸(しがい)もあちこちにあった。赤潮で魚が苦しんで死ぬようなことは今までなかった。恐らく青潮の酸欠のせいだと思った。
 東京湾で青潮の発生は千葉港から船橋港にかけて、干潟を深掘りして大型船の航行ができるようにした場所がある。夏場にプランクトンなどの死骸がたまり、深場の底層は酸欠状態。冬場、北風が吹くと表層が流されて底層が浮上して、酸欠状態の海水が漂流するーとされてきた。冬場の発生頻度が高いのに、なんでまた夏場に発生して通常の湾流とは逆の流れになるのかと思ったが、素人しかも高校生の知識では分からないことばかりだった。
 

一晩で逃走

 ハマグリは一晩でいなくなった。青潮の発生を探知してそれぞれが相談したように一斉に逃げ出した。生きるか死ぬかの局面で大脱走したかと思いながら「こんなことがあるのか」と考え込んでしまった。家に帰ってハマグリが一斉に消えたことを話した。「そんなことあるもんか」と鼻で笑われたが、ひどく声のトーンが落ちて悲しい顔をした。
 ハマグリの影も形も見えなくなったことの事実は事実だ。では、どこに逃げ出したのか。近場にはいなかった。追跡のしようもなく、ずっと遠くの干潟に行ったしまったのか、沖合にでたのか、皆目見当もつかなかった。もちろん貝類の専門誌でもハマグリの大脱走の記事は一切、なかった。これが国内初の報告となる。
 ハマグリが逃げ出してもアサリは逃げなかった。それだけ、ハマグリが水質汚濁、水質汚染に敏感で汚染に弱いという証拠だった。それだけアサリは水質汚濁、水質汚染に強いことが分かった。
 専門家や研究者の間では東京湾からハマグリがいなくなったのは1980年代とされている。東京湾と言っても干潟のある内湾、特に千葉県側だ。あちこちの干潟でハマグリ採取の体験をしたわけではないから明確に断言できないが、もっと早い時期の60年代後半ごろではないか、遅くとも70年代後半には生息数はゼロに近かったのではないかと思う。
 千葉と言えば、ハマグリの大産地だった。千葉駅と内房線の木更津駅ではハマグリを串刺しにして焼いてタレを付けた「焼きハマ弁当」が名物だった。地元産のハマグリだった。名物になるほどハマグリが取れていた。
 小学校低学年のころ、上野動物園への日帰り遠足があって、千葉から船橋方面に向かって海辺沿いを走る国道14号の海側にはアサリ、ハマグリの直売所や焼きハマグリを売る海っペタの店に立ち寄ったことがある。恐らく千葉市の黒磯当たりではなかったかと思う。店は1960年代初めごろまで並んでいた。(一照)(つづく)
 

アカエイは天敵

 アカエイと言えば、愛知県の知多半島の漁港で、取ったばかりのアカエイを初老とみられる女性がナタでぶつ切りにしているのを見たことがある。アカエイは白っぽい腹の周りに赤っぽい帯があるのですぐアカエイとわかる。軟骨のヒレの部分だけ先に別にカットしてあった。二度揚げのから揚げにして食べるという。
 頭と口の周辺、噴水孔(縦横20㌢四方をカット)の部分、トゲのある尾をナタでぶつ切りにして廃棄。残った部分は煮つけにして食べるという。白身の魚で煮つけは冷めると煮凝りができる。エイの肝も一緒に似て、白身に浸けて食べる。「これがうまい」と女性は話した。
 東京湾の千葉側ではアカエイを食べる食習慣はなかった。干潟で見かけてもアカエイを取る漁師は誰一人いなかった。尾にあるトゲで人を刺す。手や足を刺されてシビレが走り痛みが激しいという。刺された手足がはれ上がり、1、2週間しても完治しなかったという話をよく聞かされた。
 食べることが無い理由はほかにもあった。干潟漁師はアカエイが嫌いなんだってことを知った。アサリやハマグリ、干潟にいるガザミやイシガニ、クルマエビを捕食するからだ。いわば商売敵の天敵、お互い生きていくうえで競合するのだ。
 食べない大きな理由は、採捕してから時間が経つと、アンモニア臭がする。これが小便の臭さに似て嫌われる最大の理由だ。サメもマンボウもさばいてから時間が経つと、魚肉自体にアンモニア臭がする。これは体内に尿素を蓄え、体液の浸透圧の調整に利用するためだという。だから、取ったらすぐ、鮮度が高いうちに食べることが大切だ。

ワタリガニの網掬い漁

 夏の夜漁。満潮時に水深5~7㍍ほどの潮が交じり合う場所が漁場。
ワタリガニ(ガザミ)はエサを求めて海面近くまで浮きあがる。白っぽく映るカニはまるでクラゲがフワフワと浮遊しているように見える。
 船外機を付けた小さな舟(天馬舟)に2人が乗り込んで出漁。一人は船外機のかじ取り、操船役。もう一人は舳先(へさき)に座るか立つかして、先端に直径50㌢ほどの大きさのタモ網を付けた真竹の竿を持って、カニを掬(すく)い上げる。タモ網は手製。網は細い化学繊維で編んだ小さな網目で、タモの細い鉄輪にくくり付ける。タモの竿は太さ3~4㌢で長さ5、6㍍。

まるでクラゲの浮遊

 船外機はあくまでもスロー運転。進むと浮遊していたカニは異変に気付き、甲羅の下方についた遊泳足で急いで潜る。潜るといっても直下に素早く潜るのでなく、比較的緩やかな速度で斜め前方に潜る。逃げ足が遅いため、逃げる方向に網を入れて待ち伏せしていれば、難なく掬い捕れる。一晩約1、2時間で平均50匹程度、多い時は100匹ほどの漁獲がある。
 東京湾で採捕されるガザミは江戸前とあって市場で値が張り、昭和40年代、大き目なガザミ1杯が浜値で1000円もした。多く取れてそれも大きさ、型がそろっていれば 、もっと高値がついた。
 

型がそろうと高値に

 それで身がぎっしり詰まっているかというと身入りが悪い。むしろスーパーで売られている朝鮮半島産の方が身入りがいい。市場に揚げると即刻、築地市場に運んだ.末端の売値は3倍の3000円ぐらい。東京湾産、江戸前の冠が付くだけでこれだけ値が張る。
 仲買が買っても街の魚屋さんの店頭には並ばない。恐らく料理屋から料亭。同じ大きさの型がそろって数があれば、ふかすか茹(ゆ)でて料亭での大人数の会食の席に出されることになる。
 何で型が大切かというと、客同士のいざこざが起きないようにするためだ。料理屋や料亭は団体客に出す場合、食い物の恨みつらみが残らないように大きさを一定にして型をそろえる。
 でないと、客同士がこっちのほうが大きいとか大小をウンヌンして騒ぎになることがままあるので、型がある程度そろった数でないと買わないことが多い。身入りが良く中身が詰まっているか、食味が良いかといった肝心の問題ではない。
 見かけだけの問題だ。これはワタリガニだけでなく、魚介類全般、特に値の張る甲殻類に言える。結婚式で出すタイも型がそろってないと使わない場合が多い。型がそろっていることが団体客に出す必要十分条件だ。
 ガザミ漁に出ても取れない晩もある。数が30~40杯ぐらいだと街の魚屋に買い取ってもらった。数杯とか20杯ぐらいだと自家消費用か隣近所に配った。自家消費としてカニの甲羅をはいで身を半分に切って朝の味噌汁に入れたり、身を甘辛く煮つけておかずにした。来客があれば、カニをゆでて酒の肴(さかな)に出した。
 ガザミを網で掬い取る漁法は各地にあり、浜名湖では太平洋に近い鉄橋下あたりで引き潮時、潮の勢いに流されていくガザミやクルマエビ、コノシロ、タコなどを掬う漁が行われ、観光化している。

アサヒガニが最高にうまい

 旅行をするたびに各地でご当地のカニを食べてみた。一番は奄美大島を訪れた際、東シナ海で採捕されたアサヒガニ。エビのような姿をしているがれっきとしたカニ。身がぎっしり詰まっていて、ゆでても味噌汁の具にしても抜群にうまくて絶品だった。
 同じくらいのうまさはモクズガニ。汽水域に住む上海カニの一種。川を遡上する。川漁師にはモクズガニだけを狙う人もいる。カニの通り道というのがあるそうで、そこに筌(うけ)を仕掛ける。筌の中にはサバの頭などを入れておく。モクズガニはこのにおいにつられて筌に入る。甲羅をはいだ中身の殻も爪も固く、大きいのは歯が立たないので殻を割いて身をほじくるしかない。親指の爪は毛もくじゃらだが、ことのほかうまい。
 次は花咲ガニ。タラバガニと同じくヤドカリの仲間。甲羅や足にトゲ状の突起があるが痛くはない。どのカニも身がぎっしり詰まっている。身がなめらかで舌ざわりが良い。身の味も濃い。
 4番目がワタリガニ(ガザミ)。身がスカスカのカニもいれば、ぎっしり詰まったカニもいて、当たり外れがあるのがたまに傷。5番手はタラバガニ。身がすべすべで舌ざわりがいいし、大きいのは食べ応えがある。順番や甲乙つけがたいが、6番手はイシガニ。大きいのは親指が赤くなっている。小さいのは甲羅を向いてエラをきれいに取って、半分に割ってムシャブリ食う。殻が比較的やわらかいのでかんでそのまま飲み込んでも構わない。
 7番目はタラバガニの近縁種アブラガニ。やはりヤドカリの仲間で、ちょっと見はタラバより少し小型だがほとんどそっくり。タラバと同じようにオホーツク海、ベーリング海に分布する。タラバとは甲羅の突起数が異なる。甲羅の中心部に4個のトゲ状突起がある。タラバの突起数は6個。食味はタラバとほとんど変わらないので一時、タラバガニと偽装表示されて売られていた時期もあった。
 8番目は毛ガニ。9番目がズワイガニ。採捕される土地土地で呼称が異なる。島根、鳥取の山陰の港に水揚げされるズワイは「松葉ガニ」と呼ばれる。福井県や新潟県で取れるズワイは「越前、石川県産は加賀と能登を合わせた「加能ガニ」の名で売られている。
 松葉ガニの雄だけマツバガニと呼ばれる。雌が小型でセイコガニとかセコガニと呼ばれて1箱いくらの安値で売られている。京都府丹後半島の間人(たいざ)港に水揚げされるズワイは「間人ガニ」と呼ばれ超高級ブランド品。大きいのは1杯2、3万円もする。一度食べたが、普通のズワイと変わらない。どうしてこんなに高値なのか分からなかった。
 この順位はあくまでも個人的な舌の感覚、好みによる。個人的に身がすべすべしてツヤがあり、身肉に甘みがあるのが好み。味覚や好みは人それぞれで、毛ガニや松葉ガニの産地の漁師らから「冗談じゃねえ」と叱られそうで、順位をつけるのははばかれたが、あえて個人的な好みで順位を付けてみた。

パッチン漁

クルマエビ採捕の専用漁具

 パッチンと呼ぶ漁具を用いたクルマエビ採捕の夜漁。写真(千葉県君津市漁業資料館の展示品)で見る通り縦横25~30㌢四方の底と高さ25~30㌢の四方に網をかぶせて、その先に伸びる取っ手につけたハンドル・ブレーキレバーのレバーを握ると、開いていた底が二つに畳んで閉じる仕組み。照明はかつてカーバイドのアセチレンガスに点灯したカンテラの明かりだったが、1960年代から自動車搭載用の鉛バッテリーを使い、ヘッドランプで海面を照らした。

クルマエビ採捕の漁具・パッチン=千葉県君津市漁業資料館展示品

 漁場は沖とよぶ岸辺から400~700㍍進んだ場所。夜漁でしかも深さ100㌢~120㌢㍍ほどの海中に胸長と呼ぶ胴付き長靴を履いて入る、小舟を腰ひもで結んで引っ張り、2~4時間ぐらい海中を歩く。ランプで海底まで光を入れてクルマエビを見つけ出す。クルマエビは逃げる時、後ろに飛び上がって下がるように逃げる、パッチンは通常、真上からかぶせるが、エビが逃げるのを想定して、真上よりやや後方に入れるようにすると入る。
 1匹ずつの捕獲なので、潮汐の関係から一晩に採捕できるのはせいぜい50匹程度。多い時は100匹ぐらい取れる晩もある。エビは無傷なので高く売れる。江戸前の天然ものとあって浜相場で1匹500~1000円程度、やはり型が大きくてそろって、ヒゲがついていれば、宴会客用に料亭から引き合いがあるらしく、縁起物として高値で取引される。

多い時は100尾ぐらい採捕

 天然クルマエビは容姿が美しい。特に尻尾はレインボー色をしている。エビはやはり生食よりも煮たり、焼いたりしたほうがうまい。ゆでるとうまみ成分とみそが逃げ出すので蒸(ふ)かし器で蒸した方か食味が良い。ただし「南蛮」と呼ばれるアマエビは生食の方がいい。エビ類はイセエビもそうだが生食でも甘いが火を通した方が身が引き締まり格段にうまい。
 漁に出ても数が取れないと自家消費用として煮たり、ゆでたりして食べる。味噌汁に入れると格段にうまい。一番うまいのは、イセエビを縦に半分して入れたもの。味噌が溶け出し、身はがっちりしまって最もうまい食べ方だ。
パッチン漁は都道府県の漁業調整規則に漁法が載っていないので禁止漁だったのかもしれない。禁止されても根こそぎ捕獲するわけではなく、一定の大きさに育ったエビだけを狙って捕まえるので効率が悪く、漁師からすれば禁止の理由がよく理解できない。
 東京湾の内湾の干潟では比較的遅れて流行した1960年代後半ごろからの漁法。内湾各地で干潟の埋め立てが進み、地先漁業でこのパッチン漁をする漁師は少なかった。漁がはやり出したころ、内湾の千葉県側も浦安から五井、長浦あたりまで埋立が進んでいた。

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