夜とぼし漁

干潟の伝統漁法・夜漁


ウタリ
 魚類は夜行性が多い。干潟・浅海でも同じ。当然、漁も夜間操業となり、干満の差が大きい大潮に行われることが多い。漁師は潮、塩(しお)を話し言葉で簡略化して「ショ」と言う。引き潮は下げ潮」(さげしょ)、上げ潮は「あげしょ」と言う具合だ。塩っ辛いを「しょっからい」とか「しょっぱい」という。
干潟は干満の差が大きい大潮の時、最も潮が引いて干潟が最大限干出する時を下げ潮の「ソコリ」という。「ソコリ」は釣り用語として使われ、釣り人ならたいていは知っているが、元々は漁師言葉だった。なぜソコリと言うかは分からない。
干出した干潟でも潮の流れや波の影響から海水の水のたまりができたところがある。この潮たまりを「ウタリ」と言った。水が完全に干上がった場所を「瀬」(せ)と呼んだ。こちらは釣り用語では普及せず、釣り人でも知らない人がほとんど。漁師ことばで内湾の千葉県側の干潟のある漁村では1960年代までは一般的な言葉として通用していた。
ソコリ
干潟から沖合に出る澪(みお)は、特に下げ潮と上げ潮時に潮の流れが速いこともあって、潮流の影響でできるとみられるウタリは澪の近くに多くできた。ウタリは池のような比較的大きな広がりでなく、ソコリの汀線に並行して細長い長方形のようなケースが多く、深さもせいぜい最大水深10㌢程度、平均1~3㌢と浅かった。
水深が30~50㌢もあるウタリもあった。アマモが繁殖したウタリもあった。ウタリにはエビやカレイ類などの小魚、イシガニなどが寝ていた。エサと取ろうとしているのではなく、なぜか、安心しきったように寝ているのだ。
ハゼは沖合の深場に落ちる少し前ごろの9月上旬から10月にかけて、やはり干潟の波紋の底やウタリで熟睡した。干潟・浅海漁はこのウタリを中心に行われることが多かった。江戸前と呼ばれる魚貝の採捕は干潟・浅海漁業だった。
干潟での魚貝採捕は縄文時代の大森貝塚(東京都大田区大森)や加曾利貝塚(千葉市若葉区桜木)をはじめ、千葉県内湾側の小高い丘のすそ野に貝塚が散見できることから縄文時代には間違いなく採捕が行われていた。
魚の多くは夜行性。夜にエサを求めて動く。だから、干潟・浅海漁は夜漁が中心だったと思う。大阪から移住した佃島の漁師たちが網漁を行い、これが近隣の漁村から内湾の干潟を持つ漁村に広く伝わった。いつから、夜漁が行われたかは文献資料もなく不明。
徳川家康の江戸入城に伴って江戸の城下町形成が進み、膨れ上がる人口の食糧増産を図って佃島に移住した大阪の漁師が夜漁でも採捕したのが始まりではないかと推察する。夜漁の照明に松明(たいまつ)代わりに使ったのが柴を刈り取って、火が長持ちするようにマツ材も含めて束にしたソダヒビだったと推測している。そのソダヒビにノリが繁茂しているから、ソダヒビによるノリ養殖が始まったとみている。
夜とぼし
かつて古老の漁師が子供だった1900年代初めごろ、特に1920年代半ばごろの昭和時代初期ごろの干潟漁の話を聴き取ったことがある。夜漁だから当然、足元と海面、ウタリを照らし出す照明具が必要だった。大きな灯(あか)りを必要とし風のない凪(なぎ)の夜は、細い笹竹を切ってマツ材を含め根元を縛ったソダヒビに火を付けて灯(とも)した。明かり用に菜種油があったが、漁師ら庶民クラスは高価でとても使えなかった。
漁師たちは明かりを夜灯(よとぼし)と言った。灯(とぼし)は灯(ともしび)の変形で「ともし」とも言うが、「ともし」では死人の送り火のようで、明かりが消えそうな響きがすると、漁師言葉が訛(なま)って「とぼし」になったと推測する。「ともす」を「とぼす」とも言うことから「とぼし」になったとも思われる。夜灯の言葉は内湾の千葉県側の干潟がある各地の漁村に残る。ということは、各地の地先漁業で夜灯漁が盛んに行われていた一つの証拠だ。
明かりはロウソクの細い明かりや懐中電灯の薄暗い明かりは、満月がこうこうと輝く時はいいが、たいがい漁では使い物にならない。ソダヒビの明かりから、いつのころからかカーバイドに水滴を少しずつ垂らして発生するアセチレンガスに火を付けたガス灯に替わった。「カンテラ」と呼ばれ、炎の大きさ(明るさ)は水滴を垂らす量で調整した。明治時代に入り、石炭を中心に銅など地下資源の採掘が盛んになった。鉱山での坑道や採掘には明かりが必要で、この明かり「カンテラ」が漁村の夜漁にも普及したとみられる。
カンテラ
アセチレンガス灯は水滴を落とす量でガス発生の多寡、つまり炎の大きさ・明るさを調整した。風に弱いことが弱点だった。ちょっとした風でも炎が揺れて消えることがあった。灯油を使ったカンテラもあった。しかし、灯油カンテラも普及したが、1960年代からバッテリーを使ったヘッドランプに替わった。漁には500㍗級の大玉ヘッドランプが使われた。ライトが自動車用だとかなり照度があり遠くまで届き、漁獲量も増えた。
貝類の採捕を除いて干潟で行われた夜漁のほとんどは昼漁の延長だった。第二次世界大戦終了後の1945年から50年代初めごろまで、長さ10㌢程度の鉄製ツメが10~20本程度ある袋網付きの桁(けた)「マンガ」でウタリの中を引く「エビ掻き漁」があった。クルマエビを主に採った。大人の掌ぐらいの大きさのマコガレイやイシガレイ、ヒラメなど底生魚も網に入った。クルマエビは高く売れ、魚類は自家消費か近所に配った。
ヘッドランプ
桁漁の問題点は桁で砂地の海底をかき出す際や漁網の袋の中で高値で売れるクルマエビが傷つき安く買いたたかれることだった。しかも10㌢未満のまだ成長していないエビも捕獲してしまうことだった。小エビは網の中で死滅し、資源の枯渇につながった。これを解消したのがパッチン漁。ウタリの深さ20~30㌢と比較的深い場所にいるクルマエビを自動車用ヘッドライトを使ったヘッドランプで照らし出し、エビの斜め背後を狙って上から「パッチン」と言う漁具をかぶせて1尾ずつ採捕する漁だった。
1970年代半ばごろまで続いた干潟の伝統漁法は個別に記すので、ここではざっと紹介する。パッチン漁は、個別鉄製のがま口のような漁具を使った。自転車のブレーキのような取っ手を握ると漁具のがま口の口金を占める時に「パッチン」と言う音がするので、そのものずばり「パッチン漁」と言った。
パッチン漁で採ったクルマエビは長いヒゲが途中で切れることもなく、姿形の良いまま生きた状態で売れたので高値がついた。房総の内湾産でも干潟で取れたら「江戸前」となり、1960年代前半では浜相場で1尾1000円もした。市場に出て仲買商らの手を経て消費者に届くころには1尾5000円ぐらいしたといわれる。「江戸前」の名称がつくだけで、魚価が変わった。
ハゼ手づかみ
ウタリのやや深場では長軸針にエサを付けてハゼを釣る漁もあったが、主流は水がたまってそこら中にできる波浪痕で眠って休んでいる「落ちハゼ」になる手前のハゼを手づかみで捕る漁だった。熟睡していて手づかみにしても暴れることはなく、じっと大人しくしていた。
海水が1~3㌢ほどの波痕やウタリにいるハゼは20㌢ほどの間隔で行儀よく並んで寝そべっていた。潮が上げてくる小一時間ほどで10斗入りの大きな竹ザルに半分ほども捕れることがあった。
粗塩をハゼに振り掛けてヌメリを取り、きれいに真水で洗ってからざっと干してから炭火コンロで焼いて、むしろに広げて乾燥させた。これが正月用の甘露煮になり、雑煮など煮物の出汁(だし)となった。
古老たちはこれが江戸前の流儀だったと話した。出汁を取った焼きハゼは佃煮にして食べたという。
深い場に入る前にハゼは体温を上げるため、日向ぼっこをする。夜に干潟の水たまりで寝るのも、この日向ぼっこの続きではないかと推測した。
余談だが、ヘビも冬眠前に長く伸びて日向ぼっこをする。20歳ごろ、草津白根山から芳ケ平を経て横手山に登ろうとした。芳ケ平から横手山に行く、アシが倒れて重なった狭い山道に黒ヘビが数え切れないぐらい山道のアシの上に横たわっていた。1匹、2匹ぐらいなら追いやることはできたが、数が多すぎて気味悪くなり、芳ケ平の山小屋まで引き返したことがある。
 は虫類も体温を温めるのかと思った。ハゼもこれに似ていると思った。山小屋の主人からヤマブドウのジュースを御馳走になりながら、「黒ヘビは薬になる。なぜ捕まえてこなかったんだ」と言われた。
潮だまりのウタリで水深が20~30㌢あるやや深い場所にいるカレイ類など大きめの底生魚は「メズキ漁」(見突き漁)に使うヤスを大型にした「ヘシ」で突いた。だいたい三歳魚クラスで20~25㌢ほどの大きさだった。漁師に言わせると、この程度の大きさから掌サイズの魚が煮魚にした場合、最もうまいという。捕り立ての魚は煮ると、身の締まりが良いのか、決まって身が割れた。
漁の劇的変化
夜漁の照明器具が時代の移り変わり、技術力の進歩で次々と替わった。漁が劇的に変化したのは自動車用ヘッドライトを使うようになってから。とにかく、アセチレンガスや灯油のカンテラとは比べようがないほど照度、明るさが違った。
上げ潮時はプランクトンが多いことや、アマモなど海草の切れ端が海中に漂うこともあってやや濁っているが、上げ潮が満潮に近づくころは水が澄んだ状態になる。自動車用ヘッドランプは照度が大きいこともあって水が澄んでいれば水深4、5㍍の海底まで明かりが届き、よく見えた。
青色発光ダイオードの開発で2000年代に入って急速にLED(発光ダイオード)電球が普及した。ヘッドランプなど自動車用の各種明かりも省エネのLED電球に替わった。夜漁の照明もLED電球に替わった。
しかし、イカ釣り漁にはLEDが使えないことが分かった。イカ釣り漁船はたいがい裸電球の500㍗白熱灯を集魚灯用に使っている。聞いた話だが、イカはLED電球を嫌がり、特に大発明とされた青色LEDを特に嫌がって光に集まるどころか逆に逃げてしまうそうだ。理由は分かっていない。試験的にLEDを使ったイカ釣り漁船はすぐに白熱灯に変えた。
 自動車用ヘッドランプの使用で劇的に変わった夜漁を列挙すると、先に触れたクルマエビ採捕の「パッチン漁」▽「メズキ」(見突き)漁▽ガザミ(ワタリガニ)すくい網漁だ。ほとんど変わらなかった漁は刺し網(掛け網)▽手繰り網(小型底引き、中層引き)。変わらないと言っても舟上で網から魚を外したり、道具類を探すのにも照度が大きいほうが格段に便利。だから漁の態様にかかわらず照明具は自動車用ヘッドランプに替わった。
劇的に変わった夜漁として「メヅキ漁」を挙げた。水深4、5㍍なら海底まで良く見えたので箱メガネで海底をのぞいて、「ヘシ」で海底にじっとしている魚を突くのが容易になった。泳いでいる魚も動きが分かるので突きやすくなった。漁獲量が飛躍的に増えた。
エビ、カニが高値に
自動車用ヘッドランプはランプを向けた方向の広い範囲を広角で照らし出し、しかも光が遠くまで届く。海上を照らしてもアセチレンガスのカンテラのように風で炎が消える心配がない。この利点がぴったり当てはまったのがガザミすくい網漁だった。
ガザミは明かりが好きで、明かりに集まる習性があるとされているが、漁の実体験からそんな習性はないことを知った。ガザミは明かりで照らし出されると、海面にクラゲが浮いているように白っぽく見える。多い時はあちこちにクラゲが浮いているように見えて、あたかも明かりに集まってくるように見えるので、明かりを好む習性があるようにされたとみられる。
魚類は夜間、基本的に明かりを好むのは少ないと思う。サンマ棒受け漁は集魚灯でサンマを集めで棒網ですくい取るがサンマは明かり好みの別格。根魚のメバルなどは明かりに反応してすぐに逃げ出し、明かりを好む魚はそうざらにはいないと思う。
すくい網を持って舟の舳先(へさき)に立つと、自動車用ヘッドライトだと10㍍沖まで見える。明かりが届くと、ガザミは慌てて深場に潜る。潜るといってもまっすぐ降下するのではなく、斜め前方にゆっくり、後ろの遊泳脚を動かして潜るので、容易に追いついてすくうことができた。
すくい網漁で採捕したガザミはだいたい型がそろって大型が多い。小さいのは資源保護を図って捕らない。底引き漁や掛け網にかかったガザミはツメ、しかも肝心の親ツメが折れて欠損し、買いたたかれた。ツメが折れていると、その場所から身が流れ出して、身入りが少ないことがあった。ツメが欠損したカニは二束三文の買値だった。
おおくのガザミを入れたカゴに、1匹でも爪が欠損したのが混ざっていると、他のカニまで欠損しているとみられ、全体として買い入れ価格を低く抑えられた。漁師はツメが欠損したガザミを自家消費用に持ち帰り、みそ汁の中に入れて食べた。網ですくったガザミはツメの欠損はなく、高値で売れた。1960年代、浜相場は1杯(匹)1000円もして、型がそろって20~30杯ほどいれば、料亭の宴客用として東京築地市場に運ばれた。築地市場では仲買で1杯3000円はするといわれた。
みんなの浜
夜灯漁はウタリの潮だまりにいるハゼなど小魚をだれでも容易に捕ることができた。漁家だけでなく、自家消費用に漁業権にない家々まで参加し漁村全体に広がった。干潟・浅海はみんなの海だった。内湾の干潟は漁村集落の地先漁業権が設定されていた。山や山すそなどに入会権が設けられ、地域の農村集落の農家しか利用できなかったように、地先漁業権も地域の漁業協同組合に加盟する正組合員が準組合員の資格を持つ集落の漁家しか参入できなかった。
しかし、夜灯漁に漁協組合員、準組合員以外の人たちが漁村集落から参加した。漁師たちは隣近所の顔見知りであり、普段から浜で姿を見かける人であればとがめることをしなかった。干潟はみんなの海、宝物という認識で、漁師が養殖したり仕掛けたりした漁場で魚貝を採捕したり漁具を引き揚げるなどいたずらしない限り、漁業権がないからといってとがめられることはなかった。
1920年代後半の昭和時代初めごろから食糧難が続き、どこの家々も糧食を得るのに難儀した時代が続いた。まだ江戸時代からの隣保共助、隣組制度が生きていた時代、漁業権とか何だかんだと特権意識的なことをいう漁師はほとんどいなかった。お互い助け合いの中で生活し、生きるため糧食を得るのを大目に見る時代だった。
夜灯漁で唯一、規制がかかったのは第二次大戦中。終戦前年の1944(昭和19)年以降、米軍の空爆が激しくなり、灯火管制下で街の家々が明かりを消しているのに、干潟では夜灯漁の明かりがこうこうとしていては爆撃の目標になりやすく、なんの灯火管制か分からなかった。夜灯漁も明かりの規制がかかった。致し方ないことだった。

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