干潟の伝統漁・付録

東京湾内湾のうまいもの


 出世魚

 幼魚から成長するにつれて呼び名が変わる魚は、ご祝儀ものの出世魚として結婚式、節句祝などのおめでたい祝宴の席に出された。魚体が桜色のマダイを最高として、食糧難の戦時中は魚価の安いボラの幼魚イナをお膳に並べた。
 マダイは同じ大きさの魚体が人数分そろわなかった。イナは多く採捕されたので見栄えが悪くても人数分をそろえるのが容易だった。食味の良いススキは一尾のままでは大き過ぎ、身を切って料理するので身を切ることの忌避から祝儀の食膳には上らなかった
 ちなみに幼魚から成魚まで呼び名の違う内湾で取れる魚として、チンチン→クロダイ▽シンコ→コハダ→コノシロ▽オボコ→イナ→ボラ→トド▽セイゴ→フッコ→ススキ▽イナダ→ブリ

縁起もの

 江戸時代、士農工商の身分階級制度で江戸の武家が縁起かつぎとして語呂合わせで好んだ魚としてカツオ→勝魚▽コノシロ→此(こ)の城がある。江戸には相模湾で取れたカツオを小田原や鎌倉の浜から八丁櫓(はっちょうろ)の早舟で送った。武士階層はありったけのカネをはたいてカツオを買い求めたという。
 コノシロは鮨ネタのコハダが成長したもの。小骨が多く、漁師でもほとんど食べる人はいないが、脂がのって焼くと抜群にうまい。コノシロは「此の城」の名称との語呂合わせ、言葉の響きから、お城を守るとか武家の武運長久を願って、武士階層が好んで食べたといわれている。

ハバノリ

 また江戸の武家、武士が縁起物として特に好んだ海草がハバノリ。房総半島の南房、九十九里や神奈川県鎌倉市の腰越漁港近くの岩場に自生する。潮が引いた干潮時にこの海草を採取して、干しノリのように乾燥させたものがハバノリの名で市場に流通する。 
 ハバが「幅」の意に解釈され、お城や藩で幅を利かすと言う意味合いで武家、武士階層から大事な食材とされてきた。軽く焼くときれいな青色に仕上がる。江戸の武士たちは正月、このハバノリをもんで雑煮やお吸い物に振りかけて食べ、縁起を担いできたという。正月の時期は良質な黒海苔よりも値が張る。

 卯の花漬け

 コノシロは旬の時期は脂乗りが良い。小骨が多くあり、細かい骨を避ける箸さばきが面倒なので、ほとんど食卓には乗らず、武士階層は大事にしたが市場では二束三文扱いの魚価。旬のコノシロをコンロで焼くと脂で黒焦げになるが、醤油をかけて食べると抜群のうまさがある。
 地方によって、卯の花(豆腐搾りかすのおから)を甘酢でまぶして、コノシロを二枚に開いて中骨を取り除いた一尾の姿のまま、腹に卯の花を抱かせる「卯の花漬け」にして食べた。脂の乗ったコノシロが脂っこくなく食味が良い。
 同じ卯の花漬けとしてサンマがある。三陸地域はサンマをぶつ切りにするが、一尾まるのままサンマの卯の花姿作りは千葉県銚子市と利根川を挟んで対岸の茨城県波崎の名物。紀伊半島の伊勢、紀州(和歌山)ではこのサンマ漬けが特産だ。

なめろう、さんが

 房総半島の外海地域では主にアジやイワシ、小サバを三枚におろし、身を包丁で細かくたたいて千切りショウガ、みそをまぜて「なめろう」という「たたき」調理法の生食をする。本来は漁師が漁場で食べる即席の船上食だった。
 あまりのうまさに盛った皿までなめてしまうことから「なめろう」の呼び方となったとの説もある。取り立ての魚をご飯のおかずとして船の上で食べる漁師の即席料理だった。房総地方ではこれをアワビの殻に盛った。
 鉄板で焼き上げたものを「さんが」とか「さんが焼き」と呼んだ。「さんが」は「山家」。山の小屋で食べたことから、この呼び名がついたという。
このさんがの中で絶品なのがバカガイ(アオヤギ)を使ったサンガ。千葉県富津岬の食堂でメニューに載る。うまみの味が濃く、一度食べたら病みつきになるうまさ。

 焼きハマグリ

 千葉県のJR千葉駅、JR内房線木更津駅の名物駅弁「やきはま弁当」(万葉軒製、980円)。やきはまは焼きハマグリの略称。弁当の歴史は古く1940(昭和15)年からつくられて売られてきたという。
 ハマグリを醤油(しょうゆ)とミリン、日本酒、砂糖で軽く煮てハマグリ4個を串に刺して軽く焼き上げて茶飯に乗せてある。弁当には3串が載る。香ばしさとハマグリの甘味がマッチして食が進む。
 木更津駅では「あさり弁当」(浜屋製、980円)が有名。干潮時には沖合500㍍から約1㌔先まで干潟が広がる内房地域はかつてアサリ、ハマグリの大産地だった。その特産のアサリを使った。

アサリの目刺し

 アサリの殻をむいて、細い竹串を「アサリの目」と呼ぶ水管に突き刺して、天日干しした乾物。個々のむきアサリを乾燥させたものもある。軽く火にあぶると身が幾分柔らかくなり、焼き上げの香ばしさと干し貝のうまさが混じって抜群の食味がする。酒の肴にはもってこいのうまさ。魚貝の乾物屋などで売っている。

舟だまり

 小型舟を係留するほか、小舟の修理や陸揚げ、漁業資材を置く場所の「揚げ場」を含めた施設。舟だまりをいっしょくたに呼ぶ時は単に揚げ場とだけ呼んだ。江戸時代から明治、大正、昭和時代の後半まで埋立で地先漁業権が失われるまで存続した集落もあった。

伝馬舟を係留

 風波を防ぐ垣根状の囲いを設け、小舟を係留した。舟だまりの内部は囲いのおかげで波がほとんどない。風波を防ぐ垣根状の囲いは長さ5、6㍍のスギ丸太や孟宗竹を深さ80㌢程度まで埋め込み、打ち込んだ丸太と竹、丸太間の向う側と手前の両方に孟宗竹を渡してつなぎ合わせ、横に渡した孟宗竹の間にマダケやマテバシイ(トウジイ)やスダジイの太目の枝を葉が付いたまま挟み入れた。強風や大波、荒波でも壊れないように頑丈に造った。結びに使う縄は腐って切れやすい藁(わら)縄でなく、腐りにくいシュロ縄を使った。

揚げ場

 揚げ場は舟だまりの囲いの中に設けた。揚げ場の端の先端と囲いの間は15~20㍍ぐらいだった。集落地先の浜辺の岸に1辺が長さ15~20㍍ほどの正方形にした丸太づくりの囲いを設けて高さ1・2㍍ぐらいまで埋め立て造成した。海に面した三方に丸太棒を横に敷き詰めた勾配20度くらいに傾斜した幅5㍍ほどの桟橋を造った。
 揚げ場には日常的に使わない小舟を陸揚げした。小舟が浸水する場合も揚げ場に引き揚げて水漏れ箇所を修理した。機械船で使う刃先のあるマンガ付きの漁網など漁具、漁業資材を置いた。9月に入るとノリ網を張る支柱柵用の竹竿を並べて保管した。
 三方の囲いはそれぞれの間が幅5㍍ほど開いていた。小舟はこの間を航行した。「伝馬(てんま)舟」と呼んだべか舟は囲いの中にある係留杭(くい)に後部の艫(とも)をロープでつなぎ、舳(へ)先のイカリを下して舟が左右に流れるのを止めた。べか舟は漁家1戸がだいたい2隻を所有し、アサリの腰巻き漁に使うマキ舟を持つ漁師もいた。
 大潮の満潮時には桟橋の中央部よりやや上まで海水がきた。泳ぎがあまりできない小学校低学年の子どもたちは満潮時にこの囲いの中で水遊びをして泳ぎを覚えた。
 岸の正面には囲いのすき間があり、ここから干潟の中を沖まで貫く澪(みお)を掘った。機械船は囲いの外の澪沿いに打ったスギ丸太の杭に係留した。漁村集落の港は堤防もなく港の体をなしてなかった。漁師たちは大澪を航行する大型の貨物船などが発着、係留する港を築港と呼んだ。

もやい

 舟だまり、揚げ場、澪を設ける作業は漁師たちのもやい、共同作業だった。第二次世界大戦後間もない窮乏化の時代。地方自治体も財政力に乏しく、集落の細い生活道路の修繕、補修は「道普請(ふしん)」といって、行政からわずかな助成金が出たものの業者頼みの仕事でなく、集落総出あるいは生活道路を利用する家々総出のもやい、共同作業だった。
 家々から男手1人が出た。男手のない家庭は主(あるじ)の女性が出た場合、打ち上げの席のお砂払いで一升瓶をお礼、迷惑料代わりに寄付した。全く人手を出せなかった家は最低一升瓶2本、平均3、4本を差し入れして、もやい仕事の労に気遣いした。力仕事は男任せだったからお礼の印だった。(一照)(終わり)


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