京都・街の湧水12、番外・古井戸の碑

 平安の世から時代を織りなした千年の都・京都。市中にはかつて多くの井戸があった。生活用水の井戸だけでなく、霊験豊かな霊水として信仰を集めた井戸や、神仏を安置した場所から水がわいた井戸など長い歴史のなかでさまざまないわれが積み重ねられてきた。
 かつてこの地に名水の井戸があったという石碑、石標だけのところや、新たにボーリングしてかつての名水を復活させ「新」の冠を付けた井戸も設けられた。都市づくりのなかで消えてしまい、石碑やいわれ書きだけが残された名井を追った。

①少将井


 少将井の跡は烏丸通りの面した京都新聞本社屋にあった。京都新聞本社屋の歩道に面した壁に銅板のいわれ書きがあった。

京都新聞本社屋の壁面にある銅板の少将井跡いわれ書き

 少将井は平安時代に清少納言が書いた「枕草子」168段「井はー」と平安時代中期の平安京の名井を列挙した9井の1つに名を連ねる。「後拾遺和歌集」(1086年に完成の勅撰和歌集)に和歌2首が載る歌人、少将井尼の家があったことから井戸に少将井の名が付けられたといわれる。
 豊臣秀吉が16世紀後半の天正年間に祇園社(現在の八坂神社)の祭事・祇園会のとき、3基ある神輿(みこし)が遷座する2カ所の御旅所を四条京極に統合するまで、少将井には祇園社の神輿うち1基が遷座する御旅所が置かれたという。
 祇園会は疫病(えきびょう)払いの祭事。井桁(いげた)の上に神輿を置き、少将井の清い水で悪霊、疫病払いを祈願したという。神輿は出立前に鴨川・四条大橋の下で清められ、御旅所でも清められた。

京都御苑の宗像神社にある少将井神社の小祠

 少将井がいつごろまで使われていたか、いつごろ埋められてしまったかは記録になく全く不明。御所周辺地域の開発によって井戸は消失した。
 祇園社の神輿が遷座する大事な古井戸だけに1877(明治10)年、京都御苑にある宗像神社に預かってもらった。宗像神社では社殿のすぐわきに摂社として小さな祠(ほこら)を設けて祀(まつ)った。

②芹根水


旧安寧小グラウンド西側にある芹根水の石碑

 芹根水は,かつて堀川沿いに湧いた名水。現在の京都駅に近い京都市下京区堀川通木津屋橋付近にあったらしい。江戸時代中期に建てられた芹根水の石碑が、堀川通りから西に一本目の通りに面した旧京都市立安寧小学校グラウンドの西側にあった。

江戸時代・宝暦年間に作られた芹根水の石碑
「芹根水の碑」説明書き

 「芹根水の碑」説明書きなどによると、芹根水のあった場所が堀川の水位と同じぐらいだったという。豪雨など川の増水であふれた水が井戸に入った。川水が入らないように腰の高い井筒で井戸を囲ったが、川の水が流れ込むことがあった。
 1914(大正3)年の堀川改修で濁水が混入。井筒も失われ、碑だけが残ったという。石碑は1982(昭和57)年、堀川を暗渠(あんきょ)にする工事の際に現在地に移された。

③小町の井戸・双紙洗い水


雙紙洗水の石標

 謡曲「草(双)紙洗小町」で知られる双紙洗い水の出た井戸跡は、堀川「一条戻り橋」近くの小町通り沿いにあった。場所は京都市上京区一条通堀川東入北側。堀川通りから東に約30㍍入った小町通り沿い民有地の塀際に、双の旧字体「雙」の字で「雙紙洗水」「小野小町」と彫った柱状(高さ約60㌢)の石碑があった。

雙紙洗水の石標がある小町通り沿いの民有地

 謡曲によると、宮中の歌合で小野小町と対戦する大友黒主は、小町の歌が古歌の盗作であると訴え,証拠の万葉集の草紙を突きつけた。よく見ると改ざんした跡があり、小町が庭の水で草紙を洗うと改ざんの文字が消えたという。石標は小町が草子を洗ったと伝わる跡を記念したものだという。
 江戸時代にはここに「小町塔」と、小町ゆかりの井戸「小町の井戸」があったという。井戸は昭和初期まであったと伝えられている。

④菊水井

 菊水井は四条通りから北に入った室町通り沿いにあった。この地にビルを建てた際、「菊水」と彫り込んだ井桁(いげた)の石組みが見つかった。

菊水の井跡の説明書き

 室町時代、恵比寿(恵比寿)様を祀(まつ)る夷(えびす)の社があり、境内に「菊水の井」が涌き出ていたという。千利休の茶の師匠・武野紹鴎(たけのじょうおう)は、この水が縁でここに茶亭「大黒庵」を結んだ。
 菊水井は、能楽「菊慈童」、謡曲「枕慈童」の「菊の葉に記しておいたところ露が滴り、この水を飲んで不老長生した」という中国の故事にちなんで名付けられた。祇園祭りの「菊水鉾」も、また「菊水鉾町」の町名も井戸名にちなんで付けられた。

菊水の井跡にあるマジナイ石

 2003(平成15)年まではここに金剛流の能楽堂があり、井戸が残されていたという。2007年に石碑と井戸跡が設けられた。(一照)(つづく)


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