干潟の伝統漁5止

メヅキ

見突きとか目突き漁とも

 地方によって「ミズキ(見突く)」とか「目突き(メズキ)と呼ぶ。道具は、ヤスの一種ヘシ。ヘシは「押す」「圧す」「突く」の意味。銛(もり)はゴム等を用いて発射、投射する道具。ヘシを含めたヤスは獲物の魚貝を突くだけの道具。ヘシの先端は長さ約10㌢の針棒が5~10本付いたもの。鉄製で集落にある鍛冶屋の手作り。長さ3~7㍍程度の柄の先に針棒があった。漁場の水深によって柄の長さを替えて使った。
 

ヘシ、箱メガネは手作り

ヘシの先端の針棒の数は狙う魚によって分けて使った。大き目で暴れる魚は大きめのヘシを使った。採捕する魚類にはカレイやマゴチ、メバル、ウナギ、イシガニ、ワタリガニがいた。カニ類は足を含めた体に傷をつけるとそこから身が流れてしまうので突く際に特段の注意を払った。アカニシなど貝類を採捕する3本、5本針のヘシもあった。

東京湾内湾の漁師が使っていたヘシ。さび防止のためペンキを塗ってある

熟練が漁獲を左右

 漁場では海底をのぞき見る箱メガネを使った。箱メガネは台形型で上も下も正方形だった。台形の底にはガラス板を張って、ロウや厚めに塗ったペンキで海水漏れの防止措置をした。台形型の上部は額が当たる箇所にクッション用のゴムを付けた。ゴムを付けた反対側には歯でくわえても波の衝撃が少ないように手ぬぐいやタオルを付けた。額と歯で箱メガネを固定した。
 ヘシで海底について小舟を前後左右に移動して操った。上げ潮の満潮時から潮がやや引いいた状態で波が比較的穏やかになる海がねらい目だった。水深のある場所は干潮時に操業した。地先漁業権の漁場はそれぞれ漁師の持ち場があったが、メヅキ漁をする漁師は限られていた。というのも、慣れないと漁獲は少なかった。
 熟練した漁師は長年の漁からカレイ類やヒラメなどの魚類がいる場所を熟知していることもあって漁獲が多かった。漁獲が多いといっても漁場や操業時間の制約があって、市場に卸すほどではなく、たいがい街の魚屋に持ち込んで換金した。売れるほど漁獲が無い場合は、自家消費用に持ち帰って煮魚にした。

海が汚れた

 1960年代までの内湾は汚濁が進んだとはいえ、まだ海が澄んでいた。沖合の海はきれいだった。1980年代ごろから急速に海水の色が茶色っぽくなってしまった。内湾の干潟の多くが埋め立てられ、海水を浄化する役割をはたしていたアサリやウミニナなどの貝類、そのほかの底生生物、コアマモやアマモなどの海草類が急激に少なくなった影響があると思う。
 2021年に東京五輪があった。東京・お台場がトライアスロンやボートなどのレース会場となった。トライアスロン競技でお台場の海を泳ぐ競技者の姿と海水の色が薄い茶色になっていたのを見て、悲しくなった。よくもこんな汚れた海域で競技するようにしたのか大会関係者の心情に首を傾げた。もう内湾も終わりだと思ってしまった。
 浜名湖ではメガネを使わないが、小舟の上からガザミなど海底の魚を突く漁がある。また外洋では波の影響をあまり受けない円筒形のメガネを使う地域もある。それぞれ、地域の海の事情に合わせた原始的な漁で、食べるだけの分を取る漁だった。

海面叩き魚を追う

刺し網や掛網

 比較的波の穏やか東京湾などの内湾や三方五湖などの湖沼で古くから行われる固定式の建て網、掛網、一枚網、三枚網を使った伝統漁法の1つ。海や湖沼に「建て網」「刺し網」と呼ぶ掛け網を張り、この網に追い込むように水面を竹や棒で叩き、脅かして追い上げる漁法。網の目が小さかったり、網が幾重にも重なった三枚網には小魚がかかる。目の良い魚は網を超えてジャンプしてかからないように逃れる。
 東京湾では地先漁業権なので網を仕掛けるには集落の地先に限られた、ほかの地先漁業権のある漁場には、どんなに魚類がいても張れなかった。
網はクレモナ(ビニロン)製で、長さについて漁師は反とか尋(ひろ)で表現するが、1反は約20㍍の長さ。網を仕掛ける長さはだいたい200~300㍍。高さは2~3㍍。中層を泳ぐ魚は網の上部にアバと呼ぶ浮きを付ける。
 カレイ、ヒラメなどの底生魚は網の下部に鉛や陶器製の重り、沈子を付ける。網は採捕する魚種によって網目の大きさなどが異なり、カレイ網、クルマエビ網、カニ網、タイ網などの種類があった。
 海では上げ潮時、プランクトンが潮に乗って漂う。このプランクトンを追って小魚や幼魚が集まり、小魚を狙ってススキやボラなどの大型魚が回遊する。ススキは成長度合いで魚の呼称が変わる出世魚。
 ススキの場合、体長20~25㌢程度の三歳魚まではセイゴ、体長30~60㌢ぐらいまではフッコ、これ以上大きくなるとススキと呼んだ。よく掛かるのはセイゴ。またボラも出世魚で幼魚のころはオボコ、体長50㌢程度までをイナ、50~70㌢級をボラ、70㌢以上の大物をトドと呼んでいる。
 網の大きさは長さが200㍍~300㍍、高さ2~3㍍。網の上部にアバと呼ぶウレタンなどの浮子、下部に沈子と呼ぶ鉛を付けてある。一枚網もあるがだいたい三枚網が一般的、三枚網は両方の外側の網の目が大き目、中の一枚の身網は小さい目になっている。この小さ目の網の目に魚が引っかかる仕組みだ。幼魚は掛かっても資源保護のために逃がした。
 日本中で行われている沿岸漁で、東京湾・内湾の干潟漁では網を張るのは岸から200~400㍍沖合。満潮になると水深が2㍍から4㍍になる。大潮の上げ潮時、しかも満潮に近いころに岸と並行に網を張る。
 上げ潮時に網を張ると藻類やごみが引っかかり、網に近づいた魚がごみ類に気づいて逃げることがある。だから満潮に近いころに張る。網の底の両端に錨(いかり)を付けて固定し、網の両端に網を仕掛けてあることを知らせる目印の旗などを立てる。
 海面を叩くのは網を張り終えた直後から。網の端から端まで、まず網の沖側を通りいっぺん叩き、次に陸地側を叩く。驚いた魚が逃げまどい網にかかる仕組み。魚の中には網を飛び越えてジャンプすることが多々ある。一通り叩き終えてから網を揚げる。網を揚げながらかかった魚を外す。
 刺し網は採捕する魚種によって、網が異なる。漁期や操業時間を決められた許可漁業で、底生魚のカレイ、ヒラメの類は網の底が海底をはうカレイ網を使う。ガザミやイセエビを採捕する網もある。

エサ掘り

 この中で、イトメ、シオメ、アカムシ採捕は恐らく国内で初の事例報告だと思う。

ゴカイ

 ゴカイ類は干潟や汀線(ていせん)の潮間帯、特に泥まじりの砂場や、塩分濃度の低い河口域の泥が堆積した場所に生息する。種類が多く、釣り餌(えさ)に用いられる。
 ゴカイは体長7~10㌢程度で小太りもいる。体が柔らかく、遠投すると身がたまに切れることもある。匂いがあり、この匂いが魚を寄せ付けるという。
 かつて、ゴカイ類を専門に採取する職人がいた。細長いスコップや田畑の耕作に使う鍬(くわ)の一種マンガを使い、表層から深さ20~30㌢ほど掘り下げて泥や砂をほぐしてうごめくゴカイを取った。釣り道具店が買い取って店頭に並べた。
 1950年代、一本竿の釣り竿がせいぜい70円から150円ぐらいだったこと、ゴカイはお猪口(ちょこ)1杯30円から50円だった。職人は年老いた漁師上がりが多く、東京湾・内湾では埋め立てが進んだ1960年代後半には姿を消した。ゴカイ取り職人がいなくなると釣具店にもゴカイが出回らなくなった。
 代わって釣具店に登場したのはアオイソメ。朝鮮半島産か中国産がほとんどで一般に売られているほとんどは輸入品。聞いた話では磯の岩場に生息。海中にカーバードを入れてアセチレンガスを発生させて苦しくなって出てきたところを一網打尽にするという。仮死状態でもすぐに元気を取り戻すという。
 アオイソメは体長7~10㌢程度がほとんどで、太さはまちまち。ゴカイよりも身が固く、頭部の方はかなり固い。軽くかみつくこともあるが痛くはない。ゴカイが出回らくなり、ゴカイよりも価格が格段に安いこともあって釣り餌の主流となっている。遠投しても身が切れることはない。食いつきはゴカイの方が良いが、ほとんどの魚はこれで釣れる。
 
イトメ
 ゴカイよりもさらに食いつきがいいのがイトメ。河口域の塩分濃度が薄い泥場にいて、ゴカイ採取と一緒に取られることが多い。体長はゴカイよりも長く、細目。体表に中央部に糸様の筋があるのが特徴。
 遠投すると必ず身が切れるほど柔らかいのでオブラートにくるんで投げる人もいる。身が柔らかいのでキスやカレイ類などは食いつきが良い。実際にエサとして使うと、驚くほど食いつきがいい。柔らかいので口当たりが良く、飲み込み安いのだと思う。
 もともと生息数が少ないことやエサ掘り職人がいなくなったこともあって、釣具店の店先では全く見かけなくなった。
 
シオメ
 海岸の汀線に生息する。汀線のコアマモやアマモの切れ端、漁師たちが「カワナ」と呼ぶアナアオサが波打ち際に押し寄せて少し切れ端がたまった砂地の表面近くに潜んでいる。
 砂地の上にたまったコアマモなどの切れ端を手でどかして、砂地を浅く掘り下げてひっかくと見つかる。体長は5㌢程度。ぬるぬる感はない。キスやハゼの大好物。もともと生息数が少なく、生息場所もごく限られていたので、エサ掘り職人も取ることはなかった。干潟が埋め立てられて汀線の砂地がなくなったことが原因で東京湾・内湾ではほとんど姿を消してしまった。
 
アカムシ
 干潟の底層にすむ大型の底生多毛類。体長20~30㌢、太さは太いところで1~1・5㌢ほどある。農耕用の鍬(くわ)の一種マンガを使い干潟の砂地、砂泥地の表層から深さ20~40㌢ほど掘り下げると、アカムシが生息している茶色い穴があり、ここに生息している。穴は50㌢ぐらい深い場合もある。逃げ足が速く、茶色い穴を追跡して採捕する。
 干潟の干潮時に掘って採捕する。干満の差が小さい小潮時の採捕は行わない。ほどほど潮が引く中潮で引き潮の場合、掘る場所に高さ20㌢程度の土手を築いて土手を広げながら掘り進む。
 不思議なことにコアマモが繁茂する場所の底層には生息しない。コアマモ繁茂地の周辺には生息する。東京湾は地先漁業権なので、採捕する場合、地先漁業権を持つ漁業協同組合の了解が必要。生息地はアサリ、ハマグリの生育地でもあるため、認める漁協は少ない。
 干潟でも小櫃川河口に広がる盤洲干潟での生息は確認されていない。真水に弱く。小櫃川からの水が流れ込む盤洲干潟では生息が難しいのかもしれない。東京湾・内湾では埋め立てが進み、このアカムシ掘りの漁師もいなくなってアカムシをみることは皆無となった。東京湾内湾ではほぼ壊滅したとみられる。
 漁師が取ったアカムシは1960年代半ばごろ、浜相場で1匹100円で取引された。東京都内の有力釣具店、千葉県銚子市の利根川河口域の釣具店が買い取って、1匹500円から700円で売った。大型のタイやススキ釣りの餌として重要視され、アカムシだけ使う釣り師もいた。
 21世紀に入っても瀬戸内地域の釣具店でたまに売られている時もある。仕入れ先は調べていないが、瀬戸内地域の干潟ではまだ生息しているのかもしれない。
 
 

数珠子(じゅずご)漁

 東京湾・内湾ではかつて数珠子漁が盛んだった。漁をするのはアナゴ。東京都の大森、羽田界隈や横浜近辺の漁港では、今でこそ筌(うけ)を改良して塩ビ管で作ったアナゴ筒漁を専門に行う漁師がいる。筒の中にイワシやサバの切り身を入れて匂いで誘いアナゴを捕獲する。東京湾産アナゴとして市場や寿司屋で扱うアナゴのほとんどはこの筒漁で漁獲したものだ。
 かつてのアナゴ採捕漁のジュズゴ漁は針を使わず、エサのゴカイ類に長い針でタコ糸を通し、ゴカイ類を数珠(ジュズ)のように団子状にした。道糸もタコ糸。ジュズゴをくわえ込んだアナゴはエサを口から出さず、くわえ込んだまま引き上げられる。

イトメが格好のエサ

 舟上に引き揚げられるとエサを吐き出す。針掛かりしていないので漁師の手間が省け、アナゴも生きが良いままの状態で市場に出荷される。
 このアナゴジュズゴ漁の最高の餌がイトメだった。アナゴ漁は夜漁で、ジュズゴ漁を仕掛ける漁師は昼間の明るいうちの河口域でイトメを採取し、夕方の出漁に向けてイトメに針を通してジュズゴを作る作業をした。
 ジュズゴ漁は宮城県松島湾でのハゼ釣り漁で今も行われている。こうした伝統漁と民俗は後世に残していくべきだと思う。

藻場


 東京湾・内湾で営む漁師によると、干潟の藻場は岸から沖合に向かって
コアマモ、アマモ、オオモの順に形成される。3種とも海草。明治時代に作
成の海図に藻場が記されており、埋め立てで藻場がほとんど消滅した現在は貴重な資料だ。
 コアマモの生育場所は大潮の干潮帯、ほぼ完全に潮が引いて干出した
ところ。干出して陽光にさらされても生育できる。アマモは大潮の干潮時、茎の先が海面に浮かんでいる状態の場所に生息する。オオモはアマモの茎と同じ形状でアマモの茎より長くアマモの近縁種とみられ、アマモの生育場所に隣接してその沖合にある。大潮の干潮時にあっても干出しない海中にある。

CO2を吸収

 いずれも海中の二酸化炭素(CO2)を吸収し、酸素を吐き出す作用をして、樹木の葉と同じ働きをしている。オオモの生育場所も太陽の光が届く海域。どこも仔魚(しぎょ)や稚魚が姿を隠したり、プランクトンを食べる採餌(さいじ)場であり、海のゆりかごといわれてきた。
 東京湾ではオオモの生育場所のすぐ沖合からスロープ状に深くなり、スロープの緩やかな場所にはごみのたまり場だったという。アマモとオオモの生育場所にはモエビやスジエビ、シバエビといった小型のエビが生息し、この藻の上をスクリューのない帆舟で流し、藻をさらうように木枠の桁(けた)を付けた手繰り網を曳く。モエビ漁と言った。網の入り口は口開け棒を付けた木製枠があり、海面から水深数十㌢辺りを曳く。エビだけでなくギンポも捕獲した。
 北海道・野付半島の内湾、野付湾の打瀬網漁(藻流し網漁)で捕獲するホッカイシマエビ漁も同じ漁法が行われた。野付湾はアマモがびっしりと生育する。帆は舳(へ)先と艫(とも)に三角帆を、胴の間に平らなヒラ帆を張って風の力だけで網を引く。東京湾ではこの漁法を単に手繰りとか打瀬と呼んだ。
* 内湾の表記=ここでは東京湾について、千葉県側の富津岬と神奈川県横須賀市の観音崎を結んだ以北を単に内湾とする。波が穏やかで干潟が発達し、コアマモやアマモなど海草類が繁茂していた。高度経済成長時代に入って1960年代半ばから干潟、浅海の埋め立てが急速に進んだ。 市場に出回る「江戸前」と呼ばれる魚介類はこの内湾で採捕されたもの。2022年現在も細々と漁が続けられているところもある。

コアマモ

 生育場所は波打ち際から大潮の干潮時に干出する干潟。背丈はせいぜい10㌢程度で沈水性。根茎は細くて横に広がって繁茂する。内湾の富津岬から木更津、五井、千葉、船橋、浦安、芝、大森、羽田、川崎の、摩川河口域にはかつて沖合300㍍から1200㍍先まで干潟が連続していた。
 戦後の経済成長時代に次々と干潟・浅海海面の埋め立てが進められた。現在まで残っているのは千葉県側で富津岬の内湾側、岬沿いの一部▽航空自衛隊木更津駐屯地の沖合から木更津市江川、久津間地先▽小櫃川河口域の盤洲干潟▽千葉市の谷津地先▽船橋市の三番瀬干潟▽東京都羽田と川崎の多摩川河口干潟▽横浜市の金沢八景、野島公園地先とごくわずかしかない。
 九州や四国、瀬戸内海、沖縄県の一部干潟や三陸海岸の一部に分布する。相模湾に面した三浦市の江奈湾干潟に昔ながらのコアマモ場が残存する。
 内湾で今でも干潟が連続しているのは木更津市から盤洲干潟にかけてだけ。木更津沖合は東京国際空港の建設候補地に上ったこともあった。航空自衛隊木更津駐屯地は戦後、米国を中心とする戦勝連合国に接収され、米軍基地となったものを国が借りている。
 木更津駐屯地は首都圏防衛、特に国会議事堂や首相官邸など政治と中央省庁が集積する行政の中枢機関と皇居を守る部隊が陸上自衛隊習志野駐屯地のレンジャー部隊と連携して中枢部を守るヘリコプター部隊が駐留する特殊部隊が配属されている。
 しかも木更津上空は羽田空港に着陸する航空機の通過空域であり、羽田空港に誘導するボルタックがある。このため木更津沖合は工場地帯となる埋め立て造成もできず、国際空港が成田・三里塚への立地が決まった経緯がある。
 木更津駐屯地が首都圏中枢部の防衛という特殊任務から解放されない限り、埋め立てはできない状況が続く。木更津駐屯地には2020年から航空自衛隊のオスプレイが配備され、米軍機オスプレイの整備拠点ともなった。これらのオスプレイが首都防衛に参加するという話は聞いていないが、もし参加しないとなると、首都防衛の邪魔になるだけでしかない。
 コアマモが生育するのは砂地や泥が深くない砂泥地。かつては干潟一面に生育していたが、アサリ、ハマグリを採捕するツメ付きの鉄製カゴを使った腰巻漁で、春から秋にかけて大型マンガで深さ30㌢ほど掘り返してしまった。生息地もツメでひっかくので、コアマモが根こそぎはぎとられて流失してしまい、生息地が狭くなってしまった。
 コアマモ場で繁茂するコアマモの底地を採取して底生生物の生息状況を調べたことがあった。鉄製の細かい目の網でふるいにかけても底生生物は見つからなかったし、見たことは一度もなかった。生育場所にはアサリなど二枚貝、ゴカイなどの多毛類や節足動物もいなかった。
 微生物の生息は調査する機材がないため行ったことがないが、二枚貝などが生息しない理由は不明なまま。アサリなど二枚貝はコアマモの生育していない場所に限られ、ゴカイ類などの底生生物も砂地や砂泥地か泥地にしか生息しない。
 コアマモ場には干潮時にでも干出せず水深が1~2㌢ある波によってできたくぼ地ができる。ここに生育しているのは、主にハゼの仔魚。マコガレイの仔魚もいた。ここでより小さな魚やプランクトンを食べて成長するらしいことが分かった。アマモ場を「揺りかご」というが、コアマモ場はアマモ場以上に揺りかごだった。
 波打ち際に近いコアマモ場は満潮になっても水深が5~30㌢ほど。小学生のころ、波打ち際に魚体に縦縞の入ったタイの稚魚が数十~100匹近い数で群れ泳いでいるのを見たことがある。シマダイの稚魚かと思ったが、シマダイはイシダイの仲間で岩礁地帯に生息する。なぜ岩礁地帯がない干潟にシマダイの稚魚が群れているのか不思議に思ったが、今にして思えばクロダイ(内湾ではチンチンと呼ぶ)の幼魚だった可能性が大きい。満潮時、波打ち際でボラの小さなオボコやイナが群れているのは日常的に見られた。
 波打ち際にはコアマモやアマモのちぎれた葉が波に打ち寄せられるほか、風に吹かれて漂着し帯状に堆積する。ここがゴカイの仲間、通称シオメの生息場所にもってこいのところだった。このシオメをエサにすると、特にキス、ハゼは入れ食い状態で釣れた。若いころ、東京大学海洋研究所の相生啓子さんにコアマモの研究をしたいと弟子入りを申し込んだが、「あなたコアマモ、アマモの研究ではご飯を食べていけないよ」とやんわり断られたことがある。

アマモ

 アマモ場は大潮の干潮時の汀線から沖合に広がる。水深がほぼ同じぐらいならアマモ場帯はだいたい幅10~30㍍ほど。干潮時には頭部が海水面に浮きあがるように伸びる。いろいろな幼魚が生息の場、隠れ場として利用するので、幼魚の「揺りかご」といわれる。
 内湾では近海メバル(黒メバル)の幼魚がたくさんいる。メバルは岩場に生息する魚だが、幼魚はアマモ場で生息することが分かった。ギンポもいる。シバエビの宝庫としても知られ、シバエビ採捕、モエビ採捕もアマモ場が主な漁場となる。
 港湾建設や埋め立で干潟や浅海が消失した海でもアマモ場が形成されていた場所なら、そのまま存続する。愛知県田原市にある伊良湖岬の伊良湖港でも堤防際にアマモ場がある。
 埋め立てが進んだ1960年代以降、アマモ場が急速にクローズアップされている。内湾や瀬戸内地域の浜辺で官民が地域の子どもたちを巻き込んで、アマモの人口栽培や植え付けを盛んに行っている。とても大事で有意義なことだと思う。
 アマモ場だけが「揺りかご」のように言われているが、コアマモ場とアマモ場が密接不可分につながっていることが重要だ。コアマモ場で育った幼魚が次はアマモ場に入って生活するパターンが連結した関係が重要なのである。

オオモ

 東京湾の漁師が「オオモ」と呼ぶ海草はタチアマモのこと。アマモ場の沖合に広がっている。背丈はだいたい5㍍程度と葉が長く伸びる。葉はアマモに似ていて、幅が1㌢から1・5㌢ある。北海道、宮城・岩手両県にまたがる三陸海岸や九州、四国、瀬戸内、日本海の一部海岸にある。内湾ではアマモ場からオオモが生える場所の隙間にタイラガイ(タイラギ)が生息していたという。
 干潟の埋め立てでもタチアマモは埋め立てから免れたところが多いが、タチアマモが現在のあるかどうかは調べたことがないので分からない。タチアマモは環境省レッドデータブックで絶滅危惧種Ⅱ類に指定されている希少種。同じ希少種でも花と違って鑑賞されることがなく、しかも海の中だからほとんど人目につかないので、日常的に話題になることがない。藻場は連続性が大事で、コアマモ場が消失した影響で数が少なくなっている可能性が大きい。
 タチアマモ場の沖合が、沖合底曳き、中層曳きの漁場となる。この沖合はだいたい砂泥地となっていて魚貝の宝庫。機械船で大型の鉄製マンガを付けた袋網で海底を曳く。カレイ類、シャコ、カニ類などが多く取れた。トリガイなどの貝類も生息していた。海草の藻場があって沖合の漁場が形成されていることが重要だった。
 海水中の二酸化炭素溶存量が増え続け、2020年には320ppmを超えた。CO2が増え続ける地球温暖化の影響とされている。温暖化は熱エネルギーの暴走という原理が当てはまると思っている。止まらないのだ。
 320ppmを超えたらもっと溶存量は増え続けると予測できる。藻場が失われる磯焼けが問題となっている。海草をウニやアワビ、サザエがエサとして食べるから磯焼けが起きるとされているが、個人的には海水中に溶け出しているCO2の量が多くなっていることが原因の一つではと考えている。(一照)(終わり)


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