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新発田城の「切込はぎ」

今回の記事の目的

大学生として、新発田に暮らすようになった私ヌマが、新発田に住むようになり住んでいる地域のことを何も知らない恥ずかしい人間だったので今回、新発田城を新発田で過ごすことが増えて気になったので、新発田城のことについて調べて、深掘りしそして今回学んだことを読者の方に伝えられたらとおもいます。

新発田城について


新発田城は、別名「あやめ城」とも呼ばれ、初代新発田藩主溝口秀勝(みぞぐちひでかつ)侯が慶長3年(1598年)に築城し、3代宣直(のぶなお)侯のときに完成しました。
新発田城は一般に多くある山城とちがって、政治・経済の中心として交通の便利さを考え、平地につくった平城です。石垣がすき間なくかみ合うようにきちんとつくられました。

切込接ぎとは?

新発田城は一般に多くある山城とちがって、政治・経済の中心として交通の便利さを考え、平地につくった平城です。この城の石垣は、「切込はぎ」と呼ばれる美観を重視した技法でつくられています。
石垣は土塁の表面を石で固めて強化する物で、石の積み方にはいくつかの方法があります。なかでも、切込接ぎは大きな石を事前に加工して形を整え、隙間なく積み上げる方法として多くの建造物に使われています。

新発田城の切込接ぎ

新発田城の石垣に使われた石は、新発田川を渡って運ばれました。古寺石と呼ばれる石です。古寺石は新発田城のすぐ近くの五十公野(いじみの)山で採石された、硬い粗粒の玄武岩です。
新発田城の築城当時の石垣は、乱積みでした。
様々なサイズの石を、規則性なく積み上げた形です。寛文9年(1669年)5月に大地震が発生しました。
これにより新発田城初期の石垣は、ほとんどが崩壊しました。新発田藩は江戸から石工職人を呼び寄せ、五十公野(いじみの)産の石で石垣を積み直しました。

特徴 
新発田城は切込み接ぎ布積み(きりこみはぎぬのづみ)と呼ばれる積み方です。
切込み接ぎという技術と布積みという技術の複合させています。
まず切込み接ぎとは、石材をキッチリと四角に形を整えピッタリとくっつけることです。
そして布積みとは、横方向に層が出来る積み方のことです。他の城では、普通は目立つポイントだけで実施する切込み接ぎ布積みを石垣全体で実施しているのです。

切込接ぎが使われている他の建物


江戸城
(東京都千代田区)は、1457年(長禄元年)に「太田道灌」(おおたどうかん)によって築かれました。

和歌山城
和歌山県和歌山市のシンボル「和歌山城」は、1585年(天正13年)に「豊臣秀吉」が弟の「豊臣秀長」に命じて築かせました。

「岡城」
(大分県竹田市)は、1185年(文治元年)に「源頼朝」と仲違いした「源義経」を迎えるために築かれたと伝わっています。


参照

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