おとうとII

川に落ちた時、兄は水しぶきをあげ、全身に水をかぶった。流れの勢いに驚いたが、しっかりと踏みとどまった。流に少し押されたが流されなかったことが以外であった。衣服が水をあちこちに大量に含んで、水の重さを感じながら踊り場に上がった。
川の中から弟が流れにぐいぐい押し流されて行くのが見えたが、踊り場に上がると死角になっていて弟はもう見えなくなっていた。どれだけ弟は離れてしまっているのだろう。不安な気持ちで急ぎ走り出すと兄はまもなく弟に追いつくことができた。走れば弟を追い越すが、歩けば遅れてしまう。そんな流れの速さだった。

兄が川から見下ろすと弟は気を失っていた。静かで穏やかな表情であった。まるで流れを枕に寝ているようだ。
弟は仰向けになり小さな体を大の字にして、空気をいっぱい入れた浮き輪のように水面に浮いたまま勢いよく流れていった。
『たっくんが流されちゃった。』弟の名前が口を突いて出てきたが、兄の声はまわりの誰にも届かなかった。
"誰にも聞こえない"そう思いながらも声を出し続けるのが義務のように思えた。近くに人影はなかった。遠くに見える人影はそれぞれの仕事を黙々と続けている。弟の名前を兄は呼び続けた。その時兄は何を考えていたのか、漫然と走っているようにも見えた。それでも走っていれば誰かが気づいてくれる気がしていた。いつか現れる誰かに助けを求めて走った。

兄の声は普段むしろ小さかった。都合が悪くなると『蚊のなくような声』だと母親からよく揶揄された。皆から言われるたびに自分でも内向的であることを自覚していた。他人の前にでるとなおさらだった。兄は家族から神経質だと言われ、不安定なところがあった。感情がコントロールできなくなると母親や弟だけには大きな声になった。そして家族からはよく"内弁慶"とからかわれた。それは兄の性格についてよく言い当てていた。それだけに兄はそう言われるのが嫌だった。言われれば兄はさらに動揺した。
幼さゆえでもあるが、家族のなかでは兄ほどに激昂する人間はほかにはいない。遺伝や血筋ではない、そのような者は親類・縁者にも見当たらなかった。しかしそういった類いの性格は血統に由来するものだと訳知り顔で言われれば、今は該当する者に心当たりがなくともどこかの縁者に一人くらいは兄と同じ気質の者も居るかもしれない。一瞬の時空の亀裂から滴り落ちた遺伝子がこの家系に秘密裡に忍び込んだのか、兄はそこまでは考えが及んでない。
祖母がよくにやにやして、冗談とも区別のつかないことを不意に兄に喋べることがあった。『お前だけ、橋の下に捨てられていたのを、拾って育てたんだ。もとは捨て子だったんだよ。』その話を聞くと血の気が引いた。兄は自分の血が青色に変わっていく感覚にとらわれた。《自分はほんとはここの子供じゃないんだ》と思ったことがたびたびあった。あとで母親が冗談だと言うこともあったが、疑いは晴れなかった。一言で自分の存在は簡単に変わってしまうんだと思った。兄はなにか嫌なことがあると深い孤独を感じた。兄にまた迷いが生じた。
"もういいか!"しかし足は止まらなかった。

兄は走り続けた。いま自分も弟も重要な局面にいるような気がしていた。

両親を思い出しながら、兄は弟の死に対する言い訳を一瞬頭に浮かべた。『お前が居ながらこんなことになって!』母親から怒られるかもしれない。兄は子どもながらも、『自分は悪いことはなにもしていない。』と正当化していた。
『あぶないとこになんで伴れてった!?』と言われたら?この言葉は言い返せない。自分が水遊びしたかったから弟をそんな場所へ伴れて行ったのだ。

また迷いが生まれた。このままだと海まで行ってしまうのだろうか。弟の死は、兄から日々煩わしかった弟との争いを取り除いてくれる。しかし代償として待ち受ける長い孤独な日々が思い浮かんだ。この後の親からの叱責。プラスマイナス両面がぐちゃぐちゃになって心の天秤が揺れた。全身から力が抜けるのを感じた。兄はなんだか悲しくなって足を止めた。

夕暮れ、遊び疲れて家に帰る時のように一日が終わった気がした。


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