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旅人と傘の国【SS】

 見渡す限り一面に青々と茂る草の間に、ひっそりと先人たちの踏み固めた細い道が、地平線の向こうまで続いている。この広い広い草原の中の道を、旅人はひたすらに歩いていた。
 昨日あった小型のトラックに乗った2人組の旅人によると、人の足で歩いて今日の夕方には次の国につける予定だ。国に入って美味しい料理で腹ごしらえをするのを楽しみにしながら、旅人はひたすらに歩みを進めていた。

 しばらくすると進行方向の水平線に黒い雲が現れたかと思うと、あっという間に雨が降り始めた。ここしばらく雨なんて降ってこなかったから、荷物の奥底に追いやってしまった雨具を探しているうちに、だいぶ雨に振られてしまった。だけど、ないよりはましかと旅人は雨具を羽織る。

 そして、振りつける雨の向こうに城壁の影を見つけてしばらく。ようやく旅人は、目当てのその国へと到着したのだった。

「おやおや、ひと月に二組も旅人がこられるなんて!我が国では珍しいのですよ。」

 その若い入国審査官は、驚いたように告げた。もう一組は先日あったトラックに乗った2人組のことだろう。一通りの手続きを終え、旅人が荷物を背負おうとした時だった。

「もう、雨具は必要ありませんよ。」

 何を言っている、外は土砂降りの雨だぞ。旅人はそう言ったのだが、入国審査官は入国してみれば分かります、そう笑顔で繰り返した。

 旅人が入国審査棟を抜けると、確かに雨は降っていなかった。しかしながら、空気は湿気っているし遠くには雨音も聞こえる。旅人が不思議に思いながら空を見上げると、この国の上空に何か大きなものが被さっている。

 激しい雨に打たれ、下ばかり見ていたから気づかなかった。
それは、巨大な傘だった。

「あら、旅人さん?
外は雨で大変だったでしょう」

 通りすがりの1人の老婆が、旅人に声をかける。身なりのきちんとした品のあるおばあさんだ。入国の洗礼のような当たり障りのない会話をした後、旅人はどこか宿泊できるところはあるかと老婆に尋ねた。

「あら、そうでしたら是非家にいらしてくださいな。
旅のお話を聞かせて欲しいわ。」

 老婆の家は市街地の外れの静かな林の中にあり、街中で見かけたどの家よりも大きかった。どうやらここに1人で住んでいるらしい老婆は、旅人に一部屋をあてがってくれた。老婆の作る料理はひどく美味で、野営ばかりでここしばらくまともな食事を取れていなかった旅人は、腹がはち切れるほど食べ、柔らかく清潔なベッドで泥のように眠った。

 次の朝起きて部屋の窓を開けると、雨はすっかり上がって、雲もない青空がきぎの隙間に広がっていた。旅人は老婆が作ってくれたパンとハムエッグの朝食を頂きながら、尋ねた。

「あの傘は開閉式なんですよ。
いつも開いていて空が見えなかったら、息が詰まるでしょう。」

 そして傘の柄の部分には登ることが出来て、この街を一望できるとも。旅人は観光がてら、その傘の棟へと登ってみることにした。

 老婆の言う通り、傘から見下ろすこの国の風景は、絶景であった。煉瓦造りの街並みがとても綺麗だ。
だけれどもその街並みの真ん中にそびえ立つ、この継ぎ接ぎだらけの機械の傘は、この街の風景にはそぐわないような気がした。

それも、そのはずだった。

 夜、老婆の家にもう一泊厄介になることにして、また夕食をご馳走になった。この国の定番料理だというその日の夕食も、たいへん美味で、旅人はペロリと平らげた。その時に聞いたこの国の歴史では、まずこの大地に理由もわからず傘があり、そこにこの国の人々の先祖が移住してきたのだという。元いた国では迫害されていたとか、何とかで。

「もうずっと昔の話よ。」

老婆は、悲しそうに笑った。

 次の日、旅人は出発することにした。
小さなこの国は、昨日でめぼしい所は見てしまった。まだまだ行きたい国や、見たい景色があるので長居する訳には行かない、引き止める老婆に旅人はそう伝えた。

そうして、別れの握手の最中。

ビーッ、ビーッ、…!!!

 けたたましいアラートが、国全体に鳴り響いた。かと思うと、ギィィィと大きな音を立てて傘がゆっくりと開き始める。何事かと慌てる旅人をよそに、老婆は何事もないかのようにすました顔をしている。

『空襲警報、空襲警報!』

 その声が響いたと同時に、少し離れたところからいくつもの爆発音が聞こえてきた。

「大丈夫よ、安心なさって。
この国の傘は頑丈ですからね。でも、念の為西側の門から出た方が良さそうですわ。」

 老婆はそうにこやかに微笑んで、お気をつけてと旅人に手を振った。街中で漏れ聞こえた話によると、大昔この国の人達を迫害していた元の国とのいざこざがまだ続いているらしく、よく空襲を受けるのだが、それを傘が守ってくれているらしい。

 こんな状況でいつも通り生活をしているこの国の人々は逞しい、と旅人は思った。
そして、ぽつりと呟くのだった。

傘とは、なんて便利なんだ。

 旅人は入出国審査所の売店で、折りたためる傘を買って荷物の奥へとしまい込んだ。

また、草原の中の細道を先人たちに倣って踏みしめて歩く。後ろを振り返ると、国はもう小さく、水平線にキノコのような傘だけが見えた。

 継ぎ接ぎだらけで、今にも崩れてしまいそうなボロボロの傘だけが、ずっと旅人の後ろに見えていた。


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