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『子をつれて』を読む


ブックオフへ


喉に違和感があったので近くの耳鼻科へ。
実は、先週も同じ理由で同じ耳鼻科に行って薬を処方してもらったのだが、全く良くならず。
今回も同じ薬を処方されたが、効かない薬を飲んでも治らんでしょと思い、薬局には行かずブックオフへと向かった。

ある漫画を全巻揃えたいと思っていたのに一冊も売っていなかったので、仕方なく文庫本の棚を物色していると、岩波文庫の『子をつれて』(葛西善蔵作)を発見。購入。
マックに寄ってから帰宅した。

しょっぱいハンバーガーを頬張りながら、だらだらと読み進めていった。


『子をつれて』のあらすじ


以下、簡単なあらすじ

彼(小田)が縁側で晩酌をしていると、そこへ立ち退き屋がやってくる。彼(小田)は家賃を4ヶ月滞納していた。仕方なく10日に引っ越すことを約束する。
彼には、妻と3人の子供がいるが、妻はお金を工面するために次女を連れて実家へ帰っていた。
彼は3、4人の友人からお金を借りて生活していたが、返すあてもないので結局借りられなくなり、たった1人お金を貸してくれるKという友人に面倒を見てもらっていた。
しかし、そのKからも距離を置かれてしまう。
結局、お金がなく引っ越し先も決まらないまま、立ち退きの日を迎えてしまう。
彼と2人の子供は見通しが立たないまま家を出る。
バーで酒を飲み、それからKの下宿へ向かったが、長女が泣きだしたので電車に乗ることに。


以上。とんでもない男。小田。

ただこの作品には、不思議な点が2つある。


不思議な点➀


1つ目は、実際に読んでみると、深刻な状況が書かれているのにも関わらず、あまり深刻さを感じずに読めてしまうところがある点だ。

もちろんこれは私の感想。
でも、こういった感想が出てくる根拠が本文にある。

(たつたこれだけの金を器用に儲けれないといふ自分の低能も度し難いものだが、併したつたこれだけの金だから何處からかひとりでに出て来てもよささうな気がする)

葛西善蔵『子をつれて』

 「お父さん、僕エビフライ喰べようかな」
 壽司を平らげてしまつた長男は、自分で讀んでは、斯う並んでゐる彼に云つた。
 「よしよし、……エビフライ二——」
 彼は給仕女の方に向いて、斯う機械的に叫んだ。
 「お父さん、僕エダマメを喰べようかな」
 しばらくすると、長男はまた云つた。
 「よしよし、エダマメ二——それからお銚子……」

生存が出来なくなるぞ! 斯う云つたKの顔、警部の顔——併し実際それがそれ程大したことなんだらうか。

もちろん、「彼」(小田)は自分自身に「絶望」しているのだが、このフワフワした感じは一体何なのだろうか。

もしかして、この男、自分の状況をよく理解していない――というより、自分を取り巻く「現実」を正常に「感じる」ことができていないんじゃないか?
そんな予感がしたのでもう一度読み返してみたら、こんな箇所があった。

 「さうだ! 俺には全く、悉くが無感興、無感興の状態なんだな……」

 好感興悪感興——これはをかしな言葉に違ひはないが、併し人間は好い感興に活きることが出来ないとすれば、悪い感興にでも活きなければならぬ、追及しなければならぬ。さうにでもしなければこの人生といふ處は實に堪へ難い處だ! 併し食はなければならぬといふ事が、人間から好い感興性を奪い去ると同時に悪い感興性の弾力をも奪い取つて了ふのだ。

「小田」は自分を「無感興」と自覚している。小田の行動や思考にフワフワしたところがあるのは、実際に「無感興」であるからなのかもしれない。
ただ、「小田」が100%「無感興」人間であると決めつけていいものか。

「小田」は家賃を滞納した部屋の庭で、ちゃっかり「朝顔」を育てていた。

 彼はこの種を蒔いたり植ゑ替へたり縄を張つたり油粕までやつて世話した甲斐もなく、一向に時が来ても葉や蔓ばかし馬鹿延びに延びて花の咲かない朝顔を余程皮肉な馬鹿者のやうにも、またこれほど手入れしたその花の一つも見れずに追い立てられて行く自分の方が一層惨めな痴呆者であるやうな気もされた。

「好感興」を得るためにしたことなのかもしれない。朝顔は咲かなかったが。
ただ、それによって、「無感興」は避けられた。

なぜなら、「これほど手入れしたその花の一つも見れずに追い立てられて行く自分の方が一層惨めな痴呆者であるやうな気もされた。」とあるように、「悪感興」を手にいれたから。

不思議な点➁



もう1つ、不思議な点がある。それは作品の表現に関するもの

 で彼はお晝からまた、日のカンカン照りつける中を、出ていつた。顔から胸から汗がぽたぽた流れ落ちた。クラクラと今にも打倒れさうな疲れた頼りない気持であつた。歯のすり減つた下駄のやうになつた日和を履いて、手の脂でべとべとに汚れた扇を持つて、彼はひよろ高い屈つた身體してテクテクと歩いていつた。(略)両側の塀の中からは蝉やあぶらやみんみんやおうしの聲が、これでもまだ太陽の照りつけ方が足りないとでも云ふやうに、ギンギン溢れてゐた。そしてどこの門の中も、人気が無いかのやうにひつそり閑としてゐて、敷きつめた小砂利の上に、太陽がチカチカ光つてゐた。

「カンカン」「クラクラ」「べとべと」「テクテク」「ギンギン」「チカチカ」

擬態語が多すぎる。なぜだろう。

そもそも擬態語はどういうときに使うのだろうか。

ぱっと思いついたのは、

➀対象を端的に表現したいとき。

でもこれだけだとなんだかしっくりこない。素朴な考えだけど、小説なんだから端的に表現する必要はないでしょって。

もう一つ思いついた。

➁対象への関心を持たないのにも関わらず、それに表現を与えようとするとき。つまり、不快なものを表現したいとき。

表現の前には「表現したい」という思いがある。きれいなものを見たとき、言葉を尽くしてそれを語りたくなるのが人間だ(と思う)。
この場合、多かれ少なかれ対象への「惚れ」「関心」があるから、できるだけ真摯に言葉と向き合う。

一方で、イヤなことも誰かに語りたくなることがある。
イヤなものには、「惚れ」「関心」は向けられない。
できるだけ簡潔に、不快感を表現したい。

そのときに必要になるのが、擬態語ではないか。
「カンカン」「クラクラ」「べとべと」「テクテク」「ギンギン」「チカチカ」
全部、不快だし。「テクテク」は違うか。

まとめると、擬態語が多いのは、「太陽」や「蝉」の鳴き声などの不快な対象を、簡潔に表現するため。


まとめ


「小田」は不快(=悪感興)の中を生きているように書かれている。
一方で、「無感興」にも片足を突っ込んでいる。

子供達は、彼の救いとなるのだろうか?

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