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花粉と歴史ロマン その17 ゴマ花粉

・1990年の出来事

 築造年代が6世紀中葉に推定された千葉県八街町(現八街市)の宮前古墳が発掘され、東西に長軸方向を有する円墳の主体部分の箱式石棺内からは頭を東に向けられた人骨とともに、副葬品として直刀2振り、小刀2振りなどが出土した。
土器の年代は7世紀前葉の時期が中心となっており人骨の分布等にも追葬の形跡もあった。

志田雅彦:八街町 (財)印旛郡市文化財センター 発掘調査報告書第46集、第3節 歴史的環境 p.3(1991))。

 この石棺内の土の花粉分析を、印旛郡市文化財センターと協力関係にあった千葉日報社から依頼されました。分析試料は見た限り、微化石検出には不適なものと思われた。

 棺内に埋積していた深さ約50 cmの土層の最下部の遺物包含層から、これを東西方向と南北方向に分割した8区画から粘土粒子およびロームを含む暗茶褐色土(10〜20g)各3試料採取した計24試料を対象とした。その結果、ほとんどの試料には花粉が少なく十分な分析ができなかったが、一部にゴマ属花粉を主とした花粉化石の局在を認めた。

図1 席管内の土から検出したゴマ花粉

 この花粉を発見した時、プレパラートをYさんに見ていただいた結果、ゴマであることが確認され、Yさんが勤務されている博物館の最新の顕微鏡で撮影させていただいたのが、写真図版1でした。

現生のゴマの花から採取した花粉のSEM画像(撮影三好教夫先生)

  花粉は、植物のほんの一部の一部に過ぎませんが、本質的な形状を持っているようです。ゴマに限らず、物事の本質について考えることがあります。例えば、庭のカラタチの剪定に、棘の多さに困ったとき、棘の先端のみを摘んだところ、その後の作業が楽になりました。カキの花粉を初めて見た時も、まるで顕微鏡の中に柿の実が転がっているようでした。

 さて、ゴマを含む花粉化石を産出したサンプルは、石棺東側から7列目の南側の試料に局在し、マツ属、コナラ亜属、シイノキ属の3種類の樹木花粉とゴマ属、オミナエシ属の2種類の草本花粉、シダ胞子1種類、不明花粉を含めた計7種類の花粉分類群を検出しました。
 中でもゴマ属は検出した113粒のうち67粒におよび、この試料以外では、同じく南側の1列目と4列目のみで、それぞれ2粒のみであった。全体の試料からはシダ胞子を含めて19種類産出しましたが、そのうち樹木花粉が8種類、草本花粉が7種類、シダ胞子が4種類であり、全般的には検出した花粉・胞子の含有量は極めて少なく、ほとんどの試料は5粒以下でした(下図)。

検出した花粉の出現状況

 24試料中ほぼ1試料のみに局在したゴマ属花粉(写真図版1)は、花粉管口の数や表面の疣状(いぼじょう)構造の特徴的な形態から現生種(写真図版2および3)と一致しており、類似する近縁種がないことからゴマと判断した。
 また、花粉生産量が多く、散布範囲の広いマツ属や樹木の花粉が少ない花粉組成は、自然の流入ではなく人為的な混入が考えられ、試料採取時(12月15日)の混入の可能性があった。しかし、ゴマの開花期(8〜9月)や花粉が散布されにくい筒状の花の形態から、発掘時の混入は考えにくく、古墳の築造期の混入の可能性を検討した。

・文献記録と花粉分析によるゴマ花粉検出例

 「日本最古のゴマの文献記録としては大宝律令(701年)にあるが、全国的にゴマの作付けが奨励されたのは840年にかけてであり」( 小林貞作:ゴマの食品科学 「ゴマの科学」 朝倉書店 p.91−99 (1998))、本古墳の築造期の混入とすれば6世紀にゴマ栽培の可能性を示すものとなる。さらに、事前準備として種子には花粉が付着しにくいことを確認しており、花の状態での混入は、副葬品の可能性を示していると考えました。

 一方、縄文時代後期中葉から晩期中葉(約3,800年-2,600年前)にかけて集落が形成された埼玉県真福寺遺跡からはクリ花粉の増加植物遺体としてゴマが出土している( 吉岡卓真:真福寺貝塚における資源利用.さいたま市教育委員会)。さらに、宮崎県からは、縄文時代後期から近世に及ぶ時代巾の広い遺跡であるが、約2,000年前以前の試料からゴマ花粉が1粒検出されており、ソバとともに栽培されていた可能性が示されている(中村純:宮崎学園都市平畑遺跡の花粉分析 宮崎県教育委員会 322-328.1985)。

 こうした先史時代におけるゴマ栽培の可能性は、今後さらにデータの集積により確実性を増してゆくものと思われます。(小林貞作1998)によれば古代文明を支えた植物としてのゴマは、世界の4大文明で利用されており、黄河文明期(紀元前3,000年前)、上海西方の呉興銭山漾遺跡から炭化ゴマが出土しているからであり、日本には自生していないゴマの痕跡が、大宝律令以前に遡ることは確実であり、中国との交流が先史時代に至る可能性も十分考えられるからです。

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