九十九里海岸平野 地名考2 「尾垂」
前回の地名考1では、米田敬一氏の論説を引用し、徳川家忠(?)が、「鳥喰沼」を視察していたこと(家忠日記)を引用しました。その際、「家忠」は、著者の誤記であり、私は秀忠として扱いました。ところが、天正20年の13歳の秀忠では、鷹狩りにしても年齢が合わない!
今回、確認し直したところ、松平家忠と判明しました。誤りの連鎖でした。
ただし、新たな知見が加わりました。以下、家忠について、引用します。
誤りを導いた、私の先入観念には、「鷹狩り」が、キーワードで「徳川」と「東金」が結ばれていました。「松平家」は「徳川家」と繋がりのあるものの、鷹狩りとは関係のない、土木技能を有する家康の配下であり、現地視察していたことが重要でした。以下、「千葉県の歴史、山川出版」の家康関連の年表より、東金との縁を抜粋し要約しましょう。
天正18年(1590年)、47歳の家康は江戸城に入った。「千葉県の歴史」には時々、著者(小笠原長和・川村優)の思い入れた文章がありますが、家康に関して「秀吉の命令を素直に受け取り、必死になって新しい領国づくりに意欲を燃やした。」(千葉県の歴史、「家康の江戸入城」より)の記載も秀逸です。
この記載こそ、東金訪問につながる背景の説明です。家康は関東入国直後、検地を強力にすすめ、天正19年(1591年)、下総検地を行っており、香取・匝瑳・海上郡でも実施していたのです。
1592年(天正20年)松平家忠の日記「鳥喰沼」視察(家康49歳、秀忠13歳)
1603年(慶長8年)60歳の家康、江戸幕府を開く、
1604年(慶長9年)東金、雄蛇ヶ池起工、10年後に完成。八鶴湖も完成。
1605年(慶長10年)26歳の秀忠、征夷大将軍となる。
1614年(慶長11年)家康、東金で鷹狩り(駿府記)
1615年(元和1年)家康、東金で鷹狩り(駿府記)
1616年(元和2年) 6月1日、家康没
家康の東金訪問は、晩年になってからの72歳と73歳の時、しかも、大坂夏の陣の前後、老齢ながら、鷹狩りに向かう気力、体力、素晴らしい!
この後、秀忠は1617年(38歳)から1630年(51歳)まで9回にわたり、東金を訪問しています(徳川実紀)。
鷹狩りはともかく、家康の跡を継いだ秀忠も為政者として領地の運営に注力したものと思います。
1 舞台となった九十九里浜
九十九里海岸に沿って一宮から飯岡までのビーチライン(県道30号)は、ほぼ一直線の道路です。九十九里町から北に、作田川、木戸川、栗山川と続き。栗山川の先に尾垂浜があります。制限速度が50Km/hになると、沿道には砂丘や水湿地が見られ、昔の原風景が目に入ります。新川を越えると、神宮寺浜、足川浜と続き九十九里浜も終点が近づいてきます。
さて、ちょうど、九十九里浜の中間地点付近の尾垂浜には、成田山御本尊上陸の地の碑があり、鳥居の奥には、不動明王像が建てられています。「尾垂」とは、なんだろうか?これが、今回の始りです。
将門の乱と、地名「尾垂」とを結ぶヒントがありません。ただ、この地点は太平洋側から成田市までが最短になる場であり、海岸線が後退していた時代でも方角的には最短であったはずです。1000年も昔、地図がなくとも移動経路を選択する土地勘があったのでしょうか?
「尾垂」の由来については、龍伝説と関連づけられたものもありました。ここも、調べておく必要があります。
2 龍神伝説(龍角寺・龍腹寺・龍尾寺)
尾垂浜の「尾」は、「龍神伝説」と関連するのか?
「竜角寺大縁起(709)」に登場する3つの寺の位置に尾垂浜を加えて示したのが、下図です。3つの寺は、ほぼ東西に並び「龍尾寺」が匝瑳市にあります。
その「尾」が南に下ったところが、尾垂浜になりました。
「龍」の尾が垂れた場所が、尾垂浜が位置しているように見えます。しかし、当時の人々にとって、この形状を認めることのできる宇宙からの眼は不可能です。おそらく、龍伝説は無視して良いと思いました。
そこで、「垂れ」は大布川の河口付近の屈曲した地形に因んだものではないかと、各地「尾垂」の例を探しました。4例ともに道路が屈曲しています! オダレは、屈曲した地形の形容でした!これで合点です。
3 「龍神伝説」は、自然破壊に対する警鐘か?
「龍角寺は印旛沼東辺の台地上にある古寺で、関東最古の仏像である白鳳期の薬師仏があるので名高い」しかも、「付近には大小の古墳群があり、県下でも屈指の史跡である」(千葉県の歴史、p.29)。奈良時代へのタイムスリップ、龍角寺の「龍伝説」が気になりました。栄町のHPと「千葉県の歴史、竜女建立の寺」を参考にして、自分なりの解読を試みました。
① 「天から龍女」女性天皇の登場に合わせるかのように、登場した「竜女」です。女性である元明天皇(第43代)、在位2年目の48歳の時(709年)でした。
② 天平3年(731年)、人々が旱魃に苦しんでいた中で、第45代聖武天皇が30歳の時、祖母の代に創建された龍閣寺の釈明上人に、降雨祈祷の宣旨を下す。
ここまでは、史実として受け取れますが、、、、
③ 竜の化身である老人に会い、雨を降らせることに成功し、人々を救った。その代わりに、亡くなった老人(龍)の体を3箇所に葬った。
ここから、解釈が必要になります。
④ 大竜は、なぜか旱魃をもたらして人々を苦しめているのです。その背景として考えられる可能性として、古くから古墳が多く作られた当地にあって、自然破壊が考えられないか?旱魃は自然災害であっても、古墳の造営には多くの森林が破壊されたのではないか?「北総の農村は、古来洪水と旱魃に苦しんできた」(千葉県の歴史)。治水工事にも木材は必要だったはずです。大竜は為政者の行いに警鐘を鳴らしたと考えました。では、大竜の配下にあった小竜が、大竜になぜ異を唱えたか、これが難問です。
もちろん、よくわからないのですが、関東最古の仏像をヒントにすれば、最先端の文化の導入に対する何らかの反発、例えば、古墳を造営していた時代の為政者と寺院の建設を推進した次代の為政者の対立の可能性はないだろうか。
古墳にしても寺院にしても、森林伐採が必要な事業です。大竜が古来の「神」(災害をもたらす恐れ)として、小龍が、仏教の導入を進める新勢力だとしましょう。小竜は、自分の上位に大竜を置いています。自然の摂理を知る小竜であっても、新興の「文明」の価値に気づいてしまったのではないか?
旱魃から人々を救うための雨乞い(これも文明)は、古来の神を否定しかねません。それでも、人々を救うために、小竜は雨をもたらしました。
神道と仏教の問題でしょうか?
今回も、道なかばで終了です。次回は、「神宮寺」に挑みます。(2024.5.29)
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