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花粉と歴史ロマン 改訂版 昔々の南溟寮

1 高知大学南溟寮ただし50年前

 東京の総武線錦糸町の駅近くの寿司屋さんで、家族からの送別を受けて、
東京駅から夜行寝台特急「瀬戸号」に乗り込み、宇高連絡船で瀬戸内海を渡り、
土讃線に乗り換え高知に入った。

「どくとるマンボウ青春記」に大いに影響を受け、木造校舎の窓からタバコをふかすことが浪人時代の夢だった。旺文社の螢雪時代の大学案内に、旧制高校の木造の寮生活が紹介されていた。土佐の高知は縁のない土地で、寮に入ることしか考えていなかった。夢が叶い、寮舎の窓下の草の生えない円形の場で、タバコをふかした。夢が叶った。
ただし、その場は、2階に住む住人たちによって作成されたことが、分かった。
寮雨の跡であった。

調理主任 所谷のおんちゃん:麦入りのご飯、魚の煮付けは東京では食べたことのない熱帯魚うのような、月1回のトンカツは大変なご馳走だった。

食費は月額で4000円程度(朝:30円、昼:50円、夜:50円)で、
1万円の仕送りで過ごす人が多かったようです。

5つの棟が並列し、棟単位で活動していました。

 東西に5つの棟が並び、不思議なことにそれぞれ個性があった。入寮生を受け入れる書類を見て、寮の役員が恣意的に選んでいたのかも知れない。

4寮の西側、広島舟入高校出身のI先輩

 私は4寮に当てられた。各棟は南北に貫く渡り廊下でつながれて
東西に2本あった。東側の食堂と1寮の間には、理容室と思しき
床屋さんの椅子が置かれていた(昔々のNHKテレビ「けんちとすみれ」)。
また、洗濯室もあったと思いますが、今や??。
各棟の西側にはトイレの建物が付属し、石柱を中心に6角形に仕切られ、石柱が最大六名の青年たちから水をかけられていました。

下駄で寮内を駆け回った。ストームという裸のエネルギー集団が水をかけられながら一巡し、場合によっては遠くの女子寮まで出向きました。

 食堂に隣接して事務室があり、夜間は学生が電話の受付係を分担していました。
長距離電話はお金がかかるので、寮内放送で呼び出された学生は、部屋から飛び出して、それこそ下駄を鳴らして、駆けつけます。ガールフレンドと思しき場合には
それなりにマイクの呼び出しが忖度され、みんなにわかるようになっていました。

 入寮当初、4月の高知はまだ寒い日がありましたが、自宅から祖母と母が用意してくれた布団が届きません。4年生の一人が自分の布団を貸してくれたのですが、掛け布団の襟が汚れていて、顔まで上げることができません。やがて眠りにつくと朝方、下の方から何か入ってきました。先輩が優しくしていたイヌのメリーでした。「ひゃっー」。小椋佳の歌を聴きながら、私の青春が始まりました。

2 東京キッドブラザーズ

 1970年 18歳の頃、大学入試に向き合うことができず、得体の知れない悩みを解決する道(これを逃避と言って仕舞えば、それまでですが、)に眼を向けていました。人生の問題として引きずることが自分らしさだと、仲間とは異なる経験に興味を持ち、東由多加代表が、率いる「東京キッドブラザーズ」に近づきました。渋谷の南平台にあった事務所(ライオンズマンション)に出かけ、舞台で使用する「花ふぶき」づくりを手伝ったり、ヨーロッパ公演の土産販売(渋谷パルコB館)を経験しました。今、思えば、懐かしく、パルコの社員食堂に出かけたことが昨日のように思い出されます。

東京キッドブラザーズの公演チラシ、他

 自分を表現すること、代表の東氏が渋谷の事務所を構えたのも、マスコミに対する向き合い方として、計算されていたのだと思います。演劇公演とは別に、「さくらんぼユートピア」なる村づくりも行われ、大学入学後に長髪の私!は鳥取県の佐治村に出かけました。不審感を示していた村の人々とも交流し、東京の公害問題や都市開発を嫌う気持ちを伝えました。
 2泊程度で、大学に戻ってから後は、しばらく郵便での交流を続けましたが、やがて知り合いもいなくなり、自然と遠ざかりました。

3 大学での進路変更

 林学科に入学したのですが、演習林の見学の際、木材の経済的価値を主とした説明に嫌気がさし、生物学科へ気持ちが動き始めました。一般教養科目で花粉分析の講義を担当されていた中村純先生に、現実に学者の姿を見たのです。面接では、中村先生ご自身の経歴の中で、園芸学部から帝大ヘの進学を果たされたことを、話され、私の気持ちを理解していただけました。

 2年次から、生物学科に転部が許可され、1年次の無茶苦茶な生活を反省し、先生から学ぶことに専念しました。通常は3年次から研究室に通うのですが、写真部のS先輩から2年次からの出入りを促され、先生にもお許しをいただいて、学問の戸をたたきました。

 学生寮では、30歳近い8回生や、5年間の浪人生活を経験してきた、真面目な人格者がいたり、文系、理系区別なく交流が進みました。人生を真正面から捉える先輩の影響もあり、東京下町育ちの、なんとなくいい加減な自分の立て直しも考えていました。また、高校の同級生たちもそれぞれ夢に夢に向かって歩み出しており、「何者かに成る」必要がありました。

 就職してからロンドンでお世話になったOka君は、公認会計士の受験勉強に突入していました。私の人生には多くの人々が、直接的に、間接的に影響を与えてくれていたことに感謝します。

4 「研究者に成る」夢

 中村研究室は、大学院に進学して研究者の道を歩む雰囲気があり、先輩もいました。「研究者に成ること」が、現実的な夢になった。

中村純先生の著書、索引の作り方に感銘を受ける。(参考文献一覧、人命索引、植物名索引、一般索引)

 浪人中に乗鞍の学生村で知り合った、京大の哲学の院生であったOさんとも文通が続いており、あの高橋和巳と同じ研究室にいたことなど聞かされており、世界が膨らんでいました。Oさんは、その後、ある大学の学長になったことを知り、あの出会いの印象のまま将来を切り拓かれていたのだと思います。

 中村先生に、大学院進学のために紹介していただいたタンスレイの Intoroduction to plant ecology.の読解を友人と二人で始めた。研究社の英語大辞典にも無い用語があり面食らったが、それだけ手の届かない新たな世界を感じた。

 このブログは、手の届かなかった世界に近づこうとした自分のロマンを再編成しているつもりです。先日(2023.5.12)、檜枝岐村の書美術館(思郷館)で、丹治先生の奥様から、あなたにはまだ30年ありますね!と激励されました。この記事だけでなく、これまでの人生をやり直すつもりで、何度でも書き換えたり、新たな題材を掘り出しながら続けてゆきます。

5 大学院受験

 大学4年生の秋、大学院受験に失敗したが、学部研究生としての受け入れが許可された。しかし、卒論のデータ整理をしながら、集計用紙を貼り合わせていたら、四畳半の畳が見えなく成るほどの分量となり、研究者の世界に対する不安も出てきてしまった。それまで、毎日のように朝から晩までの研究室に通う生活から下宿先に籠る中で、大学を休むようになってしまった。

 1年、下級生のMさんが、下宿にまで先生の伝言を届けにきてくれた。「先生がお呼びですよ」。研究室での先生は、「嫌になったのか?」とストレートな質問!
つい、嘘をついてしまった。「いえ、そうではありません!」。もう、戻れない。

 桜が咲き揃っていた3月、高知から実家の千葉に戻る。その後、まだ、咲いていない仙台へ向かった。

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