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花粉と歴史ロマン 改訂版 その2 ハンノキと稲作 

1 ハンノキの魅力 

 院生時代に、2年先輩にあたる青森県出身のMさんと出会いました。Muさんは仙台近郊の薬来山のハンノキ林を研究対象にしていました。その一方、当時ジャズバーでピアノ演奏のアルバイトをされており、私にとって世界の広さを教えてくれた魅力ある先輩でした。

 研究室では毎週水曜日、学部学生・院生や教官を含めたセミナーが開催されていました。担当日には配布資料の印刷・発表・質疑応答が求められましたが、Muさんの資料には、なんと!万葉集から
「いざ子ども 大和へ早く 白菅(しらすげ)の 真野(まの)の榛原(はりはら) 手折(たを)りて行かむ」が、引用されており、
 さらに、当時の論文である、 ROBERT F. TARRANT and JAMES M. TRAPPE(1971):THE ROLE OF ALNUS IN IMPROVING THE FOREST ENVIRONMENT Plant and Soil, Special Volume 1971,335-348 •111. SVW-28の孫引きとして、
 古代ローマ時代の詩人、ウェルギリウス(紀元前70〜19年)は「湿地に生えるハンノキについて、ハンノキ林の下生え植物の繁栄」
イギリスのウィリアム・ブラウン(1630年)が書いた作品22の「密集した林冠を持つハンノキが栄養を与えた各植物は、ハンノキに長い繁栄を与えている」と解釈される一文がある。」ことを紹介されていました。

 理学研究科生物学専攻の研究室セミナーの場、Mさんの発表はやや冷ややかに受け止められましたが総合的に学問を楽しむ姿勢は、noteを書いている自分との繋がりを感じます。

2 「榛」はハンノキか、ハシバミか

 万葉集に取り上げられた「はり(榛)」が、ハンノキを示すものと考えましたが、漢名の「榛」に関しては、平安時代に編纂された和名類聚には、ハシバミを示している。大和言葉の当て字の世界と漢字本来の字源と重なりがあったと思われます。
 和名類聚 第十七には、「榛子」として「和名 波之波美 ハシバミ」とあり、「栗子」和名 久利クリに対比させています。
また、江戸時代(1833年)宇田川榕菴の「植学啓原」(下図:国会図書館web pageより)には、第五図 

榛がハシバミであることを示す図、雄花序に柄がないことがハンノキと区別できます。
また、カットケンスとはcatkinのオランダ語読みでしょうか?

 山田宗睦(1978)(花の文化史 所収 ハンノキp.13)からの、孫引きになりますが、『牧野富太郎はハンノキについて「ハリノキが転化したものであるが、ハリノキの語源は不明である。古くはハンノキに榛の字をあてているが、榛はハシバミの漢名である。」』、と引用しています。
 和名類聚、植学啓原ともに「榛」は、ハシバミとして、同じ字が江戸時代まで使用されていました。

3 ハンノキの持つ力とは?

 ハンノキが森林環境の改善に役立つ樹木である背景には、窒素固定能力をも つ根粒菌との共生があり、その能力によって酸素が不足しがちな湿地環境への 適性を獲得したと考えられます。以下、窒素固定に関して、肥料木と呼ばれるハ ンノキの生態を紹介しましょう。

「植物雑学事典」(2)には、「根には放線菌が共生しており、根粒を形成している。放線菌は空中窒素固定能力があり、湿原のような貧栄養環境においても高木として生長で きる」とあり、マメ科植物に代表される窒素固定細菌との共生植物であることが背景にあります。また、「モリエールあきた」(3)によれば、湿地に耐えられる秘密として、「根が冠水する湿地は、土壌中 の酸素が欠乏すると、普通の樹木は枯死してしまう。ハンノキは、一年中水に 浸かっていても、ある程度水が流れ、酸素が供給されれば生育できる。その理 由は、幹に散在する小さな通気口「皮目(ひもく)」から酸素を吸い込み、根に 送り込む能力が高いほか、根に空気を取り込む器官「肥大皮目や不定根」を発 達させて、酸素を吸収する能力を高めている。」とありました。

(2)植物雑学事典
(3)http://www.forest-akita.jp

4 ハンノキの特徴

ハンノキについて、それぞれの特徴を写真で見てゆきましょう。

左:若木の樹皮(長楕円形の皮目が点在)右:老木の樹皮(縦に裂け目が入る)皮目は、葉の気孔に相当する枝の 呼吸孔です。湿地への適応形質ですね。

 上の写真は、大網白里市の小沼田で撮影しました。九十九里海岸平野の湿地として地名とともに、ハンノキ林が湿地の履歴を残しています。表紙写真はハンノキの開花期の様子を示しています。

5 水田稲作の前提となった「肥料木」ハンノキ林の成立

 寒冷な時代、陸上に氷として蓄積された水(大陸氷床、山岳氷河)は、海洋に戻る量が減るために、海面が低下し陸地面積が増えます。気候変動によって地理的環境も変化しました。
 温暖な時代になると、海水面が上昇します。縄文海進期と呼ばれた時代です。約6,000年前には、現在よりも10mも上昇していました。その後、冷温化が始まり現在に至っていますが、この1万年の間は、低地が拡大してきた時代です。

 縄文時代に海面下にあった沖積平野は、海水準の低下とともに湿地化が進みます。湿地は洪水の影響を受けるために本来、人間にとっては利用しにくい場でしたが、ここに、生育地を拡大したのが、ハンノキだったのです。
 私が調べてきた、太平洋側の平野部(岩手県陸前高田市から千葉県銚子市)では、この約5000年間の中でハンノキ属花粉の極大期が認められています(6のグラフ参照)。
 ただし、湿地化は低海抜地に制限されるため、ハンノキ属花粉の極大期は局地的な現象で、広域的に揃うことはありません。そのため、気候変動に伴う広域的な植生変遷の研究では、局地性の高さを理由として、ハンノキ属花粉は全体の森林構成種から除枯れて、ハンノキ属以外の樹木花粉数を基数とした相対的な出現頻度を%で示しています。

 先に引用したようにハンノキは菌類と共生関係をもち、自分自身が空気中の窒素を利用できるとともに、葉に蓄積された窒素成分は落葉によって他の植物の生活も豊かにします。その後、ハンノキ林は伐採され縮小していきましたが、土壌に蓄積された窒素養分は、導入された稲栽培を支えた要因になっていたのではないでしょうか?
 ハンノキ林が、水田化の対象となって伐採された場合を考えましょう。

 稲作は、森林破壊を伴いながら縄文時代に九州から東方に拡大して行きましたが、宮城県多賀城市でハンノキ林の破壊が認められたのは7世紀後半に入ってからでした。この時代に針葉樹のマツ属、モミ属、スギ属が増加を始めます。

安田喜憲、「環境考古学事始」

6 各地の花粉分析結果に見るハンノキ属花粉の検出状況

 ハンノキが湿地に適応したのは、自然の持つ力で成立する(潜在自然植生)ですが、「ハンノキ林の伐採」や「稲作」は人為によって導入されたのでした。

東北地方平野部でのハンノキ属花粉の産出状況

 上のグラフは、細か過ぎて読めないかも知れませんが、東北地方太平洋側平野部の福島県平、双葉、原町、磯部、新地、宮城県石巻、陸前高田の順に並んでいます。

 ハンノキ属花粉は、その産出状況が極端なのですが、各地ともに上段(%提示)、下段(花粉粒数/堆積物重量g)ともに極大値があります。%でも花粉量でも共通して極大を示す年代は3000年前以降です。各地にハンノキ林の優勢な時代があったことがわかります。

 正確な表示ができませんが、深さ110cmより上で、イネ科の花粉が多量に産出しています。このイネ科花粉に、栽培型が多く含まれると仮定すると、水田稲作が背景と考えられます。ただし、場所によっては300年前からの開始になってしまいます。その開始年代のバラ付きをどのように考えるべきでしょうか?

 かつて、中村先生は日本各地の水田を対象にして、稲作の開始期を研究しました。イネ科花粉について(1974 第四紀研究 12)では、栽培型の特徴を捉え野生種から区別する方法を調べ、その結果を全国の水田の調査で応用したのです(1978「稲作の起源と伝播に関する花粉分析学的研究」(昭和52年度文部省科学研究費特定研究報告書)。 結果は、西日本から東北地方にかけて遅れてくるのですが、約3000年前以降は気候の冷涼化する時代とも重なり、特に関東地方から東北地方にかけては、距離に応じて高緯度地帯に入りますので、気候的には「不幸にも」と但し書きを置いて、その遅れの背景を説明されていました。

7 水田開発

 人々の生活を一変させた稲作は、低地と台地や丘陵の間の浅い谷筋(谷地田もしくは谷津田)とでは、状況が大きく異なります。湿地の利用から稲作が開始し、やがて内陸地に拡大していった過程の中で、
 おそらく、小規模な谷津田の方が、水管理(低地では洪水がおきます)の上でも、安定した収穫が保証されるので、比較的高い海抜地の湿地が、より早く利用されたのではないか?ただし、収量を確保するためには大河川を制御することや、内陸地域への移行が必要になる。
 こうして、新たに開拓された水田では、冠水状態と乾燥を繰り返すことにより、土壌に養分の供給ができ、この際に周囲の樹林下の腐植土が利用され、生産量の拡大が可能につながったのではないか?
とすれば、水田稲作の背景には、大規模な土木事業を可能とする政治的支配力が背景になりますので、単に、稲作技術が導入されただけでは、広域的な拡大に繋がらりません。花粉分析の結果に表現されるような水田開発の時代背景を加味する必要があります。

「稲作文化と日本人」(玉城 哲著)には、国東半島の流量の乏しい小河川沿いに形成された水田地帯の溜池や溜池跡に着目し、稲作の定着にとって水の確保制御の必要性を説いています。また、水田が点ではなく面として拡大するためには、土木技術や労働力の動員など、政治的・社会的体制を必要としているのです。

 花粉分析による稲作起源の研究は、記述したとおり中村先生によって自然科学的に進められましたが、土木技術を支えた鉄器の自給体制の確立など、古墳の築造と連動した体制を、稲作の背景に位置づける玉城氏の視点は重要です。

 

 

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