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無印のマサラチャイが美味しいらしい

言葉が好きだ。日本語が好きだ。音楽が好きだ。私は音楽家である。ここでくらい胸を張って言わせてほしい。一歩外に出れば、競争社会の一員で負け犬なのだ。作曲家で、浪費家で、馬鹿だ。馬鹿だけど馬鹿なりに少し自信を持てるのが音楽だった。

もう何年になるんだろう。
苦しかった。生きていけない、もう無理だと思ったあの日から。

初めは単なるストレスの発散だった。抗って、もがいて、走っても進まない逆向きのエスカレーターに乗っているような日々の熱。どこかに逃さないと暴発すると思ったそれをノートに書き殴った。書いても書いても溢れる言葉はきっと下品で稚拙でそれでいて凄まじい質量を持っていた。あの頃の激情を今はもう思い出せない。やっぱり自分が自分である証明は今生きていることにしかない。それが少しさびしいけれど、今があるのは、あの頃目に涙をいっぱいに溜めて生きていた小さくな子どものおかげだ。

そうやって吐き出すことがだんだんと日課になって、もういつからかなんて覚えていないけれど、感情から言葉が溢れて、言葉に音が乗って、風とも水とも言える小さな流れ。もっと早くもっと長くもっと遠くへって。

音楽だった。


正直私には音楽的センスや必要な技能知識は足りない。ただそれでも良かった。才能や技術が芸術の全てでは無いと思っている。私の芸術論はこうだ、作品の良し悪しに作者の背景は付随しない。誰が創ったとしても良いものは良い。悪いものは悪い。勿論、知識技能があればそれだけ作品の幅は広がる。でもそれよりも音楽を創る上で私が大切にしたいのは情動だ。心の変化、機敏だ。どんな作品にも根底には感情がある。その根っこからどんな花を咲かせるかは作者次第であるが、感情のない作品には私は価値を感じられない。我武者羅にそこにあるべき言葉と音を探り当てる感覚。音楽に酔わされている感覚。私はこの心を身体という檻に閉じ込め続けていられるほど辛抱強くはなかった。

だからもっと、
情動よ、思い出よ、僕を苦しめて。
忘れたくないんだよ


さて、タイトルと何の関係もない話になってしまいましたが、マサラチャイが美味しいのは本当です。
あとぼくは
ヨルシカが好きです🕕

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