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フレデリック・カールトン・ルイス

“すべては過程だ。結果ではない”


私もよく書いてはいますが、自分で見つけた
方が先でした。

彼の名はカール・ルイスという名で通って
いる場合もあります。

この彼の言葉は、長い間議論されていて、
私もカール・ルイスと同じ考えだが、
結果のみと言う人も少なくない。
そして両方大事だと言う人もいる。

この事に関しては議論することが大切で
あり、答えは見つからないものである。

時として、このように絶対的に考えが
別れることであっても議論されるのが
哲学の世界の特徴とも言える。

これについては3種類の思想に分かれている。
増える事も減る事もない議題であるが、
このように、完全に定めれたものも少なくない
のも、また特徴の一つとして上げられる。

こういった事に対する議論は実に面白い。
難題であるからこそ、誰しもにも持論があり、
それを理論として打ち出す。

このようにして、哲学の世界では、それに答えは
無いだろうと思われるような事についても真剣に
取り組んできた。

現実世界と必ず接点があることしか、哲学の世界で
語ることは許されない。だからこそ長年に渡り、
今、現在でも話し合いや理論を打ち出す事は
尽きないものである。

何故なら現実世界はあり続けるものであるからだ。

そこに集う人達は世界中にいる。

歴史上の偉人たちも皆、理論のぶつかり合いで
闘ってきた。そして答えを見つけてきた。
それが後世である我々の世界でも活かされている。

それは影のようなものである。
確かに存在はするものではあるが、誰も気に留めない
もののように、我々に密着して生きている。

彼らは誰もがあくまでも理論的な見地から証明をする
ために、理論的に説明のいくものを考えている。
それは未来に名前を残そうというようなものではない。

自分自身で考えて、自分で納得のできるもののために、
長年をかけて向き合う事により、付随的な位置から
名前を残してきただけに過ぎない。

過去に名を残した人たちの多くは質素な墓、または
墓さえもない埋葬を望んだ。

武田信玄にしても、自らの死を数年隠すように配下に
命じていた。

諸葛孔明も魏の方角に向けて墓を作るよう命じていた。

そう、有能な人たちは、遥か彼方にある時代に名前が
残らないようにしていた。

明治の国造りに生涯を捧げた大久保利通も財産は無く、
私財を投げ打って国のために使った。

誰もが孤独であったが、自分と闘っていた。

“すべては過程だ。結果ではない”

誰かの言葉は誰かの心に火をつけるように、
ぽっと明るくしていく。
それは脳裏まで上がっていき、その人の思想を
変える事も多々ある。

このように言い切る事もできるのが哲学である。
自分の思いは誰かの理論で崩れ去ることもあるが、
断言している人も大勢いる。

全ての人は人生という過程の中で、それぞれの答えを
見つけている。それを見つけれるかどうかは本人の意向
次第でもある。

そしてこれは断言できるが、挑戦心が無ければ
何も生まれる事は無い。

最初は怖いものだ。誰しもがそうだ。
しかし、やらずしてそう言うのは間違いである。
挑戦して心を砕かれ、それでも尚、立ち上がる人は
強くなれる。

その強さは一生に繋がるものとなる。
まるで繭から帰った蝶のように、人生で羽ばたく事を
可能にするには、色々な事に挑戦してみて、
自分の居場所を見つけることが大切だ。

居場所さえ見つければ、後はその事に時間を費やして
いき、更なる奥深い世界へと入って行く事になるだろう。

その節目ごとに障害という壁は待っているが、
恐れずに挑戦し続ければ、いつかは打ち砕くだろう。

自分に負けないことが全てだ。

生まれてから死ぬまでの間は、自分という人間が
誰であったかを知るために存在するものだと、
私は思っている。

誰かに左右される人生では無く、1つの例として
受け入れ、自分なりにアレンジを加える事によって、
全く別のものに変わる。

人生とは最後の最期まで分からない。
人の心に根付く死は、実際の所少ないのが現実だ。

だから誰かのための人生では無く、自分自身の存在意義
を見つけるための人生を生きる事を私は勧める。

第二の人生を歩む私だからこそ見えた答えではあるが、
これもまた時が経てば変わっていくだろう。

そう、私はまだ出発点に立ったばかりであるから
そう言える。


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