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レオナルド・ダ・ヴィンチ

“美しいものと醜いものはともにあると
   互いに引き立て合う”


この言葉はある意味、身近なところで
使われている一面を見せる事は
多々あるだろう。

わざと自分より見かけの劣る友人を誘って、
飲み会などで、最初から優位に立つ方法の
一つとして使われ続けているものだ。

ただここでレオナルド・ダ・ヴィンチの
言葉では、

“醜いものとも互いに引き立て合う”と
いう点だ。

つまりはこの言葉は、主軸に人間を
置いていないと言う事になる。

物や絵画やそういった美術品などを
対象とした言葉だと考えるのが妥当だ。

何故なら彼はそういった分野において
多くの功績を残した人物だからだ。

彼の生涯は短くも、長くも無かった。
1519年5月2日まで生き、67歳で死んだ。

彼の絵画作品はおよそ15点程度だと
言われている。

意外と少ないのは、それは彼が満足の
いかない作品は、破棄していた事も
大きく関わりを持つことになるだろう。

そしてレオナルドが、14歳の時に、
フィレンツェの画家ヴェロッキオの工房に
弟子入りし、工房で理論面、技術面ともに
目覚しい才能を見せた。

更に彼の才能は、設計、化学、金属加工、
機械工学などの幅広い分野におよんだ。

その若い時の影響もあり、彼は後に
美術関係だけでなく、他の分野に於いても、
多分野に繋がりを見せる事になる。

時代は1500年代でありながら、
科学的創造力の面でも才能を発揮し、
ヘリコプターや、戦車の概念化能力、
太陽エネルギーや、計算機の理論なども
理解していた。
(※まだ開発段階にも達していない事など
を造語や、新たな概念を築く事)

解剖学、土木工学、光学、流体力学の
分野でも非情に重要な発見をしていた。

このように幅広い分野において多くの
発見をした人物は非常に少なく、
美術関係から彼の人生は始まった
訳でもないのに、
その名は世界中でも知らない人は
いない程の名を残した。

実に充実した人生だったと言えるだろう。

彼の残した言葉は、現在では別の目的と
して使われているが、彼は多くの体験から
得た知識で、この言葉を残した。

言葉という外観から見れば勘違いを
してしまうが、言葉だけ知ると言う事は
意味のあまり無い事だということを
知って欲しいと切に願う。

“美しいものと醜いものはともにあると
   互いに引き立て合う”

この言葉は美と醜がともにある時、
互いに引き立て合うと言っている所に
注目してほしい。

我々が活用している事では、まず有り得ない
事を彼は言っている。
では、彼は何を見てそう感じたのか?
そこが大きなポイントとなるだろう。

こうした物事を考えると、人の思考回路は
激しく動き出す。知識があろうが無かろうが、
そこにそれほどの差はあまり意味を
成さない。

考える事が何よりも大切なので、
問題はどこまで深く潜れるかによって、
事実を導き出されるかが決まってくる。

アインシュタインの言葉にある。
「私は物事を教えない。
考える場所を提供するだけだ」

本来はそうあるべきなのだ。
考える事により、人の精神面は成長を
果たしていく。
ただ教えるだけでは、教えられた方は
すぐに忘れてしまう。

この理論は嘘つきにも同様だと言える。
誰かに対して嘘をつくと、必ずその嘘に
対して答えを求められる。
そしてその最初の嘘を隠すために、
更に嘘をつく。

自ら深くて出る事のできない
迷路に入る行動だと言える。

嘘は軽い、だから言った本人でさえ
忘れてしまう。
反対に、自分で考えたり、判断したり、
決断した事は忘れない。

自分自身で考える過程を経た答えだからだ。
それが難しい事柄になるほど、
忘れないものとなっていく。

そもそも嘘はあまり良いモノではない。
判断は自分でするものだが、
仮に嘘をつかず、
真実を話して見放されたとしても、
後悔はしないべきである。

自分なりに出した答えが、嘘をつかないと
いったものになるからだ。
悪い答えと嘘をつくべきだったと、その一瞬
は感じるだろうが、嘘をつかなかった自分を
誇りに思うはずだ。

例え、嘘で修羅場にならずに
済んだとしても、必ず嘘がバレる日は来る。

その時は嘘をついた事を後悔しても、
手遅れになる。

今、少し深めに潜ってみた。

ダ・ヴィンチ的な言葉にしては、
軽めに感じたからだ。
この言葉は対象となるものは非常に
多い事に気づいた。

美術品や他人や自分を対象にしたのでは
無い。これは彼の心の声とも取れる言葉だ。

それを美術品を比喩として、心の内にある
美と醜の事を語っている。
彼は偉大な人であった。
そのような人が、単純に美と醜を語る
とは思えない事にきづいたからだ。

そのように人を蔑む人物では無かった事が
それを証明している。

この言葉にある美とは、人や自分自身への
善意や徳を指しているものだと言える。

そして醜とは、己における悪意や妬み、
嫉妬、憎悪等を指している。

“美しいものと醜いものは
ともにあると互いに引き立て合う”

この言葉は実に難しい言葉であることに、
改めて書く事により明確に見えてきた。

当然ながら、男女が使う手法や、美術品に
見立てて書かれている事も意味として
含まれてはいるが、ダ・ヴィンチが本当に
言いたい事は他にあると考えられる。

“美しいものと醜いものはともにあると
   互いに引き立て合う”

こうしてたまに一癖ある言葉に出会うと、
必ず睨み合う。自分の心をダ・ヴィンチの
心に投影するようにして、主には彼の性格を
読み取る事が大切になる。

それは今の日本人に欠けているものだけあって
なかなか手強い。彼等の時代は荒れていた。

レオナルド・ダ・ヴィンチともなると、
実に難しいだけあって、面白い。
あくまでも定義ではあるが、残されたものから
察すれば、彼は30近くの分野に於いて、
功績を残していたとされている。

「飽くなき探究心」と
「尽きることのない独創性」を
兼ね備えた人物としても、
その名を馳せているだけあって、
非常に奥深い。

彼を題材とした映画
「ダ・ヴィンチ・コード」では
ユリの話が出ていたが、あれは事実である。
実際にユリの絡繰り仕掛けのライオンを
依頼されて、これを受けた。

ユリとは要するに鍵であって、ユリ自体に
は特に何も無い。しかし、絡繰りを解くには
必要なものである。

映画ではライオンの絡繰り仕掛けでは
無かったが、そのもの自体には絡繰り仕掛けが
成されていた。
ユリを鍵として解く難解なものだ。

この彼の言葉が多くは己を指して言っている
事に違いはない。
彼はあらゆる分野に長けていた。
それだけに真実の言葉の意味を理解するのは
難しい。私が知らない分野の事も含めた上で
この言葉を書いたのであれば、私に解く事は
極めて難しいと言える。

しかし、言葉の節々から他人に対しての
言葉でないことは分かった。

“美しいものと醜いものはともにあると
   互いに引き立て合う”

やはりこの言葉は自分自身の事を
言っている。鍵となるのは、
この文章全てが鍵となっているので
意味を理解するのは困難なもので
あったが、一文字、一文字がそれを
示している。

普通に考えれば、美しいものと、
醜いものはともにあると、必ず、
美しいものが引き立つものだ。

正論であれば美しいものが
引き立つ。
あくまでも正論ならばだ。

つまりは目に見えるものでは
無い事を示している。

今も独り言のように確かめ
ながら書いている。
困難な顔つきをしているのは
鏡を見なくても分かる程、
難しい。

問題となるのは、両極端なものが
ともにあると、互いに引き立て合う。
と言っている。

普通の次元では有り得ない事では
あるが、彼は哲学者としても
有名だった。

つまりは現実的に考えても、
この答えは正しいとされた事を意味
する言葉になる。

仮に心の中に善と悪があり、
それらが均衡してぶつかり合えば、
互いに引き立つ事になる。

以前にも話した50%と50%の話だ。
自信と不安の両立を私はしている。

確かにこの回答なら答えと言える
だろう。もっと奥に何かがある事は
分かるが、その確かなものを見つける
には、今の私にはまだ無理ではあるが、
答えは何とか出た。

この言葉は他人やダ・ヴィンチの心の
中を指している言葉である事は確かだ。

両極端なものが、互いを引き立て合う
のは、太陽と月、陰と陽等も同様であるが、
実際に存在するものである。

彼は人の心の変化や、やはり自信だけでなく
不安的な感情もなければならないと言って
いる。

自信だけあってもダメな人間になるし、
不安が大きすぎると、それは足枷になる
という意味になるからだ。

つまりはそういう感情が生まれた場合、
均衡を保つためには、反論的な意見を
心の中に持つ事により、自分自身をより
高みへと繋がる自己啓発になるものだと
言っていることになる。

実に勉強になった言葉であったが、
何とか答えまで行く事ができた。

実はダ・ヴィンチ以外でも、難解な言葉
を残している人たちがいる。
アインシュタインにもあって、2度ほど
書いたが、納得のいかないものであった
ので消した。

しかし、この言葉を解せたならば、
自信のほうが弱いが、
また挑戦してみたいと思えた。

今日は朝は寒かったせいで、5時過ぎには
起きてしまったため、それから書き始めた。
出先でも時間の間を縫って、考えていた。
まだ決着はついた訳では無いが、答えに
近づけたのは確かなことだ。

今はそれで満足するとしておきます。

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