事象の因果系列1

 東日本大震災をめぐる原発事故、コロナをめぐる対応、さらにパレスチナにおける虐殺について、それぞれ世界史的に対応は続いているのだろうが、それを放射能を見ない、ウイルスを見ない、虐殺を見ないことにおいて同質とみなせるかといえば実際そんなふうに一直線にはなっておらずバラバラのようでもあり、多くは事件事象には関心なくゲームとアニメに熱中し時折り創作にこうした主題が放り込まれて消費しているだけのようにもみえる。しかし無意識というものを立てるならば日々に追われながらを何かを人々は感じていて何かに帰結し続けてはいるのかも知れない。ただ衝撃的な事象が日常に反映するには何かがかけ離れているのかも知れない。
 天災で人間世界にインバランスが起きたときそのしわ寄せが構造的に一番弱いところに発現し、その因果関係が後追いできる可能性という一般論は立てることができるか?そこには物質の発生から生命、人類まで偶然の産物だという現代の前提があり、そこに文化という恣意的な(これまた偶然の)境界線がひかれ、その言語的差異を持ち出しても何処まで行っても偶然であり、AIといっても恣意的なものの恣意的な集積にしかならない。ここでは因果とそうでないものの閾値を問題にしているのだが、すべてが偶然であるという世界から因果を想定するのは(特に物質的な天変地異から人為的な筈の社会へは)難しい。
 そもそも偶然は必然との対比概念であって、必然がなければ偶然もない相互的概念であり、それでは何が偶然の前提の必然になっているかと言えば、偶然の事後的なもの、としての無意識の前提である。つまりここでは偶然と必然は前後関係である。しかし偶然が全面的に必然に移行するのではなく、前後関係は人間が遡及的に言語的に規定するもので、爾後空間的には必然と偶然はそれぞれ質の違う閾値を境にして平行している。進化論あるいは自然選択的にいえば、物質から振り分けられる過程で偶然と必然、無秩序と秩序が段落的に振り分けられてゆく。しかしこれはあくまで今あるものからの分解と合成からの推測、構成的概念に過ぎず、いわゆる自然選択をみたものはいない。
 現在の大学世界の分類枠である枠組みを構成している内容=秩序と、その外部=無秩序を前提とし、大なり小なりその境界線を引用して無限に外側に分割してゆくか、内側に分割していくかは恣意に任される。拡張的分割も極小的分割も任意のままということだ。そこに因果は構成されうる。
 ここで規制の知性や心、生命やまたは因果という概念も疑義に付されねばならない。時間とは客観的で一義的に固定されているようで曖昧な概念なのだが、単に線で表象されその線的連鎖を時間軸に沿った因果系列としている。それは進歩史観とか多元性という以前に時間概念や因果概念がそうなのである。これについての別の配置は三次元空間的にあり得るということで置いておくが、まず恣意的になるが別の因果系列を設定するとしておく。
 

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