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偶像

先日フィールドワークで地方都市のモスクに行った。ムスリムの元技能実習生で永住されている方・現実習生さんなどが募金を出し合って作ったものである。どなたも親切で寛容で卒論という下心をもって近づく私に何でも聞いてくださいと言ってくれる。一緒にモスクを掃除し、改修作業を手伝い、お昼ご飯を食べた。言葉は分からないが、仲間同士で冗談を言い合って笑い、こちらを気遣ってくれた。

昨日はイスラム教の大事なお祭りであるイドゥルアドハというものがあった。これはラマダンと並ぶ行事で、お盆のようなものである。
本来は動物を屠って神に捧げるのだが、日本でやると警戒されてしまうからと今回は行わなかった。本国に同等額を送金して向こうで代行してもらうことも多いという。彼らはマジョリティである日本人社会に相当気を使っているし、互いに距離を保って過ごすという感じである。
モスクというのはだから彼らが「存在している」ことが明示的に可視化される珍しい場所という点で意味深いと思う。(例えば深夜の牛丼チェーン店やコンビニに日本語がカタコトな店員さんがいるとして、技能実習生さんなのかなとは思ってもそれらは日本人が何となく感じ取るものであって、互いにそれと分かるように表明されたものではないですよねという意味です)

インタビューをし、イスラム教についての考えを伺った。モスクの機能、善行を実践する動機など。
最後に「あなたは神様はいると思いますか、正直に言ってよいから」と聞かれた。いるとは思わないけれど信じている人のその信念はその人にとっては真実で尊重すべきものだと思うと返した。
よく日本人は無宗教と言われる。一神教における神への帰依や渇仰に比べると確かにその度合いは低く思える。これは日本人の信仰が周囲の事物にひとつひとつ神を見出すアニミズムに根差した自然宗教だからである。

日本人の多くは、自然宗教の信者なのだという。その例として、初詣やお盆、春秋の彼岸などを挙げている。特別な教義や儀礼、宣教師はいないが、「年中行事」という教化手段を持っており、人々はそれを繰り返すことによって、生活にアクセントをつけ、心の平安を手にしている。

大橋充人著『在日ムスリムの声を聴く―本当に必要な"配慮"とは何か―』

去年日本人にとっての一神教並みの神はいないのか考えていた。多分天皇というものだったんじゃないか…。戦前戦中の日本は欧米列強の圧力にさらされ、ドイツの領邦国家みたいな幕藩体制では権力集中できないため幕府が倒され国家統一のための共通ナショナルアイデンティティが求められた。そこに「開闢以来連綿と続いてきた」天皇というシステムが合致し、現人神であるとか教育勅語を読もうとか教えられることになったのではないか。
そして敗戦、人間宣言、マッカーサーと並んで写真に撮られたことでその神性の側面を喪失したのだろう。
啓蒙時代にヨーロッパ人が経験したように、いわば、神は死んだのだ。

と思うということを言ったら、「私たちの神は死なないし姿を持たない」と返された。そうですよね。本当にそう。
山だろうが太陽だろうが、形あるものはいつか壊れる。一神教の絶対神とは、話を聞く限りではその人はこの宇宙を創造し生命を作り出す意思のように解釈しているらしい。火の鳥の宇宙生命コスモゾーンとよく似ていると思う。それは姿を持たないし(火の鳥という姿を持たせちゃうところが漫画の或いは手塚の想像力のすごい所、それか人間の好奇心のなせる業というべきなのだが)持たないからこそイデアとして滅びようがないのだ。
人間ごときが神の姿を見たり想像したりできるはずがないというその姿勢は私の信条はともかくも敬意に値する。

一方、寺の仏像とそれを熱心に拝む人などを眺めていると人の願いに応えて形をとったこのような偶像も、もし本物というものがあってそれに比べれば不完全だったとしても、似姿を作りたいという感情は共感できるし好ましいと思う。それもそうですよね。
だからまた火の鳥を引っ張ってくるけど、鳳凰編で仏師茜丸が夢で火の鳥を見てその姿を彫りたいという衝動を覚えるのはとても自然に納得できる。
手を合わせて祈る側にしても、神や仏を見られるものなら見たいと思うのは仕方ないと思う。

どちらも動機は切実で真面目に考えられたものだと感じる。これをまとめるとどっちも良いですねになり、相変わらずどっちつかずになる。

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