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共同マガジンvol2 byパト

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共同マガジン第二弾です。いいねの輪が広がれば嬉しいですね。
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#自己認識

共同マガジン始めます!

こんにちは!今日はこの記事をご覧いただきありがとうございます。 今日は、共同マガジンを始めようと思い記事を作成しました。 Noteの輪を広げる活動として、共同マガジンが盛り上がれば嬉しいなぁと思っています。良識のある方であれば、誰でも参加していただいて大丈夫です。 一緒にマガジンに記事を投稿したいという方がいらっしゃいましたらコメントにて教えていただければと思います。 【メリット】 ・参加することで記事を幅広く見てもらうことができる。 ・まだまだ人数が少ないので、自分の

死者の書 (折口信夫著・岩波文庫)

死者の書 (折口信夫著・岩波文庫) 折口信夫の「死者の書」は最初は文体に異様なリズム、雰囲気があるが、読み進めている内に単なる物語風になる。 最初だけで後は説明的になっているのは彼がまだ未知の領域に踏み込んでいないからである。 深淵に踏み込まぬ以上、これ是非も無し、と言うしかない。 読書メーター https://bookmeter.com/books/588113

「嘔吐」J.P.サルトル著

「嘔吐」J.P.サルトル著 サルトルのこの哲学的文学は彼自身の世界観が如実に書かれている。 実存主義とは「無意味が意味である」が人生の意味とされている。 この世界観の元祖的人物がニーチェである。 通常の思考による考察の限界は虚無に至る。 虚無とは相対的意識であり、あらゆる事物を偏見無く観るという一視点にすぎぬ。それが世界観と化せば「虚無的世界観」となる。 物質界の足場が消失すれば生きる意味や方向性も見出すことは出来ない。 「嘔吐」に書かれているのはあらゆるものが得体のしれぬ

「自己愛の不徹底」2

「自己愛の不徹底」(2)拙著「小林秀雄論」より抜粋 極論すれば我々は此の地上に存する限り何ぴとといえども不具者である。聖者はもと より、天才と呼ばれた存在達は常に己の無力感を名状し難いほどに味わっている。 く どいようだが有能ゆえではなく自己の無力さゆえに苦悩する。 「天稟の倫理性と人生無常 に関する沈痛な信念とを心中深く蔵して、凝滞を知らず、俗にも僧にも囚われぬ、自在で しかもあやまたぬ、一種の生活法の体得者だったに違いないと思う。」(西行)と。 だが常に実生活のな

「既知の浅薄な情報知に呪縛されし魂の群れ.....」

「既知の浅薄な情報知に呪縛されし魂の群れ.....」 昨今の自称識者と称する殆どの人物達は既知の情報知の洪水の中で溺れ、呪縛されている事すら無自覚である。 ......この様相は悲惨というより他ない....... その浅薄極まりない考え方、思想とも謂えぬ主観的自我の膨張、それらに捉えられ難破している事自体に無自覚の多くの若者達........ 如何ともし難い事だが、実社会の生々しい人間関係に於いて10年位揉まれれば衣食住のなかに取り込まれるであろう...... やが

「ほのくらきよに」

「ほのくらきよに」 ほのくらきよよによにありて ほのくらきよよにありてなを ありてありぬほのくらき ほのきらきよよによにいきむ いきむしきにありありぬ ほにくらきよよにありぬよに よよにふりぬしきいきや いきいきよよによにいきむ いきむにいきぬいきいきぬ ほのくらきよよにほのほあり ほのほほみちぬみちありて くらきよよにほのほありなしや ほのくらきよよにみちみちぬ みちみちみちぬほのくらきよに

「精神と肉体」

「精神と肉体」  精神と肉体は自覚した個人にとって即物的連動などしない。  無論、目的や方向性のない個人・自我の意識状態では肉体に大きく左右されやすいのは当然であるが。  これは個人の自己認識の自覚に準じている。或いは、どこまで無意識状態を自覚、日常化し得ているか、とも。  浅薄な無常観や相対的世界観(虚無観)に呪縛されている魂はこの状況を断じて認めぬであろう。  かかる状況は悲惨というしかないが、今日の時代はこの最も基本的かつ本質的問いに対して頗る無関心である。

「ゆらゆらたゆたふかげろふ」

「ゆらゆらたゆたふかげろふ」 よふけにてやみにありてたゆたふ ゆらゆらうかぶくりかえしのりずむあり ゆらめくりずむはあるおもいにいざなふ よよのうきしずむよふなようそふや ゆらゆらたゆたふかげろふのよふ ゆらゆらやみにたゆたふよよに

人類進化の途上である人間の自我は未だ幼児期段階である。このように言えば「何を偉そうに」と、殆どの人々は思うであろう。物質界に依拠した世界観に呪縛されているからである。魂の進化とは眠りの諸段階の意識化でもある。これは通常の言語では説明し難い。故に私の文章も理解されがたい。

未発表の小説「無明」からの一部抜粋

私が書いた未発表の小説「無明」からの一部抜粋です。 又、これは私自身の考察でもあります。 「……近代人から現代に至るまでの個人の陥った悲劇は思考の不徹底にある。所謂悟性的思考の限界が即個人の限界であるとは単に心情にのみに関る問題にすぎない。悟性的思考による観念は自己を保持する為の精神衛生上としての一種のニヒリストを造り出し、自らそれを演じる。  つまり、相対主義という衣装を身に纏う事によって他者や自らにも距離を置き、壊れやすい繊細な神経を防御する。さらに言えば、この自己欺瞞

「底なしの絶望」

「底なしの絶望」  個人の魂が底なしの絶望を味わって自滅せずに生きられるか? と。  かかる問い自体が「それは実際にその状況に為らなければ分からぬ」との返答が当然と思われる。  では、その底なしの絶望から希望や光を見出した魂も存在する、と言えばどうであろうか。 「そんなことは信じ難い、仮にそのような人物が居たとしてもその人物の思い込み、主観的体験にすぎぬであろう」と、殆どの人々は思うであろう。  人々の懐疑は尤もである。大体底なしという概念自体が疑わしく感じられるか

「死生観と自覚」

「死生観と自覚」  深夜に拾い読みで「論語」を読んでいたが、今日風の解釈の浅薄さに複雑な想いが生じていた。  自明だが物事の考察、解釈は其々が自分自身の視点観点に引きつけて読むしかない。    今日、浅薄な無常観や相対的世界観に呪縛されている魂は「死生観」の自覚から生じる人間の「根本的課題」という見解を断じて認めぬであろう。  かかる状況は悲惨というしかないが、今日の時代はこの最も基本的、本質的問いに対して頗る無関心である。何故かと言えば、好んで困難や労苦、痛みを受

「しきにありぬ」

「しきにありぬ」 しきにありしひとひとたり しきにはいりてしきにいき いきしちににてしきあらむ しきあらむとてしきありぬ しきしきありてもしきにいき いきしきしぬによにありぬ よにありぬとてよにありぬ ありうむならむよにありて むひのおくやまこえてなを ゆめゆめしきにいきいきぬ いきいきいきてしきいきぬ しきいきぬきぬいきいきぬ

創造と個性

表現行為に於いては個性云々が様々な視点観点から語られる。 この問題と自由、不自由という問いは不可分である。 唯物論的観点からはこの問いは徹底的に相対化されれば無意味な問いと化す。 世界、自然界を知覚する主体である「私」が消滅すれば一切は無に等しいという結論に導かれるからである。 さらに謂えば生存自体にも意味は無いという結論へと至る。 これは通常無常観とか空とか言われている概念である。 この観点からすれば、個人の一生など自然界の一部にすぎないし、この自然界の法則から