マガジンのカバー画像

共同マガジンvol2 byパト

7,321
共同マガジン第二弾です。いいねの輪が広がれば嬉しいですね。
運営しているクリエイター

2020年9月の記事一覧

生存・表現の根源的問い

生存・表現の根源的問い 私には相対的意識状態のみに依拠する人物が表現の根源的問い、根拠を徹底して考察しているとは到底思われぬ。 人間存在の存在根拠は無意味こそ意味であるという方向無き人生観は単に一観点にすぎぬ。己の思考の不徹底を顧みぬ怠惰な自我、精神の所有者のみが言い放てる戯言である。 三島由紀夫も川端康成にも人生の方向性、死生観はしかと描かれている。そのような内容、物言いなど何処にあるというような人物は単に上っ面を読んでいるにすぎぬ。 何も言語表現に限らぬが洗練され

なんで逆に人と比べちゃいけないの?

皆さんも経験していることだと思うが、他人のいい所を見て、「あの人に比べると自分はまだまだだなあ」などと引け目を感じたり、逆に、同僚が仕事でミスをしたりトラブルを起こして上司に叱られたりするのを見て、「あの人に比べたら自分のほうがまだマシだな」などと、安心感を抱くということがあると思う 1つ例を出しますと ニコニコ生配信者で 『七原くん 』という配信者は32歳独身でフリーターです。その方は 仕事ができない お金があればすぐギャンブルをする 家賃 水道の滞納 仕事をサボる す

+2

"Requiem"

「作家の視点」上野の森美術館にて。私の絵の前で。

+3

「自己愛の不徹底」2

「自己愛の不徹底」(2)拙著「小林秀雄論」より抜粋 極論すれば我々は此の地上に存する限り何ぴとといえども不具者である。聖者はもと より、天才と呼ばれた存在達は常に己の無力感を名状し難いほどに味わっている。 く どいようだが有能ゆえではなく自己の無力さゆえに苦悩する。 「天稟の倫理性と人生無常 に関する沈痛な信念とを心中深く蔵して、凝滞を知らず、俗にも僧にも囚われぬ、自在で しかもあやまたぬ、一種の生活法の体得者だったに違いないと思う。」(西行)と。 だが常に実生活のな

創造と個性

表現行為に於いては個性云々が様々な視点観点から語られる。 この問題と自由、不自由という問いは不可分である。 唯物論的観点からはこの問いは徹底的に相対化されれば無意味な問いと化す。 世界、自然界を知覚する主体である「私」が消滅すれば一切は無に等しいという結論に導かれるからである。 さらに謂えば生存自体にも意味は無いという結論へと至る。 これは通常無常観とか空とか言われている概念である。 この観点からすれば、個人の一生など自然界の一部にすぎないし、この自然界の法則から

三島由紀夫『小説家の休暇』より

下記の文章は私の或るブログに掲載したものであるが、今日に於いても重要な内容と思うので此処にも掲載する。  この文章の内容をどれだけの人々が真に理解、体感したか、それを考えると憤怒に似た感情が湧くのを禁じ得ない。 ーーー 三島由紀夫『小説家の休暇』より 「一見混沌としか見えぬ無道徳な享受を、未曾有の実験と私が呼ぶのは、まさにこんな極限的な坩堝の中から、日本文化の未来性が生れ出てくる、と思われるからだ。なぜならこうした矛盾と混乱に平然と耐える能力が、無感覚とではなく、その反

「自己愛の不徹底」1

「自己愛の不徹底」 拙著「小林秀雄論」より抜粋 自明の事と言えば自明の事だが、本当に我々は自分自身を愛しているのだろうか。さらに言えば自己認識をしているのであるか。我々は通常では自己愛を悪しきものとみなしている。無論、狭義の意味で用いられているのだが、その判断は何の根拠があって、誰によって、何の為に悪しきものと決定されたのか?殆どの人々はこの日常何気なく使われている言葉すら理解もせずに使っている。 真の自己とは何か? 我々が人間と呼ばれ、生き、生活する。一体我々はどこか

表現について

表現について  この世に何ひとつ無駄なものはない。それを知らしめるべき「存在」達がその意味を悟らず「達観」した意識を持ち、その視点から人間を観察し、分類し、価値や意味を決定する。――これが現代人の、現代に生存する多くの人々の世界観へ流出され、病のごとく「相対的世界観」として魂を支配しつつある。環境となりつつある。――人々はそれぞれが「個性」を主張し、自由を主張し、己が身を守るために自己にとって都合の良いものだけを利用し、――自己を拘束するものは人権を無視するものと、ますます