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「宗教と信者の依存」

宗教とは行動様式

宗教って何?っていう問いには、社会学者のマックス・ウェーバーによる

「宗教とは行動様式のことである」

という定義が私にとって最もしっくりくるわけです。
つまり、人間の行動を意識的あるいは無意識的に突き動かしているものを総称して宗教であると言うことで、神様の有無は関係なく、倫理道徳や習慣風俗も一種の宗教であるというものです。

そうであれば、お正月に近所の氏神様(神社)にお詣りし、クリスマスにケーキを食べて、お葬式は浄土真宗というような、多分典型的日本人な私も、私なりの考えに基づく行動様式=宗教を持っていると言う事になります。

つまり特定の宗教に帰依していなくとも、自分なりに大事にしているものに従って生きている人は、いわば自分教を信仰して生きているという事になります。

日常生活における神仏との関わり

一方、日常生活においてどの程度神仏との関わりがあるでしょう?

あくまで私の場合ですが、今までの人生における日常生活で、神仏と関わりを持つ場面をリストアップしてみますと、子供のころに悪いことをしたときに、お母さんや先生にバレないよう、神様や死んだおばあちゃんにお願いしたことや、父親が初めて車を買ったときに成田山新勝寺で交通安全のお守りを買って車の中にぶら下げ、自分の大学受験のときには、私が望んだわけではありませんが、太宰府天満宮で合格祈願のご祈祷をしたのを覚えています。

また、小学校のころ、大晦日には子供会で近所のお寺に行って除夜の鐘を突かせてもらったこともありましたし、子供の七五三や今でも毎年のお正月には近所の氏神様に初詣をし、柏手を打って無事またここに来られたことに感謝の気持ちを伝え、来年も皆無事で来られるよう願います。

思った以上に私の行動様式の中に神仏との関わりは組み込まれていますが、信心という意味では、どうなんでしょう?

私の信心

私は、無神論者ではありませんが、存在に立脚しているようなことはなく、いても不思議ではないと思っている程度です。

  • 神仏は存在するか?
    少なくとも、全知全能な存在がない限り、概念自体が存在しえないという点から、存在の可能性は否定できないと思っている。

  • 霊は存在するか?
    状況的に明らかにフェイクでない心霊写真を見たことがあるので、存在すると思っている。

  • 自分自身への影響はあると思うか?
    自覚できる影響はないと思っている。

  • 神仏に少なからず依存しているか?
    全く依存していない。むしろ自立こそが神仏の助けを得られる条件とすら思っている。

  • 神仏は特定された存在か?
    概念的なものであり、姿かたちや名前など特定された存在ではない。

宗教の影響

まあ、私の自分教はいいとして、実際に新興宗教を信仰している人はどうなんでしょうか?。日常の付き合いにおいて信仰の話をすることは滅多にありませんが、数人の人間とは、割と真面目に彼らの信じる宗教について話しをしたことがあります。(勧誘を受けたということではありませんよ)

いずれの場合も、親に連れられての入信ではありますが、幼いころからの生活の一部になっており、ある程度大きくなってからも、善悪の捉え方をはじめ、生き方に大きな影響を受けています。

一点、問題に感じたことは、様々な物差し(価値観)が、すべて宗教から与えられたもので、自分自身で生み出したものでないために、その物差しに対する理由を明確に答えられません。例えば「地獄に落ちるから」という教義の話しになってしまいます。何故地獄に落ちるのか?何故何の罪なのか?を自分の言葉では答えてくれません。つまり、人としての最も大事なところが教義らしきもので埋められてしまい、思考停止になってしまっているところです。

とても良い人たちなのですが、理由なき善人なのです。

時の為政者が宗教を利用するというのがとてもよく分かった瞬間でもありました。

共感で依存関係を構築

いくつかの宗教で共通していると思うのは、身の上に起こる不幸を、本質をずらすことで、受け入れやすい論理を作り、信者の心の痛くない箇所や先祖のせいにしてしまっている点です。

もちろん、社会のせいにして暴れたりするよりはマシですが、自分自身の表層部分や先祖が不幸の原因なので、功徳を積む=役務か不浄なるお金の処分という話しが付きまとって、団体側は要求もしやすいし、寄付が多額になりやすく、大きな問題になってしまうのでしょう。

それに、そもそも本当に不幸と言えるか?という話しもあります。
多くの場合、とても身勝手で自分本位な、ただの贅沢な要求をしているというケースが多い気がします。往々にして努力なしに成果が出ないことを嘆く人が多いですが、メンタリティとしては同じです。
もちろん、とても気の毒なケースもあるようですが、何を捨てる決断から逃げたり、やるべきことをおろそかにしていることが多そうです。

そういう意味では信者自身の考え方や行動に問題があるのですが、とにかく共感を重視し、決して本質を突くことなく、本質をずらしたところに原因を置いてしまうところに宗教にのめり込ませて強く依存させるツボがあるようです。

(自己啓発セミナーは徹底的に痛いところを突いて人格否定して洗脳し、強い依存状態に持っていくようですが)

共感によって一瞬は救われるでしょうが、真に問題が解決して救われることは運任せでしょう。

痛いときの鎮痛剤とか熱が出たときの解熱剤と本質は同じですね!

誰でもハマるリスクがあり

依存しハマっている人には抜け出して欲しいし、家族やまだハマっていない友人には、自身の問題に真っ向から対峙し、厳しい選択をすることで、依存しない生き方をして欲しいし、依存している人が抱えているリスクが自分たちに及ばないように注意させないといけないと改めて思います。

#誇りを持って生きる
#共倒れ日本人は嫌


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