ママン、それとも母さん?
アルベール・カミュの小説『異邦人;LÉtranger』の書き出しは有名で、日本語訳もいくつかある。私の場合、なじみが深いのは、窪田啓作訳「きょう、ママンが死んだ。(原文)Aujourd’hui, maman est morte.」である。今から半世紀も前、高校生の頃読んで以来、音としてはこれがこびりついている。
最近になってこの小説をフランス語で読む必要があって、窪田啓作以外の翻訳をふたつ読んでみた。書き出しは、たとえば
「今日、ママが死んだ。」中村光夫訳
「きょう母さんが死んだ。」柳沢文昭訳
とある。
実際翻訳をやっていて困ることの一つに、人の呼び方をどう訳したらよいかという問題がある。
話が少しそれてしまうが、学生時代に自分が世話になった先生ご夫妻とともに、アイヌ文化を紹介するある小さな会場を訪れたことがある。会場で話を聞いているのは先生ご夫妻と私と妻4人のほか数名。舞台でアイヌ文化を紹介していた方が、何のひょうしだったか、ご一緒していたT氏(お世話になった先生)にむかって「お父さん、・・・」と呼びかけたことがあった。先生は、最初ぽかんとされていたが、気がついて「私のことですか?」とお答えになったが、聞いた方は聞いた方で、親しみを込めてそう呼んだのか、あるいは私たちが息子/娘世代に見えたのか、よくわからないが、やはりちょっとぽかんとして「はい。」と答えた。
その時、もしフランス語であれば「Monsieur!」といえばすむことだが、日本語にはこの「monsieur」や「madame / mademoiselle」にあたる言葉がない、というか、なかなか同じような価値をもった決まり表現(呼び方)がないのは不便と言えば不便だ・・・ といった話に花が咲いたのを覚えている。
実際、二人称であれ三人称であれ、人の呼び方についていえば、日本語は結構面倒なところがある。たとえば、このときご一緒したT氏は、かつて私の先生だったお方なので、私はおそらくこの方を「Tさん」とは呼ばないし(もちろんそう呼んで悪いことはないのだとは思うが)、その奥様については「どう呼んだらよいのか・・・」と迷ったりしたあげく、いまはファーストネームに「さん」をつけて Iさん と呼んでいる。
言語はそれ自体が社会的規範であるが、それがその社会のどこをどう反映しているのか・・・ そういう具体的なことになると話は結構難しくなる。人の呼び方の場合、なんとなく社会における「人に対する距離の取り方」「その人への感情」のようなものが反映して、様々な単語が生成されるような気がする。
この点で言うと日本語は、結構ニュアンスにとんでいて、たとえば前述した先生のことを私が「あなた」と呼ぶのはどうも変だ。不可能ではないが、かぎりなく不可能に近いのではないかと感じる。しかしフランス語であればやはり「professeur」ではなく「vous」であろう。
どうしてそうなのか、その理由を述べる力量はいまのところ私にはない。ただ自分の母親を呼ぶ呼び方ひとつとっても、たくさんある日本語の中からどれを訳語に選んだらよいのかというのは、辞書を読んでも文法書を読んでも、そう簡単には結論の出ないむずかしい問題だと実感する。
「きょう、ママンが死んだ。」
「今日、ママが死んだ。」
「きょう母さんが死んだ。」
のほかにも、たとえば可能性だけを考えるなら
「おっかさんが死んだ。」
「お母様が死んだ。」
「おっかーが死んだ。」
「母ちゃんが死んだ。」
「おふくろが死んだ。」
「マミーが死んだ。」
「母上が死んだ。」
・・・
なども選択できる。
いずれにせよ、このはじめのセリフの訳し方によって、日本語でこの小説を読んでいる読者の、主人公ムルソーたいするイメージがずいぶん変わる可能性があることを考えると、やはり作品全部を読んで、それからムルソーという男をどう「翻訳」するかをきめて、やっと最終的な選択ができるのかなと思う。
ムルソーという男をどう「翻訳」するか、という言い方が変だと思われた方もいらっしゃるかもしれないが、これについては稿を改めて考察したい。(KN)