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誰かのために祈る

ある突飛な思いつきと、わたしの中にある普通とか常識という思い込み

スターシードとかライトワーカーという言葉も知らなかった数年前、世界情勢やどこかの紛争を解説しているサイトを見たりネットラジオを聞きながらあれこれ思考を巡らしている時にふと、

こういうことに対してわたしは何もできないけれど、この、どうしようもない闇のようなものに光を与え続けることに意味があるのでは?
と突然思った。

真っ暗な闇の中に小さな、けれど強い光がある様子がイメージとして浮かんだ。


わたしはジャーナリストでも政治家でもないし、何かがあった時に大きな影響力を持つ企業とか団体に所属しているわけでもない。学生の頃に政治に興味を持ち始めたけれど、湧き上がる正義感とは裏腹に、無力な自分が外側の世界に何の影響力も持たないことは若いわたしをたびたびがっかりさせた。


だからこの時も、ただひっそりと生きているだけで、今いるこの家のほんの一歩外にだって何の影響力も持たない自分が、世界の大きな深い闇に対して光をイメージする?そんなことに何の意味が?と、わたしの中の常識的なわたしが言った。

けれどその時どういうわけか、
仕事としてお金が貰えることでなくても、肉体的な行動を伴う活動ができなくても、誰の目にも見えなくても、わたしには光をイメージすることに意味がある、と思えた。
だから普通に考えたら馬鹿馬鹿しく思えることかもしれないけれど、誰に知られなくても自分はこれをやろうと思った。別にお金がかかるわけでも大幅に体力を消耗するわけでもないし。

そういうわけでその後、似たような悲惨なニュースに触れるたびにこの光のイメージを思い浮かべた。

ライトワーカーであるわたし

それから何年か経って、ライトワーカーという言葉を知った。
「何それかっこいい!わたしもなりたい!」
でもその時は、ライトワーカーというのは、サイキックな能力があるとか、何か特殊なひとのことを指すのだと思っていた。

ところがある時、並木良和さんの講座か何かをオンラインで聞いていると、会場のお客さんに対して並木さんがサラッと「みなさんはライトワーカーですから」と言うのだ。
その時なぜかすんなりと、そっか。わたしはライトワーカーだったのか。と思った。思い出した、とでもいうのかもしれない。自分が漠然とやってきたこととライトワークが結びついた。

現代の感覚で普通に生きていたら、やっぱり馬鹿馬鹿しいと思うかもしれない。思うだけで何かが変わるなんて有り得ないとか、そんな魔法みたいなことがあるわけないとか。

それでも今はこの意味を信じている。
体験する世界が自分の内側の投影であるのなら、どんな遠くで起こっていることも、どんな無関係に思えることからも、完全に無関係ではいられない。目に見えないところで、わたしたちはみんな繋がっている。
誰かの痛みや苦しみ、悲しさ、辛さ。
それを感じるたびに、ひたすら外していく。

それもこれも、自分がエンパスであることが役に立っていると思う。ずっと、誰かの痛みが辛く、誰かの悲しみが悲しかった。けれどそれは、わたしが誰かのために祈るのに必要な能力だったのだと今思う。



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