カルタ - インスタレーション - パフォーマンス
『百人一首』の歌たちは、ある配列にしたがって2つのテーブルの上に並べられます。101を法とした2の累乗の剰余列は、100を周期とする、いわば、音階ですが(2^100 ≡ 1 mod 101)、それが中央で切断され、後半がひっくり返されたシークエンスがこの配列になります。実在としてはひっくり返ったものが、現れとしては始点と終点を保存します。
上の句と呼ばれる歌の前半3行が一方のかるたに書かれて左のテーブルに置かれ、下の句と呼ばれる後半2行がもう一方のカルタに書かれて右のテーブルに置かれ、歌は完成すると同時に切断され、2つの自己同一性へと回収されます。
『百人一首』は二重に、ペンチで半開きにされたかのようです。まず、歌の配列(1 – 50,100 – 51)によって、つぎに、かるた(カード)そのものの自己同一化によって。
要素が入れ替わっても存続する構造を包み込む構造としての身体、あるいは、脱構築によってかえって同一性を増幅させる身体は、時間という喪失、記憶という傷跡=傷の不在とは別に、同時性の平面においては、絶対的に他なるものとしての、剥き出しの細胞として存在します。免疫以前の免疫。
行為はすべて、志向から発散していきます(一から多)。すでに構造化されている無意識という身体を通して増幅された単一の音節からなるひとつの音(多から一)は、遡行不可能なために名付けられてしまった空(∅)という名を超えた停留、連続体の情動的残滓であるかのようです。
このかるたは、数枚が欠けた不完全な状態で手元に届きました。その不完全性は、充実されるべき欠如としてよりもむしろ、無限の全体化不可能性、超限として、それ自身を主張するのです。
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