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「あなた」への悪口、その他もろもろ

どうも。大学三年生です。

気付いたら、三年生になってから結構経っていた。結構驚き。

もう11月になった。あと二ヶ月で「今年」がおわる。「今年」という区切りが僕には大した意味を持たないことはよくわかっているけど、そういうことを言いたくなる。

そして、あと一ヶ月でサークル人生が終わる。長かった。これを後輩が読んでいたら困るかもしれないけど、まあ長かった。今年一年間はセンパイ風を吹かせてたらもう終わりそうだけど、まあ昨年はしんどかった。解釈を変えればこの三年間のこれに費やした時間が「ムダ」だったような気がしてきて、必死に解釈を変更している。例えば、「エントリーシート」の「ガクチカ」に書いてみたりして。でもそうしたら余計に嫌な気分になるんだけど。「ガクチカ」に書くためにやっていたわけじゃないよって。

コロナですねえ。これがほんとうに共通の話題。

コロナがありすぎて、とても困る。日常にありすぎて、とても困る。

でも、あまり困っていないということにも気づく。

コロナによって分断が生まれた。これは間違いなく正解だと思う。

けど、その分断を分断と定義づけることになんの意味があるんだろう。さっきふとそう思った。

大学生っていう存在がとても危うくなった。世間の敵になる時もあれば、一気に世間を味方につける時もある。コロナの感染拡大とかの話になったら一気に強者になって、金の話とかになったら一気に弱者になる。

でも、そういうのって、「そういう人もいるよね」で終わりだよね。

例えば、あなたに「差別はよくないことですよね?」って聞いたら、あなたが老若男女どれであっても、答えは変わらないでしょう。「よくないです」ってね。

でも、じゃあなんで差別だの分断だのそういう話が出てくるんですかね。

それは、もう、そういう人がいるから、じゃないですかね。

遊ぶ大学生がいる。それはそう。

キツイ大学生がいる。それもそう。

なんでその一つのケースを全員と考えるんですか?っていうことになる。


こういうことを考えながら僕が思ったのは、みんな、この世に生きているみんな、他人のこと大好きだなっていうことです。

他人がどうとか、どうしてそんなに興味が持てるのか、僕にはよくわからない。興味を持てる人がいるのはいるけれども、それは興味を持てるからなだけで。

メディアに慣れてるからとか、そういうことを言ってもいいけど、とにかくみなさん、他人に興味がありすぎるでしょ。なんでそんなに他人の言動に興味を持てるの?

クラスターが起きた大学があるとする。なんでそれに興味が湧くの?自分に害があると思う?ねえだろ。

ほんとうに、もう少し自己中に生きていいよみんな。自分だけ見てりゃ、他人に興味なんて抱かなきゃ、もっとこの世は平和だよ。

なんてことを言ったけど、自分ばっか見ててもよくないってことは最近よくわかってきた。

他人がいないと自分はいれない。みたいな、「人と人の間にいるのが人間」です。みたいな。やつです。

だからまあ、自分に興味があって、そして自分が興味のある人、それと付き合ってりゃいいじゃん?って思います。

とにかく、他人に対して感情を抱くのがとてつもなく疲れた。好きでもない人への。だから皆さん、尊敬します。そんなに他人のことを思えて。その考える力で発電でもできればいいのに。


考えるのは無料だからいいです。最高です。僕が今年「好きだな」と思った芥川賞作家の遠野遥さんは言っていました。小説を書き始めた理由は「金がかからんから」。今月の文藝で言ってた気がします。

だからぼくは明日も考えるでしょう。もしかするとなにも考えずにYouTubeばかり見ているかもしれないけど。

さいきん、「映画を見たい」という欲にかられます。「なにを見たい」ではなくて「映画を見たい」です。つまり、「映画」という何かを見たいだけなんです。

この感覚に悩みながら、結局あまり映画を見ません。金曜ロードショーのハリーポッターを見たくらいです。

なぜか映画の再生ボタンを押すのが酷く難しい行為に思えてきます。とても不思議でなりませんが、この映画に二時間を委ねる自信がない。

まあそう考え始めると、考えるというのはとてもいいことです。自分で舵をきれますから。

でも、考えるだけでは、なにも産まないっていうのが結論なんですよね。ぼくが考えたところで社会は動かないし、誰も動かない。ぼくも動くかどうか怪しい。

でもこう思ったりするんです。みんな、こうやって静かに考えれば世界は平和になるのに。例えば、みんなが今から30秒間目を瞑って「平和」について考えれば、その時間は「平和」になるのに。こういうこと言ってるの、radwimpsの何かの歌にありましたね。なんだったっけな。

さいきんradwimpsをよく聞くんです。野田洋次郎という歌手がほんとうに天才のように思えるから。

さいきん天才には興味があります。他人に興味を持たないと言いつつ、天才には興味があるのはずるいかもしれませんが。まあ果たして、「天才」とは何かと考え始めるとわからなくなりますが、とりあえず天才に興味があります。

ぼくがさいきん天才だと思って見ている、あるいは聞いているのは、radの他にはサカナクションと、YouTuberのコウイチtv。サカナクションはもう言わずもがななんですけど、コウイチさんもなんだかほんとうに天才なんだと思っている。

あらゆるところからインスピレーションを受けて、あるいは拾いに行って、それをあの短い動画に昇華する。軽いギャグ動画だと思ってみてる人が圧倒的に多そうですけど、でもなんだかそれでは終わってないと思う。少なくとも。

そして、まあよく思うのが、この人はすごく本を読んでいるんだろうなっていうこと。そして、そのことを隠さないでいること。動画の中に、意図的にと思えるほどよく本を出してくる。机の上に本が並んでいることを映している。

それがもしかすると「バカ」への対抗ならとても面白いなと思う。コウイチtvはコメント欄も含めて見るととても面白いし、嫌になる。社会っていうのには想像以上にバカが多いって事に気づかされる。

野田洋次郎のTwitterにたかる人々も、なぜあれほどバカっぽいのかとても不思議でならない。

でも、天才はバカと触れ合うことを楽しんでいるようにも思える。つい最近までおそらくただの若者であった遠野遥も、今となっては「ファン」に囲まれて、でもそれにしっかり反応している。

バカとか天才とか、そういう話をするのはよくないと思う。今ごろ、そういうことを書く。ここまで読んでいる人はいないだろうから、今書く。

そう言っているあなたは「バカ」じゃないんですか?と聞きたくなると思う。それはもちろん「バカです」が回答になる。

バカがバカをバカにしちゃいけない理由なんてどこにもない。ただ、こうしてバカをバカだと勝手に決めつけて、殻にこもっているから放っておいて欲しい。まあ、こうして言ってしまったら意味がないけれども。

あと、最近、小説家じゃないのに小説を書いて売れているという形式にとても興味が湧く。高山一実とか紗倉まなとか。あるいはピース又吉とかオードリー若林とか。あえてコンビ名を書きました。


文字というものが、確実に残っているにもかかわらず、全く意味を持たないというのは、とても面白いですね。

ついでに言えばnoteというSNSはずいぶんと臭くなったような気がします。おしまい。


本もっとたくさん読みたいな。買いたいな。