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机の上を整理して思ったこと;「読書=偉」

最近、買ったり貰ったりで本がひたすらに増えている。
整理の途中にこの文を綴っているわけだが、ある意味部屋の壁一面といっていいほどに本が並んでいることに気づく。

整理する前の机の上には、本が積まれていることは多い。「本だからいいか」という発想に至ることも多々。

先ほども「本だからいいか」という考えになったのだが、それにふとツッコミを入れたくなったので、今こうして書くことにした。

本という媒体に対する信頼は本当に大きい。大学生やってるとよく感じる。
「本を読んでいる」=「偉い」という等式もよく耳にする考えだろう。

机に積まれているものが、ゴミではなく、プリントではなく、ゲームではなく、
ただ、本である、それだけで、僕も自分自身を許してしまうほどの存在感である。

「積読」という日本語もある。僕は個人的にこの言葉は嫌いなのだが(後で読みますよ自分偉いでしょみたいな考えに思えてしまう)、この言葉を発する人間も、それに違和感を覚える僕にも、やはり「本を読む」=「偉い」という等式が刷り込まれている故ではないかと感じる。積読を主張する際、たとえそれを後で読まなくても誰にもわからない。

「本を読むこと自体」に意義が見出されている時代なのかもしれない。電車の中で本を読む若者なんて、それはもう「頭が良さそう」に見えて仕方ない、そんなレベルである。

「何を読む」といった次元からは到底遠い読書観が蔓延している気がする。

それに付随して影響が大きいと思うものが、やはりスマホという個人空間なのかなと。

スマホで本を読む人は本当に本が好きな人なんだろうと思う。それこそ、スマホという個の空間を体現する媒体で、主張せずに、ただ黙々と自分と本というふたりの世界に入り浸れる人間なので。

スマホで本を読んでいる人なんて、いくらでもいるだろう。でもそれは「スマホを見ている」に内包されてしまう行為だ。スマホを見る”バカ”と側から見たら全く同じである。

昔を知らないけれど、今の時代、他の人が何を読んでいるかなんて、全く気にしないんじゃないかと思う。

度々耳にする、「大学生はあの哲学者の本をみんな買って、読み漁ったもんだよ」みたいなエピソード、本当かよと心の底から思う。昔の大学生、文学哲学大好きわっしょいみたいな大学生になりたいとは決して思わない自分も、やはり現代の大学生をしているのだと思うのだが。

「読書=偉」という思考がある時点で、もう本なんて読まなくていいと思っちゃうと思う。みんな偉くなんてなりたくない、楽しけりゃいい、そう思って生きている。

昔の大学生はそれはそれはもう楽しくて、本を読んでいたんだろうと思う。

「大学生が読書してない」みたいなニュースを見ても、大学生は本なんか読まない。大人が勝手に焦るだけ。「読書」という行為を特別扱いし始めた時点でもう負けなんだろうなと思う。


結論としては、「個の世界」の拡充と、「読書の特別視」、どっちも相まって、これから読書文化はどんどん偉くなっていくんだろうという。

「本」っていう媒体がもう偉い感じになってる。それは、もう揺らぎようがないと思う。

しかし、その偉いということを前提とした上で、
大学生にとっての本(いつの間にか大学生にとっての本という話になっているけど)、その価値観を少し違う方向に持っていけたら、まあそれはそれは面白いでしょう。

偉いし、楽しいにすれば、それはそれは、気持ちよすぎる化学反応が起こるんではないでしょうか。

まとまりがなかったですが、まあ、きつい時代にこんな団体入っちまったなといった感じです。まあ、逆に考えれば、大学生と本を簡単に結び付けられる時代にうちのような団体はいらないでしょうから、ある意味最先端かもしれない。


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本もっとたくさん読みたいな。買いたいな。