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影浦つとむさんの見る夢は

 今回は影浦つとむさんの「政治の話をしようじゃないか」という新曲へのアンサーを綴ろうと思う。彼はsoundcloudにてやりたい放題弾き語っている。再生数に貢献できず申し訳ないが、筆者はその全ての音源をダウンロードして繰り返し聴いた。元ひきこもりシンガーの「らしさ」。乱暴なストロークで自身の内面を自虐的に抉り出している。余計な装飾を施さぬストレートな表現は心に迫るものがある。彼の思考の変遷を追うことができるのは、筆者もまたその経験があるからだろうか。「太陽が見ている」。この種の絶望は経験した人間にしか伝わらない。焦燥感に犯され地獄にうだる毎日と、めんどうそうに揺れる白いカーテン。真夜中の静けさの中で、自殺を思うと楽になるのだ。

 唐突だが、筆者は自殺を完遂した。100%死ねると思っていたので、未遂ではない。ドン引きされるだろうが事実だ。だから、筆者の音楽は断続的で色がない。そしてリスナーを一切想定していない。だが彼の音楽からは、そういった過去や社会との隔たりのような気味の悪さは一切感じられない。連続する毎日を今も必死に紡いでいるかのようだ。もしそうなのであれば、その感傷的に過ぎるその作風も必然であろうと思う。彼は絶望の望を未だに信じているかのようである。彼は社会に生きる自分(あなた)という視点からその解を描き、苦しみを抱えている人に寄り添っている。

 今回彼の記事を書こうと思ったのは、Twitterで政治的なメッセージを発信していたからだ。「選挙に行こう」。たったそれだけなのだが、その音楽を聴いていたことも作用して、それでもこの社会の可能性を信じ生きるんだという決意表明であるかのように感じたからである。

 資本主義をするなら民主主義をベースに展開するのが望ましい。それは説明するまでもないので省略する。よく言われるが、民主主義は衆愚政治に陥る可能性を孕んでいる。問題なのは「なにをもって衆愚とみなすか」の基準が人それぞれ異なるということである。筆者が思うに衆愚とは、美人投票のちに国家運営能力のない人間を国民が選び続けることである。そして「自分たちが選んだのだという自覚もなしに体制批判に終始」するようになったら、それは民主主義国家として終わっているものとみなす。彼らはなんの関心もない。関心はあっても代替案はない。代替案はあっても行動力がない。行動力はあっても思考量がたりない。思考量はたりても無所属ではなにもできない。だから草の根ネットワークで運動を始めるが、誰一人としてその人の言葉を聴こうとはしない。なぜなら彼は「有名人でも美人でもないから」である。だから筆者は諦観している。今はもう、なにを叫ぼうが彼らに届くとは思えない。

 こんな国民性になったのはある意味仕方がなかった面もある。同じ第二次世界大戦の敗戦国であるドイツは、ナチスを全否定することで一切の責任から逃れた。だが日本は違う。憲法を押し付けられ、天皇は人間宣言を強いられ、戦後賠償も引き受けた。本来ならばだ、100年の地獄を味わうはずであったのに、地政学的要因と米ソ冷戦により、奇跡の棚ぼた復興を成し遂げた。日本人は確かに優秀だが、でもさすがにこれはただの運である。地獄からはバイブルも生まれよう、芸術も育まれよう、一国民であるという意識と反骨精神性も芽生えよう。ところが「敗戦したら裕福になってしまった」のだ。そりゃ思考停止にもなるし、平和ボケもする。三島由紀夫も切腹するわな。 

 うん、たぶんこの記事は読まれないだろう(笑)みなさん本当に社会問題やメッセージ性を嫌うよね。筆者はインディーズシーンのクリエイターと連携して、音楽で社会を変えようと思ったけど諦めることにしたよ。だって全然見向きもしないし熱量を感じないんだもの。だから一人でやるよ。影浦つとむさんが今後どうなるかはわからないが、その音源は最高だよ。まぁ頑張りましょうよ!自分の信じる道を進みましょう!

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