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mephistoさんの見る夢は

人間の一切の感情を熱量とし、それを現象と結びつけるのであれば、正より負、富裕ではなく貧困から新しい現象が生じる可能性のほうが高い。世界をひっくり返すような「巨悪」なものは、なに不自由のない暮らしからは生まれてこない。「思考停止可能な日々」を怠惰に過ごすマジョリティーは、圧倒的思考量と熱量で完全武装したマイノリティーにいずれ食い殺される。キリスト教然り、フランス革命然り。その他諸々。枚挙にいとまがない。

 アメリカの黒人たちは、富民の街の明かりと貧民の街の暗がりをその眼で見た。澄んだ空気と淀んだ空気をその鼻で嗅いだ。差別的な視線を浴び、侮蔑的な言葉をその耳で聴いた。銃の引き金とナイフの感触は知っているが、高級車のハンドルの握り方がわからない。パンとコーヒーの味は知っているが、ローストビーフとワインの楽しみ方がわからない。もう奴隷ではない。市民権も得た。戦争に行く権利だってある。なのになぜだ?黒人音楽を黒人音楽たらしめんとしているのは虐げられた歴史があるからではなく、踏み越えた先もまた地獄であったからである。思い描いた理想郷と現実との乖離に吹き荒れる隙間風がドープなビートを生みだす源泉となったのだと筆者は思う。

 ディスコに行く金のない黒人が公園でディスコしたのがHIPHOPの起源である。よくHIPHOPはカウンターカルチャーであったという説明がなされるのだが、筆者はそれは意図的になされたものではなく、自然発生的なものであったと解釈している。そしてなによりHIPHOPが画期的であったのはクラブカルチャーに「主張」という新しい風を吹き込んだことだ。他の方のレビューでも触れたが、クラブカルチャーとはハコとトラックとDJと客とドラックがフロアを創作する文化であり、トラックメーカーの主張が介在する余地はない。だが貧困という現実に足掻き苦しみ、そして抗うために思考し続ける彼らの負の熱量が新しい精神性と可能性を生み出したのだ。

 負の感情を抱いている私の「中」に「社会の解」を求めるという行為は必然的に「政治性と暴力性を帯びる」。このアンサーはアメリカの黒人たちだけの頂ではない。ロカビリーにパンク、マッドチェスターにニューウェーブ、トリップホップ。いずれも一過性のムーブメントに過ぎなかったが、それらは共通して時代時代の負の熱量を源泉としてきた。そのサウンドは今もなお引き継がれ進化を遂げている。だがその精神性は引き継がれてはいない。失われたと言ってもいい。それはなぜか。時代が追い付いたからだ。思い描いた理想郷と現実との乖離が一致に傾いたからだ。もはや皆の心は満たされた。今でもパンクしてるのは懐古主義のおっさんであり、今どきの若者はHIPHOPしている。そう精神性を伴わないHIPHOPを。

 ★本文

 めふぃすとさんは愛知県に住む19歳の大学生だ。2000年以降、世界の負の熱量は日を追うごとに冷めていった。筆者は今現在のHIPHOPシーンを追う気にはならない。MCバトルなんか見ちゃいられないし、本場アメリカもいつまで黒人差別撤廃を訴え続けてるんだか。本当に理解に苦しむ。ありもしないものをあると言うのは一体なんのドラッグの後遺症なんだか。暴力性はあるけど主張がない。言葉で勝負してるのに思考が足りない。単なるディスり合いの名人芸だ。それに一体なんの意味がある。今この時代を描くのは確かに難しい。妥当な形に留まり、弱者に優しい世界の実現はもうほぼ成されたと言って良い。永遠に解決しえない問題は孕んでいるものの、いずれなんらかの折衷案に落ち着くだろう。創作者は持論形成のち自身の内面に埋没し心を満たすしか術がない。それはリストカットに近い行為である。

 ティーンエイジャーにしか響かない音楽というものは確実にある。彼は好奇心の塊で、血のルーツもないのにK-POPのテイストを自身に落とし込んだそうだ。日本にはない旋律だと。確かに筆者たちの世代より韓国の文化に触れる機会は多い世代ではあるが、なかなかそれを取り入れようという発想には至らないだろう。ハングル語で書かれた伝えるつもりのないメッセージ。聴き手はどうしたらいいのかわからない。筆者もどうしたらいいのかわからなかった。だから良い意味で笑ってしまった。ちゃんとしていないというのが彼の魅力だ。自分自身に向けたメッセージなんて、聴かされるほうの身になってみろという話なのだが、だがそれが十代特有の感性だ。ティーンエイジャーとは心の葛藤の代弁を求めるくせに肯定しか受け入れない身勝手な糞ガキである。そんな層に応えらえるの十代だけである。めふぃすとさんはそんなティーンエイジャーの系譜に連なる。

 今現在はHIPHOP的なアプローチが主なので長い長ーいまえがきを書く必要があったのだが、彼はこのアプローチに特別こだわっているわけではない。ただしっくりくるからやっているらしい。2ndを出したタイミングではレビューが書けなかった。なぜなら、3rdでHIPHOPを捨てるかもしれないからだ。実はDMのやり取りを何度かしていて、自分は彼にアドバイスすることもあったのだが、全く参考にしない十代らしさが見えたので様子見に徹した(笑)。3rdが出たタイミングでレビューを書くという話だったのだが、なかなか難航しているようなので、2nd single『ビビディ・バビディ・ブー』の公開日に本レビューを書くに至った。

 最新シングルは1st、2ndよりもだいぶ内面の葛藤がより強く表れていている。ビートもリリックも彼らしさが薄れ、別のなにかに生まれ変わろうとしているかのようである。いばらの道を歩くことにしたのかい?だとしたら、覚悟を決めるべきだ。その先のトンネルは長くて暗い。

彼は精神性とかそういう小難しいことは抜きに今やれることを全力で楽しむタイプの人間だったの思うのだが、最新シングルを聴いてその答えを改めた。筆者は正直表紙抜けした。シングルの出来は素晴らしいのだが、彼らしさは消え失せ、まるで新しいなにかに生まれ変わろうとしているようである。これは転機になるのか、ただの気まぐれで終わるのかはわからない。繰り返すが、時代がもはや精神性を求めていない以上、内面に埋没する以外の術はないというのは筆者の意見だ。彼はこの先いったい何を見出すのか。ティーンエイジャーが大人に変質する際のその葛藤は、ひとつのジャンルである。彼は一体何を取捨選択し、どんな大人に変質するのであろうか。興味はつきない。

 ★あとがき

 最新シングルは傑作だと思う。もうほんとさ、この世界ネタ切れというか持論形成して内面に向かっていくしかないんだよね。進歩も退歩もないムーブメントなんて気味が悪いにもほどがあるし。めふぃすとさんが今後どうなっていくのかは読めないが、筆者は彼を追いかけることにするよ。可能性を感じるので。

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