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映画「バービー」が描く 【 自立する少女像 】

映画「バービー」について自分なりの気づきをまとめます。
手前勝手な解釈かつネタバレを含むのでその点ご容赦。

この内容は……
ニコ生とYoutube「マクガイヤーチャンネル」で配信された【『バービー』とグレタ・ガーウィグ(とマーゴット・ロビー)の冒険】(マクガイヤーゼミ 第124回)の有料部分の内容と一部重なります。動画もお楽しみください。


◆ 封切り日に鑑賞。 最初は「うまいフェミニズム映画」だと思った

・ 封切り日の新宿バルト9はピンクでドレスアップした女性がいっぱいで、期待値も最高潮。現代のフェミニズムを多いに反映させており、ルックが可愛くて、テンポもノリもよく、シニカルなジョークも素敵な音楽も満載。超自分好みの映画で大満足。

バービーランドは「女性が上位だったら?」というディストピアになっていた。バービーランドではケンのほうが少数派で居心地が悪そう。自分が「and KEN」であることにも歪みを感じている。「社会として理想的」ではなさそうだ。

・ フェミニズムとは(めっちゃ簡単に)「性にもとづく差別や抑圧をなくす運動」のこと。現代のフェミニズムはこの「性」を「女性」に限定せず、政治、文化、慣習、社会動向などに応じて生じる格差や不均衡を明るみにし、性差別に影響されず誰もが平等な権利を行使できる社会の実現を目指している。つまり「女性優位を目指す。そのために男性を批判する」という男女二元論にもとづく対立思考ではない。

・ それを反映させたこの映画は、女性はもちろん、性別、性自認問わず救われる映画だと感じた。実際に、どの人物も魅力的だし、ラストではきっちり「バービーはバービー、ケンはケン。それぞれの自我と自立への萌芽」を描いた。

皮肉なジョークの一部を理解するには、映画や社会問題に対するある種のリテラシーを必要とする。ただ、これは伝わらなくても、お話として面白いので、今すぐ全部わからなくてもいいのかも、と思った。

・ 自分にも理解できない部分がもちろんあった。バービーにヴァギナがないのはなぜか? 明確な暴力や悪意が描かれなかったのはなぜか? その意味を考えながら帰った。

・  さて、X(旧Twitter)を開いたら炎上が起きていた。「男性社会の有害な面(現実社会の描写)」や「ヘイター仕草(マテルのおじさん)」「モテたい男性あるある(ケンの行動)」などを揶揄するジョークを、一部男性の観客が「〈強烈な〉フェミニストからの」「攻撃」と感じたことを残念に思った。

• 前者にはフェミニズムやフェミニストに対する誤解が、後者にはバイアス、情報や現状認識の共有不足、個々の意識、そしてミソジニーなどが影響していて、複数が掛け合わされている場合も多く、理由は複雑だ。なんでもいいけど、(お互い)やめよう人格否定。

• でも、これを題材にわかりあうチャンスかも? とも思った。

• なんならこの映画はフェミニストの偽善性みたいなものもちょっとイジってくるし。足がペタンコになってへこむバービーに「大丈夫! 誇りを持って!」……。

◆ 2回目を観て、「これは少女の成長物語では?」 と気が付く

・これは、10~13歳くらいの、まだ空想と現実を自在に行き来できる、少女の精神状態の成長段階を描いた映画だ……! という解釈を得る。「『死』って何?」(自分も年をとってセルライトができる?)と思い始めたことをきっかけに、現実社会や、身体の変化、ジェンダーの違いなどに向き合っていく少女の話。

バービーは少女にとって「自分の精神の一部」であり、バービーランドはごっこ遊びの世界。前半では、ケンもまだ「自分の一部(少女の中の少年性)」。バービーがドリームハウスから出るシーン(誰かが持ち上げて外に出す)で、真の目線がどこにあるかのヒントが出されている。

・少女なので、明確な性自認をまだ持たない。この世で一番楽しいことはもちろん、友だちとのパジャマ・パーティーで、デートじゃない。

・死や加齢に興味を持ち始めるころ、バービーランドは少し幼稚に見えてくる。現実と空想との違いを認識し始める(シャワーは急に冷たくなるし、牛乳は腐る)

・「変てこバービー」、つまりマイノリティのファッションや奇抜さに驚いたり、やや奇妙な存在と感じている。少女だとリアル社会で遭遇した経験がまだあまりないからかも。ただ、変てこバービーも空想の一部分なので、いわゆる個性の萌芽などである可能性もある。尚、「変てこ」な彼女は過去には原子力のエンジニアであり、NYで仲間の女性たちとともにゴーストを退治している(完全に狙った配役)。

・「ビルケンのサンダルを選ぶしかない」と言われて、バービーは現実社会に出かける(少女はさらに現実を知ることになる)。ビルケンの意味はラストで判明。

◆ バービーが出かけた「現実社会」は、「現実社会を少女がどう見ているか」

・ 自分はまだ「明確な性自認」を持たないのに、周囲からは「女の子」「女性」(場合によっては〈オンナ〉)だと認識され始める(ちなみに、これは多くの少女にとって誠に不快な感覚で、人によっては「僕」という一人称を使ったり、過度の痩せ願望を抱くなど全身で否定に走り、成長過程で苦しむ場合もある)。

・  明確な悪意や暴力は描かれない。少女がそれをまだ知らない、突きつけられたことがないから。工事現場のおじさんたちに「有害な」声掛けをかまされても(けっこうヒヤっとするシーン)、意味がよくわかっていない。ケンも同様。大統領や医者といった専門職のイメージや、「政治」「経済」などにもまだリアリティがない。

・ それでもやっぱり、現代社会(男性社会)は少女の目には滑稽に映る。バービーランドでは女性が大統領になれるのに、リアルではなんだかおじさんたちが偉そう……。

・ 幼児期になかった複雑な感情が増えることによって流す涙と、バス停のおばあちゃんが美しい。おばあちゃんに感じる神秘性や尊敬。

・ アメリカ・フェレ―ラは、少女から見た「疲れたママ」か。いかにも現代のママたちの多くは疲れている。でも、必ず自分のことを助けに来てくれる。だから、ママは「たまにうざいけど本当は大好き」。

•  ママは「自分より年長の女性たち」が経験してきた全てを教えてくれる。尚、ママは若いころにNYの出版社でファッション誌のアシスタントを経験しており、いろいろ苦労した(これも完全に狙った配役)。「ママもかつては少女だった」ことにも気が付く。

・  アメリカ・フェレ―ラの娘であるサーシャは少女たちの中の「反抗期への入り口」かもしれないし、少女から見た「進んでる友だち」や「怒れるパイセン」かもしれない。

• サーシャはバービーより年長で社会問題への知識もつけ始めており、少し現実を多く見ていて「男は女が嫌い、女も女が嫌い。なんでかわかんないけどそうなんだよ!」という気づきを得ている(この配役、俳優がアリアナ・グリーンブラッドさんで、まさかそのままアリアナ・グランデだったりするのか??)。

・  マテルのおじさんたちは、どうにもピントがずれている。おじさんなので、ナチュラルにヘイト発言しちゃったり、地位や儲けに固執していたり……。日本でもあるよね……。しかしここでも「悪意」は描かれていない。おじさんたちも悪人ではないようだ。「少女たちのことを思っている」のも、たぶん本当。

・  現実社会を少しずつ知るとともに、ケンが「男性」であるという認識が出てくる。少女と同年代の少年たちの中にも、馬、ボクシング、ギター(そして「モテ」)などに興味を持ち始める子が増えてくるのかもしれない。ケンは大人に時間を聞かれたことをきっかけに自尊心に目覚めるが、「男性社会=自分が求めているもの」と誤解をして、間違った男性のムーブを模してしまう。

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・ さて、話は進んで、マテルのおじさんたちはバービーを「空想の産物」として切り離し、封印しようとする(箱に戻そうとする)。おじさんたちはバービーを少女の一部だとは思っていないから、「空想は空想。現実は現実。ごっこ遊びはもう卒業」といったところか。

・ ケンがバービーランドに持ち込んだ変化は、「男性社会の模倣」であり、「女子にモテようと意識し始めて、自意識過剰になりはじめちゃった男子」のイメージか。女子の中にも「モテ」を意識し始めて男子に急に媚びたりし始めるタイプが現れる(洗脳)。「中2病」に近い感じ? 彼らはバービー(少女)より一歩早く、性の目覚めみたいな感じを得たのかも。

・ バービー側(少女側)は、「モテたさ」がなぜそこまで人を狂わせるのか、まだピンときていない。やはり性自認がまだなくて、恋愛が何かもよくわかっていないからだ。なので、映画「バービー」の中では「恋愛の良い面」も描かれていない。

・ アランの独自性、マジでじわじわくる。登場時から虹色を着て中世的な顔立ち。少女から見たボーイズグループのメンバーという表現もあったし、マイノリティに当てはまるのかもしれないし、解釈には様々な余地が残る。人間として今後いっそうモテそうなタイプ。女子の遊びに普通に混じってくれる友だちのお兄ちゃんとかいたけど、あんな感じ?

・ バービー、いったん心折れる。でも、バービーもケンも互いに傷つけあいたいとは思っていない。これ重要。

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・  男子の戦争ごっこがエスカレートする間、バービーは選挙によってバービーランドを取り戻す。空想の世界にも少女が知り得る限りの「公正な方法」が取り入れられている(チートあり)。

・  一連を経て、バービーとケンが完全に切り離される(少女の中の少年性の消失。少年自身の自立の萌芽)。ケンもアイデンティティに悩んでいたことがわかり、「馬が好き」なだけで、バービーと仲良くできない男性社会やマッチョイムズをよしとしているわけではないことが、「自分は現代の男だから、泣くことは恥ではない」というセリフからもわかる。もう「and KEN」じゃない。

・  ケンからロマンチックラブへの申し出があるが、バービーはきっちり断る。例えば互いに異性愛者で、仲良しだとしても、必ずしも恋愛をする必要はない(「映画のラストがキスシーン」は旧世代)。

・  ルースは、リアル社会に出ていくバービーの背中を押す。どんなルートでも、どんな選択でもいい。最後のルースの言葉は、そのままグレタ・ガーウィグが最も言いたいことか。ごく平凡な、どこかの無名の女性たちの、いつかのシーンたちが走馬灯のように流れる。もうね、バス停のシーンとこのシーン泣く。たぶん話わからなくてもなんか泣く。その「なんか」が映画にはめちゃくちゃ重要な気がする。

・  ここでも(ちょっと英語のニュアンスを掴めているのか微妙なんですが)「男社会が必要とされた歴史もあったのだ」というような事を言っていて、「男性たち」そのものを否定したり攻撃したりはしていない。

・  バービーは人間の名前になり、ビルケンを履き、産婦人科デビューする。つまり、「初潮が来て、女性(ハードとしての女性の身体)に必要なヘルスチェックを習慣化するようになった」のかも。ビルケンは選ぶ選ばないに関わらず、避けられないものだったのだ。それを「ピンクのビルケン」で表現してたなら天才。めちゃくちゃキュート。

◆おわりに

・  映画「バービー」は「これから現実に生きようとする少女たち」と「かつて少女であった全ての女性たち」をエンパワメントし、男性やマイノリティにも優しい生き方を提示する「フェミニズムを内包する」映画だった。

・  実際に欧米のZ世代などを中心に、どんな性(ジェンダー及び性自認)にとっても、フェミニズムはすでに当たり前の思想になっている。そのほうが生きやすいことに気が付いてきているから。この映画はそういった過渡期を充分に表現していた。

・  映画「バービー」は皮肉屋で伝わりにくい一面があったけど、肝心なところでは素直で、最後まで全てに優しかった。ケンはもちろん、工事現場や警察、マテルのおじさんたちのことだって、「少女への加害者」として描いたり非難したりしなかった。あらゆる成長と変化への希望を捨てていないから。それでも少女の目から見た世界(=未来)はまだ優しい。それを守らなくてはならない。

【補足】「物語の展開は、ガーウィグが子どもの頃に読んだ、1994年のベストセラー『オフェリアの生還』からもアイデアを得ている。(中略)この本は、アメリカの少女たちが思春期を迎え、外部からの期待に屈しはじめた時に起きる突然の変化について書かれたものだ。(2023年8月12日「主演のマーゴット・ロビーが自ら語る、『バービー』ができるまでのすべて」VOGUE JAPAN )」のだそうです。この本読んだことないんですけど、少女の成長がアイデアに関係している……というのは裏がとれました(このこと、Dr.マクガイヤーが教えてくれました。感謝)。


私はもう1回バービー観てくるね。「バービー」をまだ観られない国の女の子たちもいると思うと苦しい。

フェミニズムについてはいつも考えるので、また気が向いたら何か書くかもしれません。

読んでくれてありがとう!🩷🌈

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