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十五夜の月と時間感覚の逆アプローチ

十五夜からだいぶ時間が経過して発酵してきた感覚を再考してみたい。

お月見と中秋の名月

2021年の十五夜は9月21日で、中秋の名月という1年で1番美しい月が見える日だ。
そんな中で時間感覚についてしばらく考えていたので振り返る。

十五夜と満月の日は同じになることが少なく、なんでも今年は8年ぶりに十五夜に満月が見れた貴重な日だったそうだ。

最近は光と自分の関係や感覚と疲労について考えていたところ。
ちょうど前日の夜は深夜まで仕事をして、疲労した体で新宿の夜の街を空を眺めながらホテルに向かっていた。
その日はやたらと月が明るく、空は藍色に染まり、灰色の雲が漂っていた。
今日はいい空だな、と思いながら、それが空のせいなのか気温のせいなのか疲れのせいなのか考えていた。

身体的疲労と感性の器

近ごろは、感覚期間と疲労は深い関係にあると考えていて、疲れ切った時の湯船や、走り続けた後に飲む水を想像すると分かるように、
疲労した状態だと感覚がダイレクトに身体に伝わってくる。

他のことを考えるパワーがないというか、余計な部分にエネルギーを使わない状態、省エネ身体の状態では感覚が鋭くなるのだと思うし、
そういう意味ではルーティンを行う茶の湯なども、余計な動作にエネルギーを使わないようなシステムになっているのだろうと勝手に思っている。

それを確かめるために、わざと全力で自転車を漕いだ後に川にダイブしたり、歩き回った後に庭園を眺めたり、疲れ果てた状態で星を見る、なんてことをしている。

少し逸れたが、そんなことを考えていたこともあり、疲れ果てた体に新宿の空がダイレクトに入ってきた。肌寒い空気の中を雲がかった月の光が自分に向かって飛んでくる。コンクリートの狭間からかすかに響く虫の音も相待って、とても心地が良い。
月を見て綺麗と思えればそれ以外はいらないとまで思った。

十五夜のベランダ

その日は月を想いながら浅い眠りにつく。
明日の仕事を終え、最寄りから自宅に向かう家路にて、昨日の月を想いながら空を見上げる。
今日も月は小さくて綺麗だ。昨日とはまた雲のかかりかたが変わっていて、光の広がりで、より幻想的な景観に仕上がっていた。

首だけが後ろを向いて空を見上げ、ゆったりと歩くスーツ姿の男はさぞ変なヤツにしか見えなかっただろう。そんなことはお構いなしだ。

家に帰ってしばらくベランダからその小さい月を眺め、その白色光源と光の拡散、可視光の波長を考えたり、帰り路の月見バーガーとお月見のことを考えていて、いつになく感動した。古い友人に「月を見ろ」とだけ連絡すらした。

部屋に戻って夕飯を支度しながらニュースを見ると、どうやら今日は十五夜だそうだ。なんでも8年ぶりの中秋の名月と満月が重なる日だそうで。
そりゃ綺麗なわけだ、と思いながら、逆に綺麗と思っていた月が中秋の名月だったことで、自分の感覚も捨てたもんじゃないなと見直した。

そもそもお月見をし始めた平安の人たちは、月が綺麗だったからお月見をして、毎年綺麗だから十五夜を作ったのだ。
それに比べて今の暮らしはカレンダーの日付や天気予報の気温によって、季節を感じたり、記念日に何かをする。旬の時期に魚を食べるとか、お彼岸に墓参りするとか、3月に桜を見るとか。

十五夜だから月が綺麗なのではない。月が綺麗だから十五夜なのだ。
ここに身体的な時間感覚が眠っていたのか、と気づいた。

時間感覚の逆アプローチ

はからずも夜空の月を眺めながらお月見を通して平安の人を考えていた私は、日付を意識することなく感覚的に平安の人間と繋がったことが嬉しかったのだ。
十五夜にお月見をすると月が綺麗に見えるのは、中秋の名月だと聞かされている状態であるので既に感覚にフィルターがかかる。時間が感覚に影響を与えてしまう。
ただ、感覚から時間を認知することは人間味のある行為だし、身体性と複雑性が絡み合っている美しい感性だ。
それに団子を月に見立てるような見立ての感性も創造的で尊い。

感覚から時間を認知することは現代の時間感覚とは逆のアプローチである。<逆>というよりむしろ<原型的>アプローチといった方が正しいかもしれない。
毎日カレンダーを見て、天気予報を見て、時計を見て暮らしていると時間感覚は数字に引きずられていく。

そこを一旦置いておいて、旬だからサンマが美味いのではなく、サンマが美味いから秋だとか、金木犀の香りがするから夏が終わるとか、オリオン座が見えるから冬だとか、そういった身体感覚に基づいた時間感覚を取り戻していきたい。
身体的知性の先にある時間感覚の逆アプローチをとっていくことで、ガキ心や、生命らしさを纏っていきたい。
それができればポエティックな余白のある生活が送れるはずだ。

そんなことより、月が綺麗だからと記念日を作った平安の人の感性に、羨ましさだけでなく悔しさすら湧き上がってくる。

今日はそんな、
十五夜の月と時間感覚の逆アプローチについて考え、
満月の空を見て平安の人の感性を羨むという話。



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