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自力本願寺の檀家になる

 普通の日記です(挨拶)。



眼鏡を外した生活

 35歳の誕生日を迎えてから「もうぼくが頑張ることはない」という感覚がある。元々頑張っていたのかというと少し違うんだけれど、若者としての負い目というか、責任感というか、うまく言えないけれど「若者として騒ぐ」みたいなことを、少し背負っていた感覚がある。
 使命感、あるいは役割分担というか。これは、人生に対して悲観的になったわけではない。が、何となく、35歳というのを区切りに、「裏方に回る」みたいな気持ちになった。書けば書くほど悲観的な文章になってしまうけれど、ううん……ノブレスオブリージュ精神というか、なんだろうな……体力も、気力も、若さもある年齢から少し外れて、世界を盛り上げる一員として、大きな枠組みに対して貢献しようという意識がぼくにはあったのだけれど、それが少し減った、という感覚だ。
 10代は若すぎて自分のことばかり考えていた。20代で社会という枠組みに組み込まれ、26歳くらいから会社員となり、社会という構造で、国や社会に対して何らかの貢献をしなければならないというような責任感が、ぼくにはあった。些細なことではあるけれど、自分が仕事を頑張ることで誰かの人生の助けになるとか、活動をすることで誰かの救いになるとか——それが実際になっていたかどうかは別として、自分に出来ることをやることが、誰かにとっての助けになり、救いになり、娯楽になると信じていた部分があった。
 これが完全になくなったわけではないが、自分に目を向けることにした。
 した、というか、自然とそうなっている。自分の人生を優先する、と言えばいいのか……どうしても言葉の上では過激な意見になってしまう。

 眼鏡を外す、という行為に似ている。
 眼鏡をする理由は、目が悪いからだ。よく見えないから、眼鏡をする。けれどこれは、すべてが自分のための行いかというとそうではない。ぼくは、視力がほとんどない、というわけでもない。多分、0.7とかそのくらいの視力がある。
 椅子に座って、パソコンで作業をするには視力が弱い。車の運転も出来ない。けれど、慣れ親しんだ町を歩いて、目当ての店に行ったり、本を読んだり、携帯ゲーム機でゲームをしたり、スマートフォンに書いてある文字を理解することは出来る。すれ違う人の顔はよくわからないし、世界はぼやけている。でも、生活は出来る。
 つまり、眼鏡を外すというのは、視力の悪い人間にとっては、自己中心的な行いなんだろうと考えられる。要は、ある程度の生活は出来るものの、遠くのものが見えなくなるという、割合的には「世界に対して無責任」な行為だ。
 対外的な人間同士の繋がりを、一方的に拒絶する。と言うとやっぱり言葉が強いけれど、例えば会社に行く道中、朝目覚めて顔を洗って、荷物を詰めてリュックを背負って家を出て、電車に乗って、会社まで向かう。その道中で、最近は眼鏡を外すようになった。中吊り広告や、自分の身の回りで起きている出来事に対して、少しだけ責任感を覚えなくなった。車内で何か問題が起きていても、気付きにくくなった。視力が悪いから、人間として求められる一定の視力に矯正するわけだけれど、それをせずに、ありのままの自分で過ごす時間が、以前より少し増えた。
 そのくらいの変化が、今、35歳になって、生まれている。

 ニュースをあまり見なくなったし、最新情報を追わなくなったし、知識として、責任感みたいなものとして、流行を押さえることもなくなった。そういう役割は、もう自分でなくてもいいんじゃないか、という気がしている。
 自分に素直になった、と言い換えてもいいかもしれない。
 いやいや、お前は昔から自分に素直だよ、と言われたらそれまでかもしれないけれど、それでも自分の中に多少なり、遠慮している部分があった。その割合が、少しだけ変化した。ともすれば「最強に身勝手」になったのかもしれないけれど、うーん、他人に迷惑を掛けたり、寄りかかることに対する抵抗がなくなった、とも言えるかもしれない。
 どこかで、他人の評価を気にしている部分があった。今ももしかしたら少しあるかもしれない。でも元々、そんなに過激な意味での気に仕方はしていなかった。やっぱりうまく言えないけれど、例えば「何度も読み返した小説を、また読む」ということへの抵抗感が、少し減った。「その時間で、もっと別の、新しい小説を読んで世界を広げるべきだ」とか、「こいつはまた同じことばかりしているよ」と思われることへの恐怖が、少し減った。

 眼鏡を外して、例えば知り合いに気付けなかったとしても、まあいいか、と思えるようになった。

 責任感の放棄ではない。むしろ、少しそういう、自分はきちんとしていなければならないというような意識が減ったのだと思う。少しだけ。誰かと町に出て、場所を把握するとか、町並みを記憶して迷わないようにしようとか、何かあった時のために今後のことを考えようとか、そういうことを、少し減らした。自分が空想のリュックサックにパンパンに詰めていた、自分という人間に対する責任感から、少しだけ逃れるようになった。

 だからその一環として、眼鏡を外すようになった。
 スマートフォンの通知を、オフにするようになった。
 あるいは、休日はもう、スマートフォンの電源は落とすようになった。持ち歩かずに、外に出るようになった。
 迷惑が掛かる、と思っていたのだ。音信不通になるにしても、「今から音信不通になります」と事前に言うようにしていた。「アカウントを消す!」とか、ちゃんと言うようにしていた。申し訳ないからだ。迷惑を掛けるかもしれないという不安がどこかに常にあった。忘れ物をしないようにとか、仕事が遅れないようにとか、人に迷惑を掛けないように、ちゃんと出来ていたかはわからないけど、そこそこしていた。
 それを、少し減らした。
 それだけでだいぶ、自分という人間を見る機会が増えた。要するにぼくは、他人にどう評価されるか、他人はぼくをどう見るか、ということにばかり意識が行っていて、自分で自分をあまり見ていなかったのだと思う。眼鏡を掛けて、遠くをちゃんと見えるように、他人をちゃんと見るような生活をして、すぐ近くにあるものは眼鏡なんか掛けなくても見えているのに、せっかく眼鏡を掛けているんだからと、眼鏡を掛けないと見えないところばかり見ていたのかもしれない。
 最近は、眼鏡をよく外す。
 よく外すから、お気に入りの金子眼鏡のCK-04という眼鏡をよく拭く。皮脂がつくから、頻繁に拭く。最近は、眼鏡拭きはどのくらいで買い換えるべきか、メンテナンスグッズはどういうものがあるのか、というようなことを頻繁に考えている。眼鏡を綺麗にしておきたい。いざというときに、すぐに今までの、他人を思いやれる自分に戻れるように、眼鏡は常に手元に置いておいて、綺麗にしておいて、だけど普段は手元にある外界との繋がりの起点となる眼鏡をじっと見ることが増えた。


マインドフルネス

 マインドフルネスというわけでもないんですけれども。
 マインドフルネスというのは、瞑想とかのイメージに近い、健康法? というか、意識改善というか、まあ禅とも違うんですが、すごく乱暴に言えば「今やっていることに全力投球して、そうしていることを意識する」というようなことです。狭義では「瞼を閉じてリラックスして、自分の意識と向き合う」ですが、広義では「全ての行動に向き合う」みたいなこと。
 ご飯を食べるときに、今自分は何を食べているのか意識して、それを食べてどう思ったか考える、とか。
 買い物をするとき、何を買おうとしているのか、それがいくらで、自分はそれに対してどう思うのか、とか。
 まあそういう、考え方によっては少しオカルト的な思想であり、考え方によっては健康法であるものです。眉唾物なのかな。

 これを実践しています、という話ではないんですが。
 必然的に、マインドフルネス的な状態に、自動的になっている気がする。眼鏡を外すようになって(行動だけでなく比喩として)、外部からの情報をあまり取り入れなくなっています。朝起きたら、とりあえずSNSを一通りチェックして、ニュースを見て、世界がどうなっているのかを何となく把握していたんですが、最近はそうでもない。朝起きて、仕事じゃなければ、昨日読みかけで寝てしまった本の続きをいきなり読んだりする。「朝か……とりあえずTwitterを見て……」という昔とは違って、「あー起きられた。良かった。本の続きを読もう」みたいな感じになっている。もちろん、眼鏡も掛けない。
 全ての行動が、自発的になっていると言えばいいのか。もちろん、朝起きてとりあえずスマートフォン、というのも自発的な行動だけれど、そこには不確定要素というか、世界に対する期待というか、うまく言えないけど、投げっぱなしの感覚が多少なりあると思う。何か面白いポストがないか、自分の好きな人が何か言っていないか、面白いニュースはないか、そういう、他力本願なところが多少なりあるような気がしている。他力本願寺である。
 それが、雑にSNSをしないという制約によって、まあこれは以前にも「暇になった」と表現していたんだけれど、もう少し踏み込んで、「暇」というより「自力」になったということかもしれないと思うようになった。自力本願寺である。自分でどうにかしないと、人生がつまらなくなってしまう。だから、自分の願い——本願とは何なのか? について、よく考えるようになった。

 今は風呂に入りたい、とか。
 風呂に入るより、眠ってしまいたい、とか。
 そう言えばあれが欲しかったな、とか。
 今日はどうしてもネギ塩カルビ丼が食べたい、とか。
 流されないようになった、というのが一番かもしれない。
 今日は仕事で疲れたから、酒を飲んで寝よう、というような、少し投げやりな回答には至らなくなっている感覚がある。自制が効く——というとまるで今まで自制が効かない暴れん坊だったように聞こえてしまうが、そうでもない。もう少し、自分で頑張って楽しもう、とするようになった。創意工夫である。酒を飲めば何か変わるかもしれないという期待ではなく、どうして酒を飲みたいか、本当にそうか、もっと面白いことがあるんじゃないか、もっとしたいことがあるんじゃないか、それでも酒が飲みたいのか、等々考えるようになった。思考停止が減った。
 この時間を何に使おう? と、一度立ち止まって考える。
 とりあえず——という選択肢が減った。とりあえずの魔力は恐ろしい。とりあえずの道を進んだ先に他力本願寺があるのだ。平坦な「とりあえず小道」をとりあえず進んでいくと、その先に他力本願寺が聳え立っている。他力本願寺は毎日のように賑わっているから、そこにいるだけで何となく、目的を達成したような気持ちになれる。他力本願寺では毎日のように誰かが騒いでいて、その熱気に当てられて、自分も何かしらの役割を演じている気分になれるのだ。
 しかし、少し立ち止まる。朝起きて、少し考える。ちょっと面倒くさいけど、何をしよう? という選択肢を選ぶ。「何をしよう坂」は少し傾斜がキツいので上るのが億劫なんだが、その先には自力本願寺がある。自力本願寺は閑散としていて人も少ないので、参拝したところで御利益はない可能性が高いのだが、少なくともぼくたちはそれぞれ自力本願寺の檀家なのだ。自力本願寺のご本尊こそが自分の人生で大切にしているものであって、億劫ながら「何をしよう坂」を上って自分が贔屓にしている自力本願寺に詣るのが、まあ本来あるべき姿だろうなとは思う。

 そんなことを考えたりする。
 まあ別に、ぼくはそれほど仏教宗教に造詣が深いわけでもないし、信仰心もない。文化は好きだが、悟りや修行には縁がない。そういう意味では、禅の修行に近しい「マインドフルネス」的な行為に対しても少々懐疑的ではあるけれど、今の自分がしていることは「マインドフルネス」という言葉が表す状態に近い。が、懐疑的が故にやはり、天邪鬼なのも手伝って「マインドフルネス状態である」とは言えない。なんだか恥ずかしい。
 なのでちょっと考え方を変えて、自力本願寺というものを捏造して、説明してみた。
 我々は本来、自力本願寺の檀家なのである。
 最近やっと、自力本願寺の檀家になれたのだ。

 余談だが、他力本願寺は「ああっ女神さまっ」という漫画に出てくる架空の寺院で、自力本願寺は「逮捕しちゃうぞ」という漫画に出てくる架空の寺院らしい。語呂の良さで適当にそういう寺院名を書いたあとで、本当にあったらどうしよう? と思って調べたら、過去に例があった。ので、紹介してみた。


電気ポットを買う

 性根が少年なので、買い物が下手だ。
 性根が少年などとなんだか言葉遊びっぽいけれど、なんというか、ぼくの中には「これは大人がやること」みたいに区別していることが多い。もうぼくは自他共に認める——というか、「他は確実に認める」大人なのだけれど。いや、「他はそれ以外許してくれない」大人である。トイザらスキッズでいることは許されない。しかしながら、自分の中に「これは大人がやること」という区別を持っていて、これがなかなか認識変化しないのだ。

 電気ポットを買うことにした。
 ここで言う電気ポットは、「お水を入れて然るべき手順を踏んでスイッチ類を押すと、一定の温度で保温してくれるタンク」を指す。魔法瓶でも電気ケトルでもなく、放っておいても科学の力で一定温度に保温してくれる機械のことだ。
 これを持っていなかった。
 これはなんというか、ぼくの中で「大人が買うもの」だったし、あんまりに便利すぎて「どこか公共施設にあるもの」というようなイメージだった。公民館とか。すごく便利なことは知っているし、いつか欲しいなあとも思っていた。けど、その「いつか」は永遠に来ないタイプのものだと思っていたのである。何を言っているかみなさんには伝わらないかもしれない。「あれば便利だけど、これは庶民の家には置けないものだから」みたいな、よくわからん、勝手なイメージを持っていた。

 最近紅茶をよく飲む。
 恐らくはブラフであろうが、秋の訪れがあった。最近、少し肌寒い。これで油断をすると猛暑になる。空はポーカーフェイスがうまいので、毎年騙される。チップの代わりに体調を根こそぎ持って行かれる。学習しないので、毎年負ける。
 紅茶をガブガブ飲んでいる。紅茶が健康に良いか、紅茶を飲み続けることで人体にどのような影響があるかについてはとんと知らないが、飲みやすいので飲んでいる。コーヒーなんかは飲み過ぎると「ゥオエッ!」となってしまうのだが、紅茶はそうなりにくい。且つ、あたたかい飲み物なので、少しだけ体調がよろしくなる。よろしくなった気になれる。キンキンに冷えたハイボールを飲むよりも、多少は健康に良さそうだ。相対的な評価であって、キンキンに冷えたハイボールに罪はない。キンキンに冷えたハイボールにも男を見せなければならない時が来る。ただ、今ではない。

 紅茶を飲むためにはお湯を用意せねばならんわけだが、お湯は前までヤカンで湧かしていた。が、ヤカンで都度湧かすのは手間だし、台所までちょっと遠い。東京駅から横浜駅ほどの距離はないが、自宅という閉ざされた空間の中では、作業場から台所までの距離は、大体東京から大阪くらいまでの距離がある。我が家に新幹線はないので、徒歩での移動になる。これはちょっと遠いだろう。
 なので苦肉の策として、近くに電気ケトルを配置して、それでお湯を沸かすようになった。五徳とコンロは移動出来ないので仕方がない。これをしたことにより、紅茶がガブガブ飲めるようになった。これはいい。しかし、毎度毎度お湯を沸かすためにスイッチを入れるというのも面倒だ。何かこう、常に90度くらいのお湯を用意しておいて、飲みたい時にすっと手間なくお湯が出てくる、電気ポットのようなものが家にあればいいんだが……と考えて、「電気ポット買えばよくね?」となった。自分でも冴えていると思った。
 こういうことが、ぼくの人生にはよくある。
 原因不明の自尊心の低さというか自己肯定感の低さみたいなものがある。全体を通せば自己肯定感は高いのだが、何かしらの部分で「これは自分にはとてもとても……」というようなものがある。「絵を描く」とかそういう行為もそれに該当する。「スポーツ用品を買う」とかもそうかもしれない。「それは私の分野ではないので手を出せません」みたいな感覚がある。「電気ポット」もそうだった。
 多分、自分に対して「楽をするな」みたいな考え方があるんだろうと思う。が、電気ポットくらいそろそろ許されても良さそうなものだ。「ドラム式洗濯機」を使っておいて、「電気ポット」が許されない道理はない。「ルンバ」よりも先に「電気ポット」かもしれない。じゃあ許してやろう。

 で、購入することにした。
 調べてみるとアホほど安い。もっと○万円くらいすると思っていた(これは伏せ字ではなく、自分でも認識出来ない靄の掛かった値段を指す)。本当、セールで買うにしても■万円くらいする高い買い物だと思っていたのだ。いや、セールだとしても××万円も電気ポットに金は掛けられないと思っていた。それが、機能にもよるが、安いものだと1万円を切っている。驚いた。だってぼくは電気ポットは安くても譁?ュ怜喧縺万円くらいすると思っていたのだから。
 文字化けすると急に怖い。
 まあなんだろう、上記したように、漠然とした「高いんだろうな」くらいのイメージしか持っていなかった。この「高い」という感覚には、正確な値段設定があるわけではない。要は、自分とは縁遠い世界だと思っていたのだ。例えばそうだな……「ブランド物のバッグ」とかもそうかもしれない。自分が買わないものは、繝悶Λ繝ウ繝万円くらいすると思っている。言語化出来ないくらい、漠然としたイメージの意である。それが実際「50万円くらいです」と言われると、「なんだ買えるじゃん」と思う。まあ、ぼくには常識がないということだろう。大体最近の文庫本が一冊いくらするのかということはわかるが、自分が普段接することのない物品の値段は、漠然とした高価であると考えがちなのだ。

 少々吟味して、これを買うことにした。
 デザイン優先にするか、機能優先にするかを悩んだ結果、「デザインと機能が優れているっぽい」ものを発見した。13,300円くらいであれば、今のぼくなら何も考えずにポチることが出来る。80万円のギターを熱意に押されて買った過去があるので何の基準にもならないが、13,300円はまあ、許容範囲だ。脳内稟議を通さずとも購入可能なラインである。
 センスのない人間であるぼくにとって、金さえ詰めば多少なり部屋が格好良くなる「デザインがいい」という要素は結構大事なのだけれど、何よりもこの電気ポットを選んだ一番の理由は「70度」という温度設定が出来ることだ。ぼくはちょっと猫舌なところがあるので、沸騰直後のお湯はちょっと熱い。出来れば、お湯を注いで即座に飲みたいのだ。あと、白湯も飲みたい。70度という温度は、白湯を飲むのに適しているらしい。出来ればちゃんと白湯を飲みたい。ぼくは、肝臓を洗いたいのである。肝臓は取り外し出来ないので、なんとか日々の生活で白湯を飲んで、少しずつ洗浄するしかない。歯がゆい気持ちでいっぱいだ。
 あたたかい飲み物を飲むと、結構落ち着く。落ち着くと小説を書いたり、ゲームをしたりという行為に対して真摯に向き合える。今までは「キンキン」か「常温」か「沸騰」の極端な温度設定しか知らぬ野生児だったが、文明の進歩により、70度のお湯を手軽に飲めるようになったわけである。素晴らしいことだ。


小説を書く自在性

 ここ最近、小説を書くという行為に自在性を感じることが多い。
 前にもどこかで書いた気がするが、小説を書いていて、文章が詰まることがある。「今後の展開はこうしたいが、そこの間が書けない」という問題である。
 例えば、メインの会話が一段落して、翌日に話を進めたい。が、翌日に話を進めるためには、登場人物がそれぞれ寝たりしなければならない。寝るための描写をするために、寝る前の会話をする。「そろそろ寝ようか」と言ったりする。その「そろそろ」に掛かる描写として、「もう十時か……」みたいなことを書く。ということは、会話が開始された時点で何時だったか考えて、この会話で何時間消費されたかを考えなければならない。不整合が起きないように、少し修正する。そんなことを、結構長い間していた。

 最近はもう、
「朝になった」
 と一言書いて終わりだ。
 乱暴が過ぎるが、もうそれで終わりである。「ここはもう書かなくていいや」の判断がすごく簡易的になった。そして、その「書かなくていいや」から「次に書く場所」を繋ぐ言葉選びも学んだ。
 二十枚近く会話をしていたのに、会話と会話の間にある地の文一行で、
「会話を終わらせて、僕たちは眠った。それから三日後、再び僕たちは落ち合った」
 と書けるようになった。
 これは凄まじい進歩だと、自分でも思った。
 それが読みやすいかどうか、文学的にどうかという観点はどうでもいい。ある意味、文章力という鍛錬の成果が現れた、と思った。これが出来るようになったのは二年前くらいだが、自分なりにものすごい衝撃があった。
「なんて自在になったんだ」
 と思った。

 最近になって、またひとつ「自在性」が高まった。
 この「自在性」は、ぼくの中では「小説に詰まる」に対して、「詰まることがなくなった」を指す。要するに、無呼吸で書き続けられる力が備わったということだ。
 最近、『林檎森の忌子』という小説を書いている。書いているというか書き直しているというか、まあ書き進めているのだけれど、何も気にせずに書くようになった。「今、何文字書いていて……」とか、「台詞と地の文のバランスが……」とか、「このキャラクターばっかり喋っているから、こいつにも喋らせて……」とか、そういう邪念が一切なくなってきた。
 というか、ぼくの意志がそこにはない。
 ぼくはただ、文字を書いているだけだ。書きたいものというか、シナリオ、話の筋、みたいなものは確かにあるはずなんだけれど、書いている最中、そこにぼくの意志は存在しない。書いているという感覚もなくなってきた。
 日記を書いているときは、多少なり意識がある。自分の気持ちを正確に描写したい。けれど、小説はぼくじゃないのだから、流れに任せればいいのだ、という感覚が身に付いた。
 ぼく、という主観は、どうしたって出る。
 なら、無理に出す必要もないし、正確性を検証する必要もない。
 結果的に書かれた文章が正解なのだ。
 そう考えるようになってから、何も考えなくなった。何も考えない結果、読みにくい文章になっていたり、小説として完成度が下がっていたら悲しいが、別にだからと言って仕事でもないのだからまあいい。「書きたくて書いているのだから」とも言えなくなってきた。「仕事」でも「趣味」でもなくなってきている。「食べる」とか「寝る」とか、そういう生活の一部として、「打鍵をする」という活動が組み込まれている。それを深く考えることももう辞めた。
 毎日、何文字書こうとか。
 この話は何枚くらい書こうとか。
 そういうものでもなくなってきた。
 空いた時間で、書こうかなと思ったら書いて、もう、そこに技巧を凝らすとか、実験的な表現をしようとかでもなくなってきた。多分それらは、勝手に反映されるという実体験があるからだろうと思う。無理に出さなくても、自然と出る。その流れに身を任せて、書くとも書かざるともなく、書かれている。整合性を持つとか、この漢字は開くのだとか、この小説では「顔」は「顔」という字を使うとかいうルールも、あまり考えないようになった。
 貌でもいい。
 顔貌でもいい。
 面に「かお」とルビを振ってもいい。
 そのもの「かお」でもいい。
 表情に「かお」とルビを振ることがあってもいいだろう。
 それらが統一される必要もない。そちらの方が、ぼくらしいのだといことを受け入れ始めたのかもしれない。まあ、そこに至るまでに、統一だの整合性だの色々考えたり実験したりする時間はあったのだけれど、もうそれらは意識しなくても「勝手に行われる」という感覚が身に付いたのだと思われる。

 なので、昔よりも書くのが早くなった。
 これは意識していたわけではないけれど、ぼくは昔、20代くらいの頃、1時間で5,000字くらい文章を書けていた。平均して。だけど、数日前に書くともなしに書いていたら、1時間で7,000文字ほど書いていた。読み直す方が時間が掛かる。が、これも「どうせ読み直すんだから」と、過去を振り返らずに書き進めるようになった成果だと思う。
 速度は文章の良さに比例しないので何の指標にもならないのだけれど、長年、「1時間に5,000字が限界だ」と思っていたのに、意識を手放して小説を書くようになった途端、その限界を軽く超えた。自在性が増して、止まることがなくなったのだと思う。言葉に詰まらなくなって、展開にも詰まらなくなった。一瞬、立ち止まる時がある。その時に、どこに進めばいいのか、考えるともなしにわかるようになったのだろう。
 というわけで、相変わらず小説を書いている。
 自分がどこに向かっているのかは、わからなくなってきた。


日記の終わり間際

 意識的に、眼鏡を外して、自分に意識を向けるようになった。
 そしてマインドフルネス的に、自分の一挙手一投足を意識する。
 今まで漠然と思っていたことに真摯に向き合い、調査し、考え、電気ポットを買う。
 そういう生活をしておきながら、小説から意識が遠のいた。

 なんだかちゃんとまとめればこれは仏教的な何かそれっぽい行動にも思えるけれど、そういうわけでもなくて、なんだろう、全ての行動を意識して——例えば「財布を持つ。服を着替える。何を買うか考える。靴を履いて鍵を掛けて外に出て、歩いて、スーパーに行き、必要なものを買いながら、その時の品揃えから今必要かどうかを吟味して予定になかったものを買う」みたいなことを常に意識しているから、それを文章に起こす際に、何が書くべきで、何を書かないべきかというのが、体感としてわかってきたのかなという気がする。
 小説は空想ではなくて、調べて書くものでもなくて、全て自分の中にある。
 というようなことかもしれない。わからないけれど。
 まあそれでも、文学的装飾だったり、小手先の技術を使う時はあるが、そういう技術は若い頃に習得したものがいくつかあるから、多分平気なんだろう。小説を書き始めた時に今と同じ境地で小説を書いていたら、多分それは小説になっていない気がする。色々あって、自在性が増したんだなぁ……と、そう思う最近である。

 こういう思考が脳にこびりついているとどうしても行動に支障を来すので、最近は思考整理のためにもこうして日記をよく書いている。これをすべて、小説という媒体に押し込む日が来るのかもしれないけれど、出来れば創作と生活は分けたいところなので(それでも多分に、小説に自己は出るんだが)、役割分担のためにも、日記さんには犠牲になってもらわないといけない。

 まあそういうわけで、自力本願寺の檀家になったという日記であった。

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