見出し画像

寄りかかれる趣味

 みんな元気!? 俺は元気!(挨拶)

 ◆

 何から話せば……。
 4月は桜の時期でしたので、弾丸的に帰省していました。僕の地元には城があるんですが、まあその周辺の桜が綺麗でして、毎年見るのを楽しみにしているんですね。こんな言い方をするとなんとも趣味のない老人みたいな発言に聞こえそうですが、まあ実際そうでして、四季の醍醐味と言いますか、毎年フラットに楽しめることって少なくて。うーん……30歳もそろそろ後半戦に差し掛かる心の準備をし始める昨今、なんというか、自分の「人生の楽しみ」みたいなものは減っていく一方なんですね。
 もちろん、日々のちょっとした楽しみは継続してありますし、自分で生み出すことも可能です。好きなYouTubeチャンネルの投稿を楽しみにしているとか、週刊誌が出るのが楽しみですとか、好きなバンドの新譜が聴きたいとか、自分の創作物をブラッシュアップするのが楽しいとか。まあ色々あるとは思うんですけれども、若かりし頃に無限に続くように思えた媒体っていうものはいつしか消えていくものですし、追いかけ続けた物たちと距離が生まれるのも必然的なものなので、割と楽しみの絶対数って減っていくんですよ。まあ、なんというか……よく言うのは、ゲームが出来なくなったとか、本が読めなくなったとか、そういう類のことでしょうか。生きる上で、人生に必要なものだと思われていたはずの娯楽が、いつの間にか優先度を落としてく。で、なんとなく、生きるための行動に娯楽性を見出していく。大人の大半がそんな風な生活を送るようになるのではないかと思われます。効率が良いと言えば良いですし、それが悪いことでもありません。例えばなんでしょう、家庭を持った人が、家族のことを第一に考えるとか。仕事熱心な人が、仕事で使える技術や知識を増やすとか。そういうことを頑張るというのも、生き方のひとつと思います。

 ※無意味に桜の写真を挟んでいます。ちなみに兄が撮影した写真です。

 まあそういう、仕事のための人生とか、家庭のための人生とか、そういう選択をすることは良きことで、それらに対して否定的な話をしたいわけじゃないんですが……僕はどちらかと言うとそうではないタイプなんですね。初期衝動が変わらないというか……まあ、有り体に言えば意固地な人間というか。
 能力的な話だったり、立場的な話だったりで言えば、なんかもっとやる気を出せば社会人として、会社員として、高みを目指せる気もするんですね。やる気さえ出せば、なり振り構わずに頑張っちゃえば、たくさんお金を稼ぐことも出来るだろうと思えますし、お金を稼げば幸せなことがたくさん実現出来ます。
 が、うーん……僕が働いている理由は単に「お金を稼ぐ」が目的であって、その「お金を稼ぐ」の初期衝動は、「自立」と「趣味」のためなんですね。「趣味」というと副次的な意味合いに聞こえますが、要は「人生」です。自分の人生を確固たるものとして、誰にもとやかく言われずに存分に楽しむために、仕事をしているのです。だから、やっぱり「仕事に全力投球する!」という生き方は出来ない。生きるために仕事はするけれど、仕事をするためには生きられない。
 かと言って、じゃあ「趣味」を仕事に出来るかと言うと、僕はそのタイプでもどうやらないようです。「好きなことで生きていく」が出来ないタイプでもあるのだろうなと。もちろん、100%全てを「好きなこと」で構成出来て、その上で生きるためのお金を稼げるなら良いのかもしれませんが、趣味ですら「面倒くさい」と思うフェーズが多々存在している人間ですから、これ以上趣味に面倒ごとを持ち込みたくない。それに、趣味でお金を稼ぐより、会社に勤めて仕事をして給料をもらった方がよっぽどお金はたくさん稼げますし、得なこともたくさんありますから、どう見ても働きながら趣味を謳歌する方が効率が良いんですね。

 まあそういう初期衝動だったり、最初に「こう!」と決めたものがあるので、僕は相変わらず毎日働いていますし、毎日趣味をしていますし、そうやって平々凡々と生きているんですが……これ、前にもどっかで話したような気がするんですけれども、今回話したいのは「寄りかかれる趣味」が必要だな、という話で。
 割と最近自覚したんですけれども、僕ってどうやら、「大きな文化」が好きっぽいんですね。好きというか、そういうものじゃないと安心出来ないというか。うーん……ブランド志向と言えば良いんでしょうか。意外とこう、「歴史」があるものが好きなんですね。あとはちゃんと「体系化」されているもの。
 まあ、元々音楽だったり文学だったりというジャンルに傾倒した人生を送ってきていたので、自覚する前からその気はあったようなんですが……「一生掛かっても遊びきれないな」という安心感が自分には必要らしい、という感じがしたんです。
 自分で言うのは甚だ悪趣味ですけれども、僕は割と色んなジャンルを一通り舐められるタイプでして。趣味の「キモの部分」と言いますか。マグロの「トロの部分」と言いますか。全てのジャンルの遊びにおいて、それを突き詰めるためには一生掛かっても足りない、はその通りなんですけれども、そういう真面目な話ではなく、「なんとなくこれを趣味にしていても終わりが見えない」感覚が好きっぽいんですね。
 あのー……例えば格闘ゲームがあります。僕は「ストリートファイターⅣ」というゲームシリーズをかなりやりこんだんですね。で、オンライン対戦で勝ち続けると、自分のプレイヤーランクと、使っているキャラクターのランクというものが上昇する、という仕組みがあったんです。僕は特定のキャラクターだけを使い続けて、ひたすらゲームをしまくって、一時的にではありますが、オンラインランキングで1位の座を手にするに至ったんですね。
 でもこれは別にすごい話ではなくて、運が絡んでいたり、一時的な話だったり、そもそもそのキャラクターを使用している人口分布も絡んでくる話ですから、そのゲームが一番強かったわけではありません。でも、まあ1位を手にすることが出来た。で、その瞬間に、ようやく「終わった」んですね、僕の中の格闘ゲームという趣味は。

 今もYouTubeなどで、当時毎日のように見ていたプレイヤーたちの対戦動画を見たり、大会の配信なんかを見て「やっぱときどはかっけえな」とか思うんですけれども、自分でやることはなくなったんです。それは僕の中で「トロの部分を食べ尽くした」感じなんですね。これ以上は俺には無理だ、という諦念もありますし、自分の中に「終わり」を見出した以上、この趣味は僕には向いていなかったんだ、みたいな区切りをつけてしまう節があるようです。
 そうやって終わってきた趣味というのはかなりありまして、まあ言ってしまえば熱しやすく冷めやすいタイプの人間なのかもしれませんけれども、そんな僕でも残り続けている、プレイヤーとして活動し続けているものが「音楽」と「文学」で、この界隈っていうのは歴史の長さもさることながら、並行して新しい刺激が生み出され続けるジャンルなんですよね。もちろんジャンル自体の懐が大きすぎますけれども、僕の中では音楽だと「クラシック」と「ジャズ」が趣味としてあって、文学だと「ミステリ」が好きなんです。でも、そうやって限定したところで、一生掛かっても終わらないくらい、まだ見ぬ楽しさがあって、本当に、多分一生続くんだろうな、みたいな予感が、最近ようやく生まれたんです。
 僕はこれからずっと、音楽と文学をやり続けるんだろうな、という自覚に、最近になってようやく、出会ったわけです。

 で、不思議なもんで、それに気付いてからの1ヶ月くらいはほとんどお金を使ってなくて。
 もちろん、食費とか、まあお茶買ったり、たまにポテチ食べたり、そういう雑多な出費はあるんですけれども、なんかこう……手当たり次第な出費をしなくなったというか。なんだろう? これ、一過性のものだと自分でも思ってはいるんですけれども、なんなんでしょうね……。
 ギターだと分かりやすいんですけれども、ギターってね、たくさん欲しくなるんですよ。不思議なもんで、ギターなんて1本あればいいんですけれど、格好良いギターとか、綺麗なギターとか、音が好みのギターとか見つけると、たくさん欲しくなるんです。ギターやってる人間はみんなそういう病気に掛かってるんです。
 なので僕もギター欲しいな〜って思い続けて生きてきたんです。月に1回は必ず楽器屋に行って、替えの弦を買ったり、ピックを買ったり、メンテナンスグッズを買ったり。で、ギターの弦張り替えて、ポリッシュ吹いて、クロスで磨いて、綺麗な状態になったギターを見てニッコリ、みたいな。そんな感じだったんです。あとはギター雑誌買うとか。そういう細かい出費をしていたんですよ。
 小説についても同様で、本屋に行って面白そうな小説があればとりあえず買うとか、古本屋でお買い得そうなもの見つけたらとりあえず積むとか、なんとなく暇な時にプロット書いて、そのための環境を構築するためのお金を掛けて……とか、まあそういうことを、していたんです。
 が!
 あのー……これ前にも以下の記事で話しましたけど、

 ピアノが趣味の領域に入って来ちゃって。
 もともと僕にとってピアノは畏怖の対象であり、苦手なものの象徴だったんです。
 でも、最近ゲームとかお酒とか漫画とか長期的に楽しめなくなってきて、そんな中でふとピアノを弾いたらやっぱ楽しくて、「下手くそなのに楽しいってことは、これ本当はよっぽど好きなんじゃないか?」みたいな気持ちになったんですよ。上記したような格闘ゲームとか、まあギターとか、小説を書くこともそうですけれど、その辺って割と最初から上手かったんですね、僕。まあ上手いと言ったってアレですよ、クラスの中で一番上手いとか、そういうレベルですけれども……あれです、クラスの中にひとりは必ずいる「絵が上手い子」みたいな存在だったんです。何やってもある程度最初から出来る人間っていると思いますけれど、ゲームやギターやホラ話を考える分には、僕は最初からある程度出来たんです。で、最初から出来るからあんまり練習しなくてもある程度の域に行けたんです。
 けどまーピアノは下手! 指が追っつかない! 僕が指針としている「ピアノの上手さ」の基準がピアニストにあるから悪いんでしょうけれども、全然弾けない! 下手くそ! マジで下手くそ! と思い続けていたんです。にも関わらず、僕はここ最近ピアノを真面目に練習していて、これがマジで不思議なことに、ただただ楽しいんですよ。
 僕は深く考え込む人間なので、「わー! 楽しい!」というフェーズからしばらく経過すると、「なんでピアノが楽しいんだ……?」とか考え込むんですね。で、考えに考えを重ねた結果、今出た結論は「とにかくピアノの音が好き」っぽい。
 単に、打弦した時のピアノの音が好きっぽい。で、その音を自分で出せるのが楽しいっぽい。これもう、幼い頃の初期衝動と同じなんですね。「ピアノって楽器はなんか楽しい!」っていう。本当にそれだけの理由で、僕はピアノという楽器を楽しんでいる。だからそれは楽器という意味だと、ギターとはちょっと意味合いが違うんですね。ギターは「見た目」とか「音色」とか「弾く楽しさ」とか「歌を唄う際の伴奏楽器」として優れているとか、そういう観点から好きなんです。まあもちろん音も好きなんですけれども、割とばらけているというか。だからお金も掛けますし、ギターという文化に触れていることが好きだから、上記したようにメンテナンスしたり、弾く時間がなくても弦交換をしてギターを大切にしたり、そういうなんか愛情みたいなもので繋がっているんだなと。

 対してピアノってもう本当に……なんかどうでもいいというか。
 なんか、鍵盤を叩いた時に、ピアノっぽい音がするだけで楽しいと思っている自分がおりまして。もちろん、アコースティックピアノ欲しいなーとか、グランドピアノ弾きたいなーみたいな想いもあるんですけれど、別に電子ピアノでも十分楽しいしな、とか。だからなんか……その……なんだろう? 今まで様々な趣味を楽しむために、必ずと言って良いほど「出費」という概念が付き纏っていて、だからこそ僕は仕事をしてお金を稼ぐという選択をしたはずなんですけれども、様々な趣味が「終わって」来た結果、残ったものは数少なく、「読書」「映画鑑賞」「執筆」「ギター」くらいになりまして、で心境の変化から苦手としていた「ピアノ」に手を出したら、原点回帰というか……うーん、精神的にかなりその、寄りかかれるようになってしまったなぁ、という気がしたのでした。
 この辺の趣味ってもう僕から離れない限り、終わることがないから、一生安心して過ごせるなみたいな、ようやく一息付けた感じが、今すごくあります。

 ◆

 なんか久々にとりとめのない話を書いてしまったんですが、最近の僕は趣味との接し方を再認識するようになったな、という話がしたかったはずなのです。
 自己反省というか……うーん、なんだろう、なんかここ数年、金に物を言わせて趣味活動をしているつもりだったけれど、その出費って本当に必要だったのか? というか、ちゃんと楽しんで使ったお金だったか? みたいなことを、すごく思いました。反省しました。いやまあ、ギターを買ったことは長年の夢だったのでそこは除くとしても、そのギター周りに掛けたお金ってなんか、「ギターと繋がっていたい」ために出したお金だったんじゃないか? とか、目的を見失って、とりあえず手段だけで行動してたんじゃないか? みたいなことを、強く思いました。
 よくその……読書趣味な人が加齢するごとに本が読めなくなって、でもとりあえず新刊を買うとか……自分のアイデンティティを構築するために、何か趣味を見つけて、そこにお金を注ぎ込むことで自分を肯定しようとしているとか、あるじゃないですか。お金があるからなんとなくCD買うとか、お金があるからなんとなくその界隈のグッズ買うとか、お金があるからなんとなく自己啓発本買うとか。
 なんかそういうのになりかけてたんじゃねえか、自分? みたいな疑問を抱いたので、ちょっと反省しつつ、また趣味に全力投球しながら生きていきたいなと思った昨今でした。まあそんなことを、なんかこの前桜を見に帰省した時、「俺はただ単に音楽とか、物語性が好きで、それは別に掛けた金額に比例するようなことじゃないんだなぁ」とか思っていましたというお話でした。

 ◆

 で!
 そんなことを言っておきながら!
 1冊の本というか、楽譜を買いました。
 これはどちらかと言うと戒めに近い購入なんですけれども。
 あのー……前回の記事でも「JAZZ THEORY WORKSHOP」という本を紹介させていただいたんですが、

 これはまあ普通に読んでいて、分からないながら何度も読み直している最中です。こうやって「1冊の本を分からないなりに何度も読み直す」時点で、もう新しく何かを買う必要なんてないので、僕がこれ以上音楽理論書を買おうとしたら、危険サインだな、と思っています。
 で、あともう1冊、「ジャズ・スタンダードバイブル」という本を1年前くらいに買っていて、これは本というよりは楽譜なんですが……ジャズの有名な曲(『AUTUMN LEAVES』とか、『MY FAVORITE THINGS』とか)のコードとメロディ譜だけが書いてある本で、正直この2冊だけあれば一生遊べるなって感じなんですね。

 理論書が1冊と、楽譜が1冊。で、あとは日々の練習用に、これも前の記事でも載せましたけれども、まあ算数ドリル的な感じでこの本を買いまして、

 多分もうこれだけあれば2,3年は困らないなぁ、という感じがあったんです。
 逆に、これだけ使いこなせていない本を所有しながら新しいものを買ったとしたら、多分上記したような、「繋がりを持つために買う」行為だろうと。なんか本質とズレた行動なんだろうと思ったんですよ。例えばなんでしょう、『JAZZ THEORY WORKSHOP』を読み切れていないのに、また別の音楽理論書を買おうとする行為って、逃げというか……うーん、諦念に近い行動だなというか。「やってる感を出す」ための行動なんじゃないか? と思うわけです。
 あとはなんか、ピアノ関係の雑誌を買うとか……? 別に悪いことじゃないんですけど、あくまでも僕がそういう行動を取ったら、もしかしたらそれは「ピアノから逃げようとしているサイン」なのではないかと。
 幸か不幸か、楽器屋で楽譜を買ったり理論書を買ったりするお金くらいはありますから、買おうと思えば買えちゃうんです。でも本来、そうやってお金を出して本を買うよりもまず、今まで買った本をちゃんと練習しろとか、理論をちゃんと学べとか、そういうことをするべきなんじゃねえの? その書籍購入、ガチャに課金するのと同じなんじゃねえの!? みたいな戒めを、自分に敷きました。
 で、で!
 ここから意味分からんことを言うんですが!
 僕がピアノに対してそういう感情を抱きそうになった時、戒めとして、「お前はこれを買っただろうが」という、人生の重しというか、「お前は新しい本を買うくらいだったらこれをちゃんと弾け」みたいなストッパーとして、こちらの楽譜を購入しました。

 楽譜で5,000円近いという、かなりの高額商品。
 これはBill Evansという、僕が敬愛するピアニストが残した演奏をかなり精密に採譜した「オムニブック」というものです。レコーディングされた名演が、そのまま音符になっている感じ。ピアノ・トリオによる演奏なので譜面に起こすとニュアンスが崩れたりするのが世の常なのですが(ジャズピアノは結構アドリブが多いので)、その雰囲気すらそのまま譜面に起こしているという、まあジャズピアノ界隈ではかなり有名な本らしいです。
 絶対に今の僕には弾けないし、もし弾けるとしても10年以上先だろうと思うんですが……なんか、絶対、性格的な面だったり、どっかのタイミングでまたピアノを挫折しそうになるタイミングが来て、上記したような「とりあえず金を出して趣味を継続したフリをする」ことになるんじゃないかと思って。その時に、なんか適当な「大人のジャズピアノ入門」みてーな本を買って気を紛らわせて、2,3ページだけ、簡単な曲だけ弾いて満足するような負のスパイラルに陥りそうな気がしたので、これを買いました。
 もうなんか、ただ買いました、これは。
 真面目に練習しませんし、そもそも弾こうとすら思えません。目を通してすらいません。ただただ、置物として買いました。
 もしかすると、一生弾かずに終わるかもしれません。
 ですが……なんかその、「お前はビル・エヴァンスのオムニブック買ったんだから、適当な楽譜買うくらいならこれをやれよ!」という、自分への戒めとして、買いました。これを買ったんだから、お前はちゃんとジャズピアノを練習するんだよ! みたいな。なんだろう、お守り? あるいは神棚みたいなものかもしれません。

 神棚は常に目の届くところに置いてあります。今のところはこれを目にする度に、「うわー! ちゃんと練習します!」という気持ちになっています。
 そんな風にして自分を追い込む行為が果たして「趣味」と言えるのかは結構微妙なところではありますが……まあ、なんかそんな感じで生きております。
 そんな感じの、とりとめもない日記でした。
 GW目前の昨今ですが、GW中も頑張ってピアノを弾いたり小説を書こうと思います。
 それではみなさん、また5月にお目に掛かりましょう。
 僕でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?