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『鵼の碑』が出る。

 17年待ったよ(挨拶)。

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『鵼の碑』は、「ぬえのいしぶみ」と読む、京極夏彦という作家が書いた、2023年9月14日に発売される予定の、「百鬼夜行シリーズ」と俗称される小説群の最新刊です。が、前作という位置付けである、「百鬼夜行シリーズ」の第九弾である『邪魅の雫』が2006年9月に発売されているため、実に17年ぶりの新刊ということになります。
 人付き合いの薄い僕のこと、この喜びを分かち合える人間なんてほとんどいないんだろうなと思い込んでいたんですが……意外や意外、SNS上ではこの発表に対して狂喜乱舞している人間が少なからずいて、嬉しい気持ちと、嬉しすぎて心配になる気持ちが同居し、よく分からなくなってこの文章を書いています。まあその、「百鬼夜行シリーズ」はとんでもなく売れているカルト的小説群であり、特に一作目である『姑獲鳥の夏』という小説と、二作目の『魍魎の匣』という小説は、異なる媒体とのコラボレーションなども多岐にわたりますので、ご存じの方も多いのではないでしょうか。僕にとっては「息を吸うといつか吐かなきゃいけない」みたいな常識なんですが、一応前置きとして語っておきました。

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 もう少しその偉大さの話をするなら、この『姑獲鳥の夏』からなる「百鬼夜行シリーズ」は、「講談社ノベルス」というレーベルから出版されています。この「講談社ノベルス」というのが、うーん、読書好きにとっては結構カルト的な存在だと個人的には思っているんですね。
 名のある文学賞というと、「芥川賞」や「直木賞」が連想されるかと思います。で、実際「小説本」というと、「ハードカバー」か「文庫本」が連想されるかと思います。実際にはソフトカバーの本も増えてきましたし、装丁に凝った特装本などもありますが、一般的にはその二択でしょう。しかしながら、この「講談社ノベルス」は新書サイズで(多くの小説が)二段組みという、かなり特殊な形態なんですね。僕は高校生当時、このスタイルの小説本に出会い、人生を一変させられます。しばらくは二段組みじゃないと小説が書けないくらいでした(今はテキストエディタの問題で出来ない)。
 でまあ、その「講談社ノベルス」は主に、「メフィスト賞」と呼ばれる文学賞(文学賞か?)を受賞した本が出版されます。「メフィスト賞」以前から「講談社ノベルス」はあったんですが、後に設立されて、今となっては「メフィスト賞受賞作」が刊行されるレーベル、及びその受賞者が出した同一のシリーズ作が刊行されるレーベルという側面が強いかと思われます。有名どころで言えば、西尾維新という作家は元々「メフィスト賞」作家であり、第23回メフィスト賞受賞作として『クビキリサイクル』が発売されていますが、この本で「講談社ノベルス」に触れた人も多いのではないかと思います(僕調べ)。
 とにかくそんな、本読みの中(特にミステリ好きの中)ではかなり権威ある文学賞(本当に文学賞か?)である「メフィスト賞」の、第0回受賞作が、『姑獲鳥の夏』です。要は、講談社に持ち込まれた『姑獲鳥の夏』の出来があまりに良くて、「おいおい、持ち込みでもすげえ小説来るじゃん! じゃあ賞金は出ないけど面白かったら本にするって文学賞作ったら応募くんじゃね!?」みたいなノリで、「メフィスト賞」は立ち上がったという逸話があります(かなり誇張しています)。そういう、後世にも影響を与えた小説が『姑獲鳥の夏』であり、それを書いた作家が、京極夏彦という人間であり、その作家が17年ぶりに出す正統なる続編が、『鵼の碑』であるわけです。

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 だから?
 いや……だから嬉しいな、って話なんですが……。
 まあその、なんだろう、僕は確か、2004年くらいに小説に肩までどっぷり浸かることになるんです。高校生になっていくらかバイトでお金をもらうようになって、漫画をたくさん買うようになるんですけれども(当時はまだSNSなんて全然整備されていなかったから、漫画を読むのが一般的な娯楽だった)、影崎由那先生が描かれていた『かりん』という吸血鬼家系に生まれた可愛い女の子が色々あって大変、というラブコメ漫画を愛読していて、その流れで甲斐透先生がノベライズした『かりん増血記』という小説を読むようになります。教養として、あるいは暇であるという理由で、小学生からシャーロックホームズを読んだり、あるいはハリーポッターシリーズを読んだり、こう……海外児童文学? みたいなものには触れていたんですが、あんまり日本の小説を読んだことのない子どもでした。そんな僕が日本人が書いた日本語の小説を読んで、「あ、こりゃおもしれーわ」となり、あれよあれよと言う間に小説というジャンルの虜になるわけです。で、当時は雑食というか、まあ源流にある『かりん増血記』が「富士見ミステリー」というレーベルから出ていたので、その流れで桜庭一樹先生の『GOSICK -ゴシック-』や『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』、木ノ歌詠先生の『からっぽの僕に、君はうたう。フォルマント・ブルー』、上月雨音先生の『SHI-NO -シノ-』、田代裕彦先生の『平井骸惚此中ニ有リ』、海冬レイジ先生の『バクト!』などを読んで自我が芽生え、当時流行していた「角川スニーカー」なり「電撃文庫」なり「MF文庫J」なりに肩までどっぷり浸かります。この時、2004年の年末頃に刊行されるようになった『このライトノベルがすごい!2005』という雑誌で『涼宮ハルヒの憂鬱』が大ブレイクし、僕も当然読むようになるのですが、翌年、2005年末に発売された『このライトノベルがすごい!2006』でトップを飾ったのが、『クビキリサイクル』だったんですね。

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 書きながら記憶を整理して気付いたのですが、僕が『クビキリサイクル』を買ったのはつまり、『このライトノベルがすごい!2006』の発売日ということになります。ので、インターネットの情報を辿ると、僕は2005年11月26日に「講談社ノベルス」と出会ったことになる。高校2年生の2学期か。
 当然1日で読み終えて、そこから1週間くらいで、当時発売されていた全作品を読み終えたことになる。既に完結済だったので一気に読み終えて、「なんだこれは」と、1年くらい掛けて僕は「本読み」としての自我を芽生えさせるに至るわけですね。本当に、正しく「ライトノベル」と呼ぶべき小説で生まれて、自我が芽生える。「世界の感じ方」をライトノベルで学んで、講談社ノベルスによって「自分の趣味趣向」を正しく把握出来るようになったのです。それがだから、2005年末か。このあたりから、ほとんど学校に行かなくなります。何故って、本を読むのに忙しいのと、本代を稼ぐのにバイトに明け暮れていたから。
 で、そうなると当然、西尾維新という作家をもっと知りたくなる。知りたくなるので対談が載っている雑誌とかを古本屋に探しに行かなきゃいけない。当時は再三言うようにインターネットコンテンツがそこまで発達していませんでしたから、チャリを漕いで本屋に行って情報収集するしかなかったんです。新刊の発売日を知るためには、本屋に貼られる「○月の最新刊」という掲示物を備に確認して、自分の推しているシリーズの新刊が出るかどうかをチェックしたり、『ザ・スニーカー』『ドラゴンマガジン』『電撃hp』『活字倶楽部』なんかの雑誌を購読して知るしかなかったんですね。ともあれそうやって足で稼いだ情報を糧に、僕は「西尾維新という作家はメフィストという雑誌で賞を取った作家らしい」ということを知り、早速メフィストを買おうとするんですが、2006年の4月から休刊していて、「おいおいおい! なんて間の悪さだよ!」ということで、長野県は松本市中の古本屋を巡って、メフィストのバックナンバーを探す旅によく出ていました。

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 そんなこんなで「メフィスト賞」の存在を知ったり、西尾維新という作家が敬愛する作家(五大神)として名前の挙がっていた、笠井潔、森博嗣、京極夏彦、清涼院流水、上遠野浩平という五名の名前を知った。なので、これについて深掘りを始めることになります。こう書くと大仰に聞こえますが、多分、『クビキリサイクル』を買った翌週くらいの話です。この辺の数週間、めちゃくちゃ濃い記憶があります。多分ほとんど寝ずに過ごしてたんじゃないかな。
 とにかく本屋という本屋を巡って、古本屋という古本屋を巡ります。全ての本屋の全ての棚から、商店街にあるやってるかやってねーかもわからない古本屋の日焼けした100円コーナーまで全部確認。当時は「どういう装丁の本か」ということすら分からないんですよ、画像検索出来ないので。だから「作家名」を頼りに——そして「講談社ノベルス」の新書サイズだけを頼りに背表紙を睨み続けて、僕はようやく、『姑獲鳥の夏』を購入するに至るのです。

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 時期は真冬ですね、2005年末、真冬の出来事である。
 僕はほくほく顔で、100円だかで買った『姑獲鳥の夏』と、コイケヤのコンソメポテチと、リプトンのミルクティーの1Lくらいのやつを携えて、部屋で小説を読み始めます。まあ流石に、当時の僕はイケイケドンドンな男子高校生でしたから、「おいおい、初版1994年って(笑)本出た時俺6歳だっちゅーの!」くらいのことを思いながら、まあこれも勉強というか、西尾維新が影響受けたって言うくらいだから面白いんだろうな、みたいな、なんだろう……上記で僕が作家に対して「先生」と付けているかいないかという書き分けに気付いた人もいるかと思いますが、要は西尾維新クラスになると僕にとっては「神」に等しく、「先生」とかじゃないんですね。ゼウスに対して「ゼウスさん」とか言わないじゃないですか。馴れ馴れしすぎて。じゃあ先生って付けてる作家さんを低く見てるかっていうとそうではなく、全ての作家先生は僕にとって畏れるべき対象であり、同時に敬愛の対象なんですが、こと西尾維新から上の五名及び、他多数(綾辻行人とか、横山秀夫とか)に関しては、もはや殿上人すぎて、「そういう存在」なので敬称をつけるのもなんか変な感じがするんですね。人と思ってないというか。
 当時の時点で僕は西尾維新に脳を書き換えられていたので、「この人が尊敬するなら神なんだろうな」という、全幅の信頼を置いて、『姑獲鳥の夏』を読むわけです。で、呆気なくやられた。やられたというか……なんだろうな、うーん、これ、まあその、古い小説に対してのネタバレはそこまで臆病になる必要もないとは思うんですけれども、一応匂わせ程度で言うと……今思うと、あまりに衝撃的すぎて、『姑獲鳥の夏』みたいなことが、このとき僕に起こったんですよ。それについては後述しますが、まあとにかくあまりに面白くて。あまりに面白くて、あまりに凄まじくて、僕は本格的に、小説を書こうとし始めるんですね。

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 冒頭でも説明した通り、2023年8月時点での百鬼夜行シリーズ最新刊は『邪魅の雫』であり、これは2006年9月に発売されています。つまり僕は、2005年末に『姑獲鳥の夏』に出会い、そこから上記した、森博嗣に関する本(『すべてがFになる』などのシリーズものからエッセイ含め)やら、上遠野浩平の『ブギーポップは笑わない』などを読み始め、2006年の3Qくらいまでを小説漬けで過ごします。いやいや、大学受験の時期なんですよ、高校3年生は。受験勉強をしなきゃいけない。高3の夏は、夏期講習に行くべきなんです。偏差値を計らなきゃいけない。合格判定を気にしなきゃいけない。なのに僕は『黒猫の三角』を読んでいたし、『殺竜事件』を読んでいたし、『鉄鼠の檻』を読んでいた。そうやってなんとなく「俺、将来は小説家になろう」と思い始めるんですね。で当然『邪魅の雫』も発売と同時に読んで、「ああ、この作家の全盛期に間に合って良かった。次作ではどんな小説が読めるんだろう」と期待したまま、17年の時が経ったのです。

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 なげーよと。
 出ないと思ってたよ一生。
 その17年の間に、僕は作家を志したり、作家を諦めたり、本が出たり、出たら出たで色々大変だったり、まあ色々ありながらも本を読んでいて、いよいよ『鵼の碑』が出るぞということになって、今日(これを書いているのは8月2日ですが、体感的には発表翌日の8月1日)、古本屋に行って『姑獲鳥の夏』の文庫本を買ってきました。復習のために。普通の本屋で新本を買って売上に貢献するのもまあいいんですが、文庫の新本がなかったので仕方なく。
 で、とりあえずばーっと冒頭から1章くらいまで一気に読んで気付いたんですけれども……これ本当、あのー……さっきも言いましたけど、僕の中に『姑獲鳥の夏』現象が起きていてびっくりなんですけれども……うーん、なんだろう、恥ずかしいくらい、拙作『科学喫茶と夏の空蝉』の構造が『姑獲鳥の夏』に似ていて、恥ずかしくなった。
 お前そんなに影響受けてたのかと。
 上記した僕の読書遍歴を見れば(この説明のためにだらだら書いたんですが)、僕という人間はどう見たって、西尾維新という作家に影響を受けているはずなんですよ。西尾維新という存在を皮切りに自我が芽生え、さらに多作である同作家の新刊は常に本屋に並ぶし、高校を卒業したあと、ほぼニートみたいな生活をしていた僕にとって、『刀語』という大河シリーズは、人生の支えと言って良いほどの力強さを持っていたのです。1ヶ月に1冊刊行されるから、なんというか、ニートとしてそこまでやることなくて絶望したりもしなかったというか。それを毎月読むことが自分の責務だとさえ思っていたというか。毎月本を買うために働くのをやめたりもしなかったし、まあそういう意味でも自覚があったんです。西尾維新に影響を受けているという自覚があって、それに悩んだり、そのおかげで小説が書けているんだからそれでいいじゃんと思ったり、まあ良くも悪くも、西尾維新という作家に囚われて小説を書いていて、まあでも最近は開き直って、「影響を受けています!」と公言が出来るくらい、雲の上の存在である西尾維新という作家に対して、折り合いがついた。
 つもりでいた。
 否、折り合いはつけられたのだ。
 昨年9月に発売された『怪盗フラヌールの巡回』も、今年2月に発売された『キドナプキディング 青色サヴァンと戯言遣いの娘』も、楽しく読めた。一時期は読み過ぎて「もう西尾維新読みたくない!」という状態にもなっていたけれど、全然読めたし、やっぱおもしれーわ、とさえ思っていた。それで良かった。折り合いがついたと思っていた。僕は一読者として、一創作者として、ようやく自分自身の原体験と折り合いが付けられたのだと思っていた。思い込んでいた。

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 2005年末から数えて、おおよそ17年8ヶ月ぶりに『姑獲鳥の夏』を読んで思った。
 俺が書いているのはこれなんだと。
 正確に言えば……何度か、ちょっとだけ読み直したり、映画化されたものを観たりして、触れてはいたように思う。あるいは、百鬼夜行シリーズではない京極夏彦の著書を読んで、触れてはいたのだ。が……『姑獲鳥の夏』と、恐らく近日中に再読するであろう『魍魎の匣』を読んだら、僕は爆発四散して西に向かって飛んで行くような気がする。それくらい、それくらい影響を受けている。
 影響?
 影響どころじゃない、自分でも自覚しないうちに、それになろうとしている。
 よく——例えばあるロックバンドに憧れた人間が作曲をする場合、似通ったコード進行を使ったり、似たような歌詞を書くと思う。これは、参考にするものがまだ少ないから、どうしても似てしまうという現象に思う。要は人真似だ。それを繰り返して、見聞を深めて、様々な作品に触れ、ブレンドされたものが個人の特性として排出される。それが創作の基礎だと思うし、別に恥ずべきことじゃない。例えば、西尾維新を読んで小説を書き始めた青年が、西尾維新っぽいものしか書けないとしても、別にいいじゃないかと思う。こちらも僕が敬愛している、入間人間先生という『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん 幸せの背景は不幸』なる作品を生み出した作家がいるが、デビュー作はほとんど西尾維新作品の模倣かというくらい、よく似ていた。昨今だと『安達としまむら』や、一部界隈で人気の、仲谷鳰先生作の漫画作品『やがて君になる』のノベライズである『やがて君になる 佐伯沙弥香について』などの、いわゆる百合小説作家として認知されている傾向があるように思うけれど、デビュー作はマジで「西尾維新世代の申し子がついに商業に出てきた」って感じだった。
 まあそれはいい。
 その後の入間人間先生の小説を読んでいても、別に今更「うわー、西尾維新だー」とは思わない。確立された入間人間という作家性がある。誰しも最初はそうなのだ。西尾維新だって、デビュー当時には「森博嗣かよ」と言われていたというし。実際わかる。わかるけど、そうやって個性や作家性は確立されていくのだからいいんじゃないかと思う。
 でもよ、
 僕は自分の小説の出来に対して優劣を感じていないので、どの小説も「まあ今書ける限界」として書いていて、それは昔から変わっていなくて、たまたま人の目に留まった『科学喫茶と夏の空蝉』という話が本になっただけで、そこに優劣も特別な評価もない。ないし、あれを書いたのは2019年の夏だったので、つまりは僕が「なんとなく作家目指そう」って思い始めた2006年の夏頃から、夏期講習に行くべきだった、受験勉強をするべきだった2006年の夏から13年経って書かれたものが、まあある種の、区切りというか、ひとつの到達点として、遡ってみれば考えられるわけですよ。西尾維新に影響を受けて、西尾維新っぽいものばかり書いていて、それに対して悩んで、反対のことしてみたり、純文学を読み漁って模倣したり、色々試行錯誤して、「よし! 自分らしさが形になったぞ!」みたいな、区切りみたいなものを感じて書いたものが、偶然にも結果として形になって、「あー、自分のこの創作という作業にひとつの区切りと、ある種の救いが生まれた」みたいな安心感があったのに。
 のに!
 お前、やってること、『姑獲鳥の夏』じゃねーか!
 っていうことに、今日、気付いて。
 僕が本人だから感じるだけかもしれませんが、誰かの語りから始まるエピローグ、小難しい会話を主軸とした展開、物の怪の類が出る話、それに対する理論武装。科学的な話ではなくて、だけどまあ納得するようなこじつけだったり、そういう書き方というか。基本となる店があって、そこに仏頂面の店主がいて……わ、わぁ……ワァ……(泣いちゃった)。話のオチの付け方こそオリジナリティがあると信じたいけれども、それでもお前、ほとんどの部分が、『京極堂』じゃねーかと。
 でまあ、翻ってみると、過去に書いた、そこそこ自分が気に入っているシリーズ物って、大抵その流派の中にいるなということにも気付かされてしまった。あわわわわ。これが無自覚ってのが恐ろしいんですよ。僕は自覚して、この作家の影響を受けているのだ! と思い込んでいたのに、それらとは全く別の視点から見ると、無意識のうちに、恐ろしいくらいの影響を受けていて、それを10年以上覚えていないというか自覚していないというか、とにかく勘定に入れていなかった。
 恐ろしいわ。
 怖いよ、僕は僕が。
 まあでもその……うーん、流石にこの歳になると、だからと言って絶望したり鬱になったりこそしないんですけれども、いやはや、こんなに自分の源流にあるものに今更気付くことってあるんだ、みたいな驚きというか、伏線回収じゃあないですけれども、「お前ってマジで高校生のまんまなんだな」みたいな部分に久しぶりに触れたみたいな、そんな感じの話がしたかっただけです。
 例えばギターをまだ弾いてるとか、例えば異性の趣味趣向が学生の頃から何も変わらんとか、相変わらず当時好きだったバンドの曲を聴いているとか。これ、懐古主義でもなんでもなく、現在進行形で「全然好き!」が続いてるっていうのがね。なんだろう、例えるなら、学生時代に好きだった女の子がいたとして、その子と20年ぶりとかに出会った時に、「昔は好きだったけど、随分老けたなぁ」が正常な反応だと思うんですけど、僕の場合は「老けたなぁ! 老けバージョンも可愛いなぁ!」なんですよ。伝わりますか? 伝わりませんかね。そうでしょうね。「その瞬間のそれが好き」なんじゃなくて「その時好きになったものをずっと好き」なんだと思います、傾向として。全ての者は等しく変化(劣化)しますから、当時は好きだったけど今見るとあんまりだな〜、みたいなことは多いにしてあると思いますが、僕は割と「当時のものがどうなるか見続けたい」派なんだろうなと。「昔好きだった曲を久しぶりに聴いて今も好きなまま」ではなく「昔好きだったバンドの新譜を当たり前のように聞いてる」なんですよ。そういう部分を再認識したと同時に、まあどうやら、僕は「百鬼夜行シリーズ」をやりたいんだな、お前はそれをやればいいんじゃない? じゃあ、好きにしたら? みたいな、そういうのを再認識した次第です。

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 また話が長くなっちゃった。
 とにもかくにも、『鵼の碑』、楽しみです。と同時に、この夏はSF祭りと題して、売れているSF小説を課題図書にして読み切ろうとしていたんですが、予定を変更して「百鬼夜行シリーズ」を読む気がするので、それも楽しみです。まあ結構長い夏期休暇を取る予定なので、もしかしたら両方やるかもしれませんが……。
 うーん、原点回帰というか、『鵼の碑』を読んだら、また爆発的に打鍵するかもしれないなぁ……という気もしていて、そちらも楽しみ。無意識のうちに「自分がやりたいこと」に蓋をして、僕はいわゆる関口君みたいな状態だったので(分かる人だけ分かって下さい)、憑物が落ちた僕が、果たして今後どうなるのか……とにかく「百鬼夜行シリーズ」を読み終えてからどうなるのかを観察したいところです。

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 余談1。
 そう言えば僕が最初に書き終えた小説(これは、2007年の2月頃)は、オチが完全に『姑獲鳥の夏』の模倣でした。この時も実は意識していなくて、「やばい、面白いオチを思いついた!」と思って書いたんですが、数少ない僕の友人であり、僕と同じく講談社ミステリを愛読していた彼に読ませたところ、「これ、『姑獲鳥の夏』のオマージュ?」と言われて赤面したことがあります。あの時から何も変わっちゃいない。

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 余談2。
『鵼の碑』の発売日、なんという偶然か、僕の誕生日なんですよね。2023年9月14日。僕は35歳になります。2005年末に『姑獲鳥の夏』を読んだので、当時は17歳かな。『邪魅の雫』も誕生日あたりに発売だったはずなので(誕生祝いにもらった小遣いで新刊を買った記憶がある)、ほぼ17年間、僕は関口君状態だったのかもしれない。うーん、恐ろしい。恐ろしいけれど、死ぬ前にこの事実が分かって良かったというか、まあなんだ、楽しみですね!(色々恥ずかしい)

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 まあそんなこんなで、小説の新刊楽しみだね日記でした。
 本当、色々恥ずかしくて仕方ないんですが、まあその恥ずかしさを新鮮なうちに文章化することで一旦落ち着こうという意味合いでこれを書きました。
 逆に言えば、17年間、ひとつの小説の模倣で戦ってこれたのもすごいな。
 これからは色々な作品に影響を受けて小説を書きたいと思います。
 というわけで以上、福岡がお送りいたしました。また次回!

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