海士町

人を選りすぐるマインドと、人を活かし切るマインド

組織における人の重要性は昔も今も変わらず、むしろクリエイティブが求められるいまの時代は、さらに声高に叫ばれる。

昨今の人材獲得競争がその典型である。事業を成功させるためには、いかにいい人材を集めるか。人材の質が事業の成功確率を高めることから、とりわけスタートアップでは人材をめぐる競争が激しい。

大企業にも同じような構図がある。自分の部署に優秀な社員を獲得したいという願望が溢れ、「できる社員」はどこの部署からも欲しがられる。一方で、戦力にならないと烙印を押された社員は「使えない」とばかりに異動の対象となりやすい。部下も「上司がアホだから」などと愚痴るのは日常茶飯事である。

僕自身も雑誌の編集長をしていた時、社内外から戦力となる編集者を集めたいと躍起になっていた時期もあった。それが雑誌のクオリティを上げると信じていたのだ。

こういう人材獲得の考え方に、新しい視点を与えてくれる体験があった。

先日、島根県の海士町を訪れる機会があった。言わずと知れた地方活性化の成功例と言われる町である。日本海に浮かぶ離島であり、人口はわずか2300人。島にはスーパーもコンビニもない。しかし、廃校に追い込まれていた島の隠岐島前高校は、魅力化プロジェクトの成果により、いまでは県内一番の人気高となり、全国から3年間の島留学にやってくる。島にはこの10年ほどで約500人も移住してくるほど活気がある。海士町には2泊3日の滞在であったが、移住者や地元の人、企業の人や町役場の人など20人近くの方々とお話しする機会をいただいた。

島の人たちとの交流で感じたのが、お互いをよく知っているということである。これは人口の少なさと地理的な狭さも起因しているが、誰がいつどこにいたかが筒抜けである。クルマが通ると、ナンバーを見て「あ、○○さんだ」と声が上がるし、居酒屋に行くと「昨日、○○さんが来てたよ」となる。ここでは内緒の会合もデートも難しそう。ある家のおばあちゃんが高齢にも関わらずクルマの運転をするのが心配だという話しになれば、みんなで語り合う。つまり「顔の見える」世界なのである。そんな世界では表面的なつきあいをしたくても逆に難しい。同じ職場の仲間のことも、いやがおうにも、すべてを知り合いことになる。隠し事はできないとなると、隠そうともしないだろう。お互いがお互いをさらけ出さずことになり、それぞれの強みはもちろんのこと弱みも知り尽くすことになるのであろう。

こういう社会では、仕事で「あいつは使えない」と切り捨てることはないのではないか。なんせ島には2300人しかいない。「選りすぐりの人材を獲得する」という発想よりも、いまそこにいる人を「どうすれば活かすことができるか」という発想になるに違いない。

みなで成果を高めたいのであれば、誰がリーダーをやり、誰がどんな役割を担うといいかがおのずと明確になり、それぞれが得意な役割を担うことでそれを実現しようとする。人の数も限られる。お互いがお互いを知り尽くした中で、すべての人にそれぞれの役割を担ってもらうことが重要になる。事実、海士町では、もともと島で生まれ育った人も移住してきた人も、民間の人も行政の人も、一緒になって数々のプロジェクトを回している。特定の分野の専門家がいなくても、それぞれが知恵を出し合うことで、その役割を肩代わりしてしまう力強さがある。

島の至るところに「ないものはない」という言葉が掲示されていた。これは海士町のスローガンであり、2つの意味を込めたという。一つは、それこそ、町にはコンビにも映画館もないという実態を表したものだ。もう一つは、否定形の否定の「ないものはない」で、つまり「すべてある」という意味だ。すべてある。それは、あるものを活かし切ることで、すべてが揃うという考え方ではないか。

島の人と一緒に、スナックでカラオケ大会をした。皆それぞれの歌を歌うと同時に、それぞれが身の回りにあるものと使ってリズムを取って盛り上げたり、踊ったりする。中には自分のベルトさえ踊りの小道具にする人もいる。そこには最新鋭のカラオケはないが、遊び上手な人たちが溢れ「あるもの」だけで十二分に楽しいひと時を過ごすことができるのだ。

この「あるもの」を活かすという考え方が、人間関係にも流れているのではないか。とかく「適任の人と一緒に仕事をする」ことを意識しがちな自分に、海士町は「いま、そこにいる人を活かす」という考えの価値を教えてくれた。「ないものはない」という言葉には、「必要でない人はいない」という意味も宿っているのかもしれない。

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