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言われてしまうと、半分「負け」である

言われたことをやる。これは、どの世界でも信用を築くうえでの最低条件となる。しかし、言われたことをやっていても、決して高い評価につながらないのが世の常だ。

レストランで接客をしていても、お客さんから「お水をください」と言われて持って行っても、そのお客さんは決して何の印象も残らない。マイナスの印象は持たれないものの、決してプラスの印象を残すことはできない。
結婚している人ならわかるだろうが、奥さんに「ゴミを捨てて来て」と言われてやっていても、まったく家事を期待されていないレベルならともかく、夫としての評価を高めることにならない。人生のパートナーとしての期待値は、そんなレベルではないのだ。
上司から言われたことをやる社員も、減点はつかないものの、「可もなく不可もない」部下のひとりに過ぎない。そして、概して会社の仕事とは責任が大きくなればなるほど、「言われた仕事」がなくなっていくので、「言われたことをやる」社員は大きな責任を任せてもらえない。

要するに、頼まれごとを「言われた」ら、その時点で半分負けなのである。人が何かを「口に出す」というのは、欲求レベルが相当高いところに到達した後の最終的な行為なのかもしれない。欲求の最初の段階は本人さえ気がつかない。それが徐々に大きくなったところで、痒さを感じることになり、その時点で対応してあげることができれば、「痒いところに手が届く」と評価される。さらに欲求が大きくなり、自分で言語化できるようになり、その最後の最後に、それをある種の勇気をもって、口に出す。ここからの対応は、ほとんど事後処理に近い段階である。だから「言われる」前までに行動できるかが、相手の信頼や好感を勝ち取るカギなのである。

頼まれる前に行動するためには、観察と想像の2つが欠かせない。まずは相手の行動から話すときの様子までよく観察すること。「もう出ようか」が、帰りたいのか、もう一軒寄ろうということのか。それまでの文脈を観察しないと理解できない。そして、観察に基づいた現状の理解から、相手の状況を想像すること。ここでは「自分だったらこうしてほしい」を超えた、相手への想像力が求められる。言われる前に相手の欲求に合致した行動をするためには、この観察と、本人以上に相手のことを想像する力が必要なのである。

企業の新製品も同じである。ユーザーの声を反映しても成功しないのは、「言われた通りにしました」というレベルに過ぎないからだ。「ありがとう」的な対応はされても、「いいね!」や「凄いね!」と言ってもらえるレベルに到達しない。僕も雑誌の編集をやっていた際、読者の声に従って紙面を変えても、読者は喜びも驚きもせず、雑誌への愛着が深まらない実感があった。

「言われる前の行動」には、十分な観察力と想像力を必要とする。その結果、相手が驚いてくれたり、喜んでくれたりするわけで、それは「よくそこまで気を回してくれた」ことへの感動でもある。ようは、相手のことをどこまで考えられるか、なのではないか。


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