696 細野晴臣の伝説の名曲・夏の日の海が

夏の日の海が


 レコーディング・アーティストとしての細野晴臣のキャリアは、1969年の『APRYL FOOL』に始まる。しかし、細野はそれ以前にスタジオ・レコーディングを経験していなかったわけではない。立教大学在学中の1967~8年ごろ、まさに幻と呼ぶにふさわしい自主制作盤のレコーディングに参加しているからだ。
 ほとんど世に出ていないこのレコードについて、細野自身はこう回想している(※1)。「友達が自主制作盤で歌謡フォークみたいなものを作るんで歌ってくれないかっていうんで、女性と2人でデュエットしたことがあるんです。盤があるんですよ」 '70年代、'80年代と、細野が音楽界に確たる足跡を残していく中で、この幻のレコードは知る人ぞ知る存在であり続けていたようだ。例えば鈴木慶一は、1981年11月に行われた細野との対談(※2)の中で、この音源を1回だけ聴いたことがあると告白し、また細野も同じ対談の中で、「あれを引っぱり出してきて、歌ってくれって言う連中がいる」といささか当惑気味に語っている。無論その後、細野が件の曲を再演することはなく、時間の経過はその存在を我々の記憶から消し去ろうとしていた。
 だが、1993年5月8日、この音源は思わぬ形で世に知られることになる。山下達郎が自身のレギュラー番組『SUNDAY SONGBOOK』で「スターの下積み時代」という特集を組み、細野の作品として、唐突にこの曲をオンエアしたのだ。放送時、曲名は無題とされ、アセテート盤と紹介された。
 運よくこの放送を聴いた者、あるいはエアチェックしていた者は、「細野が歌う幻のデュエット曲」を体験できたわけだが、残された謎は余りにも多すぎた。「夏の日の海が」という歌い出しで始まる、一聴してにわかに細野の声とは信じ難い無防備なヴォーカル以外、わかることは何もなかった。曲の作者は誰か。デュエットしている女性は誰か。バッキング・メンバーは。曲名はないのか。細野晴臣名義の作品であるのか…。
 これらの疑問は今日に至るまで、恐らく公式には何も解決されていない。しかしこの音源の詳細は、有力な情報提供が得られたおかげで、ほぼ完全な形で判明している。ここでは情報ソースの一切を具体的に明かすことはできないが、明らかになった事実を整理して紹介しておきたい。1. 楽曲の背景
 話は細野の立教高校時代からの友人・阿蘇喬(※3)の演劇活動に始まる。阿蘇は高校時代、細野がキングストン・トリオのコピーをしていた時期にピーター・ポール&マリー(PPM)をコピーするなど、演劇と平行して音楽活動を行っていたが、立教大学進学後は演劇に専心するようになった。そこでの演目だった劇の内容を下敷きに作詞作曲したイメージソングが、レコードになった曲だという。つまり作者は阿蘇喬ということになる。2.レコード化への経緯
 1967~8年ごろ、阿蘇は同じ劇団に所属していた奥山有子(※4)という女性と、稽古の休憩時間などにギターを弾きながらPPMの曲や自作曲を歌ったりしていた。それを聴いていた劇団の先輩たちがレコード化を強く勧め、自主制作の形でレコーディングすることになった。3.細野の参加
 レコーディングが決まり、阿蘇がまっ先に思い浮かべたのは細野だった。細野の音楽的能力の高さは、高校時代のオックス・ドライヴァーズをはじめとする活動で、既に誰もが認めるところのものとなっていた。阿蘇自身、細野にギターを教わったりもしていたという。しかし阿蘇は単にプレイヤーとして細野の参加を求めたのではない。「歌のうまい奴」だった細野に、自作曲を歌わせることが狙いだったのだ。4.レコーディング
 レコーディングのその日、東京には雪が降った。スタジオは2時間押さえられていたが、時間になっても細野だけが来ない。阿蘇が電話をかけると細野はまだ家にいて、「雪の日でもやるの?」と言ったという。レコーディングはやむなく2時間延長されることになった。
 参加メンバーは、奥山有子(vocal)、佐藤光生(vocal)、「原くん」(drums)、遠藤靖三(flute)、阿蘇喬(guitar)。「幻のデュエット曲」の相手は奥山有子である。細野はこの曲でヴォーカルの他、エレキギターと、ドクターズ加入後本格的にはじめたエレキベースを演奏している。さらにもう1曲、佐藤光生がヴォーカルを務めた曲ではバック・ヴォーカルに回り、アコースティックギターを演奏した。
 この2曲のアレンジを実質的に指揮したのは細野だった。細野はリハーサルの時点で各プレイヤーにアドバイスや指示を出しながらアレンジを固めていったという。5.完成レコード
 細野が参加した2曲を含め、全4曲を収録したレコードは、1,000枚ほどプレスされ、一枚400円で自主販売された。盤にはレコード番号も付いていた(※5)。
 ジャケットは曲名とおぼしき文字が印刷されただけの簡単なものが付けられたが、面白いのはジャケットでのタイトル表記とレーベルでのタイトル表記が違っていることだ。例えば細野の参加曲で言うと、奥山有子とのデュエット曲はジャケットでは「夏の日の海が青いぞ!」だがレーベルでは「夏の日の海が」であり、また佐藤光生のヴォーカル曲はジャケットでは「あほむすこ-お前は誰だ」とされているがレーベルでは単に「あほむすこ」となっている。これは、レーベルの表記が当初の曲名だったのだが、ジャケットを作る段になってもっとキャッチーなタイトルのほうがよいということになり、変更されたためだという。
 アーティスト名は、レーベルに曲ごとにクレジットされている。「夏の日の海が」には「細野晴臣/奥山有子」、「あほむすこ」には「佐藤光生」とある。
 完成したレコードは、制作を務めた関係者が複数のレコード会社にも配って回った。その内の一社が「夏の日の海が」を気に入り、あるグループのB面曲として採用したという後日談もあったらしい。 「幻のデュエット曲」を追う中で明らかになったこれらの事実には圧倒される他ない。あとはただ、無理を承知で、この音源の「解放」を願うばかりである。
 ちなみに今回の調査でこのレコードの所有者は複数確認することができたが、細野自身でさえ、現物は持っていないという。

(文中敬称略)

※1 細野の発言はすみやHP『MEDIA MAX』(2000年)でのインタビューより。
※2 『バラエティ』2月号(角川書店/1982年)に掲載。
※3 阿蘇喬は写真家の野上眞宏と親交が深く、野上と細野を引き合わせた人物でもある。詳細はレコードコレクターズ増刊『はっぴいな日々』(ミュージックマガジン/2000年)を参照のこと。
※4 奥山有子はのちに永倉萬治(file 2参照)と結婚し、永倉が病に倒れてからも夫の執筆活動を献身的に支え続けた。
※5 レコード番号は「NDS-44」。「KING RECORD」のクレジットがある。

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