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430 ジャニー喜多川氏の生前最後のメディア出演・蜷川幸雄とのラジオ対談文字起こし
ジャニー喜多川氏の貴重な肉声・見切れなどを除けば、最初にして最後の正式なメディア出演だった。
ジャニーさんインタビュー集 蜷川さんラジオ編
2015年1月に放送された『蜷川幸雄のクロスオーバートーク第1回ジャニー喜多川』の文字起こし
蜷川幸雄のクロスオーバートーク第1回ジャニー喜多川
シリーズ第1回は、ジャニーズ事務所の社長であり、演出家のジャニー喜多川さん。
フォーリーブスに始まり、SMAP、嵐といった国民的アイドルを50年にわたり、育てているジャニー喜多川氏の素顔に、蜷川さんが迫ります。ジャニーさんの思い出の曲もたくさんおかけします。
(ナレーション)蜷川幸雄のクロスオーバートーク第1回ジャニー喜多川。この番組は演出家の蜷川幸雄さんが一つの世界を極めた巨匠を尋ね、極意を聴くインタビューシリーズ。1回目の今夜はジャニー喜多川さんです。ジャニー喜多川さんと言えば、SMAPや嵐といった日本を代表するアイドルたちを世に送り出したジャニーズ事務所の社長です。また、ジャニーズ事務所のアイドルが出演する華麗な舞台を作り上げる演出家でもあります。蜷川さんとジャニー喜多川さんの親交は50年にも及ぶのだそうです。
(ナレーション)インタビューを行ったのはある雨の夜の劇場。その日の舞台では、ジャニー喜多川さん演出のミュージカルが上演されていました。満員の客席の後ろで蜷川さんはジャニーさんと肩を並べて、舞台を見つめていました。蜷川幸雄さん79歳、ジャニー喜多川さん83歳。舞台からこぼれるほのかな光に照らされて、時折言葉を交わす二人が会うのは3、4年ぶりだとか。インタビューはその舞台を見た後始まりました。
(蜷川幸雄)会うのは久しぶりですよね。
(蜷川幸雄)3,4年ぶりぐらい(ジャニーさん)お忙しいもんね。
(蜷川幸雄)なんかジャニーさんところが稽古場に教わりに来たときありましたよね。MASKを素早く変える方法を教えてくださいって。(ジャニーさん)<笑う>
(ナレーション)インタビュー前に二人の巨匠が見ていたのは、ジャニーさんが作・構成・演出を担当したミュージカル『DREAM BOYS』で、およそ1か月分のチケットが即日完売したという大人気舞台でした。
(蜷川幸雄)今日の舞台って何日間ぐらい稽古してるんですか?
(蜷川幸雄)へぇ~どれぐらい?
(ジャニーさん)どれくらいだっけ?3週間ぐらい?(蜷川幸雄)わぁ~~~短いね!!じゃあ、あれだけの曲と振りも?(ジャニーさん)3週間といえども、3週間で全部やらなきゃいけないし、音楽もやらなきゃいけないし…(蜷川幸雄)ふふふ(笑)まぁ大変だろうと思った。それから、あれだけの転換をあれだけスムーズにやらなきゃならないし(ジャニーさん)(ジャニーズの転換は)速いですよぉ~(蜷川幸雄)速い!速い!(ジャニーさん)セットの移動なんかはこっち(演出側)が考えて(蜷川幸雄)事前に全部できてんですか?(ジャニーさん)ご存じの通り、劇場空いてからでないとできないので、だから劇場空くのはやっぱり何日か前なので(蜷川幸雄)何日間くらい舞台で稽古してるんですか?(ジャニーさん)舞台の稽古っていうのは1日だけです(蜷川幸雄)えぇ(驚)(ジャニーさん)我々はね、もうね、まぁ正直に言ってみんな生徒です、学生です。だから学校から帰ってきて、8時までに(引き)あげないといけないんですよ(蜷川幸雄)それ(労働基準法)があるんだ(ジャニーさん)だから、5時にしても6時(スタート)にしても、(8時まで時間がないので)2,3時間が勝負なんですよ
(蜷川幸雄)夜の稽古なんて出来ないわけなんですね
(ジャニーさん)できたとしても、もうすぐ帰さないといけないから。
8時までに帰さないと、5分でも遅れると新聞記者がうるさいですからね~
(ナレーション)ここでジャニーさん思い出の曲をお届けしましょう。世界各国に多くのファンを擁するスターを抱えるジャニーズ事務所ですが、50年前にも全米1位を獲得したかもしれない1曲があったそうです。1964年にレコードデビューしたジャニーズ事務所の初代アイドルジャニーズは、2年後の1966年に本格的なダンスレッスンをするためにアメリカに渡ります。その時、ジャニーさんの友人でもあるドン・アドリシ と ディック・アドリシ兄弟からジャニーズが歌ってはどうかと、彼らが作った曲を渡されます。その曲を聞いた瞬間ジャニーさんは「絶対売れる」と確信したそうですが、結局話が頓挫し翌年別のグループが発表します。それがThe Associationが歌った「Never My Love」全米で1位を獲得した曲です。それから50年、ジャニーさんは丁寧に、でも笑いながら言いました。「本当はこれジャニーズの曲なんだよ。ジャニーズが全米1位になっていたかもしれない曲」The Associationで「Never My Love」
(ナレーション)蜷川さん、ずっと聞きたくとも聞けなかったあのことについて切り出しました。
(蜷川幸雄)ジャニーさんはさぁ、タレントの事「YOU」って呼ぶでしょ?あれには自覚的な何かが?(意識してYOUと言ってるんですか)
(ジャニーさん)いや、あれねー全部ね、アメリカではYou must to do .「You」ってのは主語になってるから、つい「YOU」って言っちゃうんですよ。不意にね。いまだにこの年になっても瞬間的に「痛い」って言うとき「アウチ」って言っちゃうんですよ。(蜷川幸雄)ボク、ジャニーさんのところの若いタレントと仕事するとき、ジャニーさん元気か?とか、お前らの名前ちゃんと覚えられてる?って言うと「ジャニーさんYOUって呼ぶから覚えてるか覚えていないかわからない」って(ジャニーさん)それは大変失礼な話(笑)だけどもYOUしか覚えられない(笑)(蜷川幸雄)でも「YOU」ってのは便利ですね。ある年齢から固有名詞が覚えられなくなるでしょ?(ジャニーさん)そうです。もう固有名詞が(覚えられない)日本語めんどくさいですね…(蜷川幸雄)今日拝見した舞台に出ていた子の名前を何割覚えていますか?(ジャニーさん)覚えていないです。自慢じゃないけど覚えてないです(蜷川幸雄)覚えられないよね~(ジャニーさん)あれは何て子なの?って聞きはするけど、名前は覚えられないです。それはボクの悪いとこ(蜷川幸雄)(「YOUと呼ぶの」)ジャニーさんに合いますよ、そりゃ「YOUは?」って(ジャニーさん)覚えられないからね。はっきし言って(蜷川幸雄)ボクもね、昔、小劇団にいたときにね、100人ぐらいの人を使うわけですよ。それで全部名前を2日間ぐらいかけて覚えて、名指しで言っていくとみんな喜ぶんですよ。ところがねぇ、最近全然だめで(笑) (ナレーション)数多くのアイドルを世に送り出してきたジャニーさんは、演出家としての仕事も大切にしています。そのうちの一つ、KinKi Kidsの堂本光一さんが主演するミュージカル『SHOCK』は2000年が初演、一昨年上演が1000回を超えました。インタビューの収録が行われた日、蜷川さんとジャニーさんが観ていた舞台『DREAM BOYS』も2004年にタッキーこと滝沢秀明が主演して以来、KAT-TUNの亀梨和也さん、Kis-My-Ft2の玉森裕太さんなどが主演を務めてきました。また、Sexy ZoneとA.B.C-Zを中心にジャニーズ事務所のアイドルが多数出演するミュージカル『Johnny’s World』も2012年以来再演しています。同じ演出家として蜷川さん、ジャニーさんがどのように主役を決めているのか興味津々です。 (蜷川幸雄)俳優を選ぶのは、何人か主役に入ってきますよね、どうやって選んでるんですか?普段から見てるんですか?(ジャニーさん)もうそれは、こちらが(主役になれる人を)作っていかなければならない。作っていくからできるんです。(蜷川幸雄)ほぉ、バックで踊ったりしている中から見てて、アイツならいいかなとか思ってるんですか?(ジャニーさん)まぁまぁだいたいわかりますよね(蜷川幸雄)わかるんだー(ジャニーさん)そりゃわかりますよ。鈍感な子もいますからねー(蜷川幸雄)まぁねぇ(ジャニーさん)でも、鈍感は鈍感でおもしろいところがあるんですよね(蜷川幸雄)そうですよね(ジャニーさん)いまの若い子はすぐ覚えるけども、僕たちが一番最初に(演劇)をやったときなんか大変でしたよ。まず男が踊るもんじゃないとはっきり言われるしね。だから笑ってもいけないし。郷ひろみでもあおい輝彦でも昔の人間は、男は笑うもんじゃない、3回笑ったらいいとこだって。(昔の男性は)笑うことは知らないですよね。 ジャニーさんは、今まで男と女しかいなかった日本の芸能界に「少年」というカテゴリーを作った人物だともいわれています。大学生でジェンダーの研究をしている人は、このあたりの話を講義で聞かれている方も多いかと思います。少年が微笑み、踊り、歌う姿を当たり前のように目にした日本人には、ある種のマッチョイムズの抑圧がない世界観をすんなりと受容してきたのかもしれません。日本でのフィギュアスケート人気の根底の1つに、少年が「舞う」ことに対する抵抗の無さがあるからかもしれない、これにもジャニーズが関係しているのではないかと論じられることもあります。ジャニーズっておもしろいなぁ(しみじみ) ②へつづく
(ナレーション)蜷川さんは20年ほど前から、舞台に出る出演者をジャニーさんに紹介してもらっていると言います。その第一号は男闘呼組のメンバーだった岡本健一さん。1989年のことでした。続いてのアイドルは、SMAPの木村拓哉さん。唐十郎さんの作品『盲導犬』の出演者を探していた蜷川さんの頼みを聞いて、ジャニーさんはSMAPの木村さんと中居正広さんの二人を蜷川さんのもとへ連れて行ったと言います。
(蜷川幸雄)若い時から、何か困ると若い良い俳優が欲しい時に、ジャニーさんところへ誰かいい人紹介してよって言うと、ジャニーさんが何人か連れてきたり、情報をくれるわけですよね。それでずいぶんお世話になりました。若いころですよ。ジャニーさんもこんな演出家になってない頃ね、まだ。
(蜷川幸雄)木村拓哉がね、真夜中にボクが六本木を一人で交差点を渡ってたんですよね、そしたらさぁ「みっともねーぞ、そこのおじさん」って(ジャニーさん)大爆笑(蜷川幸雄)ふと見たら、木村くんが手を振って「夜中、男が一人で歩くんじゃねーよ」って(ジャニーさん)大爆笑 お前も一人じゃねーか(蜷川幸雄)そん時は(木村くんは)なんかスポーツカーみたいなのに乗ってたんですよ(ジャニーさん)あー(そういうことか)(蜷川幸雄)ずいぶん若いころ(ジャニーさんに)お世話になったんです。
(ナレーション)蜷川さんは忘れていましたが、ジャニーさんは少年隊の東山紀之さんも蜷川さんと引き合わせたことがあると言います。
(蜷川幸雄)東山くんがね「蜷川さん、ボク会いに行ったの覚えてる?」って、いやぁ知らないって「ボクだって面接に行ってるんですよ!!」って
(ナレーション)こうして、若いころからジャニーズのアイドルたちと深く関わってきた蜷川さんですが、常々抱いていた思いがあるそうです。それは、ジャニーさんに紹介されて起用したV6の森田剛さんを見て感じたことだそうです。
(蜷川幸雄)でもねぇ、僕ね、感心しているのはね、ジャニーさんのところは懐が深いね。森田くんとかさぁ、ああ言う変わった子をちゃんと
(ナレーション)そして、2011年から2012年にかけてギネス世界記録に「最も多くのコンサートをプロデュース・最も多くのチャートNo.1アーティストをプロデュース・最も多くのチャートNo.1シングルをプロデュース」の3部門に認定されます。
(ジャニーさん)あのね、ギネスはやっぱり世界ですからね。日本だけではないんですよね。だからそれは大事にしたいと思います、はっきり言って。世界には彼ひとり、ボク一人になるから。世界を対象にして生きるべきだなって。マイケルジャクソンは7部門あるから(取っているから)、ボクも7部門取りたいと思ってる。
(ナレーション)ジャニーさんは、アイドルとして芸能界で成功するための一番の資質は「真面目なこと」だと言います。
(蜷川幸雄)みんな真面目ですね~。真面目であるってことは特別な教育してるんですか?
(ナレーション)話題は最近の若者たちへと移ります。
(蜷川幸雄)最近の若い男の子の顔つきがみんな似てるってことはないですか?
(ナレーション)なんとジャニーさん個性を際立させるためには坊主頭にするのが良いというのです (ジャニーさん)何の特徴もない。だからやっぱり、女の子じゃないから、ほんとに坊主にしてもいいんですよ。昔のうち(ジャニーズ事務所)は、東山にしろマッチにしろ、マッチは何で「マッチ」って言ったか知ってます?マッチ棒みたいでしょ?その通り。僕はすごく坊主の子はいいなと思うんですよ。そのままの形が見えるから。髪の毛でごまかしてるのは、女性ならともかくも、男が髪の毛でごまかすのは…(蜷川幸雄)みんな似てますよね(ジャニーさん)みんな似てる(蜷川幸雄)細いしね。「えんぴつ」や「割りばし」って呼んでますよ。(ジャニーさん)それはね、スタイルが良くなったんでしょうがないけども。う~ん。髪の毛だけはなんで同じようにしなきゃならないの?(蜷川幸雄)それはジャニーさんところのが問題(原因)じゃないの?(笑)(ジャニーさん)いや!違う!髪の毛は、髪の毛は坊主にしたい。坊主はすごくかっこいい、みんな。だから僕がアメリカに行ったときに、男闘呼組にハチマキをやらして、そしたらNYで「これかっよいい」ってなって、それが『KARATE KID』なんだよ。マネして。『KARATE KID』ってアメリカで映画でも流行ったけど、すぐコピーした(された)。やっぱりにっぽんのあれは(ハチマキ)かっこいいって。
(ナレーション)そしてお話は人気絶頂の嵐にも及びます。
(ナレーション)ここでジャニーさんの好きな曲をお届けしましょう。「ジャニーさんの好きな曲はなんですか?」そう初めて聞いたとき、一瞬じーと考えて困ったように言いました。「音楽を提供するプロという立場としては、好きな曲を答えずらいです。それからしばらく話をした後で、ジャニーさんはふっと思い出したように笑いながら言いました。「本当はたくさんあるんだよね、好きな曲」すぐには答えられなかった分、音楽に対する強い思いが伝わりました。ジャニーさんの好きな曲、たくさん紹介したいと思います。先ほどお話に出てきたモンキーズ。そう、あの有名な曲を歌ったグループです。"Daydream Believer"
パート③ ジャニーさんと戦争のおはなし
(ナレーション)ジャニー喜多川さんのキャラクターは日本とアメリカの二つの祖国ではぐくまれてきたものです。生まれたのはアメリカロサンゼルス。1931年、昭和6年のことでした。ご両親はともに日本人ですが、布教のためにアメリカに渡っていました。しかし、太平洋戦争が勃発し、10歳を過ぎたころ、父親の故郷である和歌山に身を寄せます。数年後の昭和20年(1945年)、戦争末期にあった空襲が今でも忘れられない体験だと言います。ジャニーさんが空襲に巻き込まれたのは、偶然の出来事がきっかけでした。
(ジャニーさん)僕は、和歌山新宮~勝浦のあたりに僕のおじいちゃんがいたんですよ。そこに島を持っていて、その島で温泉を経営してるわけですよね。そこで生活したんですよ、戦争中は。そこでちょうど夏休みかなんかで、大阪の方へ遊びに行ったんですよ。それでその帰りに自分の家に帰るつもりで和歌山を通って国へ帰ろうと思ったら、昼間の2時15分が最終便なんですよ。それに間に合うように南海電車に乗って行ったんですけど、切符がないわけなんですよ。証明書を学校が出してくれて、それにサインして渡すと切符が買えるわけですよ。その時に、「これはインチキだ」と駅員が言い出して、なんでかというと「インクがまだ濡れてる」からだと言うんですよ。(インクが濡れてるから)今作ったばっかりだと。そりゃそうですよ、サインはその場で書くんだから。でもそんなこと言うと(インチキじゃないと説明しようとしても)子供だからバカにして相手にしてくれない。そうこうしてるうちに、汽車が出ちゃったんですよ。それで僕は駅長室に行ってに文句言ったんですよ。「冗談じゃないよ」って1便しかないのに、明日まで待ってもいつ帰れるか分からないと。そんなこと言ってもしょうがないから、和歌山市駅の前で旅館を探して、ちょうど真ん前の角に旅館があって、そこの2階が空いてたたんですよ。それで旅館の2階(の部屋)を借りて。それでそうこうしているうちに、その夜に空襲警報があって…。
(ナレーション)ジャニーさんが空襲に合ったのは、和歌山市内。アメリカで生まれ育った自分が、アメリカ軍の攻撃を受けていることに割り切れない思いを抱いたと言います。
(ジャニーさん)空襲警報の時に、駅のあたりは焼夷弾でばばばばばーんとやられちゃったんですよ。僕は焼夷弾から逃げるのに必死だったんですけど、(なんとかして)和歌山城の方へ逃げたんですよ。兵隊さんみたいな人が1人来て、「坊や、だめだめ」って、そうじゃないな(関西だから)「アカンアカン」って笑。子供だから何が何だかさっぱりわかんないんですよ。それで、「和歌山城の逆の方へ走れ」って言うんですよ。でもガードみたいなのがこんなにあってね、それを越えてるときに焼夷弾がばかぼこ堕ちるんですよね。そこを潜り抜けてだーっと、とりあえず紀ノ川の方へ走ったんわけですよ。紀ノ川ということも初めてだから(和歌山に馴染みがないから)わかんないわけですよ、誰もいないところを紀ノ川のう方へ向かって、兵隊さんの言う通り紀ノ川へ走ったわけですよ。和歌山城まで行くのにすごい距離があるんですけど、人の死体がいっぱいで、みんなもう(亡くなっていて)。そこで和歌山の大空襲にあったという経験があるわけですよね。アメリカにいるはずの僕が、なんで一生のうちに一回しかない空襲に合ったか。そういうことが多いんですよ僕の人生。和歌山空襲ってのは1回だけですからね。そういう運命だったんですよ。怖い世界を歩き回って来たんですよね。
この辺りのストーリーは舞台『少年たち』にも出てきますね。「そういうことが多い」とは、ジャニーさんが当初「日航機墜落事故」の飛行機に乗る予定だったということを指しているのかな?と考えています。
(ナレーション)終戦後、ジャニーさんはアメリカロサンゼルスに戻り、その何年か後に始まった音楽番組「Perry Como Show」をよく見ていたと言います。歌手でありながら番組の進行もこなすエンターティナーPerry Comoの声が大好きだったそうで、彼の曲なら全て好きだとか。その番組を見ていたちょうどそのころ、ジャニーさんが芸能人に接したいわば原風景となる体験をすることになります。その話はまた後程。まずは曲をお聞きいたしましょう。Perry Comoで「Papa Loves Mambo」
(筆者補足)ジャニーさんは戦後、またアメリカに戻り高校・大学をロスで過ごします。
(ジャニーさん)学生時代からずっと音楽専攻。ステージングからアカペラのコーラス隊、切符切りに至るまで様々な勉強をしましたね。だから、あの頃の名作ミュージカルは百二十パーセント見ているという自信がありますよ。初演前のオフブロードウェイを、わざわざフィラデルフィアまで観に行ったこともある
引用:産業としての「ジャニーズ」を科学する
昔ジャニワの時に、ちびっ子ジュニアに切符切り(入場スタンプ押)をさせたり、ジュニアの子に先輩の早替えを手伝わせたりしますが、これはジャニーさんが学生時代に学んだことをジュニアへ伝えているということだと考えています。
(ナレーション)終戦後、ジャニーさんはアメリカロサンゼルスに戻り、現地の高校に通い始めます。その数年後、歌手の美空ひばり、笠置シズ子といった日本からアメリカ公演に来た芸能人と接したことが、芸能生活に関わった始まりだと言います。
(ジャニーさん)終戦後またアメリカに戻りますよね。アメリカに戻った時に、うちの親父がロサンゼルスで牧師さんだったので、その教会があるわけですよ。それが終戦後、その教会を利用して日本の美空ひばりちゃんとか田中絹代さんとか勝太郎さん、京マチ子さんとか、いろんな人がうちの教会を使って(公演した)、劇場がないもんですから、終戦後来たわけですよ、どんどん。それが、その頃は1950年だとおもいます。それからぼんぼんぼんぼん来て、一番最初に来たのは田中絹代さん。
(ナレーション)ジャニーさんは日本からアメリカに来た芸能人たちが、ロサンゼルスで講演を行う際、通訳を含め色々お手伝いをしたそうです。その時、はるばる海を渡ってきた芸能人たちの力になろうと、自分の利益は考えなかったと言います。
(ジャニーさん)その時にやっぱり我々がお手伝いしないと、アメリカに来た意味がないんですよね。わけもわかんなくね、ドルも貰えないし、そのころぜんぜんもう、アメリカに来るだけのギャラですよね、言い換えればそんなもんだったんですよ。1950年のときですよ。アメリカに行くってことだけで大変だったんですよ。宮武さんていう写真屋さんがあるんだけど、そのと「アメリカに日本人が来たら、うちら最高に何か(協力できること)やろうね」と話していたことがあるんですよね。僕も子供だったから、(芸能人の方の写真を撮って)1枚50セントで会場で売るわけですよ。飛ぶように売れたわけですよ。それを芸能人の人に「はい、これ売上」って渡したら、「いやーそんなの1銭も貰えない」とみなさんおっしゃる。これは、僕が貰うわけにいかない、これはあなたたちの肖像権で買った売上だ、お金だということで(受け取ってもらって)。1枚50セントだけど3枚なら1ドルで売れたわけですよ。だから、子供のころからそういう仕事をしているわけですよ。自分のところの劇場で。無理やり(お金)持って帰ってもらったんですよね。あなたたちの写真でしょ。大変な価値があるんですよねって。
(筆者補足)ジャニーズが肖像権にうるさいのは、このあたりの考えが根底にあるからだと言われています。
(ナレーション)ジャニーさんが、ロサンゼルスから日本に帰国したのち1962年頃に30歳を過ぎてから映画「ウエストサイドストーリー」と出会います。
(蜷川幸雄)ジャニーさんは、一番初め自分の事務所というか、タレントたくさん集めてやろう思ったのはいくつぐらいですか?
(ナレーション)ジャニーさんに事務所を立ち上げる決意をさせた映画「ウエストサイドストーリー」その中でも一番好きなのは「COOL」という曲なのだそうです。ダンス曲としても最高なのだと説明してくださる表情はまさに真剣。本当に好きなんだという思いが伝わってきます。この曲がなければジャニーズ事務所を立ち上げることはなかったかもしれませんね。映画「ウエストサイドストーリー」から「COOL」
(ナレーション)ジャニーズ事務所が立ち上がり、いよいよ芸能界へ参戦。そこからジャニーさんのスター育成が始まります。ジャニーさんがアイドルを育てる上での哲学とは?
(ジャニーさん)アイドル作りって人間作りですよね。人間作りは難しいと思う。それだけにやりがいがある。
(筆者補足)前半部分は、2019年の舞台『少年たち』で「ジャニーさんの声の挿入」で使われていた部分だと思います。
(ナレーション)蜷川さんの印象に残ってるのは俳優の藤原竜也さんだと言います
(蜷川幸雄)藤原くんなんて中学生なのに眉毛反り上げていましたからね。山に(地方に)住みながら。
(ナレーション)蜷川さんは俳優を育てるとき、気づいたことは事細かに指導すると言います。
(蜷川幸雄)後は厳しいダメ出しですよね。僕もあと何年いい仕事できるか分からないから、今のうちに細かくやろうと思って、ここ何本かすごく細かいですね全員に対して。みんな若返ったって喜んでますけどね。それは大スターだからと言って容赦なくダメ出しはする
(ナレーション)スター育成についてジャニーさん独自の哲学がある一方、若手に接するとき譲れないポリシーもあるようです。
(ジャニーさん)理屈っぽいジジイみたいなことは言わないですけどね、かっこよく生きたいから。「お前らねー、俺が若いころはねー」とかは言わないですよ、絶対。絶対昔の話はしないですよ。当然みんなそんな話聞いたことないですよ。伝えたいことは今現実にいろいろやってる、これが伝えたいことですよね。でも自分の言葉で伝えたってしょうがないですよ。なんで戦争から生き残ったのがオレかなんかな関係ないよね。自分が事実を知っているからこそ、いかにそれを説得するか、教えるかって考えられないもんね。僕は自分の作品を作るので精一杯。だからおつりがないんですよね、全然。貰いっぱなしで。
(筆者感想)思いは全て作品に詰め込んでるということですかね?だからあんなにトンチキに笑 思いが詰まりすぎて思考が追い付かないんですよね。隙あらばシェイクスピアつっこんでくるし笑
(ナレーション)ジャニーさんは最近の若者について、こんな感想も持っています。
(ジャニーさん)今の若い子はねぇ、昔はよかったねぇとかいうのは嘘。昔が良かったということはありえない。今新しいどんどんどんどんよくなってる。だからねぇ、みんな覚えるのも早いし、だって僕自身がツーステップ踏むだけで大騒ぎだったもん。それと同じでアイススケートもおんなじこと。「ちょっとみんな、アイススケートの練習しに行こう」っていったら「えぇー」って。「みんなが滑れるか見たいんだから」って。僕が「こうやって滑るんだよ」って教えるの。でも30分ぐらいになると、そこで滑っているのよねー平気で。それで1時間ぐらいたつともう大変。こっちなんて逆に手すりでこうやって。そんなもんですよ、若い子の力ってのはすごい。こっちは教えるつもりで行ったら、教えられるのよ。あとは(子供たちで)全部自分でできる。
(筆者感想)ジャニーさん、ジュニアと一緒にゲーム機使ってゲームして、ジュニアにぼこぼこにされたエピソードもありましたね。子供たちが遊んでる様子(表情)をチェックしているといわれていますが、どうなんでしょう
(ナレーション)蜷川さんも最近の若手にはいい素質を持った人が多いと感じています。
(蜷川幸雄)僕だっていい演劇人を作るためには、今の30歳31歳ぐらいがずらっといるんですね。いい俳優が。小栗旬くん・藤原竜也くん・綾野剛くん・いまでも即名前が出てくるのはだいたい31ぐらいですよ。彼らが演劇的な経験を積んで、きちっと日常的なセリフも言え、シェイクスピアの古典的なセリフも言える俳優を育てる。それを早くやっちゃわないと、伝えらんないし、エネルギーがかかるわけね。語尾が違うだろ、半音ずれてるだろ。半音ずれは何だ!日常生活をそうやってるのかとか、細かいことを指示しながら、時に話は私生活に及ぶわけだ。TVでインタビューされてるのに、生意気な態度をしてると、「そんな態度でTV出るなよ。失礼だろお客に、視聴者に」例えばそういうかかわりを持ちながら、言ってみれば、日常生活の何かが現れたりすることだってあるじゃないですか、人間の素質含めて。例えば、集団でやってる仕事だから、稽古場をムスッとした顔して入ってくると「アイツなんだ、何かやなことあったのか、この芝居気に食わないのか」。少なくとも心ある人だったら、その俳優がどうやって稽古場に入ってくるか見ているわけだから、理由なく単なる前の日に犬かなんかに噛まれて、例えばだよ。不愉快になって入ってくるなと。ちゃんとその日の仕事はみんなが気持ちよく仕事できる態度を選んでで入って来いと。そいうことから教育しないかぎり、一人の俳優って育たないわけだよ。だから、すごく手間暇かかる。ほんとにお水をあげたり、栄養あげたり、ご飯を食べない俳優にはご飯を食べろと。一緒にご飯を食べたり、うどんをわけっこしたり、そうしながら才能あるなってあるやつを育てていくわけ。手間暇かかるわけ、それをけなされると、このやろう殺してやるっと
(ナレーション)蜷川さんの俳優を育てていきたいという情熱は、並々ならぬものがあります。
(蜷川幸雄)お前らは片手間に批評してるかもしれないけど、オレたちは一発勝負でそれがダメだったら職が無くなると。あるいは再起不能になるかもしれない。それだけの思いで劇評を書くのかとボクは言うわけ。初めてやるボクらと同じように初めて見る演劇として舞台を見ろと。前線にいる俳優は、弾を直接浴びるようなものですから、演出家なんて後ろにいるからいいけど。その時は真っ先に飛び出して、ちゃんと飛び出してくる銃弾を受けてあげなきゃね。そういう関係の中で、一人の俳優を育てていくというのは片手間じゃできないよ。それでなんとかして、早く2,3年のうちに死ぬ前に全部伝えて、自立できる俳優をたくさん残しながら、ボクが考える演劇ってものを受け継いでくれるといいなと思ってる。もちろん絶対だとは思ってないですよ。思ってないけれど、そういうことの1割や2割が通じて、その1割や2割は世界に通用していることもあるんだから、正しいこともあるだろうと思うわけね。
(ナレーション)蜷川幸雄さんとジャニー喜多川さん、お話を聞いているとお二人ともそれぞれ自分が育てた俳優やアイドルたちにも演出家としての方法論を伝えていこうとしています。いったいなぜなのでしょうか?
(ジャニーさん)タレントが自分で、まぁ錦織みたいに自分で演出したりするのが好きなんですよ。やっぱり。どうしても、自分たちでやらすと嬉しがってやるんですよね、みんな。だって僕が一人でいろいろやると大変ですから、自分で作るものは自分でやりなさいってことですよね、はっきり言えば。
(蜷川幸雄)手出しできない。集団も長い間やってるとリーダーみたいなのが出てきて、嵐なんかにも聞くんだけども「誰が演出なんかしてんだぁ?」って聞くと「だいたい、誰が一番発言力強いかな?」とかって、自然にやるべき人が何となく現れてくるんだよね。一つはジャニーさんのテクニカルな後継者がいないこと、技術ばっかりじゃなくて人間的なすべてがかかって統一されていくんで、そういったすべての事が、小さな信頼からスタッフの信頼までもを担わないと、こんなにおおきな舞台だと、きちっとしたテクニックがないとできないですよね、フライングを使っていいのかとかいう予算の問題とか、レールで移動しているとかいろんなことがあって、あそこでもうあんな早くフライング使っちゃうんだとか、普通だったら大事にとっとくわけね、見せ場にしようと思うから。でも慣れてるから、別にジャニーさんにとって目新しいことじゃないわけだ。そうするとのっけのほうのもったいないところで、びゃーってあげちゃうからさ、どうすんだ後の山場は。そこの全体を統一する力を持っている人がジャニーさん以外いないんだよ。だから若い人はちょっと太刀打ちできない。そして自分たちでやらせるってことは、一番文句も出ないし、自分たちで責任取らなきゃならない、そしてジャニーさんがサジェスチョンだけ与えてればいいってふうにしてんだけど、、、死ぬまで口出すだろうね。(ジャニーさん)まぁ悲しいけどそうだね。我々どうしても口出さないわけにはいかないんだけど。みんな嫌うかもわからないけど、でもまぁ生きてる限りはそうせざるを得ないっていう気持ちはありますよね。それは自分に与えられたところだから、自分で責任持たされた範囲は自分でやるってことは、当たり前のことですよね。
(ナレーション)蜷川さん、ジャニーさんの思いの深さに改めて脱帽です
(蜷川幸雄)貴重な存在なんだよ、天然記念物「トキ」みたいな人ですよね
(ナレーション)さて、ジャニーさんは今後も舞台の演出を若手自身でやるように言い続けるのでしょうか?
(ジャニーさん)(自分で演出を)しなきゃしょうがないですけれど、でもいま若い子が、うちで育でてる関西ジュニアの子たちが、ボクが日生劇場で彼たちに全部自分でやれっていったんですよ。自分でやれって。一切手を貸さない。教えないといけないから。でも、こっちもいたたまれなくなってきて、手を貸すこともあるけども、でもやっぱり関西の子たちは今回はいい経験だなと思いますよ。そんなことやらしたの始めてだから。僕も年だから。おじいちゃんですから。
(ナレーション)自分の持つ情熱や方法論を後世に伝えたい。それは蜷川さんもジャニーさんも同じ思いです。
(蜷川幸雄)危機感無かったらバカですよ。この腐ったような演劇界や芸能界や日本で。
(ナレーション)芸能界の第一線を走り続けてきたジャニーさん。そんなジャニーさんのことを蜷川さんはどう思っているのでしょうか。
(蜷川幸雄)僕が言うのもおこがましいけど、ジャニーさんは大変だったと思うよ。つまり日本には今までなかった形態を生み出して、そしてあんだけ持続的にタレントを育てて、スターを育てていくっていうのは、それはもうどこに地雷があるかわからない、もう何個か踏んでるだろうと思う。そういう中で、単独で出てきてる人だからさぁ、ほんとに、周囲は銃弾がばちばち飛んでくる中を走り抜けた人だと思う。それはなかなか自分で語らない人だと思うけど、やっぱジャニーさん大変だよな思うけど。こういうジャンル、これだけの少年少女の欲望を組織できるちゃんとした世界を作ってるわけだから、それはいろんな屈辱的な思い、喜びもあるだろうけど、大変な思いをして走り抜けたんだと思いますね。そう意味ではボクは尊敬に値する人なんだと認めていますけどね。
(ナレーション)ジャニーさんはこれまで何を思い、何を信じて演出家としての道を歩んできたのでしょうか。
(ジャニーさん)「信念があるからオレはやってるんだ」っていうことは嫌いですよね。しんどいからできると思うんですよ。理屈っぽいけど。「これしんどいことだな」と思ってるからこそできるわけで、ほんとにいつのまにか楽しみか喜びになっちゃうのね。芸能界ってところはそういうところですよね。自分はいつか(スターになる)なんて言って。今出てる子なんかでも、誰もバックだけで生きていこうとは思わない、意欲があるってことはみんな知ってるわけですよ。それは一般社会の仕事だって同じことだと思うんですよね。そりゃ、いつかは自分は実るだろうって気持ちが当然あると思うんですよ。芸能界はそれ以上に体をもって表現していく人間ばっかりだから、やっぱりタレントは一生っていうのがあるから、このままポーンと(育てている子を)捨てる気は全然ないですよね。彼らが生きる限りは絶対やっていかないとという信念はありますよね。信念はなんなんですかね?根性ですかね?そのへんが分からないですけど、やっぱり楽しいですよね我々は。一日だって辛いと思ったことはないです。みなさんも楽しみが返ってこないとしょうがないと(やってられない)思うんですよね。僕はそう思います、正直に言って。自分のやってることに辛いと思ったこととか、悲しみとかないんですもん。(子供たちが)やってくれることはすごく嬉しいことだと思う。みんなそれぞれ育っていきますからね、みんなそれぞれ達成した時が嬉しい。毎日が達成ですけれども、そういう日々がすごく自分の中で、皆の中に(達成した経験が)あるっていうのはいいことですよね、嬉しいことですよね。芸能界そのものが、我々に与えられた宿命であり、それがすごい良いことだと思う。本当に芸能界は素晴らしいですよ。アメリカはみな芸術家ですからね。芸能界は。日本の発想を考え直さないといけないと思いますよね。位が一番下なんですって?芸能人は、昔は
(ジャニーさん)それはボクはおかしいなと思う。ボクは全然ないから、あたまからそんなこと考えもしないから。常に芸能界の人は胸を張って生きる人ばっかりだから。芸能人ってことを、うっかりすると日本人はそう(身分が低いと)考えていたかもわからない。
僕はアメリカ(アメリカの視点)から見てるから。すごい劇場を借りて「芸能人に出てもらう」っていう発想から来てるから。アメリカの考えがあるから、そんなこと(芸能を低く見る)あったらいけないことですよね。
(ナレーション)そして、大切な舞台を見に来てくれるお客さんをジャニーさんどのように感じているのでしょうか?
(ジャニーさん)モノが始まったら、お客がいかに喜ぶかを見るのよ。この1月にやるあれも、もし1分なりとも気に食わなかったら、その3時間の中で1分なりとも気に食わなかったらお金を返すってはっきり言ってるんですよ。お客に対しては1分なりとも無駄なことをしては申し訳ないと思う。だから絶対に100%はあたりまえ。お客に満足してもらうように作るのが我々の商売ですから、それを成立させないといけない。一人一人がみんなその精神でやってるから、1分なりとも無駄にしないで出てる(舞台に立ってる)わけですから。(僕は)必ず言うんです「1分無駄にしたら、罰金払わなきゃいけないよ」って、そういう事です。お客はお金を払ってきているんだから。
ジャニアイ・ジャニワ
(ナレーション)ではここでジャニーさんの思い出の曲をお聞きいただきましょう。今回挙げていただいたラインナップの中で、唯一ジャニーズ事務所のアイドルが歌った曲です。元々はとてもアップテンポの洋楽なのですが、スローにアレンジしたお気に入りの曲なのだそうです。あおい輝彦で「時計を止めて」
引き続きジャニーさんインタビュー集 最後は面白ジャニーさんの話です。
(ナレーション)インタビューも終盤に差し掛かりました。ジャニーさん最近起こった大事件があったそうです。いったい何が起こったのでしょうか。
(ジャニーさん)最近では、エレベーターをかっこよくつけたりしてね、エレベータをつけたのはいいけど、いきなり止まっちゃって、それで4日間エレベーターの中で閉じ込められちゃって。
(略)蜷川エレベーターエピソード(ジャニーさん)そのエレベーターは、本来クレームを言うべきなんですけど、許可が下りる前にボクが使っちゃったから(笑)
(ナレーション)そんなおちゃめなジャニーさんに、蜷川さんのどこがすきなのかきいてみると子供のような笑顔で答えてくれました。
(ジャニーさん)すべて、感動しちゃうんです!!あのねぇ、例えばねぇ、自分が(蜷川さんが)オリンピック頼まれたら「オレよりジャニーの方がよく知ってるから」とか平気で言うんですよ。僕はそんなこと言われたって有難迷惑ですけど(笑)
(ナレーション)若いスターを束ねるジャニーさん、一方の蜷川さんは幅広い年代の俳優に挑戦を続けています。違う個性を持つ者同士、二人は互いをとても尊敬しています。
(ジャニーさん)若い子もなんかも蜷川さんをみんな知ってるんですよ。今日はこれ蜷川さんが観たっと言うとびっくりするんじゃない?って脅かしたんですけどね、尊敬される人ですよね
(ナレーション)83歳を過ぎてもなお舞台への情熱を失わないジャニーさん。蜷川さんはますますジャニーさんが活躍することを期待しています。
(ジャニーさん)81歳がピークでしたね。もう大変ですよ、年取ると。だから先生も年取る前にちゃんとやっとかないと。
(ナレーション)そして最後にジャニーさんはこれからやりたいことを教えてくれました。
(ジャニーさん)若い子はこれからどんどん伸びていくけど、やっぱりねぇ大事しないといけないと思う。タレントとして育ってるけど、人間としてまだ育ってないわけですよ。ボクはやりますよ絶対に。死ぬまえにちゃんとやります。若い子をね、若い子を築き上げなきゃ。金儲け主義でやってるっていうわけでないのは分かると思います。いかにもボクが築き上げた人のように聞こえますけど、違うんですよね。これから、築き上げることによって、子供たちも育っていくってことなんですよ。
(ナレーション)では、ここで最後にジャニーさんの思い出の曲をもう1曲。昔から大好きな歌手、それはドリス・デイ。歌手でもあり女優でもある彼女が出演する映画は必ず劇場に観に行ったそうです。「彼女は歌にドラマがあるんだよね」思い返すようにジャニーさんは言いました。ドリス・デイで「センチメンタルジャーニー」
(ナレーション)今回のインタビュー収録時間は2時間以上に及びました。最後にマイクを外した蜷川さんがジャニーさんに一言声を掛けました。ジャニーさんも真剣な顔で答えます。
(蜷川幸雄)いい仕事してくださいね
(ナレーション)演劇界の巨匠蜷川幸雄さん。国民的アイドルを次々と世に送りだしたジャニー喜多川さん。二人の巨匠のお話、いかがでしたか?俳優とアイドル、ジャンルは違いますが、若手を育て上げようという深い思いには通じ合うものがありました。円熟してもなお尽きない二人の情熱は、これからも新たな世界を切り開いていくことでしょう。
おわり
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