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削除されたページより。凄い研究だったので貼っておく。

排泄行為論



目次

第1節:女の立ち小便(1.1):わたしの体験(1.2):渡辺信一郎・永中順の場合(1.3):『生活絵引』の写真(1.4):曲亭馬琴『羇旅漫録』の場合(1.5):小山田与清『松屋雑記』・喜多村均庭『嬉遊笑覧』の場合(1.6):『真臘風土記』の場合(1.7):十方庵敬順『遊歴雑記初編』・南方熊楠・安田徳太郎の場合
第2節:男のしゃがみ小便(2.1):西川一三の証言、蒙古・チベット(2.2):イスラム教の場合(2.3):インド・パキスタン・バングラディッシュ(2.4):性器信仰
第3節:スカートとズボン(3.1):下着と排泄姿勢(3.2):パンティ(3.3):尿筒(3.4):裸族(3.5):究極の排泄スタイル
第4節:便所(4.1):野糞・野しっこ(4.2):手洗い(4.3):便所のない生活(4.4):携帯便器(おまる)(4.5):腰かけ式(4.6):中世都市の排泄問題(4.7):「トイレの考古学」(4.8):便所の普及
第5節:糞尿問題の将来(5.1):ユーゴー(5.2):下水道史概観(5.2.a)   a:欧米の場合(5.2.b)   b:日本の場合(5.3):下水道の本質(5.3.a)   a:下水道の機能(5.3.b)   b:下水処理(5.3.c)   c:流域下水道(5.3.d)   d:個人下水道(5.4):携帯便器(おまる)の将来性(5.5):未来をふくむ現在(5.5.a)   a:空気・水・食べ物(5.5.b)   b:植物・細菌・古細菌(5.5.c)   c:生命活動とエントロピー(5.5.d)   d:地球圏(5.5.e)   e:未来をふくむ現在
あとがき
文献



(1) 女の立ち小便




(1.1):わたしの体験
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女の立ち小便は、いまから30年か半世紀もさかのぼれば、日本の農村で日常的に目にすることができた生活習慣である。わたしは1950年代はじめまで、山陰地方の山村で少年時代を過ごしたので、ごく普通のこととして目にしている。といっても若い女性ではなく、中年以上の(子供の目から見てであるが)モンペをはいて農作業をしている婦人たちについての記憶ばかりであるが。

わたしが住んでいた家は、おそらく江戸時代末期まではさかのぼるだろう茅葺きの農家で、母屋の南東隅に小便所があり、扉はなくて1方は家の外壁、2方が腰板でかこまれ、土足で用が足せるようになっていた。小便つぼが作りつけに置いてあって、周囲に足のせ用の板が敷いてあり、小便つぼ内の水面へむけて放尿するようになっていた。
その近くの別棟に便所小屋があった。藁葺きで赤土壁の粗末な小屋で、隙間だらけだった。こちらは長方形に掘りくぼめた穴に厚い板が平行に渡してあって、板に足をのせ穴をまたいで用を足すようにしてあった。肥を汲み出したりする際の作業ができるようにだろうが、小屋内は広く作ってあって、周囲の壁面には肥たごや肥びしゃくなどのほかに、鍬などの農具や荒縄を巻いたものもぶら下がっていた。
わたしがその家に住んでいた頃は、照明は各部屋の中央に裸電球がぶら下がっているだけで、小便所にも便所小屋にも電気が引いてなかったので、夜になってから便所に行くのが、子供にとってはとても怖かった。提灯をもって行った記憶がある。懐中電灯のこともあったと思う。屋内便所というものがなかったのである。
雪深いところだったので冬の夜など、子供は母屋の出入口のちかくの軒下から、屋根の雪がずり落ちて山となっているところへ向けて、小便したものである。

屋敷の中には菜園があり、大きな柿木が何本もあり、珍しい柚の大木があったりした。白と赤の八重椿の巨木の下に鯉の池があり、小川が屋敷を貫いていた。広くて隠れ場所がいくらでもあったが、屋敷の中で立ち小便をするということはなかった。子供であったわたしも必ず母屋の南東隅の小便所へ行った。外で遊んでいるまま、ちょっと立ち寄って用を足した。たいてい草履ばきか下駄ばきで遊んでいたが、土足のまま踏みこめばそのまま用が足せる。この小便所の足元は乾燥していて、少しも不潔な感じがなかった。風通しが良かったこともあるのか、臭いの記憶もない。むしろ、放尿の心地よい音を記憶している。
それに対して、大便は便所小屋に入って、じっとり湿った2枚の厚板にまたがってしゃがまないといけない。前後に広く空隙が延びているので、堆積している古い便や落とし紙につかった新聞紙の切れ端がいやでも目にはいる。季節によっては蝿がひどくて、そいつらが裸の尻に留まる。蛆のうごめく音が聞こえる。不確かな足元と、悪臭と、見たくないのに見てしまう糞つぼの中身、・・・・・・そういう記憶が重なって便所小屋についてはつらい印象が強烈に残っている。

わたしがこれまで見た画像資料のなかで、この大便所の様子に最も近いのは、1351年完成の絵巻『暮帰絵詞』4巻に出てくる「京都大谷禅室の裏を描いたもの」である。「土を掘って板をわたしている。そしてその上に小屋をたてているのである。僧が法衣を肩にしているのは便所へいったためにぬいだものであろう」(『日本常民生活絵引5 p114』)。長方形の穴を掘り、その長さの方向へ厚い板を2枚渡しかけ、それに跨って用便をする。右図では、2枚の板を渡す支点になるように穴の縁に置いた板が描かれているが、わたしの幼少期の便所小屋がどうだったかは、記憶していない。
『暮帰絵詞』では絵の上部が切れていて、小屋全体の様子が分かりにくいが、板葺・板壁・竹の掘っ建て柱のようで、ぐるりと取り囲んでいる。便所の入口には目隠しになるようなものは、何もない。便所内部を見せて描くために出入口の戸をわざと省いたのか、本来内部は丸見えで出入口には何もなかったのか、不明である。おそらく後者(内部丸見え)だったように思う。他の(近世・近代の)民俗資料では、半戸(腰までの戸)や莚を垂らしたものなど、何らかの目隠しがあったようである。ただ、それが14世紀までさかのぼれるものかどうかは別問題である。(これらは後に第4節「便所」で再論する)。
既述のようにわたしが経験した便所小屋は土壁だったが、入口は粗末な引き戸だったとおもう。木の柱だったが、屋根がどうなっていたか記憶していない。(写真は『続 日本絵巻大成4』(中央公論社1985 p39)から拝借しました)

わたしたちと同居していた“おばあちゃん”は当時60歳代後半だった(1878年生まれ、父の叔母)。ふだん着の着物姿の時も、農作業などでモンペ姿の時も、小用は小便所で立ち小便だった。男とは逆向きに小便つぼの方を背中にして、裾をまくり(モンペを下ろし)、前屈みになった姿勢で放尿していた。片手は後に回し、片手は膝においていたと思うが、確かな記憶ではない。顔は小便所の外側を向くことになる。もちろん、尻や腿は一切見えない。
村の中年以上の婦人は、みなこの姿勢で小用を足していた。田んぼや畑の間をめぐる農道での立ち小便も珍しいことではなかった。顔が道路側を向き、尻が道端側を向く。放尿の線は道端側から外へ向かっているので、まず、見えることはなかった。道路を歩く者と出くわす場合は、そのままの姿勢で挨拶が交わされた。

「晩になあましてなあ」
「・・・・晩になあましてなあ」

山陰地方は丁寧でおだやかな気風があり、子供のわたしらも、大人に対して対等に挨拶した。ちょっと会釈して、小用中の婦人の前を通るときに、「晩になあましてなあ」と声をかけると、

「K×ちゃんかや。・・・・晩になあましてなあ」

などと、ほほ笑んで挨拶を返してくれた。これらは日常的でごく自然なことだった。
けちんぼで有名だった××婆さんなどは、我慢して自分の田に行ってから小便するそうだ(他人の田の栄養にするのがもったいない)、などという笑い話がまことしやかに語られていた。



(1.2):渡辺信一郎・永中順の場合
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渡辺信一郎『江戸の女たちのトイレ』(TOTO 1993)という、川柳研究家の面白い本がある。渡辺信一郎は1934年生まれで都立高校の先生をやっていた方。この本の中に、わたしの経験とそのまま重なるような記述がある。

筆者の母は明治末期生まれの、東京在住の山形県人であったが、故郷へ帰ると土地の 人と同じように立ち小便をしたものである。東北地方の農家の入口には小便所があり、男性と同様に女性も立って行う。小便桶を真上から跨いで、着物を太股までたくし上げ、股間から真下に放尿するのを、よく見たものである。筆者は小学生であったが、田舎の女性はみんな立って小便をするのかと、感心した記憶がある。
とくに叔母さんの立ち小便は豪快で、音高く、太い尿線を真下にほとばらせた。しかし、道端で行うときには、水滴が踝あたりへ跳ねるからか、みな中腰で前屈みになって尻を突き出して、放尿していた。モンペやパンツを穿いている時には、やはり中腰屈みで行う。
昭和20年代の末期に、秋田地方に旅行に行ったとき、夕方、道端で二人の婦人が中腰屈みで小便をしている前を通りかかったことがある。恥ずかしがる様子もなく、「おんや、学生さんかね、いましょんべをしているから挨拶できねけんど」と向こうから声を掛けられて、びっくりした経験がある。(p58)

「農家の入口には小便所」というところ、「中腰で前屈みになって尻をつきだして放尿」というところ、道端で小用中の婦人から声をかけらるところはわたしも実感を持って肯定できる。だが、「小便桶を真上から跨いで、着物を太股までたくし上げ、股間から真下に放尿する」というのは、わたしは未見である。渡辺は明記していないが、小便桶が地面においてあって、それを「真上から跨いで」ということになるのだろうか。また、渡辺の説明では太股が見えるような姿勢になると思えるが、どうであろう。
わたしの記憶の範囲内では、市が立つとき(町で馬市が開かれることがあった)や、祭や盆踊りの時などに、臨時に作られる小便所が、小便桶を並べたものだったように思う。しかし、「膝を伸ばし・中腰・前屈みの女の立ち小便」以外の、「股間から真下に放尿」という方式は知らない。この、渡辺信一郎の記録以外にまだ目にしていない。これはそういう点でも貴重な証言である。「水滴が踝あたりへ跳ねるからか」と前屈み姿勢の理由を推測しているが、どうであろうか。その理由もあろうが、わたしは着物の処置に関係があるのではないかと思っている(着物や脚にかからない、太股がみえないなどの配慮)。

わたしが小説で女の立ち小便を思い出すのは太宰治「斜陽」のはじめのところである。これはわたしだけでなく、記憶しておられる方が多いと思う。

 弟の直治でさへ、ママにはかなはねぇ、と言ってゐるが、つくづく私も、お母さま の真似は困難で、絶望みたいなものをさへ感じる事がある。いつか、西片町のおうちの奥庭で、秋のはじめの月のいい夜であったが、私はお母さまと二人でお池の端のあづまやで、お月見をして、狐の嫁入りと鼠の嫁入りとは、お嫁のお支度がどうちがふか、など笑ひながら話しあってゐるうちに、お母さまは、つとお立ちになって、あづまやの傍の萩のしげみの奥へおはひりになり、それから、萩の白い花のあひだから、もっとあざやかに白いお顔をお出しになって、少し笑って、
 「かず子や、お母さまがいま何をなさってゐるか、あててごらん。」
とおっしゃった。
 「お花を折っていらっしゃる。」
と申し上げたら、小さい声を挙げてお笑ひになり、
 「おしっこよ。」
とおっしゃった。
ちっともしゃがんでいらっしゃらないのには驚いたが、けれども、私などにはとても真似られない、しんから可愛らしい感じがあった。

この後、語り手の「私」は、ルイ王朝の貴婦人たちが宮殿の庭や廊下の隅で「平気でおしっこをしてゐた」ことを思い出すのだが、それが立ち小便かどうかについては触れていない。
ただ、どうでもいいことだが、渡辺信一郎の山形での見聞を知ったあとでは、この「斜陽」の「お母さま」は白萩のあいだで、腰をかがめずに立ったままで放尿していたような気がしてくる。

わたしは“女の立ち小便、男のしゃがみ小便”というモチーフはだいぶ前から持っていたのだが、熱心に“小便関連”の本を漁るようになったのは、つぎの2冊の本にぶつかったからである。ひとつは西川一三『秘境西域八年の潜行』上巻(芙蓉書房)で、“蒙古人は男でもしゃがみ小便である”という記述に出会ったこと、もうひとつは井上章一『パンツが見える』(朝日新聞社)である。いずれも、後段で紹介するつもりでいる。

「しゃがみ小便」という用語のことだが、人によっては「座り小便」、「すわり小便」を使っている。わたしは小論では「しゃがみ小便」に統一する。理由は、洋式便器に腰かけて排尿することも「すわり小便」と言ってしまう人もあるかも知れないし(「椅子に座る」という表現)、落語でいう「すわりションベンしてバカになってしまう・・・・」というときの「坐ったままお漏らしする」を連想する人もあるかも知れないと考えてである。

井上章一の『パンツが見える』の中に、永六輔『旅=父と子』(角川文庫1975)が紹介してあった。永六輔の父親は永中順といい、1900(明治33)年生まれ。浅草の寿徳山・最尊寺十六代目住職。『旅=父と子』は、この父と子の共著である。
永六輔の旅に関連した「雑文」(本人がそういってる)が、乱雑なメモカードを読むかのように並べてある。永六輔のおしゃべりはラジオでときどき耳にしたことがある(その程度の知識しかなく、わたしはほとんど知らない人物。有名人だということは知ってる)が、長すぎる舌[ベロ]を噛みながらせき込んでしゃべる、ちょうどあれと似たような文体で、読み始めるとやめられなくなる文章である。速度感に説得力がある。その中には、しばしばトイレ・便器・大小便・排便の方法・拭き方などが話題として出てくる。
それに合わせて、永中順が「女の立ち小便」について、まとめて書いているところがある。少し長めの引用をするが、六輔と対照的ななだらか流麗な筆法で、その博識と能弁がちょうどバランスしている。こちらは、一種の名文だと思う。
この引用個所でわたしが珍しく感じたのは、公衆の小便所が男女共用だったというところである。

 ・・・・・・立小便のことになるが、 六輔は女性の立小便などをめずらしい事のように考えているらしいが、それというのも、実際にはあまり目撃していないからであろう。明治末期には東京でも往来で立小便をしている女性はいくらもいた。農村出身の人は都会に出ても、身についた癖は仕方の無いもので、ついそんな用の足し方をしてしまうのである。本願寺の秋の報恩講などには、東京見物を兼ねての団参が来るが、農村の人が多いから、女性の立小便もまた多くなる。恐れ入った話だが、着物をちょっとまくって、オシッコを後の方に走らせるのである。だから身体は往来の方を向いて、御当人は露店や参詣人の雑鬧の様子をのんびり眺めていながら、オシッコは後の溝や築地のもとに走っているという具合である。こんな現象はだんだん減っては来たが、世が大正になっても、行われていた。京都、奈良あたりでもやっぱりそうで、共同便所などに這入ると、男性用の石の上に女性がならんで、こっちを向いて、後の方へオシッコをしていたりした。今でこそ男性用などというが、あの時分は男女というより大小の別に従っていた訳だ。だから今でいう男性用の朝顔を使用する女性も多かったが、ただ、使用後の紙を捨てられると便器が詰まってしまうので、ちょうど目の高さほどの所に、金網で出来た籠があって、その中に使用後の紙を入れるようになっていた。宿屋の便所でも、公園の便所でも、人の出入りの多いところはどこにでもこんな網があって、風が吹いたら大変だと思う程例の紙でいっぱいになっていた。
 今では農村山地でも、こんな現象は見られないであろう。タタタ、タタタタ、田の中でいきなり別嬪さんが立ちションベン、たにしがおどろいて目をまわしたとか、蛙があきれたとかいう歌があったことを思い出す。(p90)

永中順は浅草育ちだからだろうが、「身についた癖は仕方の無いもので」とか「恐れ入った話だが」というような合いの手が入る。田舎育ちのわたしなどは、永中順ほどの人でも“女の立ち小便は見苦しい”という前提でいるんだな、と思う。江戸時代から江戸っ子が京女の立ち小便を珍しがったり軽蔑したりしたことは色々記録されており、後に扱う。
明治末から大正に掛けて、公衆の小便所が男女共用であったことがあり、永中順の「男性用の石」といい「男性用の朝顔」といっているのは、石造りの横溝式の小便所と朝顔の並んだ小便所との異なるふたつを述べているのだろう。そのいずれも男女共用のことがあったという証言である。残念ながらわたしは、公衆便所はもちろん道端でも“男女の連れション”を体験したことはない。
「使用後の紙」をすてる金属籠があった、というのも貴重な証言である。しかも、この証言によって、これらの小便所で用を足した女性たちが、紙を使っていたことが分かる。わたしの幼少期をすごした山村では、いうまでもなく紙を使わない。おそらく、全国農山村の女性がそうだったろう。都会の女性の習慣だったのではないか。遊里から出た習慣ともいう。
(渡辺信一郎の「尿線」に対して、永中順はオシッコを「走らせる」という表現を取っている。江戸っ子らしい切れ味のいい婉曲表現だと思う。また、「使用後の紙捨て籠」は現代の外国旅行報告に出てくる。水洗式便所で水溶性紙が使われていないような場合である。これも後に扱う。)



(1.3):『生活図引』の写真
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『写真で見る日本生活図引4 すまう』(弘文堂1988)には2頁を使って「便所」という項目がある。写真は4枚(56番~59番)掲載されており、56番は便所と一緒になった「外便所」(長野県下伊那郡1955年)、57番は尻拭きに使った「籌木」[チュウギ](青森県十和田市不明年)、58番は家の外壁に作られた「小便器」(愛知県北設楽郡1969年)、59番が「老女の立ち小便」(岡山県阿哲郡1971年 長谷川明撮影)である。)

この『生活図引』には写真に詳細に注番号が付いていて、それぞれに詳細な注がついている。右写真は「59番」の部分図。(文は、津山正幹・須藤功) この写真への全体的な注「老女」を全文掲げる。

老女 立小便をする。こうした光景は近年までよく見られた。着物の裾と腰巻を捲り上げ、尻を後に少し突き出し、足を広げて用を足す。終わると尻を少し振るだけで紙は使わない。小さいときからやっているので、穴を外すようなことはない。

手拭被りの老女が着物すがたで、立ち小便をしている。立てかけてある白っぽく見える板が小便板で、 小便が家の板壁に掛からないようにする。小便板には小便穴が明いていて、この穴を通して小便をする。下に溜桶がある(太字は注を引いてある語。この『生活図引』は実に丹念に作ってある)。

撮影のため、この「老女」は手拭被りを十分厳重にし、いつもよりは深く腰を折っているのかも知れない。着物の裾(や腰巻)をつよく膝元に引いているようにも見える。けれども、“女の立ち小便”の様子はよくとらえられている。足を広げ・膝を伸ばし・前屈み(腰を直角に折っている)である。
「終わると尻を少し振るだけで紙は使わない」というのは、先の永中順の話と、対照的である。
もうひとつ、この写真で驚くことは、「小便穴」が小さいことである。20㎝×15㎝程度の長方形に見える。写真は岡山県で、わたしが育ったのは鳥取県なのだが、このような小便穴をあけた小便板を立てかけておくというのは知らない。「小さいときからやっているので、穴を外すようなことはない」というのは、さもありなんと思う。だが、男女を問わず、ねらってこの小便穴を通すというのはできるとしても、小用終了ちかく尿圧が下がって尿線が垂下してくると小便板に滴を垂らしそうに思うが、どうなのだろう。

大小便の排泄また排泄設備として便所などを、総合的にとらえていくことは重要である。便所のあり方は糞尿の利用・処置の仕方に大いに関係するし、それは排泄方法に関係する。近世日本では、人糞尿を肥料として用いることが便所のあり方を強く規定していた。この状況は第2次世界大戦まで続いていた。日本人の便所での排泄行為(場所・動作・後始末)への影響について、この観点から考える必要がある。
『写真で見る日本生活図引4 すまう』の「便所」の項目への解説を参照させてもらう。

便所は屋内にある内便所と、戸外においた外便所があった。今の便所は屋内にあ るのが普通だし、外便所もなくなったわけではないので、両方とも現存するといっても間違いではない。また母屋の出入口のところに小便所を設けた家もある。これを男専用と思うのは間違いで、外で働く女の立小便のためでもあった。そのいずれも溜桶に大小便をするもので、いっぱいになると汲出して肥料にした。
・・・・・・(中略)化学肥料が普及するまで、便所は単に体内の不用物を排泄するところではなく、むしろ作物への肥料を生みだすところという考えの方が強かった。風呂場と一緒なのは、その垢の混ざった湯水を取り込むため、厩と並ぶのは馬糞などと調合しやすくするためという、いずれも肥料の効率を考えた上での策だった。(p60)

大便所と小便所を分けて、別々に回収するのも肥料に使うことを考えてである。
「女の立ち小便」が、日本においては近世から第2次世界大戦後1970年代まで、それほど珍しい習俗習慣ではなかった。しかも、なぜこの排泄姿勢が広まったかを考えると、どうやら、近世の「便所のあり方」と「肥料としての人糞尿」という問題にぶつかるらしい、ということが分かってくる。今の段階では、一般に排泄姿勢や便所のあり方は当然ながら歴史的な現象であって、そのなかで清浄・不浄、羞恥心なども変遷してきている、ということを確認しておきたい。

もうひとつ、全く異なる観点で「女の立小便」の必然性を提出しているのが、南方熊楠「立小便と蹲踞小便」(1919)である(「蹲踞小便」はフリガナがないがおそらく「しゃがみ小便」または「つくばり小便」と読ませるのだろうと思う)。

熊野の山中で頭に物を戴いた婦女が立小便を常とするなど、職業上止むを得ぬことだが、1つはわが邦の衣装にして始めてできる芸当だ。(全集5巻 p211)

南方熊楠の観点は、労働作業に関連する排尿姿勢を述べているところがユニークである。頭上運搬に限らず、背中に荷物を背負う場合にも、立ち小便ですますことができれば便利なことがあろう。次節で取り上げる川柳の1つ「黒木売り小便するに所作があり」も、頭上に柴を載せた「黒木売り」の女が立ち小便するときの独特の姿勢に注目したもの。
「わが邦の衣装」とは、着物のことを言っている。労働着としての着物は、スカート式に下半身を巻いているが、前で合わせて腰帯で留めているだけなので、容易にはだけたり、捲りあげたりすることができる。熊楠は日本式着物の特性について言及しているのである。何でもないことのようだが、これもユニークである。



(1.4):曲亭馬琴『羇旅漫録』の場合
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インターネットで「女 立ち小便」を検索すると、かなりのヒット数がある。例えば、Google で1000余件。それらは大雑把にいうと文学系・フェミニズム系・アダルト系の3つに分類できる、と思う。

  • 文学系というのは、随筆や日記や自伝など・川柳研究や民俗記録など・民族記録や海外旅行案内など。

  • フェミニズム系というのは、女性問題や女性の権利を扱うもの・下着や生理用品など・性行動や性問題を扱うもの。

  • アダルト系には、放尿やスカトロ趣味をうたった同好者サイト・トイレ愛好者サイト(これは覗きや隠し撮りにも通じる)など・映像商品を売ろうとする商業サイトに放尿シーンやスカトロ趣味などがある。

アダルト商業サイトは参考にできるところはほとんど見つけていないが(わたしが金を払おうとしていないせいかもしれないけれど)、それ以外の各分野ではそれぞれずいぶん役にたった。特に糞尿系の情報源について初心者であった段階で、多くを教えてもらった。

インターネットで出会う「女の立ち小便」に関する文学系の“うんちく”サイトで必ずと言っていいほど引いているのが、曲亭馬琴(1767-1848)の旅行記である。先に利用させてもらった渡辺信一郎『江戸の女たちのトイレ』に「拾伍、女の立小便」という節がある([ ]は引用者補注、ふりがなの場合もある)。

[江戸中期の]当時から、「京女の立ち小便」が話題になっている。曲亭馬琴の『羇旅漫録』 (享和2年1802)中巻には、京の家々、厠の前に小便擔担桶ありて、女もそれへ小便をする。故に、富家の女房も小便は悉く立て居てするなり。但、良賤とも紙を用ず。妓女ばかりふところ紙をもちて便所へゆくなり。月々六斎ほどづつこの小便桶を汲みに来るなり。或は供二、三人つれたる女、道ばたの小便たごへ、立ちながら尻の方をむけて、小便をするに、恥るいろなく、笑ふ人なし。江戸の町では、女の立ち小便はほとんど無く、曲亭馬琴は驚嘆の目で記録しているが、尻を突き出して後向きに放尿するのは、地方ではかなり行われた。
また、『松屋筆記』(発刊年代未詳)巻57には、婦女の立ち小便は田舎に限らず、京大阪にもおほかり。とあり、関西地方では、当時からこんな風習が一般的であったことが分かる。(p57)

馬琴からの引用で「小便擔担桶」は“小便たご桶”だろう。わたしの育った村では“しょんべんたご”または“しょんべたご”と言っていた。木製の桶である。「月々六斎ほどづつ」は“月に6回ほど”。「小便たごへ、立ちながら尻の方をむけて、小便をする」というのは、前掲1970年代の岡山県のおばあさんと変わりがない。

渡辺信一郎は「江戸の町では、女の立ち小便はほとんど無く、曲亭馬琴は驚嘆の目で記録している」と言っているが、これはそうではないだろう。渡辺は話を単純にとらえ過ぎている。永中順さえも明治末から大正時代の東京について、道端で立ち小便をする“お上りさん”の婦人の姿を見かけているし、公衆便所では紙を使用する婦人と“連れション”状態であったとしている。馬琴が「驚嘆の目で記録している」などということはありえない。馬琴は冷静に事実を突き放して書いているというべきだろう。『羇旅漫録』の冒頭「崖言」で「遊歴中おのが目に珍らしとおもへるもの、悉くこれをしるす」としているように、じっさい、馬琴は精力的に細々と書き留めている。「京の女児風俗」(娘の髪形など)、「祇園の方言」(「すべて女はといふことをそへていふ」として、わしがけふな、かみあらふてな、とんとおちんさかい、いまいましうてな云々)、「祇園の歌曲」、「四条の芝居」等々、この項目が157ある。
「良賤とも紙を用ず。妓女ばかりふところ紙をもちて便所へゆくなり」は、「妓女」を別にすれば、婦人は事後の紙を使わない、と言っている。とすると「女が小用で紙を用いる習慣は色街から始まった」という仮説も可能である。
『松屋筆記』[まつのやひっき]120巻(現存84巻)は国学者小山田与清[ともきよ]による辞書風随筆で、国語・国文・有職故実・民俗などに関する語句を立てて考証・解釈を加えたもの。1815年(文化12)から46年(弘化3)にかけての筆録とされる(平凡百科事典、南啓治)。
「婦女の立ち小便は田舎に限らず、京大阪にもおほかり」というのだから、田舎で一般的であるだけでなく、都会である「京大阪」でも多いとしている。(『松屋筆記』を図書館で借りだして上引の「立小便」のところを実際に読んでみると、非常に面白い。そこからもっと色々な広がりを引き出して来ることが出来る。次節で扱う。)

ただ、江戸では女の立ち小便は山出しの下女などのすることとされ、珍奇に見られていたことは本当だろう。上品な女のすることではなく、田舎者の仕草と考えられていた。誤解のないように念を押しておくが、江戸の人・江戸っ子が「上方」の風俗に対してこのように考えていたということであって、それ以上ではない。江戸の銭湯では湯具としての下帯・腰巻を用意していたように、外陰部を露出することについてとても神経質であった。これについても、後に扱ってみたい。

渡辺信一郎は川柳史の専門家で、前掲書「拾伍、女の立小便」で扱っている川柳からいくつか使わせてもらう。その解説を参考にして、我流の解説をつける。

京女立ってたれるが少し疵京女は何ごとにも上品だが、立ち小便をするのだけが玉に瑕だ。「たれる」という下卑た語が効果的に使われている。だが、「少し疵」と言っているので、本気でけなしているのではなく、揶揄している程度だろう。富士額担桶へまたがる京の嫁美人の富士額の京都からむかえたお嫁さんが、なんと、小便タゴへ立ち小便を平気でしている。京都で立ち小便が普通であることを、大げさに言って笑いの種としたもの。小便をうしろへひょぐる下女が母「ひょぐる」は尿線が延びる様子を巧みにとらえた語。下女は江戸風にしゃがんでするようになったが、娘を頼って江戸見物にでてきた母親は立ち小便してる。黒木売り小便するに所作があり「黒木売り」はたきぎ売りで、頭に柴の束を載せて売り歩く。もちろん女性。その女性が荷を頭に載せたまま立ち小便をするときには、独特の動作があるという指摘。首が上がっていて、腰つきを言ったものか、片手を荷に添えているまま裾をはしょることを言ったものか。
先に、南方熊楠が熊野山中で女が頭上運搬している際の立ち小便を指摘しているところで、触れた。美しい娘手水でぶっこわし「手水」は“ちょうず”でトイレのこと。美人の娘さんが立ち小便するので、興ざめだ、という誇張。京の町中で、美しい娘さんがひょいと尻を小便桶に向けて小用を始めた情景を考えればよい。踊り子は折りふし杉の葉へたれる「踊り子」は妓女。美しく舞う妓女が小用の時は男用の“朝顔”にする、という意地悪なくすぐり。「杉の葉」は小便器に入れて音消しと芳香の効果を考えたもの。広く行われた。
わたしの育った村でも何軒かの旧家では屋内にも便所があった。わたしが子供時代に実際にそのうちのひとつで小用を体験したことがある。板製の“朝顔”のなかに一杯にみずみずしい杉の葉が差し込むようにおいてあり、それへ向かって放尿するとサワサワサワというような優しい音になり、臭いが立ちのぼってくることなどまったくない。感心し印象深く覚えている。



(1.5):小山田与清『松屋筆記』・喜多村均庭『嬉遊笑覧』の場合
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小山田与清『松屋筆記』は膨大なものである。中央区立京橋図書館が所蔵しているというので、地下鉄日比谷線「築地」まで出かけて行った。国書刊行会・明治41年(1908)の3巻本で2段組・各500頁を越えている。古色に焼けた頁をめくっていると、かび臭く鼻がむずむずしてくる。約1万項目あるという詳細目次をざっと見ていって、興味を持てそうなところをチェックする。たとえば「厠籌」という項目が2ヶ所にあったが、そのうちのひとつが当該のものだった(巻57の10、国書刊行会本1巻p285)。
よく判らないところを強引に読んでいくと、なかなか面白いので、少し前後を含めて引いておく。わたしには読めない漢文のところは原文のままにしておく。[ ] はフリガナであるが、煩わしい場合は略した。また漢字の宛方も原文を尊重しつつ分かりやすさをも重視した。

厠籌[かわやべら] 胡元瑞が筆叢続集「甲乙剰言」に厠籌の條あり。客有りて余に謂う。かつて安平を旅したときのことだが、その地の俗について、厠はどうかというと、男女とも瓦礫を用いて紙の代わりにしていた。汚さに嘔吐しそうだ。余は笑って言ったのだが、安平は晋と唐の間で博陵県にあり、鶯鶯はこの県の人だ。どうする?客は答えて、かの大家の閨秀と俗とはきっと自ずから異なるでしょうと言った。余はまた笑って言った。請為君盡厠中二事 北斉の文宣帝は厠で楊情に厠籌を執らしめた。これは皇帝は尊くも厠籌を用いて紙を用いないということ也。三藏律部では律師の厠に上る法を宣べているがそこでも又厠籌を用いている。これは比丘が清浄に行うさいにも厠籌を用いて紙を用いないことを意味する。これらを観るに、厠籌と瓦礫とは均しいのである。鼻を掩わずして鶯鶯は用便を為すことはできなかった。客は食卓いっぱいに吹き出した。云々鶯鶯は「会真記」に見え、李紳蘇軾などが詩につくりたる美人也。「鶯鶯伝」ありてその事跡を記せり。いま皇国山家の百姓あるいは厠籌[せっちんべら]を用い、あるいは藁屑、木草の葉を用いて糞を拭ひ、甚だしきにいたりては厠傍に繩を張りたるを跨って尻穴を摺り拭うもありとなん。婦女の立小便は田舎に限らず京大阪にもおほかり。胡元瑞鶯鶯が尻の糞臭をおもひ出、その談は北斉の主の文宣帝や南山道宣律師におよぶ。蔡倫が紙をつくらざる以前は何をもって拭きけん。布帛などをや用いけん。娥皇女英妹喜妲己大姜褒[女+以]毛[女+嗇]西旋[麗+おおざと]姫虞氏薄姫が後門[肛門]もおぼつかなし。衣通姫のおゐどもいかなる臭気しけんとぞ思ひやらるる。(p287)

小山田与清が列挙している中国古代の伝説の美女たちを恥ずかしいことにわたしはほとんど知らない。「奥の細道」の“雨に西旋がねむの花”で西旋を知っているだけである。しかしながら、中国の美人には「後門」といい、わが国の衣通姫[そとおりひめ]には「おゐど」といっているのが笑みを誘う。紙を使うのが「浄」という前提に対して、蔡倫以前を持ち出すのも痛快である。いずれにしても小山田与清『松屋筆記』が記すのは、尻の始末に関して一種の「平等主義」の指摘である。「厠籌」が汚ないといっても伝説の美女たちもみなそれを用いて尻の始末をしていたはずで、日本でも厠籌・藁屑・木草の葉・繩などを使う田舎もあり、「婦女の立小便は田舎に限らず京大阪にもおほかり」というわけだ。
つまり、小山田与清は単に、女の立ち小便が京大阪で行われていることを指摘したにとどまらず、女の立ち小便が野卑だというなら、それに匹敵するような不潔・野卑な厠の習慣は中国にもいくらでもあるものだ、と言ってる。ただし、中国に「女の立ち小便」があったとは言っていないので、せっかくの面白い立論も、ちょっと明解さを欠く。

紙を使うのが「浄」という前提は、日本人にはなかなか強固なものがあって、左手・水瓶の南アジア・中近東に広がる「水洗浄」方式をむしろ不潔なものとみなす傲慢さがあった。もちろん、この「水洗浄」方式がもっとも洗練され合理的な方式であるのだが。

喜多村均庭(本当は竹冠に均)・信節『嬉遊笑覧』1巻上「居処」には「婦人の小便」という條があり、今昔物語から「蛇、女の陰[ツビ]をみて欲をおこして穴より出で、刀にあたりて死にたること」(巻29第39)の一部を引いて、「京都の婦人も昔は立ちながら小便することはなかりし」という結論を導いている。

婦人の小便する事、「今昔」29 若き女夏の頃近衛大路を西さまに行きけるに、小一条と云うは宗形[神社のところ]なり。その北面を行きける程に、小便の急なりけるにや築垣に向かいて、南面に突居て[ついいて、しゃがんで]尿をしければ、共に有りける女の童は大路に立って、今や為畢て[しおわって]立つ、立つと思いたちたりける云々。そこを通りける男が見るに、まことに女の中結て[なかゆいて、腰に帯を結んで]市女笠着たる築垣に向て蹲り居たり云々。
是を見れば、京都の婦人も昔は立ちながら小便することはなかりし、後に田舎風の移りて今の様にはなれるならむ。蹲りてすることは今にては江戸のみにや、其外は大かた立てする也。(日本随筆大成 別巻7p106)

宗形神社の北側の築垣に向かってしゃがんで(南面に突居て)、小用をしようとした若い女がいた。供の「女の童」[メのワラワ]は大路で待っていたが、いっこうに立ち上がらない。「二時」というから4時間も待ち、女の童は泣き出してしまう。そこに供の者を多数連れた馬に乗った男が通りかかる。
築垣に蛇の穴があり、蛇が頭をすこし引っ込めて女を見「守[マボリ]」ているのを男は見付ける。「この蛇[クチナワ]の、女の尿[ユバリ]しける前を見て、愛欲をおこして蕩[トラカシ]たれば立たぬ也けり」男は、刀で蛇を殺し、女を助ける。
論旨と関係ないが、この男が蛇を殺す方法が変わっている。「剱のようなるを抜きて、その蛇の有る穴の口に、奥の方に刀の歯をして強く立てたりけり。さて、従者どもをもって女をすくい上げて、引き立ててそこを去る時に、蛇にわかに築垣の穴より、鉾を突くように出でけるほどに、二つに割けにけり。一尺ばかり割けにければ、え出でずして死にけり。」一種の自殺的な死に方であって、蛇の執念の恐ろしさが強調されている。

喜多村均庭の論理は、次のようにすすむ。今昔物語からの引用によって、京都の女がかつてはしゃがんで小便をしていたことが分かる。現在の京都の婦人の立ち小便の風俗は、そのあとに「田舎風」が入ってきたからだろう。田舎では、婦人は立ち小便をする。ところが、現実に江戸ではしゃがみ小便である。しゃがみ小便が依然として行われているのは、論理的結論として、江戸だけになってしまった、と考えられる。したがって「其外は大かた立てする也」という結論となる。(『嬉遊笑覧』の「序」は文政13年(1830)だから19世紀の早い時期と考えて良いだろう。『松屋筆記』もほぼ同時代だが、こちらの方がやや時代が下がるか。)
しかし、喜多村は「田舎風」=「女の立ち小便」の起源を問うていないし、それがなぜ京都に入って来たかを問題にしていない。おそらく後者は、小便を肥桶に溜めるという近世の経済活動と関連したことだろうと想像がつくが、前者(「女の立ち小便」の起源)は問題にされていない。野卑な田舎者のすることだから・・・・・・、ぐらいのところで納得してしまっているように感じられる。

「女の立ち小便」の起源を問うこと、小論のモチーフのひとつは、ここにある。



(1.6):『真臘風土記』の場合
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『嬉遊笑覧』の上引の続きは、なんと興味深いことに、元時代の中国やカンボジアでの「女の立ち小便」の習俗に関係している。そこに引かれるのは、『真臘風土記』という書物である。
『真臘風土記』は13世紀のアンコール期末期のカンボジアの様子がわかる貴重な記録である。作者は周達観で、温州の人。当時、温州は東南アジアとの海上貿易の主要港であった。1296年2月に元朝使節の一員として温州をたち、同7月に真臘国首都(アンコール・トム)に至った。1年間カンボジアに滞在し、翌年6月に帰途につき同8月に四明(寧波)に帰着。その間の見聞をまとめたのが本書である。『真臘風土記』(和田久徳訳注・東洋文庫507)の解説から引用する。

周達観の見聞記は、宮廷・貴族から一般社会までの広範な事柄にわたる同時代の記録である。アンコール時代のカンボジアには国内の文献資料が欠けているから、『真臘風土記』は唯一の記録として貴重な存在である。しかも、同書の前後に書かれたカンボジアに関する漢文資料と併せ見ることによって、一層まとまりのある史料となり、近代以前の伝統的なカンボジア社会を知るために、非常に重要な文献なのである。(前掲書p143)

さて、それでは『嬉遊笑覧』の続きを見る。『嬉遊笑覧』の『真臘風土記』からの引用は漢文のままであるが、和田久徳の訳文を使わせてもらう。

『真臘風土記』に、2,3の家ごとに、共同で地を掘って1つの坑[あな] をつくり、草でそれをおおって使用する。その坑に穢物が満ちるとこれを填[う]めて、また別に地を掘って作る。この便所で用便がおわれば、必ず池に入り洗浄する。洗浄するにはただ左手だけを用い、右手はめしをとるのに保留して使わない。唐人が厠で紙を用いてこすりふくのを見ると、みなこれを笑う。甚だしい場合になると、その唐人が登門する[公の場所へ行く]のを欲しない。それなのに、婦女もまた立って小便をする者がある[婦女亦有立而溺者]。笑うべし、笑うべし。(前掲書p54)と云えれば、漢土にも婦人の立ってすることはなきを知るべし。また、洗浄するに左手をもちいること天竺の俗なり。(日本随筆大成 別巻7 p106)。

便所の作り方、洗浄法などは後に別に扱う。上引によると、カンボジアでは婦女の立ち小便があったようである。そして、その俗を(周達観が)笑っているのだから、中国(当時は元)にはなかったと言っていいだろう。
喜多村均庭『嬉遊笑覧』が引用している『真臘風土記』の直前に、中国と違い、カンボジアでは人糞を肥料にしていないことを述べている。これも、実に興味深い、しかも、重要な情報である。

[水田の説明をし、]ただし、田をつちかいおよび野菜をうえるのに、みな人糞を用い ない。その不潔なのを嫌うのである。唐人がカンボジアに行っても、みなカンボジア人と中国の人糞による栽培のことについて言及しない。見下げられるのを恐れる故である。(同前p53)

中国では古代から人糞尿を肥料として用いていたことは、いうまでもない。一般に、農業に根ざす古代文明の地では、人糞尿を肥料に用いていたと考えられている。たとえば、「平凡社百科事典」の「糞」(池沢康郎)の項目の冒頭。

古くから糞は肥料として世界各地で利用されていた。ナイル川のはんらんと灌漑によって肥沃な土地を得ていたエジプト人は,糞尿が肥料になることを知っていたし,インド,ギリシア,ローマの人々も人糞や家畜の屎尿を肥料として用いていた。中国では長江(揚子江)以南の人家に厠があるのは糞尿を農夫の作物と交換するためであり,長江以北では人糞を乾燥させてから土と混ぜて田にかけ,北京では溝の中に蓄えて春になるとこれをひなたにさらすので,〈其穢気不可近〉と《五雑俎》にあるように,やはり糞を肥料としていた。ヨーロッパでも12,13世紀から19世紀にかけて主として行われた三圃制の農法は,三つに分けた広い耕地のどれか一つがつねに休耕地で,ここに家畜を放牧し,土地を休ませることと家畜の糞による施肥により再び土壌を肥えさせることをねらったものである。ペルシア人もまた,パンの小麦を得るのに糞便を肥料としていた。

おそらく、カンボジアに出かけている中国人たちは「中華意識」からカンボジア人を見下していたであろうから、それが逆に中国で人糞肥料を使用していることが知られるのを警戒して、黙っていたというのである。先の引用の、カンボジア女性の立ち小便を笑う中国人と対比して、可笑しい。

カンボジアの婦女がどのように「立ち小便」をしていたのか、分からないのが残念である。カンボジア人の服装については、「大抵、一布を腰にまとうほかには、男女の区別なく、みな乳房を露出し、椎髻[ついけい]で跣足[はだし]である。国王の妻であっても、またただこのようである。」(前掲書p28)と明解に記述している。腰巻式で「男女の区別なく」というのだから、腰巻を捲って、日本の女性と同じように前屈みになって放尿したものか。インドのサリー姿の女性が“中腰小便”をするというが(第4.7節で紹介する)、それに近い姿勢だったのかも知れない。

南国のカンボジアでは、現在も同様、水浴が日常的に行われていた。『真臘風土記』にその様子が記録されている。

男女を分かたず、みな裸体で池に入る。・・・・ ただ女性は左手で陰部をおおいかくして水に入るだけである。あるいは3,4日、あるいは5,6日ごとに、城内の婦女は三三五五みな城外に至り、河のなかで水浴する。河辺に到着すると、身にまとった布を脱ぎ去って水に入る。河に寄り集まる者は、動もすれば千をもって数える。役所の婦女であっても同じようにこれに仲間入りし、大体それで恥じとしない。踵から頭の頂上まで、みなこれを見ることができるのである。(p78)

唐人はこれを楽しみにして、盗み見に行く云々と書いている。
水浴と排便を兼ねた生活習慣は、南アジアに広く見られる。つぎの引用は、椎名誠『ロシアにおけるニタリノフの便座について』(新潮社1987)から。タイでの見聞。

メナム河の両岸には水上家屋がたち並んでいた。家の入口からは梯子が水中までかけ られており、朝方フネで川をのぼっていくとその梯子の途中でいろんな人がじっとしているのが見えた。人々は梯子の途中の横木につかまり、腰から下をメナム河につけたままみんなじっとしていた。はじめは何か宗教的なしきたりで半身を流れにつけてじいっと瞑想にふけっているのだろうか、と思っていたのだが間もなくそれは単純な間違いである、ということに気がついた。人々は梯子につかまって腰から下を流れにつけながら朝のクソをしていたのである。(p19)

『真臘風土記』による真臘国首都(アンコール・トム)での見聞によれば、「坑」式の便所があったことはまちがいない。周達観の観察では、カンボジア人たちはよく水浴をするが、その際、裸になったようだ。記述されていないが現在と同様、水中で排泄をも行っていたであろう。わたしは「坑」式便所も水浴式の排便も、どちらも行われていたと考えておきたい。
そして、当時(13世紀)のカンボジアの風俗として、女の立ち小便があったのである。そして、少なくとも元時代の中国では、「女の立ち小便」は笑うべきものと考えられていた。「笑うべし、笑うべし」という評は、周達観がそういう読者層を前提として書いていると判断される。



(1.7):十方庵敬順『遊歴雑記初編』・南方熊楠・安田徳太郎の場合
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『遊歴雑記初編』という書物に「女の立ち小便」の記事があることを知ったのは、山路茂則『トイレ文化誌』(あさひ高速印刷出版部 2001)によってであるが、この本の存在を知ったのは次のサイトのおかげである。このサイトはフェミニズム系の硬派なサイトで、その中に「立ち小便」というところがあり、本の紹介をしている。トイレあれこれ 女性の立ち小便 抜粋 特集。この分野のことを何も知らなかったときにこのサイトに出会ったので、多数の有益な書籍を知りおおいに役立った。

ところでこの山路茂則『トイレ文化誌』という本は、出版元が特殊なためか、めったに見ることが出来ない。わたしが図書検索で常用している東京都の図書館 蔵書横断検索でヒットしたのは、わずかに次の3館だけだった。立川市図書館、府中市図書館、足立区図書館。このうち、足立区図書館は都内居住者には図書カードを発行するが、立川、府中は当該市に居住/通勤通学者に限定しているので、わたしにとっては有り難みがない。(なお、東京都立図書館がヒットしないのはとても珍しい)(「東京都の図書館 蔵書横断検索」というのは、インターネットに接続されている東京都の都・区・市立図書館を一度にすべて(部分限定も可能)検索してくれるサイト。非常に便利。当該の全図書館に共通の図書カードを発行すべきである。その前に、すべての区・市の図書館がインターネット接続をし、検索可能にすべきだ。現在は10/23区)

この十方庵敬順(1762~1832)という僧は、本姓津田氏、退隠して十方庵、茶名宗賢のち宗知、俳名以風。小日向水道端(文京区水道2丁目)の廓然寺[かくねんじ]、東本願寺末寺に住した。文化9年(1812)50歳に寺務を譲り退隠。好風景や古跡を求めて、遠近に杖を引いた。
「女の立ち小便」の記載は、 『遊歴雑記初編』のほとんど最後にでてくる、寛政九年(1798)に京・大坂を旅したとき、伏見から大阪への三拾石船の中で他の船客相手の江戸の自慢話のひとつとして出てくる。

船中に六〇年配の「比丘尼」を中心とした六人連れがいて、その比丘尼は自分が「東武に下向」したとき、浅草の味噌田楽が塩辛かった。「田舎の人は常に塩からきを好[すく]にや」と、さも江戸の者が田舎者であるかのように話しかけてきた。これに対して十方庵敬順が反論する。江戸の味は概して「塩甘」だが、人の好みで「塩からくもし、又甘くもして、口に叶う様に振舞う」ので「浅草の名代として名物とす」。

但し足下[そなた]の今いえる如く、田舎の者は惣じて塩からき味噌を好む、案ずるに、おのおの方の風躰旅人と見請、田舎者ぞとこころえて、態[わざ]と味噌加減をからくしたるなるべし。

敬順はこのとき38歳の中年僧、それが60年配の尼僧へ向かって、江戸っ子の負けん気を出して、底意地のわるい論じ方をしている。
上引に続けて、京・大坂の婦女が「田舎者」だと思われても仕方がない実例として、立ち小便を持ち出すのである。

又田舎者と見しも僻目[ひがめ]とはいふべからず、それ東武に生立[そだつ]女[おうな]は、たとひ場末の背戸家[せどや]、裏屋住[うらやずみ]の嬬[やもめ]までも、その度々厠に入りて用を便ず。然るに上方は、物事花車[きゃしゃ]にして上品なるに似たれども、下[しも]ざまの女[おうな]より被衣[かつぎ]かぶりし身分まで、往還の而[しか]も人立[ひどだち]繁き市中に白昼をも憚らず、担桶[たご]に後ろ向きになり、尻さし出[いだ]して立ちはだかりて小便し、尻三ッ四ッ振って裾をおろし歩行す。その不作法笑止いふばかりなく、見るも気のどく也。

敬順の毒舌はまだ続くのだが、一旦切ろう。「尻三ッ四ッ振って裾をおろし歩行す」という叙述は1.紙を使わないこと 2.『写真で見る日本生活図引4 すまう』の注にあった「終わると尻を少し振る」というのとよく符合している。 3.終わるとすぐ「裾をおろし歩行す」というのもよく現実を観察した上での言葉であろうと思える。などを感じさせる。つまり、敬順が実際に見てきたところをもとに叙述していると信じてよいと思う。
さて、この続き。

なお又、土地は都なれども、人心薄情にして吝嗇、物事下卑たるは片鄙の僻地よりよりも劣れり。豈[あに]田舎者と云[いわ]ざらんや。東武を田舎ぞと譏[そし]るにもせよ、立ちはだかりて往来のちまたに小便する女なく、或は宵越の古茶にて煮蕩[にとろか]したる粥を啜りて世を営む家なく、扨[さて]は朝な朝なの汁の実、野菜もの及び薪の類に、交易する小便担桶[たご]を軒下にならべたる卑賤の家なし。

(中略)上方にくらぶれば、風土田舎なるにもせよ、人気[じんき]温順上品なれば、東武の人は都よりも抜群増[まさ]れりと覚ゆ。依て男女の髪形、衣服の着こなし、人の押立[おしたて]、取廻[とりまわ]しまで、一風有りて諸国に秀[ひいで]目立て見ゆ。しかれば、おのおの達の風体、武城[えど]に見馴ず、且は立小便などの下品なるを以て田舎人とこころえ、態[わざと]田楽の味噌加減塩からくやしつらん、是田楽屋の誤りならず。(p156)

“京都人は日常生活の隅々に至るまでケチだ”というのは現代でも言われている京都の悪口であるが、200年前にすでにこのように言われていたことが分かる。敬順は、小便桶へ放尿することを合理的だと考えるのではなく、ケチのためには人目をはばからない行いもする、という風に悪口に持っていっている。

上で引いた南方熊楠「立小便と蹲踞小便」を再度参照する。その冒頭は、西沢一鳳『皇都午睡』(1850)からの引用である。敬順とちがって、西沢一鳳は大阪の人。(西沢一鳳は、歌舞伎作者。1802~52。大阪の歌舞伎書店に育ち、家業のかたわら劇作も行った。「けいせい浜真砂」など。『皇都午睡 みやこのひるね』は幕末期の随筆。)
『皇都午睡』によると、京都と同じく大阪でも、往来に小便桶がおいてあり、男女によらず使っていたことが分かる。西沢一鳳はこの習慣は、婦女の場合見苦しいのでやめるべきだとしている。

大阪にてもたまたま往来の小便桶へ婦人の小便すること、老婆幼稚の者は人目も恥ねど、若き女の小便するふりはあまり見るべき姿にあらず。江戸は下女に至るまでも小便たごなければよんどころなくかは知らねど、みな厠へ行くゆえ、これだけは東都の女の方、勝公事[かちくじ 裁判になれば勝つ]なり。京にても浪華にても、芸子閨婦が送り迎いの下男下女を待たせて往来で小便せぬは、よほど色気を含みし故なり。老若といわず、往来の小便所に女は遠慮あるべきことなり。

ここまでは、上の馬琴や敬順らと似た視点であり、大阪人でありながら江戸の婦女の行儀の良さを讃めている。だが、次のくだりは「女の立ち小便」にまったく異なった評価もあったことが示されていて、興味深い。(ここまでの、長い引用をする熊楠のひろい視野はさすがである。)

[地方を旅行したときに]上州・信州在の女は立ちはだかって腰を突き出してするが可笑[おか]しくて、泊まりし宿にてそれを言い出し笑えば、この辺でしゃがんで(上方でつくばることなり)小便すると縁付が遅いとて嫌えりと、云々。

大阪の先端的インテリである西沢一鳳の意識が、上州・信州の地方の風俗意識と食い違っていることを良く表している。そのことに気づいた一鳳がこのように記録してくれたのである。
上州・信州ではしゃがみ小便は「縁付きが遅くなる」といって嫌われているというのである。しゃがみ小便は幼女の放尿姿勢として「色気」がないものとされ、一人前の女として扱われなかったのだろう。「立ち小便」は成熟した女の放尿姿勢であるとみなされていたのである。
(『皇都午睡』は「新群書類従」の第1巻『演劇1』に含まれている。「新群書類従」は塙保己一の「群書類従」を襲って、明治末期に徳川期の書物を刊行した叢書12巻。水谷不倒と幸田露伴の監修。国書刊行会(1907)非売品であるが、復刻版(1976)も出ており多くの公立図書館は常備している。原文は句読点なしだが、上引は南方熊楠の表記のまま、熊楠が読者の便を考えて読みやすく引用してくれていることが分かる。だが、原文でも決して読みにくくなく、『皇都午睡』をあちこち読み漁って、幕末江戸の雰囲気を味わうのも一興です。「皇都」は江戸のことで、一鳳が江戸滞在中に書いた随想集。50歳で死んだ一鳳は、文筆の天才のひとりですね。)

安田徳太郎は京都生まれであるが、『人間の歴史 3』(1953)で、西沢一鳳『皇都午睡』より更に踏みこんだ証言をしている。

じっさい、関西地方では、女は子供時代は、大便所でしゃがんで小便をしたが、年ごろになると、小便所で立ってうしろむきに小便するように練習した。女の子にとっては、立って小便できるのは、じぶんが一人前になったしるしであったから、うしろむきは恥ずかしいどころか、かえって大きなほこりであった。娘がしゃがんで小便すれば、なんだ、子供かと、男までがばかにした。(3-p93)

江戸でも、町人の女は立って小便をしており、武士はそれを田舎者と大いに軽蔑した。「江戸でもやはり、大便は家主の権利であり、小便は借家人の権利であった」と安田は書いている。

徳川時代でも、江戸の町人の女が立って小便したのは、関西とおなじであった。武士は女の立小便を田舎者と大いにけいべつしたが、江戸でもやはり、大便は家主の権利であり、小便は借家人の権利であったから、借家人の女はやはり、じぶんの一家の収入のたしまえにと、小便所で立って小便した。農家の汲み取り人も、大便と小便をわけて汲み取って、大便は小便にくらべて、値がひじょうに高かった。(p94)

日本の女が立って小便したのは、・・・・・・第一に、日本の糞尿肥料、第二に、日本の封 建的な借家制度、第三に、小便代でもかせごうという、小市民階級の経済的利益にむすびついていた。(p94)

安田徳太郎(1898~1983)は、京都出身の内科医で社会運動家。山本宣治は従兄、高倉テルは義弟。小林多喜二の遺体を内科医として引き取った人物。『人間の歴史』全6巻(光文社 1951~57)は戦後の歴史ブームのハシリでありすばらしいものであるが、現在は忘れられようとしている。わたしは安田徳太郎の他の訳業(フックス『風俗の歴史』全10巻など)とともに、もっと顕彰され読まれるべきものだと考えている。
たとえば、つぎの引用でしめす「女の立ち小便」についての安田徳太郎の見解は、わたしが小論をなんとかまとめてみようという情熱をかき立ててくれたものである。

さて、女が立って小便をすることは、じつは、わたくしにとって、三十年来の大問題であった。わたくしは、二十二歳の時に、イギリスのハヴロック・エリスHavelock Ellis(1859-1939)の本を読んだことがある。その中に次のような面白い記事があった。
「動物はみなうしろへ小便をひっかける。これとおなじように、女も立ってうしろへ小便した。これは動物型であるが、こういうかたちは、こんにちの未開族にも、あまり見うけられない。前にむかって小便するのは、人類の直立の姿勢が、最高に発達した何よりの証拠である。ところが、ドイツ人のヴェルニヒWernichによると、日本の女は立ってうしろへ小便するという、いちばん動物的なかたちを、こんにちでもまだ保存している。」
この一節につきあたって、私は思わず面くらった。たしかに、犬は電柱にむかって、うしろへ小便をひっかける。
ところが、その当時、関西地方の女たちは、ヴェルニヒがいうとおり、みな立ってうしろへ小便をしていたし、便所の構造も、それに都合のよいようにできていた。農村へ行くと、おばあさんが三人ほど野道にならんで、立ってしゃべりながら、うしろへむかって小便をしていた。じつは、わたくしはこれまで、そういう小便のしかたが、日本の女のふつうのしかただと思って、べつに気にもとめなかったが、西洋人から、これこそは世界にも珍しい動物型の、いわば、いちばん原始的な小便のしかたであるぞ、これから見ても、日本の女は、世界のどの民族よりもサルに近いぞと、きめつけられて、いままで気にもとめなかった女の小便のしかたを、観察するようになった。(3-p92)

この、生きのいい文体に、戦後の日本人の解放された知的躍動を感じる。
安田徳太郎の博覧強記、広い視野はまったくもの凄いものだが、それをすこしも包み隠すことなく親切で多弁な注によって教示してくれているのも、南方熊楠を除いて日本の理論書ではあまり類例がない。(安田徳太郎の注が優れているという指摘は、『糞尿の民俗学』(1996)編者の礫川全次に教示された。まったく、その通りだと思う)。






(2) 男のしゃがみ小便


(2.1):西川一三の証言、蒙古・チベット
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蒙古人は男でも「しゃがみ小便」が普通で、小用をしゃがんでする習慣があるという西川一三の証言がある(『秘境西域八年の潜行』上・下・別の3巻、芙蓉書房1967)。

西川は1943年内蒙古から蒙古人ラマ僧に扮して、中国辺境調査の単独行に出る。敵情視察の諜報活動である。1944年に、中国青海省のタール寺にいるとき、街の裏通りで、すでに2,3の立ち小便の跡がある壁に向かって放尿始めたところで、「紺色の帽子に服の回教兵」が中国語で「街の中で小便をしてよいか!」と怒鳴りながらやって来て、「衙門に来い」と腕を捕まれる。正式に調べられると蒙古人ロブサンと偽っている自分の正体が明らかになるおそれがあり、蒙古語しか分からない振りをし、お金をつかませて、逃れる。

蒙古人は小便をするときも、必ずしゃがんで、立ち小便はしない習慣があり、私も 敵地域に入ってからは、立ち小便などをするようなへまなことはしなかったのだが、だれも見ていない気のゆるみと、昔懐かしい壁に描かれている二、三本の川のあとを見て、つい日本人の悪い癖がで、とんだ失敗をしてしまったが、もし回教兵が蒙古人の習慣を知っている奴だったらなら?いやまったくいい薬となった。(『秘境西域八年の潜行』上巻p199)

このあと西川は、蒙古人が大便の後も尻を拭くようなことは一切しないことを書いている。自分が紙を使うと「日本人はノム(本)で尻をふく習慣があるのか」と聞かれた。蒙古人は字の書いてある紙は、経典と同じように神聖視し、鼻紙や包装紙には使わない。

特に経典は破れても決して無闇やたらに捨てず、また大地に経文の破れた紙切れでも、落ちていれば拾いあげて、かならず焼くかラマ塔の裏か、マニ筒の下に経典のはんぱ物を捨てる特定の場所があって、そこに捨てており、字の書いてある紙はとても丁重に取り扱う習慣がある。そのため蒙古を訪れた日本人が新聞雑誌などを乱雑に取り扱っているのをみて、彼等は異様に感じているのである。(p200)

蒙古人の宗教はチベット仏教(ラマ教)である。後に触れるように、イスラム教徒(回教徒)の男もしゃがみ小便である。

大小便のことに触れない旅行記や探検記があるなかで、西川一三『秘境西域八年の潜行』はあけすけに詳細に書いてくれていて、きわめて有益である。
次に示すのは、同じく西川のラサ市街での実見の証言である。1945年当時と考えて良いだろう。

この様に美しく着飾った婦人が、少し服を持ち上げたかと思うと、人通りの多い路端にしゃがみ、ペチャクチャ大声で話しながら、物凄い音をさせ小便や大便をしていて、百年の恋いも一時にさめてしまう様な光景を見せつけられるのだからうんざりしてしまう。(別巻p31)

西川は「路端にしゃがみ」と書いているし、大小をどちらもしているこの光景は、立ち小便ではないことは確実といっていいだろう。といって、日本式にしゃがみ込んだかどうかは分からない。後に扱うが(第4.7節)インド婦人などに多いという「中腰小便」であった可能性がある。下穿き(パンティなど、股をふさぐ下着)を着けない服装習俗の場合、スカート式着衣であるなら、このように実に手軽に、しかも場所と時を選ばず、大小便のし放題という事が可能であることを認識すべきである。さらに、用便のあと尻を拭かず、手も洗わないという手軽さである(ただ、乾燥地帯であることも考慮に入れる必要はあろう)。

第2次世界大戦の終了の当時、ラサという都市はいまだ中世都市の様相を呈していたと考えることが出来る。ベルサイユ宮殿にトイレがなかったことや、中世・近世のパリやロンドンの都市の街路が糞尿たれ流しで不潔・臭気充満であったことがよく知られているが、ラサには20世紀半ばまでその実例・実物が残っていたのである。(これらに関しては、第4節「便所」でさらに考える)
ラマ僧の服装について、西川は詳細に説明してくれている。スカート式着衣に、下着としては腰巻のようなものを着けているだけである。つぎの引用によって、ラマ僧たちがパンツ式の下着はもちろん、ふんどし式のものも着けていなかったことが分かる。

ラマの正式の服装は単赤色の上、下衣に袈裟の三衣に分かれている。上衣は「エレ ンガー」と云い、陣羽織に似た赤襟を着け袖は無く、長さは腰あたり位のもので、下衣は「シャンタブ」と云い、腰衣式のもので、上衣の、「エレンガー」を着て、下衣の「シャンタブ」をちょうど女学生のスカートのように上部を折って襞をつけ、腰のあたりで黄色の帯を結び上衣を下衣で絞めつけて着て、袈裟を纏う・・・・・・(中略)・・・・・・下衣の下には「マユグ」と云い下衣と同型の日本の腰巻きにあたる白か黄色の木綿の下着をつけていて、ズボンをはくことは絶対禁止されているので、大便小便をするのには非常に便利で、一寸つまみあげればすぐじゃーじゃーとやれる。
よくラマと一緒に話しながら歩いていると、「先に行っていてくれ」とも云わず、急にしゃがんだかと思うと、ジャージャーブリブリ大きな音を立て、大便し終わると拭きもせず、スーッと立上がり、そのまま話を続けて来るという塩梅で、初めの中はめんくらってしまうことがある。(別巻p254)

上の引用では「少し服を持ち上げたかと思うと」と言い、下の引用では「一寸つまみあげれば」と言っているが、同じ動作を意味していよう。スカート式着衣の裾まわりが汚れないように、裾を持ち上げるようにして「しゃがんで」用を足す。
道路で大便も小便も垂れ流し放題であり、拭いたり手を洗ったり(手は陰部に触れていない)はしないのである。土地が乾燥しており、イヌなどが大便を食べてくれれば、このような排泄方式でなんの不都合もないと考えられる。都市や寺院内部など人口密集地域ではこれでは困ることも生じてくるとしても。
つまり、一見無神経で野卑な排泄習俗とわれわれは思ってしまうが、モンゴル-チベットなど乾燥・寒冷地では合理性があり、習俗として定着する必然性もあるのである。この場合、スカート式着衣もおおいに関係しているとしてよいだろう。
日本の着物のように麻・木綿などのしなやかな着衣で、前で重ねる式のまくりやすいものではなく、毛皮であったり、何重にも重ねた厚手の織物であったりすると、立ってまくるよりもしゃがむ方が容易に小便できる(大便は言うまでもない)という事情が想像される。次に考える宗教的規律のほかに、こういう、服装からする「男のしゃがみ小便」の理由があるかも知れない。けれども、それは、あくまで補助的な条件にすぎないだろう。蒙古人ラマ僧の姿の西川一三が、タール寺の近くで簡単に立ち小便したのだから。



(2.2):イスラム教の場合
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イスラム教では大小の排泄について、厳重な決まりがある。まず『コーラン』の中では、礼拝のまえの清浄に関しては、次のように書いてある。

これ、汝ら、信徒の者、礼拝のために立ち上がる場合は、まず顔を洗い、次ぎに両手 を肘まで洗え。それから顔をこすり、両足をくるぶしのところまでこすれ。
 けがれの状態にあるときは、それを特に浄めなくてはならぬ。だが病気の時、または旅路にある時、あるいはまた汝らのうち誰でも隠れ場[便所]から出てきたとか、妻に触れてきたとかした場合、もし水が見付からなかったら、きれいな砂を取って、それで顔と手をこすればよろしい。(以下略)(井筒俊彦訳、岩波文庫上、「第5節食卓」p145)

この『コーラン』の記述は漠然としており、大雑把だ。あるいは、露骨な表現を避けている。だが、『コーラン』には出ていないが、マホメットの教えとして、排尿の際、尿が飛び散って「不浄」が散乱・付着することを戒めているという。たとえば、有名な『スカトロジー大全』(この本の紹介は、3.3節で行う)には、

イスラム教徒はしゃがんで排尿する。これは「尿が飛び散って髪や衣服を儀礼上、不浄にするからである。排尿したあと、イスラム教徒たちは小石と粘土を1対3の割合で混ぜたものか、ひとつかみの土でペニスの前を拭き、祈る前にウーズーをしなければならない。」(p73)

(ターンフォートは『レヴァントへの航海』のなかで)イスラム教徒にについてこのように言っている。「排尿するとき、彼らは尿の滴が太股にかからないように、女性のようにしゃがみ込む。尿がかかるというような不吉なことにならないように、彼らは局部をとても丹念に拭き取り、前を壁に擦りつける。この習慣のために、石が数箇所擦り減っているのを目にするかも知れない。・・・・・・」(p73)

などとある(「ウーズー」は不明)。「尿が滴って衣服についたら、その衣服を洗わなければいけない」という「マホメットの戒律」も示している(p72)。
前節で引用した南方熊楠は「立小便と蹲踞小便」で次のように言及している。

それから9世紀に渡唐したペルシャ人アブ・ザイド・アルハッサンの記に、唐人は立って放尿す、貴人は尿筒を用ゆ、・・・・・・。レーノー注に、回徒は立小便は衣服を汚すと回祖に訓えられてから男女今に蹲ってする。インドの偶像崇拝徒またこれに倣う、と。(全集 第5巻p212)

熊楠の論文は情報が圧縮されていて、難解である。9世紀に中国を見聞したペルシャ人アルハッサンは、唐人(おそらく男)は立ち小便であった。貴人は尿筒[日本読みでは、しとつつ]を用いる(尿筒については第3.3節で扱う)、と書物に書いている。その書物にたいする(パリのアジア協会会長・帝立図書館東洋写本監の)レーノーが注をつけていて、“回教徒は回祖マホメットに立ち小便は衣服を汚すと注意されてから、男女ともしゃがみ小便である。インドのヒンズー教徒もしゃがみ小便である。”
熊楠はこのあとすぐ、仏典の中にインドの男が立ち小便を普通にしていた記述を示し、「古くはインドの男はみな立って小便したのだ」(p212)と述べている。つまり、インドの男について、立ち小便からしゃがみ小便へ変化があったという。

ただし、同じムスリムでも国や地方や民族で、実際の清浄の行為は違いがあるようである。
熊楠は同論文で、彼がヨーロッパで一緒だった回教徒は立ち小便だったと述べている。熊楠の観察眼と広い理論的視点がわかる一節だと思うので、引用してみる。一口に「回徒」といっても分派が非常に多く、儀礼・行儀がそれぞれ異なることを実例をあげて論じた後で、

されば立小便、居小便も宗派や風土衣服の異なるに伴うて差異あることと思う。吾輩多く交わった欧米風のズボンを穿った回徒は、むろん立って尿したが、熱地でカフタン式の寛闊な衣裳を著る回徒は、居小便をもっばらとすると聞いた。しかし、以前は酒を厳禁した回徒も、今はなかなか飲む様子、それと同じく立小便も大流行となったかも知れぬ。(全集 第6巻p585)

しゃがみ小便を居小便と書いているのも、注目される。

つぎの大野盛雄「水で尻を洗う」が報告している、アフガニスタンのパシトゥン人の農村での観察は、むしろ読んでいる方が溜息が出るほど清浄ということに真剣に向き合っている人びとの姿勢が伝わってくる。日に5度のナマーズ(祈り)のときの、体を浄める動作である。

農夫たちは流れる水の前に一斉にならんでしゃがみ込み、顔や手足を洗い浄める。・・・ よく見ていると、彼らはアフガン風のズボンを下げ、下腹部を洗う。・・・彼らは毎日のようには風呂を使わない。だからナマーズの際には私たち[日本人が神社でする]のように口をすすいで済ますのではなく、手足から下腹部までも浄める習慣になっていると言ってもよいかもしれない。農夫たちの日常の生活を見ていてわかったことだが、用便の際に土(きわめて細かい粒子でさらさらしていて、しかも乾燥している)で局部の汚れを拭き取っている。もちろん前の方も後の方もである。(『アジア厠考』所収 p190)

神社参詣の際、口を漱いで手を洗う、ということさえ今の日本人はほとんどやらなくなっている。それどころか、マフラーや帽子を取ることさえしていない。パシュトゥン人たちは日に5回のナマーズの度に、顔や手足はもちろんズボンを下げて下腹部を浄めているのである。実際の動作がこれだけでは分からないが、水流の前にしゃがんでズボンを下ろしているのだろう。外陰部も肛門も、きちんと清浄でなければ神の前に出られない、というごまかしのない姿勢を感じる。
上の続きであるが、通常の小便の際の動作が記録されていて、貴重である。

あるとき遠くの畑の脇にしゃがみ、アフガン風の上着の裾で体を隠して小用を足している男を私は見た。彼は用が終わると左掌で土を掴み裾のなかでもそもそした。次いで彼は裾を整えて立ち上がった・・・・・・。(同上 p190)

ここでまず確認できることは、「男のしゃがみ小便」である。しかも、陰部を「隠して」いる。そして、土を使ってペニスのしまつをしているのである。何回か振った位でごまかしている日本人男性からすると、まことに徹底している。彼らは、尿が衣服や体の他の部位に跳ね飛ぶのをおそれるだけでなく、尿が尿道に残ったり亀頭周辺につくことを不浄として、神からの教えに背くことと考えているのである。
こういう言い方が大袈裟だと思うひとは、つぎの「イスラムにおける排泄の心得(排尿、排便)」の抜き書きを見ていただきたい。(ゴルパーイェーガーニー著『トウズィーホル・マサーエル』関喜房 訳、『アジア厠考』所収p203~)
57条:人は排泄やその他の時、宗教上の義務を果たしうる人、物心のついた子供たちに対して、自分の陰部を晒してはならない。しかし、夫婦の間では、それを隠す必要はない。
58条:自分の陰部を特別のもので隠す必要はない。手で覆う程度で十分である。
59条:排泄の時、体の前面がキブラ(メッカの方向)に向いていてはいけない。
66条:尿道は水以外では清浄にならない。
67条:肛門を水で洗う場合、便の一部が肛門に残ってはいけない。しかし、色や匂いが残ることは構わない。
68条:肛門を、乾燥しているきれいな石や土くれやこれらに類するもので清めてもよい。
73条:露切り(estebra')とは、尿道に尿が残っていないことを確信するために、男たちが排尿後に行うのが好ましい行為である。尿が途切れた後、肛門が汚れてしまったなら、最初にそこをきれいにする。その後、左手の中指で肛門から陰茎の根本まで3度しごく。それから3度亀頭を押す。
78条:女性にとっては、排尿後の露切りは存在しない。
79条:排泄にさいして、誰からも見えない所にしゃがむのが好ましい。
80条:排泄時に太陽や月に向かってしゃがむことは、忌み嫌われる。しかし、自分の陰部を何かで隠しておれば、そうしてもかまわない。
81条:立って小用を足すことと、固い地面や動物の穴や水、とくに水溜まりに小便をすることは忌み嫌われる。

各条文は、抜き書きにしているところもある。条文番号が飛んでいるが、宗教的な例外規定や救済規定や注意規定が詳細に書いてある。関心のある人は見て欲しい。わたしは、イスラム教徒たちが日常的に行っている「清浄」に関する義務行為が、容易ならざる真剣さで取り組まれているのだな、ということを初めて認識した。わたしのその驚きが、とりあえず伝わればよいと考えて条文を抜萃にした。
露切り」という規定には、日本人は驚くだろう。このように、あけすけに具体的に書いてある規定をもっている人たちと、排泄についての正確な知識と処置法をまともに教育されることのないわれわれとの違いを思う。
ここで明らかなように、立ち小便ははっきりと禁じられている。また、「しゃがむ」ことを勧められ、他人から見られないようこころ配りする。男性が小用のとき、水や土くれをもちいてペニスを清浄にするとき、その清浄動作を確実に行うにはしゃがまざるを得ないことは、説明を要しない。
キブラの方向と太陽や月を神聖視して、そちらに向かって排泄を禁じていることは、間違いない。



(2.3):インド・パキスタン・バングラディッシュ
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トイレットペーパー収集で世界的に有名な西岡秀雄は、インドの男女の排尿姿勢について、次のように述べている。

われわれ日本の男性は立って立ち小便が出来るけれども、男性でもしゃがまないと出ないという人種がいっぱいいるわけです。・・・・・・インドなんかだと、1万km回ってみて、男性の8割がしゃがみ小便、女性の8割が立ち小便で、日本と逆です。(『トイレットペーパーの文化史-人糞地理学入門-』論創社 1987)(p123)

この「女性の8割が立ち小便」という中には、第4.7節で考える「中腰小便」も含められているかも知れない。サリーを下半身に巻いているインド女性の排尿姿勢のことである。

椎名誠がインドではじめて男のしゃがみ小便を見たときの印象を、次のように書き留めている(椎名は「座り小便」と言っているが、前に説明したように小論は「しゃがみ小便」と言う)。

インドの男たちというのは路ばたで小便をするときに立ち小便ではなくて座り小便をする。・・・・・・最初に見たのはボンベイの街角であった。若い男がドウティと呼ばれる腰巻の裾を両手でつかんで小器用に左右にひろげると、そのままひょいひょいひょいと跳ね踊りでもるように、なんともかろやかな身のこなしで道路をわたり、向かい側の道ばたに素早くしゃがんだ。このときはすこしアタマのおかしいインドのオカマかなにかがふざけしょんべんをしているのだろうか、とおもったのだが、そののちこれがインド人の男の小便スタイルだと聞いて不思議インドへの思いを新たにしたのもである。(『ロシアにおけるニタリノフの便座について』p30)

東南アジア・南アジアから中東にかけて広くみられる男のしゃがみ小便について、やや学術的なレポート、岡崎正孝「トイレはモスクで」(『アジア厠考』所収)を参照してみる。

イランでは、日本のように何人もが並んで、立って用をたすようなことはなかった。オターカクと呼ばれる「個室」に入って、しゃがんでするのがオーソドックスなやりかたである。そのため男用トイレ(小便用)でも「個室」が原則になっている。(p196)

かつての繁華街イスタンブル通りにも[公衆便所が]ある。しかし、このトイレは日本の「駅便」のように小便用の[横]一列行列式である。作法通りにはせず、しゃがまずに立ったまま用をたす人が増えたからである。西欧化の影響であろう。(p196)

彼らは「小」の後も、水で[ペニスを]洗う。これは立ったままでは、やりにくい。しゃがんで洗う。だから、日本の駅のトイレのように[横]一列に並んで、というわけにはいかず、「個室」に入り、用をたす。乾燥しているということは、ありがたいことでもある。水で洗っても、すぐ乾く。その上、伝染病は少ないから、手でじかにやっても大したことはない。手さえきれいに洗っておけば、どおってことはないはずだ。(p198)

先に「イスラムにおける排泄の心得」をみておいたから、これら椎名誠や岡崎正孝の証言が単なる風習という以上の宗教的戒律の扱いをもって、日常的に行われている排泄行為であることが納得がいくであろう。ヒンディ・イスラムはともに男のしゃがみ小便を主張しているようである。(このことの背景には、より広い理論的根拠があるだろうことが予感されるが、それは、後段で考える。また、南方熊楠が「回徒」にも立ち小便がはやり出すかも知れない、と1919年ごろに述べていた先見の明に感心する)

アジア街道各駅停車 イラン編/NO.4には、「 ── パキスタンとイランのトイレ事情 ── 」として、立ち 小便をしない男の間で小便をしてきた筆者の体験談が述べてあって、とても、興味深い。中東-南アジアを貧乏旅行する日本人は多く、こういう場面に遭遇した人はいくらもいるだろうが、この筆者のように率直に書いて残してくれているのは珍しい。貴重である。

インド、パキスタンあたりでは男も立って小便をしない。外で用を足す時も、道ばたにしゃがみ、クルタと呼ばれるだぶだぶのズボンからそれをうまく取り出して用を足す。立ち小便ならずしゃがみ小便だ。(クルタは上着、下半身に巻き付けているのはドーティ。筆者の言いたいのは、しゃがんでドーティをうまく捲って男がしゃがみ小便をしているということと思う。下の鈴木了司の引用も参照して欲しい)

一度、パキスタンの映画館の休憩時間にトイレに行くと、普通の男性用の便器が並んでいるのだが、なんと男たちはその足下にしゃがみ込んで壁に向かってやっているではないか。僕の順番が回ってきて躊躇した。立って正しい方法でしようとすると、便器のすぐ横に隣のおっさんの顔がある。まさに、しぶきのかかりそうな距離である。かといって同じようにしゃがんでやるわけにもいかず、結局少しすくのを待ってすませた。

これがイランへいくと、男は大抵ジーンズかスラックスをはいているので、パキスタンのように道ばたでしゃがみ小便をすることができない。従って、男も小便でも必ず個室を使う。
バスで旅をしていると、休憩時間には男性トイレの前に長蛇の列ができる。バスに乗っている客は男の方が圧倒的に多い為だが、日本の公園などのトイレの光景を見慣れている僕には不思議に思えた。
建物の裏に回れば周りは砂漠でだれも見ていない。僕の目には立ち小便し放題に見えるのだが、だれもそのようなことをしようとはせず、じっと順番を待っている。だれか大でも始めたら大変だろうななどと心配しながら、裏で済ますと、それは砂漠の砂の中に一瞬にして飲み込まれていった。ここでは、これは本当に行儀の悪いことなんだろうな。ごめんなさい。

筆者は「ここでは、これは本当に行儀の悪いことなんだろうな。ごめんなさい」と言って、問題を直感してはいるが、“周りは砂漠でだれもみていない”から立ち小便はかまわないじゃないか、という日本人的な感覚の中にいる。だが、長蛇の列をなしている男たちに言わせれば、決して“だれもみていない”ことはないのである。“アラーの神がすべてをみている”のである。

鈴木了司『寄生虫博士トイレを語る』の中に、バングラディシュで博士が立ち小便しようとして、“immoral”だと言って止められた体験談が出ている。

外国を歩いていると、男性が立って小をしないで、すわってするのにぶつかる。
バングラデシュでも、男の小は立ってするのではなく、すわってする。田舎を走っている時、我慢ができなくて、車を止めて立ち小便しようとしたら、同乗している向こうの人に、「立ち小便は immoral だから駄目だ」と言われた。立ち小便をすること自体とたってすることがどうもいけないらしい。・・・・・・ダッカの研究所のトイレでも、溝が切ってある男性用のトイレが手前にあり、先人がそこで、しゃがんで小をしていたが、隣で立ったまま用をたそうとした。「お前は向こうでしろ」とその人に注意された。はじめは何のことか分からなかったが、よく見ると、奥に普通の男性用の小便器が並んでいた。つまり、男の小用に二種類あるわけだ。
ズボンをはいている場合は、下半身[ペニス]を出さないと、男の小はどうしてもできない。だが、彼らが着ている腰巻のような民族衣装では、何とかお尻をまくらずにできそうだ。町を歩いていると、初めは大の方かと思っていたが、たしかに道ばたで、道路にお尻を向けてしゃがんで小をしている男性をいくらでも見かけた。(p140)

鈴木了司の立ち小便を「immoral」だと言って止めた同乗者がどういう人であるのか分からないが、衛生指導で来ている日本人学者に注意をするのは、よほど勇気がいっただろうと思う。鈴木了司もおそらく人目のない場所を選んで車を止めてもらったであろうから、「immoral」という言葉に重みを感じる。単に、「お行儀が悪い」ということではなくて、もっと深刻に「人格を疑われるような行いに当たる」から“おやめなさい”という忠告だったのだろう。
宗教的とか倫理的とかいう語を持ち出していいのだが、宗教的とか倫理的とかという語そのものが日本人においてどれだけ生きているか、ということを考えさせる。日本人がそれらの語をどれだけ生きているか、と言ってもいい。鈴木了司に「immoral」と声をかけた同乗者は、人目のない田舎道で異国の人間が立ち小便をすることを、黙って見過ごすことができなかったのである。わたしはそこに、生きている宗教性を感じる。この『寄生虫博士トイレを語る』には、道端のコンクリート製の男性用便所でしゃがんで小便をしている男の写真がある。「バングラデシュでは小もすわってする」というスナップ写真だが、尿の臭いが感じられる妙にリアルな写真である。



(2.4):性器信仰
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「女の立ち小便、男のしゃがみ小便」という語句に奇異な感じがあるとすれば、それはわたしたちが、日本の近代社会の生活・習俗になれた目で問題を見ているからである。
生理的な適・不適からすれば、男女いずれも、立ち小便にもしゃがみ小便にも適している。どちらが特にいけない(生理的に不利である)ということはない。「女も男も、立ち小便もするし、しゃがみ小便もする」というのが、人類全体をみわたしたときの社会的・歴史的な事実である。(ヨーロッパで普及した「腰かけ式排泄」は、便器・便所の構造に由来している。)

「男・女」が「立ち小便・しゃがみ小便」のいずれをするか、という組み合わせはもちろん全部で4通りある。

  • 男女ともに立ち小便をする。

  • 男は立ち小便、女はしゃがみ小便をする。

  • 男はしゃがみ小便、女が立ち小便をする。

  • 男女ともにしゃがみ小便をする。

現実には、これ以外の「小便姿勢」がありうるが、ここの思考実験ではそれらはたまたま伏せてあると考えておく。

けれども、生理的には可能であるさまざまな排泄姿勢を、個々の人々は任意に自由に選び取りつつ行っているかというと、明らかにそうではない。特定の時代と社会をきめれば、どういう姿勢で小便をしているかはほぼ決まっていると考えられる。その社会での年齢・性・社会階層などによって異なるにしても、それらを指定すれば安定的な支配的な排泄姿勢というものはある、と考えていい。
どのような要素がそれを決めているだろうか(限定しているだろうか)。

  • 男女の排泄器の生理的相違

  • 便所の有無。便所の形式、携帯便器(おまる)、腰かけ式としゃがみ式など。

  • 気候風土・地理的条件(水辺、南国、寒冷地、砂漠、肥沃平野など)

  • 服装(スカートかズボンか、腰巻かパンティかなど)

  • 宗教的意識

これらの項目の選定が排他的に出来ていない(便所の形式は、気候風土に左右されるというように、相互依存している)ので、これらを数え上げることにそれほど意味はないが、思考の整理にはなろう。
特定の個人が、いつも同じ排泄姿勢をとっているところもあろうし、いくつかの異なる姿勢で排泄を行うことのあるところもあろう。便所の設備のない社会では、排泄姿勢が自然条件や環境によって変化し、その場・その時である程度工夫されているであろう。便所以外での排泄がほとんどなくなった現代日本人などは、便所設備に規定されて、しゃがんだり・座ったり・立ったりしている。

正直に言って、自分が常日頃「男の立ち小便」をしているため、「男のしゃがみ小便」が世界の広い範囲で行われているのは驚きだった。しかも、その合理的理由が簡単には見つからない。そのことがわたしを考え込ませた。第2.1節で述べたように、モンゴル人たちがなぜあの大平原で「しゃがみ小便」にこだわるのか。
排泄姿勢には「宗教的理由」があることは、上で(第2.3節)「イスラムにおける排泄のこころえ」を示しながら、学んだ。しかし、「女の立ち小便、男のしゃがみ小便」はヘロドトスのエジプトから分かっていた有名な習俗で、たんなる偶然性などでは説明のつかない深い根源性があることが感じられる。人類にとって根源的な問題として、扱う必要がある。

マルタン・モネスティエ『排泄全書』(原書房1999)という現代の書物によれば、「女の立ち小便、男のしゃがみ小便」の例は多くの地方と時代で知られているのである。この『排泄全書』はこれからも幾度か引用させてもらうので、紹介しておく。浩瀚な書物で、出典などきちんとしていてとても役に立つ。この方面に関心のある方には必読文献だと思う。

男は立ち女はしゃがんで排尿するというやりかたが世界中どこでも行われているとは 限らない。ヘロドトスによると、その昔エジプトでは、女性が立ち、男はしゃがんでいた。カール・リュモルツは1890年に、オーストラリアでも同様なことが行われていたと書いている。シャトランによると、1870年ごろにスイスでは、男性がしゃがんで排尿し、女性は立って排尿していた。ジェラール・ド・カンブレは1867年に、アイルランド人について同様のことを語っている。アンゴラ人とグリーンランド東海岸に住むエスキモーのあいだでは、20世紀初頭になってもなお、すべての者が立って排尿していた。反対にW・W・ロックヒルによるとチベットでは1900年頃、立ってするのは神に対して失礼であると考えられていたため、男女ともしゃがんで排尿していた。(マルタン・モネスティエ『排泄全書』p44)

このように、世界の多くの地域での、男女の立ち小便・男女のしゃがみ小便の報告がなされているのである。ゆえに「女の立ち小便、男のしゃがみ小便」は、歴史的・社会的に考えれば、けして特異で例外的な習俗ではないことは明らかである、と言ってよいだろう。古代エジプトについてのヘロドトス『歴史』の証言は、ある程度の修辞上の誇張があったとしても、否定しがたい、と思う。
ヘロドトス『歴史』の記述を、敬意を表して参照しておこう。松平千秋訳、筑摩世界古典文学全集10から

エジプト人はこの国独特の風土と他の[ 国の]河川と性格を異にする河とに相応じたかのごとく、ほとんどあらゆる点で他民族とは正反対の風俗習慣をもつようになった。例えば女は市場へ出て商いをするのに、男は家にいて機織をする。機を織るにも他国では緯[よこいと]を下から上へ押し上げて織るのに、エジプト人は上から下へ押す。また荷物を運ぶのに男は頭に載せ、女は肩に担う。小便を女は立ってし、男はしゃがんでする。一般に排便は屋内でするが、食事は戸外の路上でする。どうしてもせねばならぬことでも恥ずかしいことは密かにする必要があるが、恥ずかしくないことは公然とすればよい、というのが彼らの言い分なのである。(p82)

自分の無知をさらけ出すのだが、ヘロドトスの『歴史』というのは膨大な著作なのですね。こんど参照するまで、知らなかった(ヨーロッパ系の教育を受ければ、当然の知識なのだが。例えば、日本で高校教育をうければ『日本書紀』がどの程度のボリュームの書物かということは知る。「岩波体系本で2冊」という風に。だが、ヘロドトス『歴史』が『日本書紀』と比較して大きいのか小さいのか、そういうことをわたしは高校の「世界史」で学ばなかった)。
それで、この部分はギリシャと比べてエジプトがまるで反対の世界だ、という筆法で書いている。16世紀の日本をヨーロッパへ報告したルイス・フロイスの「日欧文化比較」(1585)も、日本とヨーロッパが正反対だという筆法をとっていた。つまり、未知の世界を紹介する際の、表現法としての誇張があるかもしれない。それは、ある程度割り引いておいていいと思う。

しかも、第2.2節で示したように、南方熊楠によれば、インドの男性は、古代仏教時代には立ち小便であったのが、中世以降の「偶像崇拝教」の時代から現代まではしゃがみ小便になっているという。つまり、“立っていたものが、しゃがんだ”のである。小便の姿勢に歴史的変化があるのである。
日本人の大便排泄姿勢が20世紀後半に大きく変化し、「しゃがみ」ばかりであったところに「腰かけ」が普及したが、その理由はよく分かっている。便器の変化があったからである。


前節の最後に、安田徳太郎の引用の中のハヴロック・エリスを示しておいた。

動物はみなうしろへ小便をひっかける。これとおなじように、女も立ってうしろへ小便した。これは動物型であるが、こういうかたちは、こんにちの未開族にも、あまり見うけない。

ハヴロック・エリスは、二足歩行し始めた人類の女は「立ってうしろへ小便した」という。その理由は「動物はみなうしろへ小便をひっかける」からだ、と。これは分かりやすい理屈である。犬・猫のようにしゃがんで大便をするものもいるが、マーキングにつかう尿は「うしろへひっかける」。
だから、二足歩行で立ち上がった人類は、男女とも立ち小便が自然で、女は“原初は立ち小便で「うしろへひっかけた」”であろう、というのは説得力がある。とくに否定する理由がない。むしろ、しゃがみ小便の方に理由が必要なのである。

「男のしゃがみ小便」の背後にある宗教意識について明言しているのはあまり見かけない。上の『排泄全書』からの引用の末尾に「チベットでは1900年頃、立ってするのは神に対して失礼であると考えられていたため、男女ともしゃがんで排尿していた。」とあった。これは重要な報告で、「神に対して失礼である」というのはポイントが押さえられていると思う。
だが、わたしが知っている限りでは、つぎの安田徳太郎の指摘がもっとも踏みこんで論じており優れていると思う。

古代エジプトのばあいは、小便のしかたは、宗教観念とも結びついていた。エジプト でも、ずっと以前は、日本人と同じに、男も女も立って小便していたが、宗教上から、男が小便するとき立って性器を出すのは、神に対するけがれとされて、しゃがんでする習慣になった。ところが、女が立って小便しても、神様はいつでも前の方にいて、後にはいなかったから、べつに罰はあたらないとなって、女の方は、これまでどおりの習慣をつづけた。これが、ヘロドトスの見た、あべこべの真相である。(3-p96)

こういうあべこべは、古代アイルランドでもおなじであった。近世まではオーストラ リア、ニュージーランド、北米国のコロラド、ニカラガ、アフリカのアンゴラでも、男はしゃがんで小便し、女は立ってうしろへ小便していた。(『人間の歴史』3巻 p96)

「男が小便するとき立って性器を出すのは、神に対するけがれとされて」という言説の中に含まれている考え方は、「性器に対する畏怖」とか「性器信仰」とか「性の力への信仰」とかいう人間精神のより深いレベルに結びつくものである。
“立ちション”が良いか悪いかを、衛生や羞恥心のレベルで解決しようと考えている「文明化」されたわれわれの賢しらを一撃された思いがする。

上引の安田徳太郎が述べているのは、「男のしゃがみ小便」は“性器露出”の魔力の民俗的心性と関係しているという着想である。「これがイスラム教に引き継がれた」と安田は言う。キブラの方角に向いて大小便をしてはいけない、というイスラムの常識は、この“性器露出”の根源魔力に根拠があるとすべきなのだというのである。清浄・不浄の説明は、それを上品につくろったものである、というわけだ。

男が立ち小便をすることが、“怒張した男根を振るって神へ挑戦する”という意味を持つ、そういう宗教的心性によって、ある部族では立ち小便がタブーになる。そのように考えられるというのである。「立ち小便の跳ね返りが脚や衣服を汚す」といういわばドメスティック(家庭的)な理由によっては、民族の男全体をしゃがませるだけの強制力をもった社会的範型は形成しえないというのである。「女の立ち小便」は、そういう“宗教的な過激性”を持たなかったと考えればよい。つまり、女根をみせることがそれ自体では魔力を持ちえない、ということである(このことの真・偽は別の問題である。ここでは、そのような考え方があると言っているのである)。

上野千鶴子は「女の性器は・・・・・・そのままでは外から見えない部分」である(『スカートの下の劇場』p31)と言っているが、女性の“陰部”が見えたといっても陰毛が見えるというのがせいぜいで、通常は、女性の方から見せようとしなければ陰唇が閉じ合わさっている状態の股間鞍部さえ、実際には見えないのである。この点で、時には怒張していきり立つ男根とは違う。
要するに、わたしは男女性器の外見が違うという陳腐なことしか言っていないのだが、“男はしゃがむべきだ”という宗教的教条がありえて、女について“立て”とも“しゃがめ”とも特に言わないのには、肉体的相違にさかのぼる宗教的理由があると考えることができる。(もちろん、直接見えずとも「神に対して失礼だ」とすれば、女もしゃがめ、という教条はありうる)
この考え方がほんとうに真実を言い当てているかどうかは別問題だが、このように考えれば、「男のしゃがみ小便」と「女の立ち小便」が共存している地域の習俗を理解することができる。これ以外の説得力ある説明をわたしは知らない。



わたしは、このあとほんの僅か、日本の「性器信仰」について瞥見しておこうと思う。わたしは数十行でこの重大な問題が述べられうると考えているわけではない。この問題の入口をいくつか指摘できれば、それでよいと考えている。

わたしはこの問題のポイントは、江戸末・明治はじめの日本中の村道・山道には、要所に男根を祭った石柱が林立し、女根を表す割れ目や穴の明いた石が無数においてあった、ということを認識することにある、と考えている。もちろんそれらを日本の庶民大衆は「淫祇邪教」とは考えず、ありがたくお参りしていたのである。そのことを、はっきり認識する必要がある。石柱や石を「淫祇邪教」と考えたのは中国思想を学んだ知識人である。あるいは、欧米に追いつこうと必死だった明治以降の開明主義者たちであった。
フリードリッヒ・S・クラウス『日本人の性と習俗』(安田一郎訳1965)に語ってもらおう。

性衝動の人格化はそれ自体原始的な現象──もしわれわれが厳密にいいたいなら──性器の 原始的な現象である。性器はそれ自体自主独立なものと考えられ、本質的に不潔なものとみなされている。・・・・・・南スラヴ人の女性は、生きている人間と語るように、自分の女性性器と語り、クロアチアの農民は自分の男性性器と語る(p60)。

百年余りまえに早くも、農民の男根的な慣習は、日本の都会人の目には、ウィーンやベルリンの盛夏の旅行者の目と同じく、奇異なものに映るようになった。それについては、『東遊記』、すなわち1795年に発行されたひとつの著書のなかの一旅行記が次のように証言している[寛政7年 橘南谿]。「両側に断崖が峻しく聳えている、出羽の国の温海[あつみ]の街道沿いでは、幾個所にも、岩から海へシメナワが十字に張られていた。このシメナワの下には、芸術的に彫られた木の男根が置かれており、道を飾っていた。それらは非常に高く、7、8フィートの長さがあり、直径はおそらく3、4フィートあったろう。これは私には非常に不愉快に思われた。そこで私は、住民になぜこういうものを祀るのか、と尋ねた。彼らは、これは太古の風習です、と答えた。人びとはこれをサイノカミとよび、それを毎年、月の15日に手入れする。・・・・・・そのうえ、私は、このシメナワにたくさんの紙片がぶらさがっているのを見た。・・・・・・婦人たちはそれを美しい恋人をとりもつものとして、ここにひそかにぶらさげることがわかった。あきらかにここには、太古に由来する古い風習の一つがある。農民は石でできた男根と女陰を、ウジガミ(出身地の守護神)のシンタイ(徴標)として崇めているところが多かった。」と(p60)。

生殖は、病気と死の反対物として役立つ。それゆえ、男根や女陰もまた立像として立てられるのである。おそらくこれは、世界中どこでも陰部を露出して、悪霊を追い払っているからであろう。この原始的な考え方は、日本では、支配的な礼拝に発達したが、他の国には、痕跡的にしか残っていない(p63)。

「この原始的な考え方は、日本では、支配的な礼拝に発達したしたが、他の国には、痕跡的にしか残っていない」という指摘を、わたしは誇りを持って読む。菅江真澄(すがえますみ 1754?~1829)は「小野のふるさと」の末尾ちかくで(天明5年1785、秋田湯沢)、

あたりの神社を拝んであるいた。幸神[さいのかみ]という社には、木で作った男根の大きいのや小さいのが、たくさんおし立てられていた。幸を祈るためか、この神の祠は、村々、里という里にみな祀っている。(『菅江真澄遊覧記1』東洋文庫54 内田武志・宮本常一現代語訳 p138)

と書いている。ここには少しも(橘南谿のような)抑制はない。木で作った男根が無数に立て並べてあって、それを菅江真澄はそこから、「幸を祈る」村人の心情を受け止めて肯定的に書いている。素晴らしいことではないだろうか。そこには邪淫も猥褻もない。「他の国には痕跡的にしか残っていない」とクラウスが指摘したものが、「村々、里という里に」あって、拝まれていたのである。図は、菅江真澄「紛本稿」より、「雁田明神」(内田ハチ編『菅江真澄 民俗図絵』下巻p382 岩崎美術社1989)。菅江真澄の絵257図がカラーで収録されている『菅江真澄 民俗図絵』上中下3巻は一見の価値がある。その美しい色彩には感動する。もう1葉「椿の浦」を第4.3節に載せた。いずれも部分図。

五来重「民俗学と絵巻物」(『絵巻物と民俗』1981)は次のように述べている。

今は道祖神といえば縁結びと豊作祈願であるが、昔は塞の神(幸の神)とおなじく疫神をまつって疫病の侵入を防いだり、病気平癒や行路の安全を祈ったものとおもわれる。古代においては石棒を神体とすることが多かったが、それは明治の淫祇邪教の禁で放棄された。わずかに奥州名取の道祖神社が、莫大な男根形奉賽物をまつっており、私は戦前に仙台の多賀城址あたりの荒ハバキ神社に堆く積まれているのを見た。(p65)

明治前半に行われた廃仏毀釈や神社合祀(淫祇邪教の禁)の影響は大きかった。これによって、男根や女根の石像を道端に並べたり、小祠に置いて祀ることなどを恥ずべき後進性と考えることが一般的になってきた。普通教育の普及とも無関係ではないだろう(若衆宿についても、類似の指摘が早くからなされている)。何を“不浄”とみなし、何を“猥褻”とみなすかという基準が変化していったのである。


佐藤哲郎『性器信仰の系譜』(1995)は、日本人の性器信仰の概観を与えようとする意欲作であるが、「あとがき」で「いささか消化不良に終わった」と述べてあるのは残念ながらその通りであると思う。しかし、次のような論点は貴重である。
◆縄文の石棒は、金精大明神につながっている。これは奈良県金峯神社の守護神として信奉され、広く全国的に影響を与えている。
◆農業の豊作祈願としての性器信仰があり、「男茎型の祭具が、朝廷の祭事にも」使用され、この流れは民間信仰のなかにも生きている。
◆関東に多い双体道祖神は、密教左道とされる立川流の歓喜天信仰がルーツであり、性器信仰とは別の流れである。
佐藤哲郎が最も力を注いだのは、菅江真澄の旅行記から性器信仰に関連のありそうな個所を抽出すること、そして、秋田県内のサエノカミや金精様などを小祠ももらさないように丹念に探訪することだった。その労作を読むと、菅江真澄が記録したような性器信仰が秋田県内に密度濃く分布していたことがよく分かる。

わたしのような素人は、縄文時代の石棒や土偶について「性器信仰」一般に安易に結びつけてしまいがちのところがあるので、考古学からの意見をチェックしておく。間壁葭子「考古学から見た女性の仕事と文化」(日本の古代12 森浩一編『女性の力』中央公論社1987)が次のような抑制の利いた見解を示している。
まず、土偶についてであるが、発見される土偶は、女性像で妊産婦と思えるものが多く、しかも「かならずといってよいほど破損している」(p27)。こういう特徴に着目して、“豊饒を願う地母神像”とか“母系原理の存在する社会”とかの議論があるという。間壁葭子は「現代人が理屈をつけるのは勝手だが、あまり実態をはなれて理屈をつけると縄文人の方が面喰うのではなかろうか」(p27)ともいっている。そして、彼女自身の考えは次のように述べている。

縄文人の生活は、自然の中で予想以上に豊かに生きているというイメージを、遺跡から出土する食料の残りかすや、人々の使用した道具類から与えられることも多いが、土偶の存在は、なお人間が生きて行くにはきびしい自然界からの脅威があり、それに立ち向かう人間には祈ることしかない姿を示しているようでもある。女性の出産や妊娠期の受難を、少しでも少なくするためにと、母体の分身を土で作り、何かあればこれに身代わりを願うためのものだったと思われる。(p28)

つまり、出産の安全を祈るための「身代わり」(形代)として、破壊されて捨てられたというのである。“地母神”とか“母系原理”とかの高次の概念を持ち出さないで議論すべきだとしているのである。

これに対して石棒は男性を表現しているといえるが、「ただ石棒が男性生殖器に酷似したものが多いので、この形から石棒の意味を男性の生殖機能と結びつけて考える場合が多い」。間壁葭子は、この考え方は「男性の生殖力をも意味したように考えられている」として妥当でないとする。

土偶が・・・・・・具体的な個々の女性の出産安全に対する呪具だったように、石棒も、もっと具体的な意味で製作されたように思われる。それは自然界で人間にもろもろの凶事をもたらす悪に対して立ち向かう武器だったのではないか。特に男は外災を防ぐ役を分担している。武器はさまざまだが、弓矢も槍も通じない相手には、人間の力、男の力を示す以外にない(p29)。

その時、男であることを最も端的に表現できる男根形を選んだものと思われる。自分たちがたとえ不在でも、この石に自分たちの力を託していたのかも知れない。こうした石棒類が最初に立てられたのは、個々の住居の入口であったり奥であったり炉ばたであったりする。しかし、次第に野外に立てられることが多くなり、形は巨大な石柱やそれを中心とした石積みなどとなり、悪霊を祓う祭りの場、死者を埋葬する場の守りのようなものに変化する(p30)。

男根を模した石棒や石像・木像は、怒張した男根のもつ根源的な威力によって、災いや悪霊に立ち向かうというのが、第一義的に考えられることだ、というのである。
男根信仰を、性交・出産・生産・豊饒というふうに“生産力信仰”の方へむすびつけるのは、農業神信仰の成立した後の目で見ているからである。男根・女根を対にして祭り、予祝行事のなかで“男女のまぐわい”をしてみせるような性的豊饒の観念と、孤立して怒張している男根信仰を区別して考える必要がある。

岡山県小田郡新賀村の雨乞いに際しては、かって村人たちは、氏神に祈願するわけだが、どうしても降らない時は、最後の手段としてフリマラの方法をとったという。これは村の老人も子供も、素裸になり顔を白粉で塗り潰し、誰だか分からないようにして、それぞれが踊りながら、氏神に参り、そして男根をふりまわしつつ村中をめぐって歩いたというものだ。そうすればかならず雨が降ると信じられていたのである。
この習俗などは、勃起した男根そのものが、雨を呼びかねないほどの威力を持つと思われている。明らかなことは、このフリマラが性交を前提とした行為ではないことであった。(宮田登「性信仰覚書」『日本民俗風土論』p315)

ここでは、詳細は述べないが、マタギの狩猟儀礼のなかには「勃起した男根そのものが活力の源泉であり、勃起すること自体が獲物を引き寄せる」(同p308)ことになるというものがあるという。薩摩半島の鰹船では新入りの若者が男根をだして「サンコンメ」という踊りをするという儀礼があったという(小野重朗「海のクライドリ」『日本民俗風土論』p121)。いずれも、男だけの狩猟・魚撈社会に伝えられた儀礼であることが注目される。男女交合・生産豊饒という農業社会の性的観念とは異なる系列の「怒張した男根」信仰あるいは、巨根信仰があることを認識する必要がある。

ここで引いた『日本民俗風土論』の編者が 千葉徳爾(1916~2001)であり、狩猟伝承などを研究したユニークな民俗学者である。千葉には『女房と山の神』(堺屋図書1983)という本があり、性習俗を扱った民俗学を考える際の基本文献である。原論文は「女房と山の神 ――わが妻を山の神と崇める由来――」で「季刊人類学」6巻4号1975に発表されており、上引の宮田登や小野重朗らは、この論文に依拠して立論しているといってよい。その中から、ここに関連ある個所を2点だけ引用させてもらう。

男根を生理的な生殖のための器具とばかりみず、むしろ単独に活力の源泉と見ることが、性行為をともなわずに狩猟や魚撈活動にさいして勃起した陰茎を示す古代の岸壁画や彫刻から推定される。男根によって生殖のみを意味させるのは、農耕的文化のみのなかに生きる者の偏執心にすぎない。(p114)

古典・古代のギリシャでは、ペニスを持つ彫像が各戸の前に立てられていて、悪霊を追いはらい、活力をもたらす守護者と考えられた。それはこの勃起が攻撃力をも意味したからであろう。これは時期としては日本列島ではほぼ縄文期に相当する。同じころ、スカンジナビアには青銅文化が栄え、その信仰の中心的な位置を占めたのはファルスのシンボルであった。(p127)

柳田国男(1875~1962)が民俗学を学問として成立せしめるために、性習俗にかかわるところは用心深く避けて扱わなかったといわれるが、千葉徳爾は柳田国男の弟子でありつつ周到な準備をしながら、性習俗の民俗学に素描を与えたといえる。だが、残念ながら、それが有力な学問的流れを形成するまでに至っていない(『女房と山の神』が大出版社で扱われず、千葉の主著『狩猟伝承研究』シリーズも容易には目に出来ないことにも、それは表れていると、わたしは思っている)。



『扶桑略記』の天慶二年(878)九月二日の条には、つぎのような男女神像による祭が記録されている(拙訳)。

ちかごろ、東の京、西の京の大路小路で行われていることだが、木を彫って神像を造り、向かい合わせに安置する。およそ、その体は丈夫のようであって、頭上に冠をかぶり、マゲから飾り物を垂らしている。身体には丹を塗って緋のあざやかな色とし、立ったり座ったりいろんな姿勢がある。それぞれの容貌は異なっている。あるいは女の形につくり、丈夫とむかわせて立てる。臍の下や腰の奥には男女の性器を彫って色をつける。その前に机をおいて、その上に杯や器をならべる。子供らは騒ぎたて、慇懃に礼拝する人もある。幣帛を振る者もいるし、香花の品々を捧げる者もある。ひとびとは「岐神 ふなどのかみ」とよんだり、また「御霊 ごりょう」ともいう。どんな御利益があるのかだれも知らず、皆が奇妙なことだと思った。

「岐神」は守り神、「御霊」は祟り神ということなのであろう。平安京のあちこちで妖しげな神像を並べて祀る流行神があった。信ずる人もいるし、疑わしく思う人もいる。「臍の下や腰の奥には性器を彫って色をつける」としたのは、「臍下腰底刻絵陰陽」である。
これは、都市的な流行神であるが、男女神があって冠などかぶっているとすると道教的な性格も感じられる。9世紀後半というかなり古い時代の男女対神像である。佐藤哲郎説によれば関東-中部に多い「双体道祖神」(男女2体の道祖神)は「立川流の歓喜天信仰がルーツ」というが、わたしはこの『扶桑略記』の流行神も同系に考えておきたい。男女対像や陰陽像には、農業神の性的豊饒だけでなく、大陸渡来の道教的な理念も古くから入ってきていて、積み重なっているのではないか。

『信貴山縁起絵巻』(12世紀末成立)に登場する、道の辻にある「道祖神」(左の丸い石)と「神祠」(右の千木と鰹木のついた小祠)。左の木は柳で、切り株の上に丸い石があり、周囲を幣帛が取りまいている。丸い石が道祖神(サイノカミ)とされるのは、近年まで各地で丸い石を祀っていたからであるが、『日本常民生活絵引』第1巻の解説は「さいの神の神体に丸い石をまつるのは東では山梨県下にひろく見られるところであるが、関西でも大和、河内、和泉に見られた。四国では丸い石を田の神としてまつる風がある」としている。
右の木は榎らしいというが、小祠がなんであるかは不明。同じ『絵引』の解説は、大和地方に見られた「野神さん」に似ているとし、「ちまたの神としてまつられた」なんらかの野神であろうという。五来重は、市の開かれる辻に祀られた「市神」であろうとし、福山敏男が「店棚造」という構造を指摘したことを手がかりに、市場商人らが造った手の込んだ祭祀施設であろうとする(『絵巻物と民俗』p66)。(日本絵巻大成4『信貴山縁起』p98より、拝借しました)






しかし、日本の性器崇拝(縄文石棒、サエノカミ、道祖神など)は、F.S.クラウスが力説するように、世界的にも目立った民俗であった。そのことと、日本では男・女の立ち小便が行われていたこと、その姿勢についてさしたるタブーめいた規範はないこと、などと関連があるのだろうか。もっとも、女の立ち小便は近世の小便の下肥としての価値が高くなってから広まった風習とも考えられるが(これに関しては、異論もあり得る)。

そもそも、なぜ排泄器と性器が近接しているかは、生物発生論の根源にもどる深さを持った問題であって、それを問わない“排泄行為”論は虚しい。つまり、排泄器と性器が近接しているのは偶然ではないのであって、生物体としてのわれわれの構成原理にかかわっている。
小論では、いまだ、男のしゃがみ小便の理由を問うて男根の呪術性に想到したというだけである。小論では触れることもできていないが、排泄物を不潔として一面的に排除しようとする価値観は、けして普遍的なものではない。尿を飲み、それで洗い、それを塗る。糞を食べ、それにまみれ、それを薬とする。糞尿によって性的興奮をかき立てられるのは、生物体の構成原理にかかわっているのではないか。尿を浴び、糞にまみれることによって、はじめて生命力の根源的な奮い立ちがあるといえるかも知れない。糞尿の祝祭性。

糞尿を排除すべき汚物、一刻もはやく1㎝でも遠く身体から遠ざけるべき汚物としか見ない価値観は、近代の都市化社会がつくりだしたものである。現実の人間生活を仔細にみれば、そういう一面的な価値観(清潔感)は、深い生命力を持っていないことに気づく。
幼児は親に“バッチイからやめなさい!”と言われなければ、ウンコ遊びをしたがるものである。ボケ老人がウンコ遊びに戻ることも知られている。これらの事実は、糞尿を一面的に排除する価値観とは異なる、人間にとっての存在論的意味がそこにあることをものがたっている。

小論では残念ながら、排泄行為とスカトロジックな問題とに関連があるということを確認し、その問題の入口のいくつかを示したということで終わらないといけない。(私にそれだけの準備がないからである。小論を「排泄行為論」とし、「糞尿行為論」としなかったのは、このためである)。






(3) スカートとズボン



(3.1):下着と排泄姿勢
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この節では、衣服と排泄スタイルの関係について考えてみたい。
現代日本人男性が普通に穿いているパンツとズボンが立ち小便に都合がよいというような意味で、服装と排泄スタイルは密接な関係がある。小論の最初で扱った女の立ち小便においても、立ち小便は下穿き(パンティ)をつけない着物女性であるから可能であったといってよいだろう。日本の田舎の婆さんたちを「着物女性」というのは、何だか変なものだけれど。
パンティ(女物)にしてもブリーフ(男物)にしても、これを身につけることが習慣化してしまうと、“下穿きをはいている”時間が圧倒的に多いために、それらがあたかも第2の皮膚のような気がしてくる。パンティやブリーフを脱いでいる時間(便所や入浴中)こそが平衡から外れた異常な時間で、下穿きをつけていることの方が安定感ある常態である、というような倒錯に陥ってしまう。“パンティやブリーフの中に”性器を収めている、という感覚になっている。性器はこれら下穿きの中に収められている、と自分で感覚している。したがって、便所や風呂場で、第2の皮膚を剥いて性器を大気の中に露出していることが異常であるかのような倒錯に陥っている。われわれは、“金玉の果てまで”「文明化」されてしまっているのである。

重要なことは、日本人はほんの数十年前まで、ズロースをはくことに抵抗し、ふんどしユルユルが普通であったのである。それを忘れないようにしよう。パンティ(やブリーフ)が「性器にピタッと密着するタイプのもの」(上野千鶴子)になったのは、ごく近年のことであり、それは日本人の性器観(性器の自己認識)に大きく影響を与えていると思う。
前節でF.クラウスの「南スラヴ人の女性は、生きている人間と語るように、自分の女性性器と語り、クロアチアの農民は自分の男性性器と語る」という面白い言葉を引用しておいたが、いまの日本人の性器観(性器の自己認識)はつよく「文明化」されてしまっていて、自分の性器と対話するという地点を離れて、はるか遠くまで来てしまっている。

排泄姿勢と着衣が関係があることを明言しているのは、安田徳太郎『人間の歴史』3である。マリオ族は、近世になって、男も女もしゃがんでするようになったが、昔は男はしゃがんで、女は立って小便をしていた。理由は、前にいろいろの飾りものをたくさんぶらさげていたからだという。男は立ち小便しにくく「やむなく、しゃがんで小便した」。女は、立ってすると後ろに飛ばすことになるので好都合であった。「このばあいは小便のしかたは、服装によって、左右されたのである」(p96)と明確に述べている。(ただ、近世になってなぜ女もしゃがむようになったかについては、述べていない。)

衣服に関連した安田徳太郎の発言は、つぎのものも重要だと思う。

日本では、明治時代にはいって、フンドシに替わるサルマタが発明された。ところが、西洋人はサルマタなどははかずに、ワイシャツを長くして、みなふりである。女もズロースなどはいていない。18世紀の末までは、ヨーロッパではズロースは老婆だけのはくもので、若い娘や妻は、こんなものをはくのを女の恥として、とくに革命前のフランスの貴族の女たちは、スカート1枚でブランコに乗って、スカートのすそがまくれあがるのを男に見せて大いによろこんだ。(p108)

「サルマタ」は日本で発明された、という。これはとても重要な指摘であると思う。下穿きに関しては、日本人は西欧人より強く「文明化」されているということが、起こったのかも知れないからである。
『明治文化史12 生活編』(渋沢敬三編集)の「猿股」の項目を参照しておくのは意味があるだろう。

江戸時代の川柳に「顎で〆める褌」という言葉がある。いまではもう殆ど死語に等しいが、明治に生活した地方の大部分の人々は大なり小なりこれを経験したのであった。・・・・ 明治に入ってパンツ・猿股が都会で用いられ、地方の人々は腹のしまりがいいといって褌をした。猿股には襠[マチ]のある猿股引のものと襠のないパンツ式のものとがあって、わが国では、西洋パンツの影響を受けて猿股引のものが明治時代に考案された。軽業師の穿くキャル又は猿股引ともパンツとも違う独特のものである。猿股がいつ頃から都会で用いられたかは文献資料がないので判然としないが、明治十年代には海水浴で使われはじめたことは間違いはない。(洋々社1955 p54)

別の説で、「キャル又」は京都地方の発音だともいい、「蛙又」のことだともいう。その場合は、「サルマタ」は必ずしも「猿、申」に関係ないということになる。いずれにせよ「西洋パンツ」の影響を受けて、明治時代に日本で発明された、というのは信用してよいようだ。
ついでに、女性の下穿きも『明治文化史12 生活編』の同じところから引いておく。

女の下帯は江戸時代以来変わりなく、和服には湯文字・蹴出しで、毛糸で編んだ都こしまきが(明治)40年代には男女ともに用いられていた。・・・・ ブルマーが用いられはじめたのは、都会では洋装が流行した鹿鳴館時代上流階級からである。地方では学生や教員に洋服が僅かに用いられたのみであったから、この普及は大正の大震災前後になって都会や農村に簡易な洋服が流行してからであろう。(p54)

ここで「ブルマー」はズロース(ドロワーズ)の意味で使われている、としてよいだろう。
明治の「西洋化」の流れのなかで、服装・下穿きに関してはむしろ女性の方が保守的であり、男性には日清・日露の戦争で一気に洋装が広がったと言われる。そのことが、上のわずかの引用でもうかがわれる。
日本女性が着物にこだわった理由がどこにあるのか、その解明は簡単ではないだろう。服装論だけでなく、女性の社会進出や家族制度など多岐にわたる問題にかかわる。しかし、とりあえず日本の着物の服装としての特徴を押さえておく必要がある。

  • ワンピース型(一部式)であること

  • 前で合わせて身につける(かきあわせ式)

  • 帯一本でとめる(内に紐は使うが、ボタンなどは一切使わない)

  • じゅばん、腰巻など重ねて保温性を高めることもできる

着物は古代の貫頭衣を前で開いたものが原型であると考えられているようだ。前でかき合わせて着るので、寸法は着方で調節する。長方形に裁断し、体に密着させないで「はおる」のが基本である。このような服装は、世界的にみても、古代的な着衣法を残した独特のものである。わたしは、日本女性は長年なじんだこの独特な着物の着こなしや着装感と、洋服との大きなギャップに違和感を覚えたのだと思う。それが女性の方が服装・下穿きに関してむしろ保守的であった理由のひとつだと思う。(貫頭衣のような“アッパッパ”が、関東大震災以降、昭和初年に流行したのも面白い。おばさん達は“下駄ばきでアッパッパ”スタイルを嘲笑されたが、猛暑に涼しく・活動的で・安いので、「従来の高級洋装に縁のなかった低所得層の女性たちが着用し,主婦にも着られた」(中山千代 平凡百科事典)。)


「西洋人はサルマタなどははかずに、ワイシャツを長くして、みなふり[ちん]である」という問題を西欧通の人はちゃんと検証して欲しい(この点についての資料があまり見当たらない)。
アレクサンダー・キラ「排泄と洗浄」(小西正捷編『スカラベの見たもの』1991 所収)がわたしの要求に最も近い。

イギリスでの研究では、男性の9%がパンツを着けていない。そればかりか、約44%の人のパンツあるいは下着を着用していない人のズボンが“スズメバチ色の汚れ”から“紛れもない糞塊”の範囲で大便の汚れを付けていた。ホワイトカラー・職人・肉体労働者の別による汚れの割合の差異はまったくなかった。多くの人は、レストランのテーブルクロスについたトマトソースの汚れに苦情をいいながら、糞便で汚れたズボンをはいたまま、ビロードの椅子に座って贅沢に暮らしている。(p144)

これは現代の話である。イギリス紳士の9%がパンツをはいていないというのである。したがって、ウンコ色に汚れるのは、ワイシャツの裾とズボンである。日本人ではパンツを汚すことはあっても、「糞便で汚れたズボン」をはいている人は稀だろう。
次の李家正文『糞尿と生活文化』1989 の証言はアメリカ人についてであるが、昭和はじめまで日本人も着物なら腰巻が下着で、パンティ・サルマタの類ははかなかったと言っている。(李家正文[りのいえまさぶみ](明治42年1909生れ)は朝日新聞編集長までやったジャーナリストであるが、日本の“便所学”に先鞭をつけたとされる『厠考』(1932)は國學院大学の学生時代の出版である。著書はきわめて多い。)

(昭和初期は、下穿き、パンツ、ズロースを)はきつけないために、公衆便所でぬいだものが頭上の棚によく置き忘れられていて新聞記事にさえなっていた。いまもアメリカ人はワイシャツの下にシャツもブリーフも着けない。少し長めのワイシャツで隠しているだけである。大正末期から昭和に入っても、大人はきもののとき、男は白い腰巻を、女は紅い腰巻をして、その下にはなにもはいていなかった。(p125)

李家は昭和元年(1926)に17歳であるから、上引の「大正末期から昭和に入っても、大人はきもののとき、男は白い腰巻を、女は紅い腰巻をして、その下にはなにもはいていなかった」というのは、実際に見聞・体験したことを述べているのだと思う。



(3.2):パンティ
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前節で『明治文化史12 生活編』を参照したが、女性のズロースの「普及は大正の大震災前後になって都会や農村に簡易な洋服が流行してからであろう」と、ごく瞹眛な表現をとっていた。1932(昭和7)年の白木屋火事のときに下穿きをつけている女性が少なかったといわれることでも明らかなように、実際の下穿き着用の広まりはもっと後、おそらくモンペ着用が強要さることもあった第2次大戦中からではないか。(モンペは東北地方の婦人から広まったといわれるが、いつ頃に起源があるか不明。菅江真澄「雪の道奥 雪の出羽路」の挿し絵に「年の市の買い物」があり、夫婦が正月の買い物を沢山持っている図があるが、その女房がモンペ姿である。
おそらく、起源を探れば「山袴」など民俗的な労働着にたどりつくものと想像する。鷹司綸子『服装文化史』によると、1935(昭和10)年、鐘紡兵庫工場が考案した「新型作業ズボン」が始まりだという(p96)。1940(昭和15)年11月「大日本帝国国民服令」が公布され、大人の男子は軍服に似たカーキ色の国民服に足元はゲートルを巻くこと、女子は子供までモンペの着用が奨励された。)

井上章一『パンツが見える』(朝日新聞 2002)の第1章は「白木屋ズロース伝説はこうして作られた」である。この好論文が述べている主要点はふたつある。
ひとつは、白木屋火事でズロースを着けていない恥ずかしさから焼け死んだ女店員が多かったというのは本当ではない。
ふたつは、白木屋火事の後、日本女性がズロースを着けるようになった、とは言えない。
ということである。
白木屋火事は1932(昭和7)年12月16日午前9時15分、4階の玩具売り場から発火。日本橋の白木屋は7階建て。逃げ遅れた店員たちは脱出シュートを使って助かった者、まにあわせのロープなどで隣接ビルや地上へ逃げおおせた者があったなかで、死亡者14名を出した。うち6名が男(店員5、客1)、8名が女店員。男の死者が女に比べて圧倒的に少ないとは言えないこと、その事実だけからでも、ズロース着用の有無を死因に結びつけるのは疑わしい、と言える。

8名の女店員のうち、身投げするような飛び降り死3、ロープの途中から墜落死4、雨樋伝いの途中から力尽き墜落死1。(飛び降り死のうち2名は「とても仲良し」で互いに名を呼びながら一緒に窓から飛んだという。もう1名も投身であったという。ロープの途中からの墜落は、2名が煙に巻かれて墜落、1名がロープが焼き切れた、1名が途中ブリキに引っかかり墜落。)8名の女の死者のいずれも、“裾がまくれるのを気にしてロープから手を放した”というようなことではなかった。井上章一は当時の新聞、主要5紙を精査し、そう結論している。また、翌日の警視庁の消防部長の談話、5日後の管内にデパートのある消防署長を集めた会議(内務省所轄)などにおいても、女性のズロース着用や羞恥心の問題は一切話題になっていないという。白木屋の調査部が半年後に発表した『白木屋の火災』(1933)という冊子にも、パンツやズロースには一切触れられていないという。(写真は当日の「朝日新聞号外」写真(部分)、「安全地帯へ避難する女店員たち」というキャプション。この女性たちが、九死に一生を得た方たちだっかどうかは不明。『パンツが見える』p24 から拝借しました。ほとんどの“女店員が和服であった”という語句でどういう様子を想像したらいいか、いまではもう想像し難いところがあると思うのであえて図をかかげました。)
当の女店員たちはほとんどが和服姿で、9割以上がズロースを着けていなかったと推量される(白木屋火事の1年半後の調査で「90幾パーセントまではノーズロである」と「福岡日々新聞」1934年6月22日号が伝えているという(p30))。そして、彼女たちは、多数の野次馬の頭上・目の前でロープにぶら下がり、数メートル下の布団へ飛び降りたりした。当然、和服の下半身がまくれ上がり、陰毛・陰部が露出するということがなかったとは言えないが、生死の境にあるときにそれへの羞恥が行動決定の最優先の因子とはならなかった、とするのが実際だったようだ。大多数の野次馬にとっては、死線から戻ってくる女性のなりふりかまわぬ懸命な姿は感動をもたらすものではあっても、催淫的な猥褻物などとはとても思えなかったということと考えられる。たとえば、読売新聞の記事に「救助器具がとどかぬので気の利いたのが反物をつないで2、3人見事におりて見物の喝采を受ける」とあるという(p15)。

井上章一が「白木屋ズロース伝説」と呼んでいるものは、「衆人環視の中で陰部が露わになる恥ずかしさゆえに、思い切った脱出行動がとれず死んだ女店員が多かった」また「この火事を契機に警鐘がならされ、和服においても日本女性のズロース着用がすすんだ」とされるものである。
上述のように実際の女店員死者8名の死の状況は、いずれもビル火災にありがちの死因であるとはいえても、陰部露出を羞恥して無用な死を招いたとする直接的な材料はない。新聞記事などで表現を押さえたという可能性はあるが、火事直後の消防関係・警察関係の会議で被害者の下穿きが一切話題になっていないというのは、決定的である(もし新聞記事が表現を押さえたというのであれば、後に、“実は・・・・”という真相モノが出てきていると思う。見物人からも出てくると思う。管見の限りでは、そういう暴露モノはまったくない)。
だがそうであるのに、なぜ「白木屋ズロース伝説」が生まれたかという問題が残る。井上章一は、白木屋火事に羞恥心とズロース着用を持ちこんだ最初は、火事後1週間目の「朝日新聞」家庭欄の白木屋専務山田忍三の談話であるという。

女店員が折角ツナを或はトイを伝わって降りて来ても、5階、4階と降りて来て、2、3階のところまでくると、下には見物人が沢山雲集して上を見上げて騒いでいる。若い女の事とて裾の乱れているのが気になって、片手でロープにすがりながら片手で裾をおさえたりするために、手がゆるんで墜落をしてしまったというような悲惨事があります。(p21)

こうした事のないよう今後女店員には全部強制的にズロースを用いさせる積もりですが、お客さまの方でも万一の場合の用意に外出をなさる時はこの位の事は心得て頂きたいものです。(p21)

井上章一は総括して「山田専務は、そんなふうに、局部をおおいかくす下ばきの大切さを、言いたてた。この談話以前に、羞恥心うんぬんという話が活字化されたことはない。これこそが、いわゆる白木屋ズロース伝説の起源なのである」(p21)と述べている。
山田専務は、女店員が下層階までおりてきて「墜落をしてしまったというような悲惨事」があったと言っていて、それが死亡事故となったとは言っていない。だが、専務はつづいて次のようにも述べているという。

下にいる沢山の野次馬が「飛降りろ、飛降りろ」と騒ぐのでついそれに誘われて飛び降りて死んだ者もあった様ですが、野次馬もこんな無責任な事をいわない様にしてもらいたい。

この専務の話 には、何がしかの災害現場の真実がふくまれているのだろうが、同時に、白木屋の責任逃れが意図され、女店員の服装や野次馬の行動に責任問題を結びつけようとする傾向が感じられる、と井上は指摘している(p25~27)。わたしも同感である。

上で引用しておいたように、白木屋火事の1年半後の調査で「90幾パーセントまではノーズロである」と「福岡日々新聞」(現「西日本新聞」)1934年6月22日号が伝えているという(p30)。この白木屋火事のあと、日本女性のズロース着用が急増したという事実はなかったのである。

じつは、この議論(日本女性が「洋式下着」を着用すべきだという議論)は、白木屋火事の9年前(1923)に起こった関東大震災の後に行われたことがあるという。「生活改善同盟」というような団体が啓蒙活動に努めたらしい。地震後、避難民を貨車に載せる際に、和装女性に手間取ったという。また、「震災のとき気の毒な人たちの死体で一ぱいだった隅田川をみまして、我々は何故もう少し前から日本婦人の服装について下ばきなどについて宣伝しなかったのか」と反省している生活合理化論者塚本はま子もあったという(井上前掲書p36~37)。(わたしは井上章一の引用でしか塚本はま子を知らないのだけれど、隅田川に浮かぶ無数の焼死体・水死体をみて、なぜ、「日本婦人の服装について下ばきなどについて」反省しているのか、よく分からないところがある。下穿きを着けていなかったので逃げ遅れて死んだと言いたいのか、水面に浮かぶ死体の下腹部が露出していて見苦しいと言いたいのか。井上は、どうやら、前者を考えているようだが。)
それで要するに、1930年代の半ばまで、ズロース着用率はほとんど増大していなかったのである。前節末に、李家正文の証言を紹介しておいたが、昭和初期まで男女とも着物のときは、腰巻を下着としていることが多かったのである。そして、男は洋装で外出しても帰宅すると和服に着替えるのが普通だった(この習慣は戦後の昭和30年代までは続いた、と言っていいだろう)。女は洋装は少数で、着物で過ごす人が多かった。井上章一は、男はみなふんどしをしていたと何回か述べているが(例えば「(男は)和服でも、フンドシをしめている」p8 )、わたしは必ずしもそうは言えないと考えている。1930年代の半ばまで(昭和一桁まで)日本人の下着着装や性器についての自己意識は、性器への羞恥心も含めて、それ以降とはかなり異なっていたのではないか。

井上章一『パンツが見える』に、浪曲師の玉川一郎の興味深い証言が収められている(「日本ズロース発達史への証言」『噂』1973年5月号)。白木屋火事の2年後、東京のビルで行われた防火訓練の際の、脱出シュートの訓練の模様である。

白木屋[火事]は[昭和]7年でしょう。ぼくは9年にコロムビア(レコード宣伝部)へ入ったわけだ。そのころ東拓ビル(旧日本コロムビア本社)で防火訓練をやったんだ。ズック袋(救命袋)から降りてくるのを見ると、やっぱりはいていなかったよ。降りてくる和服の女事務員たちが、ずっとまくれちゃって見えたですよ。白壁にコウモリが、とまっているようなかっこうでね。(p31)

白木屋火事でも脱出シュートで多くの女店員が脱出している。日本コロンビア本社での防火訓練は予告されているだろうから、陰部まる見えになることも予想できたはずで、その日だけでも「女事務員たち」はズロースをはいていくるということもできたであろう。だが、彼女たちはそうしなかった。“不細工なズロース姿”をみせるより「白壁にコウモリ」の方を選んだということなのだろう。この事実は重い。

わたしは井上章一が次のようにまとめているのに、基本的に賛成である。

(白木屋火事のとき脱出シュートを使うのを)「女店員の中には・・・・・・躊躇するものもあった」。社史は、彼女らの羞恥心を、そのていどにしか書きとめていない。玉川一郎も、2年後に、陰部をさらしつつ救助袋でおりてくる女たちを、確認したという。おそらく、それが当時の実情だったのだろう。やまとなでしこのはじらいなどという幻想を、誇張して考えるべきでない。(p35)

「やまとなでしこのはじらいなどという幻想」がどこにあるのか、わたしはちょっといぶかしく思うが、「パンチラ」現象(パンティ・フェチ現象のひとつ)の後の現在から、“パンティを見られるのさえこんなに恥ずかしいのだから、その中の陰毛や性器を見られるのは死ぬほどの羞恥心であろう”と推論するのであるのなら、それは大いに誤りなのである。逆に“見る側”から言えば、“パンティをたまさかチラッと見るのでさえこんなに心躍るのだから、その中にある陰毛や性器を目撃したらどんなにか衝撃的快感であるだろうか”と推論するのは、大いなる誤りなのである。

日本の女性は第2次大戦期にモンペをはくことを強制され、また、モンペの合理性と有用性を認めて、モンペを着用した。上衣は和装、下体衣はモンペという折衷的な服装が可能であった。モンペは腰巻を許すし、ズロースも許す。袴のように両脇が大きく開いているために、後ろ半身(尻側)だけをはだけて、腰をかがめて立ち小便をすることが可能であった(むろん、しゃがみ小便も)。しかも、いくら両脇を大きく開けてあっても、見えるのは和服の腰部分であって、下着ではなかった。
日本女性の多くは、モンペ着用によって日常的にズボン型の下体衣を着けることを、始めて体験したのである。江戸期以前の武家の女性や、明治以後の女学生の袴などの特殊な着用を除けば、股を下からも覆うズボン型下体衣を日常的に着用する初めての体験であった。この「大変革」は第2次大戦下の非常時においてはじめて、一気になしとげられたと考えられる。そして、モンペ着用がズロースの着用率を押し上げ、同時に、戦後の洋装への変化を用意した。

なお、ズロース着用について注意しておくべきことは、ズロースはいずれかの時点までは完全には下着と見なされていなかったこと(ブルマー的扱いもあった)、また、ズロースは通常は手製であったことである。『パンツが見える』には塚本はま子『家庭生活の合理化』(1930)の「自家製ズロースのつくりかた」や、花森安治『家中みんなの下着』(1950)の「はきやすいパンティ」の製図が紹介してある。現在のパンティは既製品を購入するのが普通の入手法であろうが、ズロース時代は手製も多かったのである(これはサルマタについても同様である)。
戦後日本の高度成長期以降、日本女性のほとんどはパンティを着用しはじめた。パンティは、女性の腰-股部の曲面に沿ってぴったりフィットする薄く肌触りの良い工業製品であった。鴨居羊子(1925~91)が下着会社チュニックを発足させるとき(1955 昭和30年)、まだ、一枚のパンティも作っていないのに、単身東レに乗り込んで織物部長と「ナイロン」を買う交渉をしている。

いまにして思えば、私の手もとに私が考えている下着がないために、相手には私の話は漠々として理解に苦しむものであったにちがいない。しかし、織物部長はすみやかに私のしようとする下着の仕事をキャッチし、重みのある励まし方で、一流の商社・・・・・・を紹介し、手つづきをしてくださった。以来、私の会社は「ナイロン」という新しい繊維の、もっともよき社会への紹介者になり、咀しゃく者になったと自負している。(『わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい』旺文社文庫1982 p60)

私ほどはっきりと、ナイロン・トリコットという新しい化学繊維を使用した下着の将来について、明るい予告と提言をした人間がほかにあるというのか。(p147)



上野千鶴子『スカートの下の劇場』(河出書房新社1989)は、下着姿の女性の写真がふんだんに入っており、ベストセラーとなった「パンティ論」の本である。この本が出版された1989年は『パンツが見える』より13年も早く、その先駆性も、上野の女性社会学者として切れ味の良いあけすけな立論も人気を博した大きな理由であった。

「マラ兄弟」という言葉がありますが、その逆はなんだろうかと考えてみました。最近になって命名しました。── 「オマンコ・シスターズ」 ── 可愛いでしょう。(p109)

ここも話題になった個所のひとつだとおもうが、残念ながら「オマンコ・シスターズ」という言葉はそれほど人気を取らなかったし、「可愛い」とも思われなかった。(上野千鶴子は遊んでいるのだろうが、「マンコ姉妹」では、ちょっといじましい語感があるかな。右図は畑中純『愚か者の楽園』から採集したもの(p73)。初出はおそらく「小説新潮」1996年。畑中純が取り上げるくらいには話題になっていた、ということだ。
ついでに言っておくと、安田徳太郎『人間の歴史3』の「性器語」についての論述もおもしろい。)

パンティ論としての上野千鶴子『スカートの下の劇場』のオリジナルな点は、パンティについて、この下着、性器を覆い性器に密着する小さな布切れ(p10)と規定したことである。衣服論として“性器をおおい隠す”と言った人はあっただろうが、「性器に密着する」と言った人は彼女以前になかったのではないか。しかも、彼女は“性器をおおい隠す”機能さえ本来必要ない、といっている。これは考えようによってはもっとも過激な発言である。

女の下着にはもともと、性器を隠す機能は必要ありません。女の性器は解剖学的な位置関係や形状からいっても、そのままでは外から見えない部分です。(p31)

この個所は、すでに第2.4節で一度参照したことがある。見えはしないものを隠すパンティ、そのパンティを見ようとする“パンチラ願望”の不思議さ。この不思議さを不思議さとして自覚できなければ、何もはじまらない。

パンティは、それ以前の下着の中で類似するものを探すと、“生理の際のT字帯様のものか、ストリッパーのバタフライしかない”、と上野はいう(前掲書p34~39)。したがって、日常的な下穿きとして絶えず性器に密着する小さな布切れを着けることになったのは、驚くべき変化なのである。この驚くべき変化(ズロース → パンティ)が起こったのは、もちろん戦後である。

パンティはおそらくドロワーズとは下着のコンセプトが根本的に変わってしまったのだと思います。性器の当て布にまで下着が局限されてきた歴史を考えてみると、それは恐ろしく新しい現象で、ほんとうにここ2、30年という感じがします。(p48)

「ここ2、30年」というのはほぼ1960~70年を指している。つまり、戦後というより、高度成長期に入ってから、といったほうがいい。
パンティをはじめとする新しい下着は、先端的な化学繊維を素材とし、伸縮性を生かし裁断に工夫がされている優れた衣料であった。それらは従来の木綿にない肌触り、透明感、自由な染色などを意識的に生かしたものであった。
鴨居羊子は造語の天才で、下着に“名前をつける”ことで個々の下着の独立性を強調した。彼女の「スキャンティ」の説明。

スキャンティ── これは、いままでのパンティスと違って股ぐりが深いため、少量の面積 でパンティスの機能を果たし、同時に脚が長くみえ、たとえ太った人でも股ぐりの斜線のために、脚が入りやすい。色はあらゆる色を用い、レースよりも飾りゴムをつけた。(鴨居前掲書p87)

鴨居羊子は1955年12月9日に「W・アンダーウェアー展」を大阪のデパートで行う(“W”はウーマンの意)。わずか9坪の会場に前衛的な展示をした。

頭にひっかかる天井から吊り下がったスリップ、突然、目の前にクローズアップされる、うすくすき通ったパンティス。何に使うか考えたって判りそうもない、そのくせ妙にエロティックな品々。それが別にエロティックでもなさそうに無造作にぶら下がっている。(同前p107)

「透き通ったパンティ」は、陰部を隠すはずの下着の機能から逸脱し、独立性を主張し始めている。鴨居はこの個展を通じてもっとも主張したかったことは「下着の上衣からの独立」(p114)であると言っている。つまり、パンティを始めとする女性下着の変革の早い段階での仕掛け人である鴨居羊子は、下着の独立にたいして意識的であった。

女性の股間に密着する商品はパンティ以外に、生理用品とパンティストッキングがある。

女の下着は、いつごろから性器にピタッと密着するタイプのものになったのでしょうか。パンティが体に密着しますと、当然のことですが、汚れます。昔は下穿きを汚さないということが女のたしなみのひとつでした。布きれを性器に密着するというアイディアは、基本的には生理のとき以外にはなかったのです。(上野前掲書 p34)

日本でいうと、ブルマー・タイプのものがいまのタイプのものに変わるのは戦後です。それがいつごろどういう形で、突然コンセプトの飛躍が起きたのか、考えてみるとよくわからないことだらけです。(同p38)

ここ2、30年ばかりのあいだの驚くべき変化は、毎日下着を履き替えるという習慣 が定着したことです。(同p61)
「毎日下着を取り替えなければダメよ」とか「洗いざらしでも清潔なものを」という ような衛生の観念が出てくるのも、日本だと1950年代から60年代以降です。(同p74)

日本中の女性が、パンティを着用しはじめたのをいつ頃とするのが正しいのか、わたしには判断の材料がない。木綿素材のサルマタ・タイプのものから股間曲面にフィットする伸縮素材と立体裁断へ進化するまで、どのように進展したのか。
それ以前のズロースも生理帯も手製であった時代と、それらすべてを大量生産の優れた化学素材によって済ませる現代との相違を考えたい。

「ブルマー・タイプ」=ズロースから「パンティ・タイプ」に女性の下穿きが変わることによって、女性は性器への自己意識が変わった。そこでは自己の性器を「第一義的に生殖器とみなさず性欲器とみなす」というほどの変化があったのではないか。生殖器と性欲器の分離がすでにあり、そのうえで第1義的に性欲器と見なすという性器への自己意識の変化があった。それは、自分の性器を“かけがえのない唯一のもの”とするより、“無数の性器のうちのひとつ”と意識する性の大衆化現象でもあった。

日本の女に起こったこの性意識の大きな変化が、すぐに日本の男へ反映した。わたしはこれが「パンティ・フェチ」ともいうべき、パンチラ願望であると思っている。社会表層の現象であるために、パンチラ願望を表層的な、真剣に検討するに値しない現象と考えてはいけない。

時代を記憶するために、小川ローザの「オオ・モーレツ」を挙げておこう。このCMが一世を風靡したのが1969年である。後々まで田舎の街道に日焼けした看板が残っていたのを思い出す。(この懐かしい映像は、「60年代のTVCM」からいただきました。これにけっこうトキメイタんだよね。)
ミニスカートの消長や、パンティストッキングの歴史についてしっかり目配りしないと問題が正確に浮き彫りにされてこないが、かつてはズロースを盗み見ることにそれほどの興味を示さなかった日本男性が、1960年代半ばからスカートの裾からたまさか漏れ見えるパンティに、涎を流さんばかりの欲望をおぼえることになった。パンチラ願望。日常的な人口密度濃いバス・電車通勤の環境にも関係があるのかも知れない。「パンチラ名所」などをしつこく特集した下ネタ週刊誌に理由があるのかも知れない。煽る方に問題はあったのだろうが、煽られる方(日本男性)に「パンティ・フェチ」とでもいうべき偏った性愛習俗が生じていた。このことは、特記しておいていいと思う。そしてこの性愛習俗は“世界に誇るワイセツ”な「ビニ本文化」の基盤になっている。

現代の日本人は、人前に出る際に性器をキッチリ下着で覆って締め付けていないと不安である、そういう「性器の自己認識」を持っている。フリチンやノーパンの不安である。これは、「性器の自己認識」の文明化の極点であると思う。(考えてみて欲しい、昭和の初めまで、ユルフンや腰巻の意味でフリチン男やノーパン女が普通であったのである)。
「性器の文明化」とは、性器が互いに男女根を求める存在規定以外の「文明」に支配されるという意味で、性器の「非性化」といってもいい。性器の機能を封じる、というシンボルとしての下着である。性器の機能を封じるというのは、男根、女根を文明化された猥褻範疇に閉じこめるということである。その意味で、日本のビニ本は象徴的である。パンティやブリーフの意味性が、性器の猥褻化にあるということである。つまりは、人がパンティやブリーフを穿くまでは、性器は猥褻ではなかった。

わたしはいわゆる“大人のマンガ”にはまったく疎いのだが、ただ一つの例外として畑中純は愛読している。『まんだら屋の良太』全56巻は、何度読んでも面白い。
この長編マンガは、北九州の小倉の近くに想定されている九鬼谷という架空の温泉郷でおこる「艶笑騒動譚」(副題)である。良太は「まんだら屋」という大きな温泉旅館の高校3年生の息子で、酒を飲み、女遊びをし、しょっちゅう学校をさぼっている劣等高校生。『まんだら屋の良太』にエロマンガの要素はもちろんあるが、それにとどまらない豊富な魅力的要素がたくさんある。
良太を中心にした登場人物たちがそれぞれ存在感をもっていること、高校生たち、九鬼谷の青年団の若者たち、ヤクザと芸者と温泉宿従業員たち、そこへ温泉に来る旅行者が登場する。文学論あり、童話的空想あり、民俗譚あり、メディア論あり、祭りあり、セックスあり、暴力あり、・・・・・・。畑中純は版画が得意で、ときどき使われる版画も楽しみだが、漫画家としての幅広い表現力も抜群のものがある。
ここに掲げた2図はいずれも『まんだら屋の良太』第43巻(1987)から拝借したもの(初出は、同年の「週刊漫画サンデー」)。上野千鶴子『スカートの下の劇場』より2年早いことも注意される。畑中純は、高度成長期を越えてバブル期に入る日本人が、身につける下着によって自らの性意識と行動を変革して来たことを、『まんだら屋の良太』で表現することに成功していたのである。わたしはそのことに、上野千鶴子を読んで改めて気づかされた。

『まんだら屋の良太』において畑中純は、裸の性の絡みそのものを描くことも多数行っているが、それだけなら単なるエロ場面で読者を引っ張る三流マンガに終わっていただろう。『まんだら屋の良太』のはじめの10巻ほどの中には、そういう傾向をもつ出来の作品もあるように思う。
『まんだら屋の良太』の性表現に関して言えば、下着を描きわけることでそれを身に着けている女性の年齢や性経験だけでなく、その瞬間の気分や欲望のあり方を表現できること。パンティを描く方法を工夫することによって、そのパンティがつつんでいるもののエロティシズムを表すことができること、そういう手法を発見していったのだと思う。いうまでないが、女性が、多くは手製の、ズロースをはいていた時代にはあり得ないマンガ表現の世界であった。それは“パンティが性意識を表している”という「パンチラ願望時代」ないし「パンティ・フェチ時代」に入って、はじめて可能なマンガ表現の世界であった。




(3.3):尿筒(しとつつ)
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 武士の長袴スタイルは、脱がない限り小用も足せない不便なものであった。「尿筒 しとつつ」というふしぎなものが広く使われていた。 これを知ったのは、桐生操『やんごとなき姫君たちのトイレ』(TOTO1992)(作者は女性ふたりのペンネームだという)という本による。

当時の将軍や大名の正装は、厄介な代物だ。一人では着付けができないし、一度着てしまったら、簡単に脱ぐこともできない。脱いだら最後、もう一度着つけるのは至難のわざだ。そういうときは、尿筒という、一種の溲瓶を用いた。太い竹筒で作られ、はじっこにはぐるりと皮が巻いてある。これを裾からさし入れ、ここに大事な所を入れて用を足す。
もちろんそれを持つ専門の係りもいる。西洋の「棉持ちの騎士」と同じようなものだ。この尿筒棒持ち役は、朝や夕も君主に奉仕するという意味で「公人朝夕人」[くにんちょうじゃくにん]と呼ばれた。徳川将軍家の場合は、この公人朝夕人の家は、土田家の世襲制になっていた。十人扶持のれっきとした役人だ。親子代々、将軍さまの尿筒をかき抱いて仕えてきたわけだ。この土田家は、室町幕府の足利将軍家から、織田信長、そして豊臣秀吉、つぎには徳川将軍家に仕えた。足利幕府から明治になるまで、500年以上も将軍さまの尿筒一筋に生きてきたという。(p34)

尿筒は、一種の携帯便器(おまる)である。でも、袴の裾から取り出すとき、尿筒から尿をこぼしてしまわないかと心配になる。つまり、携帯便器としての完成度を追及するより、その特異な使用目的に特化したものである。ここでは、日本の宮廷や武家社会で、儀礼的な服装が排泄様式を規定した例として、取り上げてみる。

「尿筒」も調べてみると、いろいろ資料があることがわかる。渋沢敬三編著『日本常民生活絵引』全5巻(角川書店1965)の第1巻に「信貴山縁起絵巻」から1場面が取り上げられている。

従者が尿筒を持って主人に従っている図である。「尿筒は小便器である。宮中参内の折りなど、席にあって尿意をもよおしても立つことをゆるされない。そういうとき侍者が尿筒をもっていく。するとその場で用便をすます。多くは竹を利用した。が陶器製もあって、そのほうはしびんと言った。江戸時代には大名もこれを用いた。」と言っている。しかし『絵引』の解説は、正装の着付け脱衣の難しさには触れていない。
右図は、「信貴山縁起絵巻」の該当個所を、『日本絵巻大成4』(中央公論社)から拝借した。内裏の門を入る祈祷僧の従者たち一行4人の、しんがりに碁盤目模様の童子姿の従者がいるが、その左脇に尿筒を抱えている。この童子姿の者について『絵引』は次のように解説を加えている。(なお、天台の高僧らしい祈祷僧2名はこの図にはない。また、童子姿のものの顔を横切る白線は、原本にある紙のシワである)。

あとから行く一人は童子姿の従者であり、八瀬童子などの類ではなかろうか。しかもそれが異形であることは、異形者の呪性が尊ばれていたため従者とせられていたものか。頭を芥子坊主にし、耳が異常に大きい。(1-p41)

この「異形者」は長い垂髪を「直垂の間から」2個所で出している、と『絵引』解説は述べている。ただ「耳が異常に大きい」という指摘は、図が明瞭でなく不明。瓢箪?を首で担いでいるようにも見える。碁盤目模様そのものが珍しく、目立つが、従者のなかでこの童子のみが草履である。「異形者」という語がピッタリの特異さが感じられる。前を行く3人の従者のうち、赤い着衣が見える者は女のようだ。他の2人のヒッツメ髪の男二人は壮年・初老にみえる。内裏の内で行われる祈祷が、このような異形者をも動員した「呪性」に満ちたものであったことが想像される。

『日本常民生活絵引』の解説文は宮本常一が原文を書き、「毎回その当否を検討し、訂正した。困難なものは渋沢の判断にまった」と有賀喜左衛門が第1巻の「絵引によせて」に書いている。「毎回」というのは毎月開かれたという「絵巻の会」のことで、戦争で中断したが渋沢敬三を中心とする息の長い「同志的結合」(有賀)により、完成にまでこぎつけた。同人として有賀が名をあげているのは、「渋沢、桜田、宮本(馨)、笹村、村田、宮本(常)、有賀、遠藤」である。コピー技術のない時代で村田泥牛が模写し、それを資料としている。だが、非常に優れた模写であったというほかに、模写することによる発見などがあったと思われる。


伊丹十三『日本世間噺体系』(文春文庫1987)のなかに「天皇日常」という聞き書きの資料があるが、京都御所での携帯便器の使い方などを具体的に述べていて、興味深い。語り手は「猪熊兼繁先生」という人物で、皇居が京都にあった孝明天皇の時代のことを知っている。

(御所には紫宸殿も清涼殿にも便所はない。みな便器でする。)大口の袴[おおぐちのはかま]ちゅうて、袴の横の口が大きいんです。こっちから入れるわけです。着物の中へ便器入れるんです。そやなかったら脱がんならんでしょう?この便器をオハコちゅうてネ、革で作ったりしてネ、どうも私は北アジア系統のもんやないかと思うんですけど、ともかく革で作って、漆で塗ってネ、綺麗なもんですワ。(これを洗う、身分の低い女官があった)洗って干して、中にちゃんと砂入れて、灰入れたり、紙入れたり、・・・・・・男性の方の小はネ、長い竹の筒です。オツツちゅうてネ。で、オツツにはネ、これも蒔絵があったり、綺麗なんがありますワ。そんで、錦の袋に入ってるんです。そいで、エライ人が馬に乗って、こう、行きまひょ?後ろからこれ持って行くのがおるんです。(p296)

これでも、実際はよくわからないところがあるが、オハコが大便用で、オツツが小便用で、そういう2種の携帯便器があり、袴の横の口から入れて、処置していたことは分かる。「明治の末までありました」といっている。
明治天皇の「御大葬」は大正元(1912)年9月13日で、京都の桃山御陵に葬られた(このとき東京では乃木夫妻の殉死があった)。このときにも、参列者のエライ人にはオツツを用意したらしい。その際の東郷平八郎の珍談。

あの時、オツツはネ、竹を使うたら後の行動が困るからとゆうので、とくにナンですワ ── ゴムですネ、ゴムの管で代用品を作った。それで大礼服にですネ、それを仕込んだ。 ・・・・・・ペニスのとこに、こうやって、それからズボンの中をズーとこう来てですネ、靴の外へ出した。・・・・・・(明治天皇の霊柩が東京から京都へ来て)、桃山御陵へ下ろして、その時に雨が降ったんですワ。で明治天皇の霊柩は葱花輦[そうかれん]に乗って、八瀬童子が担いで行ったわけですワ。そのときに側近して随いていました海軍元帥東郷平八郎。肩から短い将校マント着ただけで随いて行かれた。そしたらズボンがグズグズに濡れたちゅうんですワ。雨にしては濡れ方がひどすぎる。靴ん中まで濡れたちゅうんですから、・・・・・・ちゅうんは有名な話ですけどネ。だから、その頃まで、まだ使[つこ]てましたんや。(p297)

八瀬童子」が期せずして連続して出てきたので、ついでに書き加えておくと、この伊丹十三『日本世間噺体系』に「天皇の村」という「八瀬童子会」の老人たちとの座談会の記録が収録されていて、理解のたすけになる。
猪瀬直樹「柩をかつぐ」(『天皇の影法師』新潮文庫1983 所収)も紹介しておきたい。これには、近代の八瀬童子について、柳田国男「鬼の子孫」(大正5年 1916)はもちろん、珍しい文献を集めてじっくりと書いてある。ここでは、そのうち「大小便」に関係あるところだけを抜き出しておく。
東京の皇居での仕事のひとつが“お厠”[おとう] である。八瀬童子のメインの仕事は「輿丁」[よちょう、駕籠をかつぐこと]なので、女官から「輿丁さん、お厠ですよ」[よちょうさん、おとうですよ]と呼ばれると、奥御殿に庭先から入っていく。

お厠は引き出しになっておって、鍵がかかっているから、これも錠前であけにゃならん。その引き出しを持って侍医寮にいくのや。・・・・・・そりゃ、クソしても陛下は陛下やで。神さんとは思うたことはないで。早いとこいうたら殿さんやな。神さんと陛下はちがうで。意味がちがう。陛下は陛下や。賢所に祭っているのが神さんや。陛下でも神さんをおがんどった。陛下も死んだら神さんや。だいたい神さんと陛下はちがうのや、もともと。それなのに陛下を神さんやゆうたのは戦争ごろのことや。わしらからいわせれば、そりゃちがうで、というしかない。(p108)



尿筒について一番有名な画像は、『天狗草紙』で一遍の股間に差し込まれているものだろう。これは、尿筒が股間に差し込まれている“使用中”の画像であるということが目を引くというだけでなく、時宗において一遍上人の“尿を飲む”という信仰が行われていたことの直接的な証拠としても注目されるのである。
『天狗草紙』は鎌倉時代末(1296)に成ったとされる7巻の絵巻物で、比叡山、園城寺、東寺、醍醐寺、高野山、東大寺、興福寺などを驕慢の徒として天狗にたとえて風刺したとされるが、実際のところは第6巻を除いて「主要名刹のガイドブックという色彩」も持つ(上野憲示「『天狗草紙』考察」)。その例外の第6巻には、浄土宗、時宗、禅宗の鎌倉新宗教が槍玉に挙がっていて、ことに時宗について魔道に堕ちた宗派として批判しているとされる。
詞書から、時宗への批判(というより悪口・雑言)を引いておく。

その後いくほどなくして、世間によのつねならぬすがた振舞するともがら、多くみえきたりはべる。或いは一向衆といひて、阿弥陀如来の外の余仏に帰依する人をにくみ、神明に参詣するものをそねむ。しかるを(信心の道はいろいろあるのに)一向弥陀一仏に限りて、余行・余宗をきらふ事、愚痴の至極、偏執の深重なるが故に、袈裟をば出家の法衣なりとて、これを着せずして、なまじいにすがたは僧形なり。これを捨つべき[といい]、或いは馬衣を着て衣の裳をつけず。念仏する時は、頭をふり肩をゆりておどる事、野馬のごとし。さはがしき事、山猿にことならず。男女根をかくす事なく、食物をつかみくひ、不当をこのむありさま、しかしながら、畜生道の業因とみる。

のちには、「一向宗」というと親鸞の浄土真宗をさすようになったが、本願寺はこの名を嫌った。ここでは、“一向専修”の意味で「時衆」を「一向衆」と言っている。「馬衣をきて衣の裳をつけず」というのは、馬の皮でできた衣を着て、スカート状の下体衣(裳)を付けなかった、ということと思える。仏教徒として獣の皮を身につけるのはそれだけで公式には非難に値することであっただろう。「裳」をつけない服装はのちには着流しとして普通になったが、ここでは、だらしのない服装と見なされている。これは「男女根を隠す事なく」という行状と関連があるのかも知れない。「野馬」や「山猿」など「畜生道」のようだと言っている。
仏教の“たてまえ”からすると「馬衣」を身につけることは破戒行為であるが、仏教教義の“たてまえ”を離脱した山伏・聖・毛坊主的な仏教的活動者が「一向衆」に集まっていると考えることができる。

この方面の先駆的な研究は五来重にはじまると思う。座談会「仏教と民俗のあいだ」(1980)での五来重の発言から。

山伏の尻にぶらさげる羚羊[かもしか]の皮なども、狩猟時代の皮ごろもが残ったものだし、鹿角杖[わさづのつえ]も金剛杖もマタギのものでしょう。民間宗教者が仏教戒律の禁ずる皮を身につけたことは、空也や革聖[かわひじり]行円で証明されるし、親鸞も猫や狸の皮を身につけていますからね。皮をつけたり長い皮衣を着た聖は絵巻物にたくさん出ている。(五来重『庶民信仰の諸相』宗教民俗集成4 角川書店1995 p181)

五来重[ごらいしげる 1908-93]は“仏教民俗学”を提唱し、神道に偏りがちの柳田民俗学に、民俗的レベルで突破口を開けた人として、重要だと思う。わたしは1960年代にマルクス・ボーイだった安保世代だが、それから抜け出ようとして、かえって柳田民俗学の密林に迷い込んで身動きがとれなくなってしまった。そのころ読んだ五来重『高野聖』(初版は1965、いま手元にあるのは増補版1975)は非常に新鮮だったのをよく覚えている。それ以来、わたしは五来重ファンである。

右図は小松茂美編『 続日本絵巻大成 19 』(中央公論社 1984)から拝借したもの(p59)。鮮明ではないが、図の中央に魁偉な容貌が目立つ僧が一遍上人である(『一遍上人絵伝』などを見たことのある者にとっては、なじみの顔である)。その前にひざまづいた尼僧が尿筒を一遍の股間にあてがっている。その周囲を、僧・尼や男女の俗人が取り囲んで、上人の尿を薬としてもらおうとしている。
記入された言葉を右から、左回りに。
あれみよ。しとこう[尿乞う] もののおほさよ
これは上人の御しと にて候 よろづの やまひの くすりにて候
一遍らがおどりおどり て きうのて[求の手]に しとする (ことは)往生の いむ[ 因 ]
あま[尼]は めの みへ候はぬに (め)あらはん[目洗わん]
(この)おとこにも すこし たび候へ[給び候らえ]
わらはゝ、はらのやまひ[腹の病]の候へば くすりに御しとのみ[飲み]候はむ
しょもう[所望]の人の あまた候に おほく しいれ[尿入れ]させ給候へ
周囲を取り囲む者たちの会話から、一遍の尿が霊薬として求められていたことがわかる。飲んだり、目を洗ったりするのに使う。『天狗草紙』の趣旨は、これこそ天狗の所行と言いたいところなのだろうが、むしろこの場面を虚心に見れば、一遍が庶民層の圧倒的な支持と信仰をかちえている様子を知ることができる。

五来重は、浄土真宗の本願寺覚如が、「絵系図」(始祖以来の系譜を表すのに、肖像画を並べた系図)を否定したことを論じて、天皇現人神信仰を否定した戦後の天皇観に似ているといっている。インテリの「理論」が否定しても、一般門徒の「実際」は“生き仏”信仰を捨てられない、と(『絵巻物と民俗』角川選書 1981)。そして次のように述べている。

私はかつて能登の老人から、若い頃に巡教に来た[本願寺の]法王の入った風呂の水を、呑んだという話をきいたことがある。お泊まりになったお寺の風呂場は、その水をもらう村人でごった返したそうである。これは『魔仏一如絵詞』に一遍の「しと」(小便)を竹筒に入れてもらって、薬とした図と好一対である。あの図と書入れの会話を、絵そら事やパロディと解することはできない。これは一遍や本願寺宗主を阿弥陀如来の再来、あるいは「生き仏」とするところからおこる宗教現象であって、そこにはこれをあらわす系譜を必要とする。(p227)

われわれはオーム真理教の浅原彰晃の場合も似たようなことがあったことを知っている(『魔仏一如絵詞』は『天狗草紙』の異本)。

健康法としての「飲尿」の習慣が(いわゆる先進国の)現代人の間で極めてまれというわけではないことは、わたしは自分の見聞の範囲で証言できる。ごく最近のことだが、言語学の博士号を持っている知的な女性が、数年前に自分の腕にできたかなりの面積のやけどを自分の尿を塗る方法だけで直したといって、見せてくれた。やけどの形跡は片手の手のひらほどの広がりにシミのように残っていたが、説明を受けなければ、生まれつきのシミなのかと思ってしまう程度のものだった。ひきつりなどの悪性の痕はまったくなかった。

第2節の最後で触れたが、古代から糞尿が身体に塗られたり飲食されてきたことは、まぎれもない事実である。私はこの分野に興味を覚えつつ、小論がすでに当初の“排泄行為論”を越えて手を広げすぎていることを考えて、この分野の書物を紹介しておくだけにしておきたい。ひとつはジャン・フェクサス『うんち大全』(高遠弘美訳 作品社1998)である。これは371頁もある大著で、写真が多く楽しい。下の4.6節以下で紹介する。
もうひとつは、ジョン・G・ボーク ルイス著 P・カプラン編『スカトロジー大全』(岩田真紀訳 青弓社1995)、176頁で写真は一枚もない。古い文献からの引用が多い学術書で、読みにくいが内容は過激である。こういう本が19世紀のアメリカに生まれたことだけで、反文明的な自由を覚える。この本は、そもそもは1891年にアメリカで自費出版された『各国の糞尿の祭式』(『Scatalogic Rites of All Nations』ワシントンDC、ローダーミルク社)という書物である。ジョン・ポーク(1846-96)は米国合衆国第三騎兵隊隊長で、アマチュア人類学者でもあった。南北戦争以降、アパッチ族を「片付ける」仕事にたずさわったひとりで、そのなかでこの「滅びつつある異質の文化」を調査し、3部の書物を残したが、これはそのうちのひとつである。ボークは「洪水のような量の日記をつけた。彼の127冊の日記は、辺境での生活を自叙伝的に書いた、類を見ない記録となっている」という(引用符はいずれもカプランの「序論」からの引用)。
1913年にF.S.クラウスの指示のもとに改訂・増補されたこの本の翻訳書がドイツで出版された。この版には、ジークムント・フロイトの序文が付いていた。“Scatalogic”は “catalog + Scatology” の造語である。私が参照しているのは、そちらのほうの翻訳である。

  


わたしが小論を書く気になったのは、木村肥佐生を調べているなかで、モンゴル-チベット地方の日本とかなり違う排便習慣に触れたことがひとつのきっかけになっている。そのことは第2.1節で触れた。拙論「木村肥佐生論」のなかで、「ダライ・ラマの丸薬」が実際に貴重品として扱われていることを、河口慧海『チベット旅行記』を引用して紹介した。もちろんこの「丸薬」はダライ・ラマの大便から作っているものである。「木村肥佐生論」を書くときには知らなかったのだが、『スカトロジー大全』の第5節は「ダライ・ラマの大便の利用法 ── チベット」となっ ていて、色々な文献からの多くの話が集めてある。たとえば

(『チベットについて』という本からの引用として) 王国の身分の高い人々は、神とし て崇められるこの人(すなわちダライ・ラマ)の大便を手に入れたくてしかたがない、彼らは聖なる宝としていつもそれを首から提げておく、グルーバーは請け合う。また彼は別の場所で、ラマ僧たちは、身分の高い人たちがダライ・ラマの大便や尿を手に入れる手助けをしてやる見返りに多くの贈り物をもらうので、非常に潤っており、身分の高い人たちは、まず首にかけ、そのあと食べ物に混ぜると、自分たちは絶対に肉体的な病気にかからないと思っているから、ひどく欲しがるのだ、とも言っている。(p35)

これは、ほんの一例にすぎない。「ダライ・ラマの丸薬」に関心ある人は同書を参照したらいい。

ダライ・ラマにせよ、一遍にせよ、アメリカ原住民にせよ、これらはほんの一例だ。無数の人類たちが糞尿をなめ、食べ、飲み、浴び、塗りつけたのは、“清潔・不潔”の範疇の外での行為だったのである。糞尿はけして“清潔・不潔”という評価を受けるだけではなかった。ときには“聖・俗”の評価も受けたのだ。ときには催淫的であり、祝祭的であった。ときには“有用・無用”の評価もあった(下肥を重要視した日本の農村)。
おそらく糞尿はもっと多様な評価を受けてきたのであろう。現代のように“清潔・不潔”以外の評価軸がなくなってしまったのは、汚物は見えないように下水路で排除するという方式が「文明化」であると考えられるようになったからである。
「糞尿が汚ない」という感受性は、「文明化」によって誇張されたものだ。


(3.4):裸族
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和田正平『裸体人類学 裸族から見た西欧文化』(中公文庫 1994)の定義によると、裸族とは「自らの伝統的な着用物を身につけても性器を覆う習慣のない」民族、ということになる。ペニスケースをつけたパプア人や、靭皮[じんぴ 植物の強靱な皮]で作ったより紐の腰蓑をつけた女性などは“事実上の裸族”であるが、この定義の意味では、東南アジアやオセアニアの島嶼部には完全な裸族は存在しないということになる(p24)。
“事実上の裸族”も含めて、「南米ではアマゾン奥地、ニューギニアでは中央高地、アフリカでは北緯8度から12度の間に山嶺を作っているアタコラ山脈・ジョス高原・マンダラ山地・ヌバ山地など、東南アジアでは大陸部の森林地帯やフィリッピンやボルネオ島、そしてオセアニアの島嶼部の残された裸族の最後の居住地となった。」(p20)

ブラジル、コルボ先住民。白人男性はシドニー・ポスエロ。1996年に初めて接触して以来、定期的にコルボの居住地を訪れている。男も女もベニノキの種から得た赤い染料を体に塗る。男は腰紐をつけている。女は首環以外は身につけていない。National Geographic 日本版2003-8月号 p82~83。

数百万年の「サルから人類への進化」のいずれかの段階で、直立・二足歩行がはじまり、体毛がなくなって“裸のサル”となった。体毛がなくなった理由について、デズモンド・モリスは、狩猟の際の激しい運動のとき、汗腺が発達して体温冷却の点で有利となる、と言っているという。その一方で、性的な理由からであるという説もある。女性の方がより無毛化が進んだ。

体毛がない方が皮膚接触が敏感になり、相手を興奮させるのに都合がよいからである。最近ではサル学者からのもっと過激な発言も目立ち、メス(女)がなめらかな皮膚を露出することを、オス(男)に対するメス(女)の生殖戦略とよんだり、また毛を失うことで、人間の体はすべてが性器化した、という発言さえある。(強調は引用者 p29)

衣服で覆うことによって、身体が「性器化」したことが日常化され、強調される。それは非可逆的に進行し、「羞恥心」がそれを保障する。
W・ヴント(1832-1920)に次のような名言がある。「恥ずかしいから隠すのではなく、隠すから恥ずかしいのである。」 これは、上野千鶴子や井上章一のパンティに関する仕事を包括する基本テーゼとして使えるものである。

裸族男性の瘢痕文身は、部族同士の戦闘の際、敵味方を識別するという実用的な意味があったという説明がなされている。

互いに裸族的スタイルで混淆したとき、瘢痕のような半永久的な識別目印が必要であった。(p82)

これに対して、アフリカの裸族女性の全身にほどこされた瘢痕文身は、性的な快感のためという。彼女たちの全身に美しくほどこした瘢痕文身は、直接に女性が男性に与える性的な快感のためである。「傷痕をほどこされた皮膚は、傷口がなおると、こぶ状やうね状を呈し、性的に接触した際に、より強い快感をおぼえるという」(p84)

フォン族の傷痕の目的は、単に装飾ではなく、エロチックな魅力を高めることであり、性戯に関係が深いという。もりあがったケロイドは、やはり性戯の際に、男性に心地よい興奮をもたらすようである。とりわけ、下腹部のそれは、性交時におけるなくてはならぬ皮膚感覚として伝えられたというのが、フォン族における通説である。(p84)

(女性の)傷痕模様のパターンは体系的に決まっていて、ひとつひとつの傷痕にそれ ぞれユニークな(性愛を意味する)名称がついている。(p85)

瘢痕文身(より広く刺青や身体変工もふくめて)は、皮膚そのものを「衣服化」しているということができる。その意味では彼ら裸族は皮膚を着ているのであって、“裸ではない”ということもできる。
現代日本人が性器をピッタリ覆うパンティ、パンストやブリーフを穿くことを、“あたかも第2の皮膚で性器を包んだように”と評するのだとすれば、彼ら裸族は皮膚を一枚脱いで加工して、“1枚目の皮膚として着た”ということができよう。

W・ヴントによると、衣服は本質的には「呪い[まじない]」から起こったという。未来の妻の腰に紐を巻きつけ結ぶ、これが、衣服の起源である、と。

(ベネズエラのオリノコ川上流のヤノアマ族は)男女とも腰に一本の紐を結んだだけで生活している。女の紐は飾りとみなされているが、呪い [まじない] の要素は否定できない。男の紐はペニスの先端を結んで腹部の方に引っぱりあげ、ブラブラしないようにしている。ふんどしのほうが密林を走り回るときに固定できて有利だが、性器を隠さない南米の裸族はむしろ紐を、演劇の役者の前張りのように上手に使用している。(p38)

確かにこれらの例は、W・ヴントの説の正しさを示しているように見える。

  


左はブラジル、コルボ先住民。仕留めたパカ paca を得意気に見せている。腰紐1本を身につけペニスを固定している。National Geographic 日本版2003-8月号 p81。(わたしはふと、紐でペニスをしばっているこの男から、第3.2節で紹介した、白木屋火事の2年後の防災訓練の女事務員たちのことを思い出した。彼女たちはズロースを股間に着けているのを見られる格好悪さより、「白壁にコウモリ」の方を選んだ。フンドシを締めてブラブラさせない方が「有利」かも知れないが、仮に彼らにフンドシをさせるとすれば、股間に布をくくりつける格好悪さは彼らにとって想像外のものだろう。)
右は、まったくの全裸で畑を見回るカブレ族(アフリカ)。和田正平『裸体人類学』p52。「トーゴではまさに全裸の諸族が斜面にテラスを作り、土地を最大限に効率的に利用する農法を発達させていた。裸族の住む山地環境が意外に高い人口密度を維持してきたのも、集約農業をおこなっていたからである。」と解説している。裸族の文化が原始的だというのは、単なる偏見にすぎない。

西アフリカにイスラム化が始まったのは10~11世紀以来であるが、イスラム化と共に衣服の着用が始まる。「イスラム教は裸を非常に忌み嫌う宗教である」(嶋田義仁)(これは、いまイスラム圏で見る女性のハジャブ(かぶり布)の習俗を考えれば納得いく)。東アフリカでは植民地時代に入ってから、キリスト教の教化と共に衣服の着用が始まる。
現在みるアフリカの衣服習俗は、これらイスラム化・キリスト化が行われて以降に成立したものである(イスラム化と同時に、棉が入った)。したがって、それ以前のアフリカは、大部分が裸族として生きていたと考えられる。(文明発祥の地といわれるエジプトや、支配層が特別の衣裳をつける部族などが例外である。アフリカ史については、木村愛二『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』(鷹書房1974)という“白人史観”を訂正しようとする意欲作がある。いま、電子化されてメルマガで配布中である。)

(スーダン中部のヌバ山地の)ヌバ族も基本的には腰紐1本をつけた裸族で、それに首飾り、腕環、足環などをつけただけである。ベニスを堂々とさらしたまま、恥もせず、誇りもせず往来を歩いている男たち、ほとんど丸裸で家事をしている女性たち、それがヌバ族の自然なスタイルである。

およそ、スーダン南部からケニア、ウガンダ、タンザニアなどにまたがって住むナイル系牧畜民は、いまでも一部はまだ裸族にひとしく、性器の露出もいっこうに気にならぬ風情で、平然と自分たちの領域を歩き回っている。曠野ではよそ者に出会うことがまれで、好きなように生活することが可能だからであるが、およそ100年前なら、東アフリカ内陸部のどこへ行っても、似たような風景がみられたはずである。現在西欧的な服装をして、着飾ることに熱心な東アフリカ農耕民でも、2,3世代歴史をさかのぼってその祖先たちの姿を見ると、半裸か、なめし皮一枚であることが多い。(p40)

ここまで、和田正平『裸体人類学』を頼って、「裸族」について学んできた。わたしの感じた主要点を挙げておく。

  • 裸族は着衣のない部族をいうが、腰紐一本程度までは許容する。そこには、衣服の起源についてのヒントがあるかも知れない。

  • 性器露出についての羞恥心はまったくない。

  • 瘢痕文身や身体変工が広くみられるが、皮膚の衣服化とも、儀礼化ともいうことができる。

  • 裸体であることと、文化程度が低いこととは無関係である。彼らが無神経であったり羞恥心がないのではない。

  • アフリカに着衣習慣が入ったのは、イスラム化・キリスト化による。それ以前は、多くの種族が、裸族かそれに近い姿であったであろう。

鍛冶などの最も先端的な技能を行う者は、完全な裸体でなければならないとした。けして裸体習俗が、文化として単純であったり無神経であったりするのではない。裸族にも羞恥があり、オシャレや着飾ることが行われる。ただ、それが性器を隠す規範が存在しなかったり、皮膚に直接刻印して皮膚そのものの社会化(儀礼化)をはたすのである。
だが、小論の目的からすると残念ながら、“裸族がどのように排泄しているか”についての情報は、前掲書からは得られなかった。

和田正平『裸体人類学』は、中国・日本における「裸体」についてつぎのように述べている。

中国でも日本でも、儒教の影響から裸体は醜いものという思想があり、朝廷や貴族社会、武家社会では裸はもってのほかで、ふだんからみだしなみには厳しい規定があった。他方、庶民社会の成年式は「ふんどし祝い」や「ゆもじ祝い」といい、男はまたぐらから性器を締める布をもらい、女は下半身を隠す腰巻を贈られた。こうして日本社会でも、庶民のあいだでは熱帯地方と同じように、ふんどしや腰巻さえつけておれば、羞恥心を感じることは少なく、人足、職人、漁師など、ふんどしひとつでくらす人も珍しくなかった。(p124)

日本の朝廷-貴族社会や武家社会では、“たてまえ”としては裸はもってのほかとされていたが、“ほんね”のところはそうでもなく、ルーズだった。

山民・農民・漁民・下層民は、裸族に近い生活を送っていた者も多かった。上で和田正平が述べている庶民社会の成年式の「ふんどし祝い」や「ゆもじ祝い」は近世社会のことではないか。マタギや魚撈の男性世界では、近代に至るまで裸族同然の労働習慣や祭儀が続いていたことは、第2節であつかった。われわれの身近で裸体習俗が第2次大戦前までは残っていたことは、更に、すぐ下で扱う。

李家正文「おむつの文化史」のなかで(『糞尿と生活文化』所収)

しかし、[戦国時代の]ある合戦に下帯のない戦死者が多いことがあった。これについて老医の伊藤三百は、死ぬと痩せ細ってずれ落ちることもあるといったが、さてどうか。雑兵のなかには[ふんどしを]していない者もいたに違いない。駿府城修営のとき、城の梁の上にいた隼人の職人は下から仰ぎ見ると下帯をつけていなかった。それで褌を支給したということもある。(p151)

と述べている。老医伊藤三百の話は、 真山増誉『 明良洪範 』といういくさ話をあつめた書物に出ていることである。原文では老医は「都て人の身体は血気にてたもち申者也。死候えば骸は肉落るなり、就中戦死は血も多く出、病死とは異にて結び付しものたまるべきようなし、下帯とても落申すもの也」と言っている(p248)。上引後段の「隼人の職人」が駿府城の工事で、梁の上にいるのを見上げるとフリチンだったというのは痛快な話だ(これの出典は目下わたしは探し当てていない)。李家正文は老医・伊藤三百の説を疑って、もともとフンドシなしの雑兵もいたのではないか、としているのである。わたしも李家説に加担したい。

わたしは、日本の庶民層の男にふんどし類を身につける習俗が広まったのは、近世以降ではないかと疑っている。特に狩猟・魚撈現場では、フリチンのままという習俗が後々まで残ったと考えている。
宮本常一は、褌について、次のように指摘している(『絵巻物に見る日本庶民生活誌』中公新書)。

「餓鬼草紙」には尻をまくった排泄場面が多いが、それで気づくことは、小袖の下に今日 のようにパンティーもズロースも申股[さるまた]もはいてはいないということである。この当時なら褌をつけていてもいいと思うが、つけていない人がほとんどであったようだ。「餓鬼草紙」や「病草紙」の描かれたとき(12世紀後半)より少し遅れた時期(13世紀)に描かれた「北野天神縁起絵巻」巻5には、埋葬のために穴を掘る人びとが褌を締めている様子が描かれている。このころから褌をするものがふえてきたのではないかとも思われる。(p187)

もちろん、褌そのものは古くから知られており、「和名類聚抄」にも見えている。また、現に、「餓鬼草紙」の後段に褌をつけた2匹の餓鬼が描かれ、「地獄草紙」に登場する鬼は褌をしている。異界のもの、外国人、など特別な服装として褌が扱われていたと考えることができる。古く宮廷で行われたという相撲の褌もたぶん、そうだろう。宮本常一は「[ふんどしは]おそらく大陸から渡って来た服飾が、この絵巻の描かれるころからあとに、しだいに民衆の間に広がってきたのではなかろうか。とくに、裸でいる者にとってひとつの風俗になったとみられる」(p188)と述べている。



日本の漁師が全裸で、陰茎に藁を結んで漁をする習俗がひろく分布していたことは、千葉徳爾が指摘している。千葉は、この習俗を狩猟習俗の中に存在している“男根を山の神に見せる”という習俗と対比しつつ、人類史的な文脈で評価しようとしている。その文脈では小論第2.3節「性器信仰」で扱った、怒張した男根の持つ呪術性に結びつく。だが、ここでは、そこまで視野を広げないで、「裸族」に関連した日本民俗の資料としてのみ扱う。

男根を藁で結んで出漁するふうは太平洋側でも銚子港から房総半島の漁村にも見られ、地引網の漁師などにもしばしばそのようにする者がある。・・・・・・伊豆諸島でも地引網を行う土地にのみ、この風習が存在する。陸上でも海上でも活動が自由だからというが、陰茎を藁一本で結ぶ行為は、それならばなおさら不用である。著者[千葉徳爾]はむしろ、これを魚をまねくための儀礼として、・・・・・・獲物の多いことを願った儀礼に発したのではなかろうかと考えてみたい。(『女房と山の神』(原論文1975) p138)

安田徳太郎『人間の歴史2』(1952)には、つぎのような指摘がある。

猟師が漁に出るときに、みな赤フンドシをしめるのは、サメやフカよけである。九十 九里浜のひじょうに辺鄙な寒村の猟師は、みな赤フンドシをしめていたが、どういうわけか、いよいよ漁に出るときは赤フンドシをはずして、ふりになり、申しあわせたように陰茎をわらでくくった。これは奇妙であるが、なにか理由があるのかもしれぬ。(p110)

安田より10年さかのぼることになるが、木村伊兵衛に夕暮れの砂浜で逞しい全裸の漁師たちが、大きな木造船を引き上げる作業をしている印象深い作品「漁村(昭和15-16年)」がある。同時期に「御宿」があり、九十九里浜の漁師たちの群像であることはまちがいないようだ。


わたしは『木村伊兵衛写真全集 昭和時代 第1巻 』(筑摩書房 1984)を見ているのだが、その巻末解説に、色川大吉が「自分史と民衆史のあいだに」というエッセイを寄せていて、それが、重要な情報を追加してくれる。

[大正14年生まれの色川は]たとえば少年のころ、毎夏、私は銚子や九十九里浜に 泊まりがけで行った。銚子では漁師たちが市内でもふんどしもつけずに歩いているのに眩しいような思いをした。彼らはチンポの先だけを細い稲藁で、つつましくお飾りのようにしばっているだけで、他は文字通り一糸もまとわない全裸であった。あわてて周りを見回しても誰もふり返ったりしていない。女たちも平気な顔をして通りすぎる。どうしたことかと思っていたら、九十九里浜でも同じ全裸で漁師たちが船をひきだしていたのである。 たくましい男たちの尻のあたりが、いかにも官能的に、セクシーにとれている。綱を引く3人の男、トロッコの丸太を外そうとしている別の3人の男、舳先を横に押している男。みごとな力のバランスで、さしもの重量の大船が、この全裸の男たちの合力によって今にも動き出そうとしている。・・・・・・ここには、まだ自然が威厳を持って存在している。わずか4,50年ほど前には、まだ日本にも、こんな光景があったことをわたしたちは忘れたくない。(p192)

ペニスに稲藁を結んで、全裸で漁の作業をする男たち。そして、男たちは、その全裸のまま市中を歩くこともあり、人々もそれを異としなかったのである。写真の左端に近いところ舳先のむこうに、姉さん被りの若い女性と思える人物がいる。この労働空間に充溢している健康なエロチシズムを思う。背中と尻を見せている男たちも、よく見ると、若い皮膚、年輩者、男盛りの充実した体躯と、いろいろあるのがわかってくる。湿った砂にくい込む裸足のそれぞれを見ているだけで、溜息が出てくる。
大正後半に房総半島南端の館山で生まれ、少青年期をそこで過ごした音楽家のT氏にうかがったところ、鰹船の漁師たちは館山でも全裸だった、ということだった。“自分たちはまったく自然なこととして受け取っていた”と。昭和15年(1940)頃までは普通に見られた習俗だったという。

脱線ついでに、森崎和江の「対幻想」についての印象深い発言を紹介しておきたい(上野千鶴子との対談「見果てぬ夢」、上野対談集『性愛論』(河出書房新社1991)より)。
森崎は吉本隆明が「共同幻想、対幻想、個人幻想」をうちだした『共同幻想論』(河出書房新社1968)が出たとき、読んだけど「難しくてね、きちんと読んでないんです」と言っている。けれど、ある編集者の紹介で吉本の家を訪問して、短い時間だけ会ったという。

吉本さんが自宅で、座ってらっしゃるときの雰囲気ね、この方は対幻想なんていう言葉を私たちに作って下さったけど、その体内には海辺の潮の時間が生きていて、ちっとも苦労なくあの時間の本質を言語化して下さったんだなというふうに感じました。(p192)

森崎は吉本隆明に「海の時間」を感じたと言っている。それは美しい言葉だとおもう。(吉本隆明の父は天草の船大工だった)。

海岸には潮の時間というのがあるのね。潮とともに生きて、潮とともに食べたり、寝たりする。その海辺の町は海女漁です。女の人が海にもぐって、アワビヤサザエを採って来る。男の方は、舟を漕いで漁場まで奥さんたちを連れていって、貝を採ってる間は子どもをおんぶして櫓を漕いできた。いつでもいいわけじゃない。潮に合わせて。潮とともに男女一組になって生きている日常があるんです。そして生命は潮とともにやって来て、潮とともに死ぬんだという。(p192)

昭和14,5年に九十九里で木村伊兵衛が撮影した裸体群像は、森崎和江のこの美しい言葉を映像的に証していると思う。もっとも、森崎のいう海女漁と九十九里の漁船による集団漁とは違うが。


わが国で裸体禁止令が出たのは明治4年である。たとえば、明治4年11月の「東京府布達」には(原文は漢字カナ混じり文)、

府下賎民ども衣類をつけず裸体にて稼方いたし、あるいは湯屋へ出入りそうろう者もままこれあり。右は一般の風習にて御国人[日本人]はさほど軽んぜしめ申さずそうらえども、外国においては甚だこれをいやしみそうろうより、銘々大なる恥辱とあい心得、我が肌をあらわしそうろうことは一切これなく・・・・・・(『明治文化史 生活篇』p351より)

とある。この「布達」は“外国のてまえマズイので裸体は禁ずる”といっている。次節第3.5節で見るが、横浜の立ち小便禁止と似たような論理である。もうひとつ注目すべきは、「賎民ども」つまり肉体労働者が、「裸体にて稼方いたし」(ふんどしひとつで労働している)といっている点である。労働現場でふんどし一丁姿は「一般の風習」であったのである。
この『明治文化史 生活篇』の次の頁には、漁師は全裸で働くことが多いこと、京や大阪の婦人は立ち小便を往来で行うことを指摘している資料があげてある。明治33(1900)年『時事新報』の、“太西洋人”という外国人を装った筆者による評判の連載という。

ただその裸体の極点、赤裸々にしていかなる蛮人といえども必ず覆い隠すべき陰部をさえさらに覆わず、平気に働きおるもの多きに、とうてい恥を知る人間の天性とあい容れざる所業なるに、海上における日本漁夫は見る毎にたいがい皆しからざるなく(以下略)
つぎに驚くべきことは、日本の婦人が立小便の一事なり。これ東京および関東地方を除けば、京も大阪も一般に行うところにして、その状態の醜なる予はこれを記すあたわずといえども、日本の中流以上の淑女といえどもさらにこれを恥とも思わずと見え、立派なる衣服の婦人が四辻にて往来を見ながら厭うべき状をなすものあり。(同 p352)

引用の前半部、漁師が全裸で働くことの1900年頃の証言として貴重である。女の立ち小便についても同様である。

戦前の日本では、全裸の労働姿はともかく、ふんどしひとつ腰巻きひとつの姿はそれほど珍しいものではなかった。東京下町の夏、ふんどしひとつの男と腰巻きひとつの女についての証言は、まえに引いた永六輔・永中順『旅=父と子』に興味深い一節がある(引用中の「5,60年前」は、大正末から昭和初年にあたる)。

[六輔の文の中に]「7,80年も前の東京の下町では腰巻きひとつのおかみさんはいくらでもみかけたという」とあるが、これは5,60年前と訂正してもいい。さすがに大店のお内儀さんはそんなこともないが、そうでない連中ともなれば、入口から台所まで見通せるほどに開けっ放した家の中で、腰巻きひとつでいるくらいはあたりまえである。それであまり暑いときは、肩にぬれ手拭いをかける。そうしてそのまま日ざかりの往来にしゃがみこんで、日除けの布の端の紐に重りの石を結わいつけたりしている。店番をするとか近所へ小買物へ出る時などは、袖なしのじゅばんを着るが、このじゅばんがまた肩衣[かたぎぬ]みたいに横があいていて風通しがいいことおびただしい。じゅばんと腰巻の間に簡単な帯をしめるが、そうでなければ、じゅばんの上から腰巻の紐をしめている。しかし、この時分は身につけるものが木綿だからよかったが、世が進んで、薄い涼しい布地が出回るようになるといけなくなった。腰巻などは前が引き合わせで二重になるから、ご当人は気がつかないが、うしろの方は一枚だから困るのである。
朝、涼しそうに家の前の往来をゴミ取りと小箒を持って、前かがみなって掃いたりしているのはいいが、うしろから見るとお尻が透けて見えてしまって、時には布地がピッタリ肌について、はさみ込まれたのもあり、知らないというのはいい気なもので、それでご当人一向平気でいたりする。女がそれだから男たちは、家の中なら褌一本で押し通していた。みんなが裸をあまり意識していなかったのである。(p134)

“たてまえ”はともかく、日本人の裸体観は非常に寛容なものであったということはできる。すくなくとも、裸体(裸の手足、上半身、乳房、性器)そのものを罪悪視するような習俗は根づかなかったといっていいだろう。労働現場では全裸・裸体がむしろ尊重される風があった。

日本人の中には、男根・女根に対するタブー観・罪悪感はなく、むしろ性器信仰が、おおぴらに男根石や女根石を飾り立て林立させるような大らかさで行われた。性器信仰が“恥ずべき”淫祇邪教扱いされるようになったのは明治以後のことであった。

裸体観や性器観、羞恥心、清潔感、浄・不浄などという人間存在にとって根源的なことについてまで、わたしたち日本人は“たてまえ”と“ほんね”を使い分けて生きている。これは、非常に奇妙で倒錯的なことだ。
それがいまや、何が“たてまえ”で、何が“ほんね”なのかさえ、分からなくなってきている。われわれのアイデンティティの根源が分からなくなってきている。


女性の乳房を性器と見て隠すのが当然とされるようになったのは、第2次大戦後も、だいぶ経ってからである。これは、わたしなども体験してきたことで確かなことだ。

腰巻を長く使用していた日本女性にとって、腰まわりを締めるコルセットが馴染みやすかったのに対し、バストにつけるブラジャー(当初は「乳おさえ」などと呼ばれた)は今までと全く異なる未体験の下着だったのだ。(武田尚子『下着を変えた女』1997 p167)

この「未体験の下着」に対して、日本女性は日本経済の高度成長期を越えて、急速な適応を示した。「乳おさえ」というような着物下着の延長としてではなく、むしろ逆に女性であることを強調するプロポーション補強の下着としてである。武田尚子は1990年代の日本女性の「ブラジャー着用」について、次のように述べている。

それにしても、今でも体型補整のブラジャーに異常なほど固執する日本の下着を見ていつも思うのは、女性たちがブラジャーの呪縛から解放されない限り、本当の下着のおしゃれを自由に楽しむことはできないだろうということだ。日本のブラジャーの着用率はおそらく世界一である。(武田尚子 同前 強調は引用者p127)

わたしは「ブラジャーの呪縛」という面白い語をはじめて知ったのだが、ここにも、日本人の行き過ぎた「文明化」を感じる。
(右図は、長谷川町子「いじわるばあさん」(『いじわるばあさん No.4』姉妹社1969 p60)から拝借しました。4コマを全部引用するのはまことに申し訳ないのですが。“ブラジャーが乳房を猥褻にした”という秀逸な例なので。)

「ブラジャーの呪縛」に関連して、「体型補整」を目的とする下着・ファンデーションについてちょっと触れておく。下着業界の大手ワコール(和江商事)は1946(昭和21)年 塚本幸一が、復員直後に婦人洋装装身具の卸商として創業し、ブラジャーやコルセット(ガードル)の「体型補整」下着から出発して、大成した企業である。19世紀ヨーロッパのコルセットを中心とした“プロポーションを作る”下着の伝統を考えると、これがこれまでの女性下着の本流といえる。(現在のワコールのサイトで「事業内容」を見ると、最初に「ファンデーション」が挙がっている)
これに対して、鴨居羊子のチュニックは、パンティやスリップなどを「第二の皮膚」のように着こなす「チャームな下着」を提唱した。大企業にはならなかったが、日本女性の下着意識を変革することでは大きな影響を与えた。





(3.5):究極の排泄スタイル
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究極というか原初というか、衣類をまったく身につけない生活をしている場合、人間はどのような排泄スタイルを選び取るだろうか、という問題を考えておきたい。

  • 肉体的・生理的な制約(男女差、食物による便の違い)

  • 場所の制約(排泄は便所で)

  • 着衣・履き物による制約(衣類を汚さないように)

  • 習俗・習慣など(紙で拭く 水中で排泄)

  • 宗教的な制約(砂か水で清浄に)

( )内は、例示である。
上に示したようないくつかの制約条件(もっとあるのだろう)を、全部はずしてみたとき、人間が本来的にとるであろう排泄スタイルというものがあるだろうか。これは、“二足歩行する哺乳類”としての人類が本来的にとる排泄スタイルがあるか、といっても同じことになる。ただ、このような発想で、人類がどのような排泄方式をとってきたかを知ることができると考えているわけではない。
むしろ、わたしがこういう議論を立てようとする動機は、自分が選び取っている排泄方式が、必然的なものでもより優れたものでもなく、歴史的偶然=必然の重なりがもたらしたものに過ぎないという観点を、自分に言い聞かせたい、というほどのものである。わたしは、排泄が、性や死と同じく「文明化」されて、“下水道で排泄”されることで万事終了という風に、飼ならされたくないな、と考えているのである。

ここまでにいくつか示してきた例によって、立ち小便・しゃがみ小便がけして男女差によるわけではないことは納得してもらえると思う。便所については次節で扱うが、固定場所の便所を用いることが普通になっているのが、決して本来的で多数であったと言うわけでもない。現代でさえ便所のない生活が普通であるという人々も多いのである(近代以前にさかのぼればますますその比率は高まるだろう)。

李家正文『厠まんだら』(増補新装版 雪華社1988 旧版は1961)の中に、「アイヌの便所」という節があるが、その中に

アイヌは尻を拭かないのが多いらしく、徴兵のあったころ、検査官が痔を調べると、 残糞がついていたといい、召し使いの女が、ふかないので弱った雇い主がいる。(p89)

第2.1節で、西川一三が『秘境西域八年の潜行』のなかで、「蒙古人が大便の後も尻を拭くようなことは一切しない」と述べていることを書いておいたが、森下和恵モンゴル式トイレというところに、モンゴル人がほとんど拭かないことを証言している。

モンゴル人たちは紙などを使わず、草で拭く。それも実際にはほとんど拭かないそう。食べ物のちがいからか便が水気を帯びていず、固まりで出てくるからだとか。猫や犬の糞をちょっと思い出す。

森下和恵の証言は近頃の見聞として意味を持つ。ただ、わたしは子供時代にしょっちゅう野糞をしていたが(川遊び、山遊びで)、そういう際はつねに“草の葉”を使って拭いていたので、紙以外のもので拭くことには少しも奇異な感じを持たない。
孫晋泰「厠に於ける朝鮮民俗に就いて」(「ドルメン」第8号、1932)という稀覯論文が礫川全次『糞尿の民俗学』(批評社1996)に収録されていて、容易に読むことができる。そのなかに、 孫晋泰の道案内のために雇われ一緒に10日ほど歩いた「車元述という六十余の老夫に」尋ねると、「尻は拭かない」という。「通じは2日目か3日目に一回づつあって、相当固いのを出すから紙など使ったことがない」ということだった。

高倉テル(1891~1986)に「クソの話」という痛快な文章がある。「ヒエの飯」を主食にしていると、「兎のくそ」のようになってくるという。

[クソ]ヘラを使っている地方では、がいして、米だけでなく、ヒエをいっしょに作っているという事実に、注意しなければならない。ヒエの飯は、ほろほろして、ねばり気がなく、しゃくしですくうのに、相当、手ぎわがいる。食うのにも、うんと唾を出して、まるめないと、うまく呑みこめない。したがって、それがクソになって出るときにも、ちょうど兎のくそのように、まるい美しいかたまりになって出る。だから、あたりまえに尻をふく必要なんか、ほとんどない。少しくっついているのを、ヘラでひょいとはねとばしておけば、十分だ。 (『ミソクソその他』初版1939 恒文社1996 p64)

こういう観点からの指摘は珍しいので、取り上げておく。尻の始末にクソヘラ(籌木)を用いる地方は、ヒエなどを食べ、尻を拭かないととれないほどの粘りのあるクソは出ない、という。「百姓に紙でていねいに尻をふかせようと思ったら、まず彼らに、もっと柔らかい、ねばった、くさい、もっと不潔なクソをひらさなければならない。そのためには、だいいち、百姓の食いものから変えて行かなければならない」(p65)。そして、高倉テルは百姓や女工に対して「お前ら、もっといいクソをひれ!」(p70)とアジるのである。(『ミソクソその他』の初版は戦前であるが、新仮名づかいに書き換えてあったのを、著者没後に出版した随筆集。他に「くだもの」、「カッコウ」など、感銘を受けた。)

近藤純夫のエッセイ「冒険トイレ」(キャサリン・メイヤー『山でウンコをする方法』1995 所収、近藤純夫は訳者であるが、自分のエッセイを収めたのである)に、つぎのような、決定的なケースの実見談が出ていた。まず、読んでもらおう。
近藤純夫はケイビング(洞窟探検)の専門家で、パプアニューギニアの洞窟探検の途中の、洞窟に到達するまでの密林内での悪路との闘いである。

半ば粘土と化した崖っぷちを、蛮刀で蔦を払いながら進む。先頭に現地ガイドの二人、次にぼく、そして10人ほどの隊員とTVクルーが続いた。やがて足元に緑色の水っぽい塊がいくつか出現した。それが2,3カ所たまった所のすぐ先で小休止をとる。うしろから仲間の、なんだこりゃあの声が飛ぶ。なんだろうな、動物の糞だろうか。いや糞にしては臭わないぞ。どれどれ、手に取って臭いを嗅ぐものもいる。しばらくしてそれに気づいたガイドが慌てふためいて緑色の物体を指さす。それは彼らのウンコだった。赤ん坊は緑色のウンコをするというが、ここではみなが緑色なのだ。しかも歩きながらすませてしまう。これは鳥並みの能力ではないか。後でこっそりと、拭かないのかときくと、拭くときもあると言う。するともうひとりが思案顔で、都会のやつらはいつもふいているんだよな、と呟いた。(p141)

この実見談で、何が決定的かというと (1) 歩きながらの排便であること (2) 拭いていないこと の二つを同時に充たしているケースであるということである。「歩きながら」といっても、一瞬立ち止まって排泄するのか、歩く動作の中で排泄しているのかは不明であるが、近くにいる近藤純夫が気づかないほどの「歩きながらの排便」であったことは間違いない。アフリカで渥美清が、“動物は走りながら糞をたれているから、おれもやってみる”と言って、走りながら糞をしてみたという。“ケツの周りは糞だらけだった”という落ちがつくが、これは伝説に過ぎないかも知れない(西岡秀雄『絵解き世界の面白トイレ事情』p110によると、「東京新聞1997-8/26」に映画ロケでアフリカに行った渥美清は、野糞をするはめになり、周辺の野生動物は皆走りながらウンコをしている、それが一番安全なのか、と考え、自分もやってみた、というのだが)。
ついでに、この実見談に関してもうひとつ指摘しておくと、(3) 二人の現地ガイドが「裸族」であったかどうか不明であるという点だ。近藤純夫は何も書いていないが、もし「裸族」なら、そのこと(下着をなにも着けていないこと)に触れそうなものだと思う。でも、どういう下体衣であったかを書いておいて欲しかった。英語が通じるガイドだとすれば、短パン・トランクスぐらいはつけていたか。ちょっと下着をずらして脱糞したのだろうか。

----------以下、2005年10月追加----------
西丸震哉『動物紳士録』(中公文庫 単行本初版1973)に、西丸震哉が実見談として、ニューギニアの「原始食人種」(と西丸は書いている)は歩きながら排便すること、立ち止まるとすぐヒルが這い登ってくるので、それを避けるためだとしている。「緑便」の話も合っている。

原始食人種たちといっしょに行動していると、ときどきかれらはジャングルの中へひとりでツイとはいってしまい、30秒ほどで少しはなれたところから何くわぬ顔で出てくることがある。便所というもののない社会だから、おそらくこのときが用便の時間だろうと見当はつく。そのあとで上り坂をついて行くとき、鼻先にある土人の尻のあたりから、ツーンと便のにおいがするからやはりまちがいがないと判断する。(中略 大便の跡を探して密林に入ったが見当たらない)変ですねえ、変ですねえ、と心でつぶやきながら、自分のズボンをヒョイとみると、緑色のベタベタしたものがやたらとこびりついているではないか。鼻をちかづけてみれば、まさにさがしていた目的物そのものだ。

これを信ずれば、柔らかい緑便が通り道周辺の木の枝や葉についていて、それが西丸のズボンに付いたということだろう。この「土人」たちが腰につけているものの説明があるので、上の続きを引用する。

男たちは腰にはめた竹のタガの前方に木の皮をたたいた長方形の布状のものをぶら下げ、後ろには木の葉をまとめてさし込むだけ、女は前後にノレン状の腰みのをぶら下げただけで、下はなにもないから、歩きながら出してしまえばなんということなく終わり、木の葉であとをふくようなよけいなこともしない。どうせすぐに川をわたるのだ。このとき、かれらが慢性栄養失調症で、ドロドロの緑便しかしないことが、立ち止まらないで用をすませるのに役立つ。(西丸前掲書p146)

ニューギニアの低地帯はいくらでも谷川があり、それを横切る際に体をきれいにすればよいのである(そのとき、体についたヒルを取る話がすこし前に書かれている)。このことは近藤純夫にはなかった点で、西丸のオリジナルである。納得がいく。われわれが常用している「ウォッシュレット」と同じことで、排便と洗滌の位置が同一場所ではないという違いだけのことだ。
西丸震哉のここまでの話は信用してもいいようにわたしは思う。彼はこのあと、性交渉がどこでどのように行われるかを、ひそかに観察する(と言うと学術みたいだが、ようするにノゾキをする)。というのは、この「土人」部落は部落民全員が「大きな一軒家」に寝泊まりし(いわゆるロングハウスか)、その中で男女は別々に寝るからである。西丸はいちばん可能性のありそうな若い夫婦の畑仕事を観察する。蚊に刺されてもパチンとできないで苦労した、などといういかにも“出歯亀実話”みたいなことを書いたあと、

夫が妻をさそってジャングルにつれだってはいっていった。でてくるまでの時間は50秒でしかなかったので、おかしいとは思ったが、いちおう今きたばかりのような顔をして、ヤアヤアとそばへ寄っていって

夫を嗅ぐと精液のにおいがした。妻の背にヒルがついておらず、足にもヒルがついていなかったので「犬のような方法で、しかも歩きながらでなければならないことが、ヒルを媒体として理解できた」としている。(同p148)
わたしは「ちょっと信用できないなあ」と感じる。後背位はいいとして(先の腰蓑などの説明が役立つ)、「歩きながら」とは話を面白くするための無理がないか。

この西丸震哉の本を知ってから、ヒルに関する記事に気を付けていたが、沈澈/譚佐強訳『西南秘境万里行』(現代中国紀行選書 恒文社1993)という面白い本に出合った。中国雲南省のチベットとミャンマー国境に接する独龍谷というところのルポに「空を飛ぶヒル」という章があった。ミミズほどのヒルが飛びついてくるという。
このような所では、「立ち止まるとただちにヒルが脚をのぼってくる」というような“悠長な”ことではないので、歩いていようが立ち止まっていようが、ヒルが体に付くことは避けられないようだ。

あるものは針のように細く、あるものはミミズほどの大きさで、数十㎝離れた場所から人間の身体に飛び移って、吸盤で食らいつき、そこいらじゅうを這いまわり、もぐり込む。手でつかむと今度は手に吸いつき、ふり落とすことも、払い除けることもできず、踏みつけても死なず、じつに憎たらしい。ヒルに食いつかれた場所は豆つぶ大の傷口となり、血が止まらない。私の靴の上には20匹あまりが這っており、ゲートルを巻いた両足の上には百匹あまりが這いまわり、見ると寒気を感じる。(p120)

ヒルを放すためには、タバコの火を押しつけるしかないのである。次の引用のなかで「ひあぶりの刑」といっているのは、そのことである。
ルポライターの沈澈のために、軽機関銃を持った5,6名の兵士が護衛に付いているのだが、その兵士のひとりが、用便に出かけて珍事が起こる。

夕方、副分隊長の雷君が用足しにでるさい、われわれは冗談半分に、ヒルに尻を咬まれるなよと注意した。かれは心得ているといわんばかりに、小屋の外の人間の背丈ほどもある、草一本生えていない大きな岩を指さし、「人に笑われてもかまわない。俺はあの岩の上で糞をするぞ。木も草も生えていないからな。あそこまではヒルも飛び上がってはこないだろう」と言い、出かけていった。ところが宿舎に帰ってきてとんだ醜態を演じることになった。雷君が用を足した場所で、数人の生意気ざかりの若者が「雷副隊長が女になったぞ」と大声で囃し立てた。外に出てみたとたん、全員が爆笑した。彼の座った場所にはべったりと赤い血が付いていた。ズボンにもあちこち血痕がついている。やむなく恥を忍んでズボンを脱いだ彼の尻を見ると、ヒルに咬まれた傷が7,8個所もあり、傷口から血がしたたり落ちていた。さらに2匹の大きなヒルが尻の肉にまで食い込み、なおも血を吸いつづけており、どうしても引き離すことができない。われわれは例によって火あぶりの刑を行った。・・・・それ以後、われわれもうっかり外で「野糞」をすることはやめ、安全で「便利」なところを捜すため、しばしば多くの時間を費やした。(p123)

沈澈はこれ以上のことは書いてくれていないので、どういう安全で便利な場所があったのか、不明である。さらに、この地方で「歩行排便」や「立位排便」の習慣があるのかどうか、不明である。
ともかく、ヒル、毒虫、蚊・・・などを防ぐための排便スタイルという観点が必要であることは確かなようだ。
----------以上、2005年10月追加----------



南方熊楠は、なんと「立大便」という語を使って、若い頃アメリカで実見したことを述べている。

30年ほど前、予米国ミシガン州立農学校におった時、寒夜寄宿生が立ちまた行[ある] きながら大便するのを毎度見た。同学の田村源三(中略)風寒く厠遠い処では、これがもっとも妙じゃとて稽古しおった。この他に立大便の例を知らねど、エスキモー人は極北の寒地に棲んで男女ともに緊[きび]しきズボンを穿き、室内でなくば滅多に脱がぬらしい。惟うにこれは多く立大便をするだろう。(6-p586)

この原稿は『南方熊楠全集6』の「未発表手稿」の中の一編で、「立小便と厠籌」と題するもの。前後の事情から、1919(大正8)年に雑誌「日本及日本人」に投稿するつもりで書かれたもの。この「30年ほど前」は1889年となる。熊楠が横浜を出港して米国へ向かったのが1886(明治19)年の12月。ミシガン州立農学校に入学したのが翌年8月のこと、同校を退学したのが1888(明治21)年10月。
寄宿生たちが立ち止まったり歩いたりしながら、寒い夜(おそらく野外で)、大便をしていたというのである。村田源三はその練習をしていたという。残念ながら、立大便の姿勢やズボンなどの始末の仕方、大便後の始末など何も具体的に書いてくれていない。エスキモーの例から想像するに、ズボンまたは下体衣を脱ぎ捨てることなくずらす程度で立位で大便をする、ということではなかろうか。寒い地方でこういうやり方があることに関する南方熊楠の、貴重な証言と推論である。

近藤純夫の実見談に出てきた大便の「緑色」のことだが、マルタン・モネスティエ『排泄全書』に食物と大便の色について書いたところがあった。「たしかに、便はある種の食物によって特別な色になる。たとえば牛乳食事療法によって、便は灰色がかった白になる。ベジタリアンの排泄する便は、浅い黄色や明るい栗色になることが多い。野草の食事療法では緑がかった色になる。肉をたくさん食べる人の便は非常に濃い色、濃い栗色や松やに色をしており、・・・・・・漿果や木いちごでは緑になる(p23)」。とすると、このガイドたちは野草や木いちご中心の食事をしていたのか。日本人クルーが「手に取って臭いを嗅」いだりしているのだから、通常のウンコ臭はなかったと考えていいだろう。

“二足歩行する哺乳類”が、排便の際に四つ足哺乳類と違うどのような困難を乗り切る必要があるか、という重要な問題については、香原志勢「人間はなぜ紙頼みするか」(小西正捷編『スカラベの見たもの』所収)が優れている。ほんのさわりの部分だけ引用しておく。

哺乳類の多くは自然脱肛によって、肛門周辺を汚すことなく脱糞することができ、鳥類も似たやり方で、総排泄を通して排泄ができる。これに対して、人間は十分に脱肛できないので、排便後、尻を拭かねばならないのだと考えることができる。(p104)

イヌなどの排便をみていると、肛門の内側がにゅうッと突き出てきて、その先から脱糞し、終わると収納する。これを「自然脱肛」というのだそうだ。人間が自然脱肛ができないのは直立していることと関連があり、(広義の)会陰部の筋肉は内臓全体の重さを支え続けていないといけない。その緊張力を保ち続けるだけで精一杯なのだそうである。ゆえに人間は、尻タブの谷の両側に便がつかないように臀裂[でんれつ]を開いておいて、体外に押し出した大便を重力で“自然落下”させる必要がある。地球に引っ張ってもらって、排便する(スカイラブで、吸引装置のなかった頃「無重力状態で肛門から大便を切り離すにはしばしば1時間もかかった」『排泄全書』p303)。ここまで首尾よくできたとしても、肛門周辺に便が付着しないようにすることは難しい。さらに、肛門のシワにいくらかの大便片が挟み込まれるのは必然的である。これらをこするなり拭くなり水洗するなり(指も用いて水洗するのがすぐれていることは論を待たない)の後始末が、通常は必要である。(解剖学用語は一般解剖学サイトが役に立ちます)。
肛門周辺に便が付着しやすいかどうかは、排泄スタイルの問題だけでなく、便の粘ばっこさ・水っぽさなどにもよることは明かである。そして、言うまでもなくそれは食生活と健康状態に左右される。

以上の諸点からすると「本来的な排泄スタイル」というものはないと言っていい、とわたしは考えている。
立つもよし、しゃがむもよし。拭くもよし、拭かぬもよし。野糞もよし、便所もよし。どれに、本来的な優位なスタイル、劣位なスタイルがあるということはない、という結論である。ただ、従来考えられていたより、立ち小便・立ち大便(南方熊楠)に得点を与えてよいか、と思う。






(4) 便所

(4.1):野糞・野しっこ
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便所は人類のかなり古い段階から存在しているようであるが、その一方で、現在でも便所のない生活を常態としている人々も決して少なくない
清水学(アジア経済研究所)「ボンベイの天然トイレ」の冒頭に、ボンベイの空港から都心部へ行く早朝のバスの中から見る、スラム街の男たちが道路の両側に、20,30mおきに並んでしゃがんでいるようすを書いている。朝の用便をしているのである。そのしゃがんだ男たちの列が延々と続く。

まもなく異様な臭気がバスの中に入り込んできて、その臭気はついにハンカチを出して鼻を被いたくなるほどの強さである。さまざまなものから発生する臭気が混在して生みだされる一種独特の臭気である。」(『アジア厠考』p168)

女性は、もっと早い時間に済ませているのだという。

これは、都市の貧困の問題だとする人があるだろう。それは誤りではないのだが、「貧困」という切り口だけでこの道路両側の集団的野糞の問題の深みに向かえるとは思えない。野糞をしている人たちは、彼らの大部分はおそらく太古から野糞で生活してきたのであって、舗装されたバス路で排泄するようになったのは、ほんの近年のことだろう。
上引の続きで、清水学は「道路上で用をたすボンベイのスラム住民もそのまま農村での習慣をもって来たに過ぎないとも言えるのである」と述べ、さらに次のように的確に指摘している。

しかし、農村と都市では環境は全く異なっている。都市では農村が持つ自然の浄化作用は著しく欠如しているからである。農村のように排泄物が自然に乾燥して土と混在していく過程は都市では保証されていない。とくにボンベイのように常時湿度の高いところでは、排出物は自然に解体されずに累積されていく。アスファルト道路の上では特にそうである。しかも、一部乾燥した排泄物は自動車の排気ガスと混在して空中に舞い上がる。(同 p170)

ここでのキーワードは「自然の浄化作用」だと思う。清水学は野糞(とは言っていないけど)をしても自然の浄化作用の豊富な農村では「乾燥して土と混在していく」。そこへ水が加われば肥料となり植物に吸収されていく。つまり、自然の物質循環系へくり込まれていく。この清水学の分析について異論は少しもない。
排泄物が自然の物質循環系にくり込まれていくかぎり、それは「汚物」とは言えないし、実際に汚なくはない。それは犬や魚やミミズや微生物の“ごちそう”になるのであり、植物の栄養となり、気体や水となる。そして、人間の食べ物として「循環」して、再度、食卓から口へ戻ってくるのである。逆に言えば、自然の物質循環系から切り離された“人造物”となったとたん、われわれの排泄物は“汚なくなる”。

最も太古の人間を想定すれば、野糞でことを済ませていたのは、他の動物と同じで、確実である。したがって、「便所」なるものは一定の歴史的・習俗的流れの中で、生まれる場合は生まれる。生まれない場合は生まれない。その生まれる条件が社会経済的条件によるのか、宗教的習俗的条件によるのか。

便所と野糞が対立概念だというのではないが、かつては日本でも、今よりはずっと気楽に野糞をしていた。山野・田畑ではいうまでもないが、都会の空き地や人通りの少ない道端で、野糞が行われていた。公衆便所が少なかったということと、舗装していない道には雑草が生えており空き地もあった。そして、なによりも、今ほど野糞をしている(してきた)ことを隠そうとする気持ちが強くなかった。
次の引用は、鈴木了司『トイレ学入門』(光雲社1988)からである。

日本でも以前はこの野糞が田舎でも都会でもよく見られた。都会でもガード下など に立派なものが転がっていた。・・・・・・いまでも開発途上国では公衆便所がないところが多いので、野糞はどこでも見られる。(p30)

ある寄生虫学者は、山梨県のある村のある字で、大正6年の12月中旬より1ヶ月の 間に野ぐそを96個ひろったと報告している。(p30)

野糞が行われているところで考えるべきは、その糞塊がどうなるのか、である。その行方である。犬・豚など動物が食べる。魚・昆虫が食べる。水中や土中の微生物が分解する。植物が吸収する。・・・・・・いずれにせよ生物が処理してくれて、自然の物質循環の中に入る。ふたたび有機体になるものもあるし、無機分子となって大気中に拡散したり、河川・湖沼・海水中へ溶け込むものもある。

人間生活からみて問題になるのは、糞塊が物質循環の中に入って分解されるまでの時間(緩和時間)である。高温多湿な地方では短時間であり、乾燥寒冷な地方では長時間かかる。水中に没すれば、一般に速い。もっとも、その場合は流れ溶け去ることによって(移動によって)、問題が解決してしまっているのだが。
上記の鈴木了司は寄生虫学者として、裸足で暮らす人々が家周辺でなされる野糞(幼児が行うことが多い)が寄生虫を媒介することを指摘し、家周辺の野糞の清掃を徹底する指導で効果を上げた例を紹介している。これは“緩和時間”内の対処法と考えることができる。逆に言えば、“緩和時間”外であれば、野糞のことは忘れてしまってかまわないのである。ここに、便所なしで快適に過ごせる理論的な保証が存在する。

豚や犬が人間の糞を食べて処理してくれるシステムから、わたしたちは遠ざかってしまっている。沖縄の豚便所(フール)もいまは使われていない。これは中国から伝わったものだろう。東南アジアでは人糞をえさにした養魚場が健在であるという。(多数出回っている旅行記の中には、人糞で育つ豚や魚を食べることを大げさに奇異なこととして書いているものがある。わたしは、人糞尿で育った野菜や米を食べてきたからだろうか、そういうことを奇異なこととする扱い方を、まったく理解できない。)


犬が糞を食べてくれたこと(逆に、犬を食用にしたこと)を日本人は忘れつつあるが、中世までは日本でも普通のことであったであろう。糞尿を肥料として使うために汲み取り便所を丹念に造ったために、近世以降は大陸と違ってきたかもしれない。右図は『病草紙』(12世紀後半成立)のなかの「霍乱 かくらん」である。余りよい例ではないが、他に見つけられないので、掲げておく。霍乱とは、急性胃炎で下痢・嘔吐をともなうという。平安期の公家日記にはよく出てくる病名だそうだ。女が縁側から水便を出す。その下に白犬が寄ってきている。わたしは、これは犬が人糞を食べるのが普通であったので、画家が描きこんだものだと思う。

河口慧海がチベットへ密入国する途中で体験した迫力ある犬たちとのやりとりを紹介しておく。蒙古犬など遊牧民たちが使っている犬の恐ろしさについては、多くの日本人が証言している。もうひとつは、ラサの街路の糞尿。

・・・・・・それも家のあるところでは便所があるんですが、テントのところでは便所というようなところはない。便所は犬の口なんです。どうもその西北原でテントの端でお便[ちょうず]をして居りますと怖ろしい犬が4,5疋取り巻いて横で見物して居る。気味の悪い事と言ったら始めはなかなかお便が容易に出ない。けれどもそれも自然に慣れるです。そうしてこっちが其便[それ]を済まして来ますと犬は先を争うてその人糞を喰いにくる。だから西北原の内には便所はないけれど人糞の転がって居るような事もない。(『チベット旅行記』第2巻 講談社文庫p163)

けれどもかえってラサ府の市街の道の悪い事といったら仕方がない。高低の多い所で町の真ん中に深い溝がほってある。その溝にはラサ婦人のすべてと旅行人のすべてが大小便を垂れ流すという始末で、その縁には人糞が行列をして居る。その臭い事といったら堪らんです。まあ冬は臭いもそんなに酷くはございませんけれども、夏になると実にその臭いが酷い。それで雨でも降ると道のどろどろの上へ人糞が融けて流れるという始末ですから、その臭さ加減とその泥の汚ない事は見るから嘔吐を催すような有様。・・・・・・もちろんラサ府には糞食い犬が沢山居りますけれども、なかなかその犬だけでは喰い切れない。犬も糞の新しいのは悦んで喰いますけれども古いのは喰わない。たから古い奴が残って行く勘定になるのです。(同 p165)

慧海がラサに入ったのは1901年なので、西川一三の蒙古・チベットでの証言を第2.1節で紹介したが、あれの実に45年前のことである。

野糞が気楽に行われる生活を考えると、野外で小便も行われているとしてよいだろう。一般には小便は地にしみこんでしまうので、それほど問題はないとされる。(これの逆に、「野糞より小便の方が始末が悪い」という珍しいケースを述べていたのは『秘境西域8年の潜行』の西川一三である。僧たちが僧院の石畳の道で糞尿を平気で排泄するが、大便は犬がすぐ食べてくれる。しかし、垂れ流された小便はそのまま溜まり蒸発し、臭気がひどくどうにもならなくなる、と。)
ところで、野外での排尿行為を表すよい言葉がない。「立ち小便」がその意味で使われることがあるが、小論では排泄姿勢に注目した表現であると考えている。男・女いずれに対しても使用できて、野外で(厳密にいうと、便所ではないところで)の排尿行為をさす言葉が欲しい。わたしはそこで、「野糞」に対応して「野しっこ」[野小便]を提案しておく。

近世の日本人が、野しっこについて男女ともほとんど自己規制しなかったことはよく知られている。京・大坂での「肥え担桶」を道端において尿を集める工夫は、この習俗を前提としてのことである。
たとえば、江戸時代に武士も事実上、野小便(ここでは、こう書きたい。これを「野しっこ」と読んでもらってもさしつかえない)し放題だったことが、次のような文書で確認される。

(江戸では小便し放題で、不潔だったとして、)『江戸文化』第3巻第9号に、諸家の 江戸座談会の筆記を載せてあるが、その中に「昔は小便所がないが、何処でやってもよいのですか」「ええ構いません」「裃つけてもですか」「用を足すには内証でね、横町か裏かでなければ人家を借りたものです」という個所がある。してみると、横町や裏町通りでは裃をつけた場合でも放尿して憚らなかったことが知り得られる。(田中香涯(本名祐吉、1874-1944)『医事雑考 妖。異。変』(戦前で1940年代? 礫川全次編著『糞尿の民俗学』(批評社1996)より重引))

『明良洪範』は武士の武勇伝を集めているが、その中に「立ち小便」を利用して逃げ出す話があった。越中守の所で碁の上で争いごとになり、その家臣を切って捨てた小花和太兵衛という武勇の者、喧嘩両成敗で切腹を申し渡される。切腹のために駕籠で、ある寺に送られる途中、

俄に小用の心地あり、便じさせ給へと[太兵衛が駕籠の中から]言ふ。[警護の]武太夫、ものなれたるものなれば、ひたひたと池の端へ乗りものをかき寄せて、池の一方を明けて、三方を囲む。太兵衛は乗りものより出て、小用を便ずる体にて、池へざんぶと飛び入りたり。

水泳の達人であった、太兵衛が結局逃げおおせる話。ただ、太兵衛の武勇を惜しんだ越中守の計らいで、警護の武太夫と太兵衛は示し合わせていて、逃がしてやったのだという落ちが付く(巻18 名著刊行会1912 p280)。この場合も、池の端で武士が立ち小便をすることがそれほど不思議とは思われていなかったという風習が前提となっている。

江戸幕末、日本が開国して「内地雑居」が始まるが、最初に公衆便所ができたのが横浜であった。日本人の立ち小便がことに不評であったという。

明治の初めに横浜にきた外国人たちが、不潔でみっともないと最初に感じたのは日本 人の立ち小便であった。そのため横浜市では放尿を取り締まる布告を出したのが明治4年(1871)であり、罰金は百文であった。そしてあわてて公共トイレを市内の83カ所につくったという。そのころは路傍便所といった。(鈴木了司『寄生虫博士トイレを語る』p143)

できはじめてから20年ほどしか経っていない横浜が(ペリー浦賀来航1853年)、どれほど不潔な町であったか、よく分からない。しかし、「立ち小便」を、外国人たちが「不潔でみっともないと最初に感じた」というのは、本当かどうか、保留しておく。ヨーロッパの街路も汚なかったし、立ち小便も行われていたから。
江戸時代の日本の都市や街道が、ヨーロッパ人の目に清潔に写ったことは、幾つも記録が残っている。たとえば、エンゲルベルト・ケンペル『江戸参府旅行日記』(東洋文庫 303)は、街道の清潔さと便所の設備について、書いている。このケンペルの旅行(長崎と江戸の間)は1691、92(元禄4,5)年の2年続けて行われている。17世紀末、元禄時代の見聞である。

毎日落ちてくる松葉や松かさを彼らは焚物として集め、それで多くの土地で見られる薪の不足を補っている。百姓の子供たちは馬のすぐ後からついてゆき、まだぬくもりのあるうちに馬糞をかき集め、自分たちの畑に運んでゆく。そればかりでなく旅行者の糞尿さえ同じ目的で拾いあげ、またそのために百姓家近くの街道脇には、便所として作った小さな粗末な小屋があり、その中にも糞尿が溜めてある。すり切れて投げ捨てた人馬の草鞋も同様にこの小屋に集められ、焼いて灰を作り糞尿にまぜるのだが、これはどこでも肥料として使われる。(斉藤信訳 東洋文庫303 p18)

この引用の続きには、道端の無数の肥溜の悪臭と「百姓たちが毎日食べる大根の腐ったにおい」(タクワンのことか?)がひどくて、美しい風景を楽しむのに妨げになる、と指摘している。
しかし、ヨーロッパの都市がこの当時の日本の都市と比べてひじょうに清潔であったとは言えないだろう。例えば、フランスで2万人の死者が出たという1832年のコレラ大流行のあと、フィリベール・ド・ランビュトーがパリの市長となり衛生対策を進めたと言われる。下水同然だったセーヌ川を改修し、下水工事を始め、「男子用公衆便所をたくさん作らせたりした」(『排泄全書』p184)。中世のヨーロッパの都市が、糞尿を道路へ捨てるためにきわめて不潔であったという有名な事実は、次節で扱うが、フランスの田舎では20世紀に入っても、糞尿を道路に捨てる習慣が残っていた。

公的な証言によると、1936年になっても、窓から糞尿の入った壺の中身を捨てる 習慣は、中央山地や南フランスのあちこちに残っていた。そのような地方では、住宅に便所のないところがあり、あるいは旅行者向けの便所しかない場合があったのである。(『排泄全書』p206)

わたしは、横浜で日本人の立ち小便が「不潔でみっともない」と感じたのは、外国人ではなく文明開化-近代化を焦る日本人だったのではないか、と疑っている。第3.4節で、明治4年の裸体禁止の「東京府布達」を紹介したが、あれと同様、“外国人のてまえ、見苦しい”というたてまえ論理のような気がする。

ついでに、現代のイギリスで(男の)立ち小便がおおっぴらに行われているレポートがネット上にあった。「イギリス・トイレ事情」というサイトで、2002.3.9 の日付が入っており、ロンドンでは公衆便所(デパートや喫茶店なども含めて)が少ない実態をていねいに書いた後、次のように述べていた。

日本でも酔っ払いが電柱に立小便をしているのを何度も目撃した事があるが、大抵は人影の無い住宅街などの路地だった。・・・・・・私がこちら(ロンドン)で立小便をしてるヤツらを目撃した事があるのは、いつも地下鉄の出口を出たところとか、人通りの多い大通りのど真ん中である。一応建物の壁の方を向いて用を足してはいるが、それは通行人に背を向けたいからだけだと思う。日本みたいに電柱も無いし(笑)。
人ごみのしている道幅いっぱいに、「さっき飲んだばかりのビール」」を勢いよく垂れ流れしているところに出くわした者の身になってみてほしい。場合によっては、まっ昼間からである。「立小便真っ最中」の道を通らざるを得なくて、勢いよく坂を下っていくオシッコの流れを何度ジャンプしたか、わたくし数え切れません!

前述の日系フリー・ペーパーの記事によると、イギリス人はビール愛好の伝統がある為か、立小便にも昔から寛容だったと言う。あるストリートの塀など、「立小便の場所」として定められていた事もあったらしい。キタナーーーい!
私は、先進国の中で立小便なんかが平気でできるのは日本人男性ぐらいだろうと思い込んでいたが、そうではなかった。「英国紳士の国」でも、もよおしたら道端で・・・・。ハッキリ言って、犬と同じだ。

写真もあって、良いサイトだと思っていたが、こんど再チェックしてみると見当たらない。残念です。(URLを残しておく。http://urbantrauma.hp.infoseek.co.jp/diary2002.3.html)

中国での公衆便所体験は色々な人が書いているが、わかぎえふが「野糞」との連想を書いていて、“さすが”と思った(わたしは、中島らもとわかぎえふのファンなのです)。

強烈なのはトイレの思い出だ。(上海で)町に出て公衆便所にはいると、中は2本の細い溝が掘ってあるだけで、たて板のようなしきりがあるにはあったが、横からは丸見えだった。「そんなあ・・・」という顔をしていると、うしろから「ほらやらんかい」とでも言いたげな姉ちゃんに背中を叩かれて用を足した。
「こんな社交的な野糞もめずらしいよな」というのが私の感想だ。どう考えてもあれは屋根があるというだけで野糞に近い。(『すみっこのすみっこ』p211)



(4.2):手洗い
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日本で野糞・野しっこが廃れてきたのは、いつ頃からだろう。公衆便所や道路舗装の普及また、自家用車の普及などと関連があろう。都会に住んでいる人と田舎に住んでいる人とで実態は違うだろう。人によっては、野糞は長い間していないが、いまでも野しっこを普通にしているという場合もあるかも知れない。つまり、野糞・野しっこは、場所により人により色々だ、ということになる。それにもかかわらず「日本では野糞・野しっこが廃れてきた」と言いうると思う。
現在でも、ピクニックなり山行の際、便所のない環境で過ごせば、人はみな野糞・野しっこをしているのである。これには、例外はない。ひとは“非常事態”になれば、みな野糞・野しっこを強制される。だから「日本で野糞・野しっこが廃れてきた」というのは、それらの「実践数」の急減などの実態をさして言っているのではない。それは、われわれ日本人の心の「規範の問題」なのである。

酔っぱらったあなたが、人目がなければ、平然と電柱へ「立ちション」ができるだろうか。“非常事態”でなければ、公衆便所まで我慢するだろうか。あなたにとって、ことが単に“人目の問題”であるのなら、野糞・野しっこが廃れているとは言えない。「野糞・野しっこはすべきでない」という規範は、人目の問題ではないのある。第2.3節で、鈴木博士がバングラディッシュの田舎で「immoral」といって立ち小便を制止された実話を紹介したが、そこでは、規範が成立している。

わたしが、最初にこういう問題を意識したのは、「便所に行ったら必ず手を洗う」という規範を意識させられたときである。1970年ごろに女房に指摘された、わたしが「必ずしも手を洗っていない」と。
それはその通りだったので、以後気を付けるようになった。ただ、便所での手洗いは、衛生思想によってそうするというより、わたしの場合、「手洗い規範」によってそうしていると思う。手に汚物ないしバイキンが付いていないようにするために洗うというのなら、石けんを使用したり消毒薬を使用したりすべきなのだが、そうしないことが多い。水で洗うだけのことが普通。それも、両手に水をかけてしっかり洗うことは少なく、ちょっと指先を濡らすだけ、というのが多い。それは、手を洗ったという儀式に過ぎない。

野糞・野しっこを禁ずる規範意識ができてきているようだと実感したのは、1980年頃、わたしが中学校の教師をしているときのことである。男子校の生徒たちを遠足に連れていくと、生徒の中には「先生、オシッコしたいんです」と相談に来る者がある。近くに便所があればそれを教えるのだが、山中などでは「その辺りでやってこい」と言う。あるとき、一人の生徒がわたしの顔をまじまじと見て驚いていた。おそらく、教師から「その辺りでやってこい」などと言われたのが初めてだったのだろう。「えっ、いいんですか」という。「我慢できないんだろう・・・・?」「・・・・えっ、ええ。」「我慢できるのなら、我慢しろ。我慢できないのなら、迷惑にならないような所へ行って、してこい」
遠足では、ジュースをがぶ飲みする生徒が多いので、こういう会話はしょっちゅう起こる。渇きと水分補給とをコントロールするのを覚えさせること、場合によっては野糞・野しっこなどを体験させること、こういうことも遠足で学ぶ重要な項目のひとつだ(とわたしは思っていた)。その場合、手洗いを欠くことになる体験も重要である。
こういう際の生徒の驚きぐあいから、野糞・野しっこを禁ずる規範意識ができてしまっているらしいことを実感した。野糞・野しっこどころか、都会で生活している子供の中には、水洗便所以外で排泄すること、排泄のあとで手洗いができないことに耐えるのが大変な者がいる。汲み取り式便所で排便できない生徒は珍しくない。

花粉分析の専門家で、考古学者として糞便の寄生虫の研究者でもある金原正明は「自然科学的研究から見たトイレ文化」という講演のなかで

日本人が、寄生虫に感染するということで、公衆衛生に気をつかうようになり、手を よく洗ったりするようになったのは、昭和30年代だと思います。

と述べている(『トイレの考古学』p214。この本と金原正明の講演については、第4.7節で、詳しく紹介する)。
外出からもどったときに、石けんで手を洗うという習慣は、自分にもある。しかし、トイレでの儀式に過ぎない手洗いは、ちょっと疑問を感じながら、励行している。近ごろ普及している家庭の水洗トイレでは、貯水槽へ注ぐ水流で手が洗えるようにしつらえてあるが、あそこで石けんを使う人は少ないだろう。わたしなどは指先を濡らすだけに使っている。きちんと手を洗うのには、洗面所が必要だ。また、急速に普及率をあげているウォッシュレット(水流による尻洗浄式の便器)では、手を汚すという感覚がなく、ますます手洗いが儀式化してきている。

日本人の「手洗い」の歴史は古く、有史以前のミソギの伝統にさかのぼるものであろう。 神仏に詣でる際に口や手を漱ぐという習俗は古くからあり、寺社に御手洗(みたらし)の設備が設けてあったと考えてよいだろう。飛鳥地方に水関連の遺跡が発掘されていることはよく知られている。

石の手水鉢が鎌倉時代には作られるようになったとされ、方丈や書院に手洗いの設備ができる。(イスラム教徒が礼拝の前に身体清浄につとめることは、第2.2節で扱った。宗教的施設で、手や口を漱ぐことは普遍的な礼拝習俗かもしれない)

『法然上人絵伝』(14世紀はじめに成立)には、ある坊の縁側の外に木製の「あか桶」と柄杓があり、手水鉢として用いられている。あか桶の台木の足元の「切石の囲い」は、使用した水を逃がす工夫である。手近の柱に手拭いが下がっている。この図は『絵巻物による 日本常民生活絵引5』から拝借したものだが(したがって、墨による模写)、この図の解説は「僧の背後の柱にかけてあるのは手拭である。絵巻物に見る手拭はこれがはじめてではないかと思われる。手を洗うには柄杓を用い、そのあと手をふいたものであろう。手水場に手拭をおくようになったのはこのころからのことであろう。」といっている(p42)。興味深い指摘である。図の“へたった”手拭いは、わたしたちになじみの便所の外でヒラヒラしている手拭いの嚆矢である、というわけだ。なお、国語辞書には「手水手拭い」(ちょうずてぬぐい)という語が採用してある。
茶庭に手水鉢が用いられるようになったのは,武野紹鴎(1502‐55)の時代からであるという(平凡社百科事典)。

エンゲルベルト・ケンペル『江戸参府旅行日記』は、便所に手水鉢が備えてあることを、細かく記録している。

(立派な旅館などの)便所は後屋の脇にあり、2つの戸口を通って入るように造ってある。中に入ると清潔な床のうえに茣蓙が敷いてあり、素足でふれるのがいやな人には、一足のイグサか藁で作った新しい草履が置いてある。用を足すやり方はアジアの流儀で、つまり、しゃがんで床の狭い穴の中にする。もみ殻か刻んだ藁がいっぱい入っている一個の長方形の桶が外から差込んであって、それで悪臭はたちまち吸収されてしまう。身分の高い人たちの場合には、穴の上のしゃがむ前の所にある小さな板[きんかくし]や引戸の取っ手に、その都度一枚の白い紙を貼りつける。便所の近くには手水鉢があり、すぐに手を洗うことができる。それは普通は丈が高く、まっすぐに立っている凸凹の石で、上の所は水を入れるためにきれいにくりぬき、新しい竹の柄杓が備えてある。(p42)

身分の高い人のために、きんかくし部分や引戸の取っ手など、直接手の触れる個所に白紙を貼った、というのは興味深い。「誰かが事前に触れていない清浄さ」の演出である。事前に十分にきれいに清掃してある、というのとは異なる。「清浄さ」を白紙によって演出しているのである。
これは現代の日本人の、場合によってはほとんど儀礼化している手洗いや、神経質すぎるトイレ風俗(“お尻り合い”を避けて紙を敷く、排尿音を消すための水流音をスピーカーで流す)の先駆のようにも思える。日本人の“儀礼的な清浄癖”には根深いものがある。

左の図は、滝田ゆう「ぬけられます」(「ガロ」発表1969 )の1こまである。滝田ゆうは1932(昭和7)年生まれ。昭和10年代の東京下町(玉の井周辺)を描いたまんが。主人公のキヨシが便所に入り、いつも割烹着姿のお母さんが「はやく おでっ!!」と声をかけたところ。右上に手洗器と手拭いがぶら下がっている。手洗器の水を受けるバケツが土間においてある。家の中に土間があり、下駄を脱いで簀の子[すのこ]にあがるというのも懐かしい。

この手洗器は、水洗便所の普及とともに急速に姿を消していったが、都市に限らず田舎でも、日本中の家庭で見られたものである。水を入れる容器の底に丸い放水部がついていて、その先端の突起を押し上げると、如雨露[じょうろ]から散水するときのように水が出てくる。手を洗っているうちに、何秒かすると水は自動的に止まる。この装置の特徴は
 (1) 水が自動的に停止する、 (2) 手を触れる突起は常に水で洗滌されている
という2点にあった。突起に触れて押し上げるとかすかに「カラカラ」と音がし、それほど豊富ではない水がちょろちょろ出てきた。こういうところにぶら下がっている「手水手拭い」はたいていくたびれ果てた木綿で、拭くとよけいに手が汚れるような気がしたものだ。(図は『寺島町奇譚 ぬけられます』青林堂1971 p13 から拝借しました)(この手洗器を家庭で何と呼んでいたか、よく分からない。鹿児島県出身のK氏夫人(戦後生れ)は子供の頃「ちょうず」と言っていたという。小泉和子『昭和のくらし博物館』河出書房新社2000 に写真が出ていて「吊り手水(ちょうず)器」と名称が付いているが(p104)、その名称に関する説明はない。小泉和子は1933年生まれで東京育ち。)

この巧妙な仕掛けは、明治40年頃に、「自働手洗器」とか「衛生手洗器」という商品名で売り出されたものであることが、 林丈二『型録・ちょっと昔の生活雑貨』(晶文社 1998)によって分かった。「型録」は[カタログ]と読むが、生活雑貨の新聞広告などを集めた、ユニークな本である。
林丈二は「手洗器 てあらいき」で、「明治の末頃に」手洗器が出はじめたが、特許をとって売り出したのが「電機用ボタン」の会社であったことを指摘している。

面白いのは、この手洗器を売りだしたのが、「旭組電気」という電話機や電鈴ボタンを扱っている会社だということ。電鈴ボタンの仕掛けのノウハウが、この手洗器のアイデアにいかされたのかもしれない。(p76)

この旭組電気の広告は「改良洗器」とうたっており、簡単な図と特許番号を示して、

本器は図の如き構造なれば前に汚れたる手の触れたるところへ清めたる手の触るゝ如きことなき実に不潔を清むるの主意に背かざる特色を有せり

と、精密で論理的な文章で宣伝している。もし、この文章に抜け穴があるとすれば、「清めたる手」というが、このような装置の少量の水でどれほど「清める」ことができるか、という点だけである。この装置は「清潔さ」という点からは、論理的には満足すべき仕掛けになっている、といっていいと思う。上の『寺島町奇譚』のところで述べたように、この装置が清潔感あふれる装置であったとはとうてい言えないが、その仕掛けは「不潔を清むるの主意に背かざる特色」をよく体現していると思う。
林丈二は、「手洗器」は手水鉢の代用品であり、手洗器ごときに「自動」はおこがましいとは思うが、簡易式ミニシャワーは西洋的なイメージは斬新だったろう。が、「如雨露を縦にしただけのものに見えないでもないが・・・・・・。」(p77)とかなり評価は低い。

「東京金物新聞」明治42(1909)年6月1日に載った寺田商会の広告「自働手洗器」(前掲書 p77)と、広告文の特色ある文章を掲げる。

使用手を洗はんとするとき球状部の突起物を一度押し上ぐれば図の如く数十条の水流出し手を洗ひ終る頃に至れば自ら其の排出やむを以て使用の簡便なること此の上なく候
効用突起物及球状部は常に清水の為めに洗滌され且つ洗ひ終りたる手は再び器物に触るヽの必要なければ従来の手水鉢檜杓コック等の如く諸種の伝染病殊に近来最も憂ふべきトラホーム等の病毒を伝染する處無之候されば其の使用の軽便なると伝染病予防に欠くべからざると水の濫費を防ぐとは本器の特色とする所に有之候
広告文の中に“トラホームの病毒”を持ち出しているのも、面白い。当時、流行の言葉だったのだろう。たとえば「日本国語大辞典」をひいてみると出典に島崎藤村『破戒』が挙がっていて、「学生の間に流行する『トラホオム』の衛生法等」が示してある。『破戒』は明治39年。

わたしは、この手洗器は「自働」と称してかまわないと思う。突起を押し上げて弁を開けると水が流下しはじめるが、手を洗うためにすぐ突起から手が離れるので、突起は落下し始める。弁-突起の可動部に適当な重さを加えておいて、弁が再び締まって水が止まるまでの時間を調節しておく。「手洗い」のために利用者は突起を押し上げるが、水の流出は自動的に停止するから利用者は「手洗器」に再度接触する必要がない。
水の流出が停止する状態がこの系の安定点、になっている。しかも、水は利用者の手を洗うだけでなく突起自体を洗滌している。水流が再停止したときに「清潔」になっているという意味で「自律系」になっている。重力と水の流体としての性質しか使っていないので、エネルギー消費がない。おしむらくは容器に水を補う「勤勉な主婦の目」が必要であるということだ。

いま、日本の多くの公衆便所で、水道の蛇口付近に手を差しのばすと赤外線センサーで水を出し・締めるという装置が普及しつつある。便利で清潔感もある装置だが、(電気)エネルギー多消費型の装置であって、感銘は受けない。水道を前提とした「自働手洗器」の非エネルギー消費型でエレガントな復活はないものだろうか。


現代の日本では、水で清めるとか、ミソギを伝統あるものと重視したりするが、見かけだけの「儀礼化した清浄」を求めていることが多い。見た目が清潔そうであること、振る舞いが清潔そうであることが重視され、そのものが本当に清浄であるかどうかは二の次である。小用に入ったトイレで、他人の目がなければ必ずしも手を洗う必要を覚えない男性は多いと、わたしは思う。「儀礼化した手洗い」の規範によって“手を洗わないと気持ち悪い”というスリコミがなされているがために手洗いをしている、という男性も多かろう。清潔な自分のペニスに触れただけとか、そもそも尿は清潔な体液だ、というような“合理性”と「儀礼化した手洗い」の間でどっちつかずになっているのが、現代の日本男性だろう。
日本女性が小用の際にも紙を使い始めたのが、パンティの普及のかなり以前らしい、というのは興味深いことである。腰巻あるいはスカート様下着(西洋の場合)で小用の湿り気を拭ったというのは、読んだことがある。(「女が小用で紙を用いる習慣は色街から始まった」という仮説も可能であると、第1.6節で述べておいた。西岡秀雄『トイレットペーパーの文化誌-人糞地理学入門-』(1987)に「“モノ”の始末とトイレットペーパー」という西岡と実業界の4人(藤枝製紙常務・東海製紙工業取締役・ホクシー営業企画課長・山陽スコットマーケッティング部主任)との座談があるが、意識が低いのに驚く(p104あたり)。「(パンティを)はいていなければ、ふく必要はないんじゃないかな」などと言っている。でも、1980年代というのは、こんなものだったのかも知れない。)

日本の伝統的な年中行事の禊ミソギについて、次のような批判があることは重要であると思う(小西正捷「浄・不浄の社会行動」より)。

しかし、いつも不思議に思うのは、あれほどまでに身を清(浄)める人びとが、昨今では多くの場合、下帯だけはしっかりと締めて、ヒンドゥーやムスリムならば第1番に洗浄せねばならないところに手をつけないことである。このことは、用便後はもとより、日に何回も、ゆるい腰布をつけて沐浴する南アジア・東南アジアの人びとにとって、最も理解に苦しむことであるにちがいない。
ついでにいえば日本人が風呂に入るとき、一糸もまとわぬ素ッ裸になることも、彼らには到底がまんがならない。これは在日留学生たちが、しばしば当面する悩みである。(『スカラベの見たもの』p61)

おそらく、ここで批判されているのは日本の伝統的なミソギではなく、近代・現代の見せ物となったあとのミソギでのことだと思う。現代の盛大な祭りが、ほとんど商業主義にリードされていたり、村おこし・町おこしなどと言って人集めを目標にしたりしている。民俗的信仰がおろそかになっている。小西は上引の少し前で「日本の民俗・風習は、局部の洗浄という面での清潔さには、やや欠けている点があったようにも思われる」(p59)と述べている。ともかく、この小西論文は力作で必読文献である。
真剣なミソギは全裸で行うことは近代の民俗写真に記録されている(たとえば都丸十九一[とまるとくいち 1917~ ]『写真でつづる上州の民俗』(未来社1999)には、1973年の山伏行者の寒行写真がある。藁を敷いた上に全裸の男が二人いて、ひとりはしゃがみ、ひとりは立て膝で頭から水をかぶっている。この写真集はとてもいい作品がそろっていて、見飽きない。お勧めです)。文献資料としては、次のようなものに出会った。

(南信濃村遠山郷の)霜月祭りでは天伯の面は禰宜自身がつけ、その他遠山一門を象ったという八社の面の舞人も禰宜が選定指名する。しかも冬の午前3時ごろというのに遠山川で素裸で禊ぎをしなければならないのである。(西角井正大「民俗仮面概考」『日本の仮面』東海大学出版会1982所収 p212)

神事に臨む前に、全裸となって禊ぎすることが当たり前だった時代がつい先頃まであった。「儀礼化した清浄」はけして世界標準に入れてもらえないことを、日本人ははっきり意識すべきだ。



(4.3):便所のない生活
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人間の生活を、便所のない状態と便所のある状態に分けることができる。排泄行為のない人間はいないのだから、便所のない生活形態というのは、排泄用に造った特定の設備や道具を備えていない生活をいう。専用の人工的施設や道具のことである。
太古の時代と現代を対比して考えてもいいが、現代においても便所のない生活を送っている人々はけして少なくない。広い意味で野糞ですませている人々ということになる。広い意味で、というのは水辺や水中で排便する人々がいるからである。

次は、奈良国立文化財研究所の松井章の講演「トイレ考古学の世界」(『トイレの考古学』所収)からの引用である。

フィジー、ポリネシア、メラネシアの学術調査に参加しましたら、向こうは50人ぐらいの集落でもトイレがないのです。朝早く、谷川に三々五々歩いていって、皆、川の沢で用を足すそうです。そして自然の分解作用で、特に環境汚染ももたらさないで、みんな水に流して、そのまま暮らしています。・・・・・・人口がそれほど集中していなければ、豊かな水の流れさえあれば、特にトイレという施設がなくてもよかったのではないかとおもいます。(p182)

ある程度の人口密度の低さと、豊富な水量(と水温)があれば、快適な排泄環境が維持されることは理解できる(微生物の分解作用にゆだねるのである)。松井章は、「縄文中期の三内丸山遺跡には、近くに大きなトイレがあるはずだ」という聴衆からの質問への答えのなかで、上のように述べている。三内丸山では「遺物廃棄ブロック」と呼ばれるゴミ捨ての谷から糞塊がみつけられており、「縄文時代程度の人口の集中度であれば、トイレという専用施設がなくても用が足りたのではないかと思うのです。(p182)」というのが松井章の考え。これは、現在の学会の主流の考え方だと思う。吉野ヶ里遺跡などの弥生遺跡になると上下水道が必要で、トイレ施設を作らざるを得なくなった、とする。
つまり、「便所とは排泄用に造られた専用施設のことである」とすれば、松井章のように縄文時代には「便所はなかった」ということになる。ゴミ捨て場から糞塊の集積が発見されても、それが直ちに便所跡とはいえない、というわけである。わたしも、この説明で論理的に分かりやすいと思う。
鳥浜遺跡のように桟橋状の杭跡近くに糞石がかたまって発見された、というのも同様である。

この(鳥浜)遺跡の縄文前期の貝層から、打ち込まれた杭群が発見された。今から約5500年前の杭群はスギやクリなどで、直径10~15センチの丸太の先端を石斧で尖らせて打ち込んでいる。いったい何のための杭なのか・・・・・・船着き場を兼ね、生活のゴミを沖へ沖へ捨てるための桟橋ではないかと考えるようになった。糞石はこの杭の近くで多量に発見される。(森川昌和「鳥浜貝塚人の四季」、『日本の古代4 縄文・弥生の生活』中央公論1986 p111)

ここから糞石は3000点が発掘されているという。桟橋のような施設で、厠式に水面へ排泄したのであろう。三方湖では、縄文時代も今もフナがよくとれるそうだが、他にはウナギ・ギギ・ハスなどが縄文人の獲物になっていたことが分かっているそうだ(ハスとは琵琶湖とここだけに生息する珍しい魚)。人糞の一部はそれらの餌にもなったと想像できる。
この論文で森川昌和は、この遺跡で住居跡が発見されており「縄文時代前期に数軒の家で鳥浜ムラがつくられていたことが実証された。人口はたぶん30人内外で」あったであろうと、述べている。前引の松井章のポリネシア地方の50人くらいの集落の例と比べて、興味深い。
日常的に、ある程度固定された用便の場所があった、しかし、用便専用の施設とはいえない、という状況だったようだ。

海岸に住む人々が海の中で用を足す、というのも谷川での排泄と同じことである。鈴木了司『寄生虫博士トイレを語る』は、次のような面白い例を採集している。

ヤップ諸島から来日したポリネシアンショーのダンシングチームが、日が経つにつれ、 次第に元気がなくなってきた。移動中にリーダーが近くに海はないかと聞いてきた。たまたま、海岸に近かったので連れて行ったところ、一行は服のまま海に飛び込み胸まで浸かった。島では海で用をたす習慣があり、便器ではうまく用がたせなかったので、がまんをしていた云々(週刊朝日1991年9月)(p109)

また、タイ人について「そこでは、川が道路と考えればよいわけで、玄関は当然、川に向かっている。便意をもよおしたら、はしごを伝わって下半身を川の水に浸けて用をたす。(同p86)」と述べている(第1.6節で、椎名誠『ロシアにおけるニタリノフの便座について』からタイでの見聞を紹介したが、まったく符合している)。
これらの例で、水中で排泄する習慣の人々がいることも分かる。“水中へ落下せしめる”というのではなく、“水中へ腰を浸けて排泄する”のである。この場合、立ってしているとか、しゃがんでしているとかの排泄姿勢がほとんど意味をなさなくなる。川上に向かってするか、川下に向かってするかぐらいしか意味がない。(排便の際、臀裂をある程度開いて肛門を露出しておかないと、うまくいかないのじゃないかと思う。そのために、中腰かカエル足姿勢になると想像している)
もうひとつ、西岡秀雄が紹介している「アフリカ式ロープ・トイレ」を示す。これは、水中で排泄するが、「便所」施設と呼ぶべき例なのである。

アフリカ中央部のサバンナ地帯に流れる川に、アフリカ式ロープ・トイレがあります。集落の側を流れる川の中の川上と川下に杭が打たれ、これにローブが(水中に)張られます。流れる水は黄色く濁って水中のロープは見えないのですが、2本の杭が水面から出ているので、その間がトイレだということは皆知っているわけです。用を足す時は、裸になって川に入り、川の流れで引っ繰り返らないように注意しながら、まず川上に向かってロープに掴まり、中腰で踏張り用を足します。そうすると糞は、当然川下へと流れていきます。・・・・・・今度は川下に向かってロープに跨ります。すると、水流で自然に背中を押されながら前に進みお尻が拭けてしまうのです。ロープの汚れたところには魚が集まってきてついばんでしまいますから、次ぎの人が使う頃にはきれいになってしまいます。(「トイレ文化と意識の変化」『トイレの考古学』p143)

「中腰で踏張り用を足します」というところなど、さすがにベテランの西岡秀雄はポイントを押さえて説明してくれる。しかし、繰り返しになるが、この「アフリカ式ロープ・トイレ」は固定的便所であって、水中排泄で、しかも、ロープによる清拭が行われる。そういう珍しい例である。西岡はこのロープは特別な編み方が工夫してあるものだろう、と推測している。そして、そのロープの収集ができたら彼のトイレット・ペーパー収集のゴールとするつもりだ、と語っている。

すこし、叙述が混乱してきたので、ここで整理しよう。
人間は生きているかぎり、毎日排泄を欠かせないこと。しかし、便所(施設)が必要のない生活があるということ、それは人口密度や自然環境によること。川辺や海辺では石器時代にも現代にも、便所のない生活が行われている。砂漠や乾燥地などでは、砂や土による清拭もふくめて、便所のない生活が現存している。
乾燥しちりぢりになるに任せるのや、犬やブタや昆虫など人糞を餌にする動物がいる場合、堆積して汚れるに任せる(かつてのラサのように、年に一度掃除する)など。川や海を使う場合でも、水上から流水に落下せしめる場合と、水中で排便する場合と実際の様子はかなり異なる。

しかし、人間は食べて・排泄する。その排泄物を動物が食べる場合があり、魚が食べる場合がある。植物が吸収する場合がある。最終的には、微生物が排泄物を消化分解する。その微生物を食べる動物があり、植物が育ち、人間は再び食べる。つまり物質循環の流れの中で行われていることであり、「便所」もその例外ではあり得ない。現代都市の「下水道」の端末の処理場で行われていることも、この観点から評価されるべきだ、とわたしは考えている。

人口密度が高くなると、便所が必要になる。すなわち、用便のために作られた専用施設である。日本では弥生時代から便所設置がはじまると考古学者は考えている。ともかく、一定規模以上の村落や都市において便所が造られはじめた。
古代インド・古代ローマ都市などですでに下水道が設置され、水洗便所があったことはよく知られている。しかし、現代インドなどの農村部、また都市部にさえ便所のない生活がある。これは、現代の貧困問題にむすびついている。つまり、自然成長的な農村・都市の規模が一定の水準に達していて、便所設備が必要になっているのに、貧困によって便所のないスラム街に居住し、野糞が常態になっている。


人間の排泄行為そのものは、生物としての自然行為なのであるが(したがって必然的な生命行為なのであるが)、その排泄行為を
1. 行う場所・環境(屋内か屋外か、陸上か水中か・・・・)2. 設備・道具(野天か屋根があるか、トルコ式・イギリス式、おまる・・・・)3. 便所施設の利用者(不特定か・家族など限定されているか、公衆・個人・・・・)4. 糞尿の処理の仕方(垂れ流し、埋める・汲み取り、水洗・下水道・・・・)
について専用の人工的施設を設けている場合、その設備・道具に着目して「便所」といっているのである。
都市下水は衛生・福祉のためとして推進がもとめられるその一方で、下水道建設は巨大事業であり、国家的プロジェクトとして大きな予算と利権の絡む世界でもある。

非固定式便所というのは、シビン(溲瓶)・オマルなど携帯便器のことである。現代日本人は、シビン・オマルを使用するのは病院や子供・老人など、何らかの理由で固定式便所へ行くことができない不自由な人、と考えているが、歴史的にはけしてそんなことはない。固定式便所を作らなかった都市では、シビン・オマルが便所の普通の方式であった。日本の平安貴族たちの「樋箱 ひばこ」や、フランスの「オマル」(pot de chambre 部屋の壺)や「穴あき椅子」を思い出すだけで、この方式の重要性は納得がいくだろう。

便所で糞便を溜めるか溜めないかは、非常に分かりやすい便所の区別である。糞便貯溜式は、肥料にするために溜める便所と、固定的な施設としての便所に意味があり糞便は不要な場合とに分けることができる。前者は下肥施肥の習慣のある農民が目的を持って作る便所で、糞・尿を別々にしたり、汲み取り作業のしやすいスペースをとったり、風呂や家畜小屋に隣接して作ったりする。この場合、便所とは別に農地の各所に「肥溜」を設けて、何ヶ月間か糞尿をねかせておいて下肥として熟成させる工夫がなされた。この何ヶ月間を正確に守ることができれば、寄生虫卵の死滅とつながり、衛生上も好都合であった。
後者の、糞便が不要の場合は、汲取り業者などによって糞便を汲み出して処理することが必要になる。日本では下水道の普及していないところでは現在もバキューム・カーが活躍している。そうでない場合は、土坑がいっぱいになったら埋めて別の場所に新たに土坑を掘るという方式となる。日本の考古学的な便所で、平安時代以前の多くの土坑式トイレがこれであったと考えられている。

近世の日本社会では便所は非常によく造られ、基本的には便所のない生活は見られなくなったと、わたしは考えている。農村ではいうまでもないが、山村・漁村でも自家用の菜園を作らないところは少なく、人糞尿が優れた肥料であるという知識がよくいきわたったからである。(だが第4.1節で示したように、大正期の山梨の村で野糞が多かった報告がある。野糞・野しっこが廃れたわけではなかったことは、いうまでもない。日常生活での野糞がなくなったのは、戦後であろう。)
次に示すのは、菅江真澄の「雪の道奥・雪の出羽路」から、「椿の浦」である。雪に閉じこめられ防風の高い柵をめぐらせた海辺の家々が、身を寄せ合うようにして並んでいる。絵そのものも素晴らしいが、浜辺に並んだ小舎に注目して欲しい。これは、各家々で作っている便所であるという。真澄は、次図とは別に「椿の浦の厠」という挿し絵も残していて、円形や四角形の便所の詳細画を示してくれている。ただ、残念ながら、その詳細画でも便所の内部のつくりは不明である。山裾など家の裏側でなく、なぜ浜辺に便所を建てたのか、理由があったはずであるが、分からない。下に引くように真澄はとくに記してくれていないのである。場所はいまの地理でいうと、日本海岸を青森県境をこえて秋田県へ10kmほど海岸沿いに南下したあたりで、能代の北である。享和元(1801)年11月6日(新暦12月11日)のことである。


『菅江真澄遊覧記4』(東洋文庫99)から、内田武志・宮本常一現代語訳の該当部分を引いておく。

この浦の家々は、ささやかな住居でも、内部の清らかなことはなみなみでなく、厠などの屋根は、かやを厚く束ねてふき、くれ[レンガ?]というものを上部にふせている。そのような建物が磯辺にたくさん建ちならんでいるのが、波のうちよせるなかに見えるさまはおもしろく、風情のない厠でありながら、いかにもおもむきがあった。(p12)

しかし、この絵を見ていると、なぜ、個々の家が小さな便所を一軒毎に造ったのか、という疑問が禁じ得ない。やはり、糞尿によほど価値があって“自分の糞尿”という方式を互いに譲れなかったのだろうか。
(『菅江真澄 民俗図絵』中巻p252より、2枚のデジカメ画像を継いでいる。『菅江真澄 民俗図絵』は紙質も配慮してあって、ゆっくり眺めていて楽しい画集になっている。下巻の辻惟雄「菅江真澄の絵」という解説には、「御伽草紙絵」という専門語が紹介してあり、アンリー・ルソーやグランマー・モーゼスの魅力と対比してあって、いろいろ目を開かれた。東洋文庫の『菅江真澄遊覧記』全5巻や、未来社の『菅江真澄全集』に収録されている絵は白黒なので、真澄の絵の素晴らしさが伝わってきていない。今度『菅江真澄 民俗図絵』をはじめて目にして、そのことを知った。真澄の絵は3000点もあるのだという。とすると、『菅江真澄 民俗図絵』はその1割も収録していないことになる。)


固定的便所で非貯溜式とは、今日のいわゆる水洗式がこれである。下水道によって糞便を便所から流動・移動せしめる。よく知られているように、古代ローマなどの都市で、すでにこの方式が存在していたことが分かっている。または、小規模な汚水処理槽を便所ごと・家庭ごとに作るという考え方がある。浸透式である。これは日本においても外国においても、実際にかなり普及している。
ある程度の規模以上の都市では、公的な下水道は必然となる。この問題は、第5節で考える。



(4.4):携帯便器(おまる)
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わたしたち日本人が「携帯便器(おまる)」にあまりなじみがないことは、これをさす適当な語がないことでもよく分かる。「非固定式便器」とか「移動便器」とかいろいろ造語を考えてみたが、「おまる」を越えるうまい語は思いつかない。しかし、「おまる」は現在は幼児用の便器をさす語である。小便器の場合は溲瓶[しびん]という落ち着いた語があるのだが、大便器の場合はないように思う。現代日本人が携帯便器(おまる)へ排便するのは、幼児を別にすれば病人(動けない老人もふくめて)に限られている。病院ではたぶん「便器」と呼んでいる。尿は袋に採ったり、容器にいれてずらりと並んでいたり、入院患者にとってはほとんど公開されている。これは、今の日本医療における栄養投与が点滴中心に行われていることと関連がある。液体処理・流体処理だ(石炭から石油に、流体処理の効率性・経済性をねらって転換したのと似ている)。もちろん合理性はあるのだが。

携帯便器(おまる)は単に便器であるだけではなく、それがその場で排尿・排便を可能とすることが重要である。一応、便所としての機能を完備している(そこで排泄できる)という点がおまるの重要な特徴である(つまり、論理的には「携帯便所」というべきなのである)。排泄行為と排泄物の廃棄とを異なる場所・時間になしうる。この特長を生かして、下水道設置以前の都市生活や寒冷地などでおおいに使用された。

おまるの便所としての最大の特徴は、排泄物を翌朝など適当な時間に適当な処理場所へ廃棄しに行くことができる、という点である。個々人の排泄物(多くとも家族単位)を、適当な処理場所へ廃棄することによって、居住空間内に排泄物の堆積を避けることができるという、合理的な面を持っている。
日本では容易に人前に出ることのできない貴族女性などが「樋箱 ひばこ」などを使用したのであるが、庶民階層には普及しなかった。(ただし、北日本では「おまる」を嫁入り道具に持って行ったりしたという。寒冷気候や積雪と関係があるか。)
「おまる」は、“大小便をする”を意味する「まる」という古語に「お」をつけたというのが良いと思う。同じものに対して「おかわ」ともいうが(やや化石語か?)これは「厠 かわや」に「お」をつけたのであろう。

図は、フランスの携帯便器(おまる) pot de shambre[ポ ドゥ シャンブル 部屋の壺] である。尻が乗るぐらいの大きめの陶器。取っ手がついている。底に目が描いてあるのはユーモアである。他に「私を清潔にしておけば、何を見たかは秘密にしてあげる」とか「ご婦人方の幸せのために」とかの言葉が書かれる場合もあった(『うんち大全』の口絵から拝借しました)。
現在はフランスで「おまる」はほとんど使われていないが、結婚式の新郎新婦への贈り物に友人一同が「おまる」を贈ることはあるという。中に、キャンディなどをいっぱい入れて。しかし、実際にはそれは使われないので、“実家の物置にしまわれてしまうことが多いんじゃないかしら”とフランス生活の長い日本女性が話してくれた。彼女自身の経験では、1960年代の後半にフランスで生活をはじめた頃は“アパートの4階の部屋にトイレがなく、おまるを使った”ということだった。

携帯便器(おまる)のもうひとつの重要な特長は、個人的な居室で自由な使い方(姿勢)を許すということがある。現代人が病気でお世話になる時のように、ベットの上で寝ながら、というのもひとつの姿勢の自由度が増した使い方の例だが、下穿き(パンティ)を付けていなかった時代のヨーロッパの婦人たちが、スカートの下に入れて用を足すのに重宝したことはいうまでもない。

小便桶へ排尿する場合、跨ぐかたちにすると直下へ尿線をとばすことになる例については、第1.2節で紹介した。おまるへの排尿は、おまるを手に持てば自由度が増すわけで、「直下へ尿線をとばす」というようなことも自在である。
右のすばらしい写真は『うんち大全』から拝借したもので(p185 だいぶ縮小してある)、なんと驚くべきことに、これは絵はがきであるという。『うんち大全』のこの絵はがきへの説明は次のようになっている。

1900年頃の絵葉書。20世紀初め、スカトロジックな絵葉書が大流行した。しかし、当時これを受け取った人はビックリしなかったのだろうか。マニア垂涎の逸品。

この画像は、もちろん立ち小便である。同じ『うんち大全』p69 には18世紀の銅板画が2枚あり、いずれも立位でおまるへ小用をしているネグリジェふうの下着だけの女性が描かれている。その注には「この時代、宮廷人の糞尿に対する遠慮のなさや悪ふざけには驚くべきものがあった」とある。この本には「浣腸の世紀」という節があり「17世紀の貴婦人たちが愛した浣腸」について詳細に述べている。スカトロジックな羞恥心については、フランスには日本人とかなり異なる伝統があると考えておいていいと思う。
おまるを手に持つことによって、排尿姿勢の自由度が増すことは、もっと真剣に考えられて良いことのように思う。

それにしても「スカトロジックな絵葉書」の流行というのは、わたしには想像しにくい。ちょっとした冗談の絵はがきとして迎えられたのだろうか? すくなくとも、“猥褻”の範疇で扱われてはいなかったようである。なにせ、おまるの中身を窓から道へ捨てる中世以来の長い伝統がヨーロッパ都市には続いたのであるから。『うんち大全』には多くの「スカトロジックな絵葉書」が収録されている。はやくから汲み取り式便所が普及した日本人の排便への羞恥心と、イギリス人・フランス人たちのそれとは違うかも知れない。日本では明治末から大正へかけての時代に、ヨーロッパでは実際にこれらが投函されていたのだから、すごい。(なお、第3.3節では『うんち大全』の表紙を紹介しておいたが、これは「1900年頃の絵葉書のシリーズ」のうちの1枚である。p297 にその4枚組の写真が面白い翻訳つきで紹介してある)。
たびたび平凡社「世界大百科事典」を引くが、わたしのPCにインストールしてあって手軽に参照できるからだが、長文の解説を読んでみるとなかなか面白いものもある。
「尿」という項目で、

便所がないベルサイユ宮殿では,ルイ王朝期のフランス人形のような衣装をまとった美女たちも,立ったまま便器を用いることがあった。(池沢康郎)

と書いている。これは「おまる」の使用例である。“フランス人形のような衣装をまとった美女たち”とまで書いた池沢康郎は、下穿き(パンティ)を付けていなかったが故に可能なことであると書いていれば満点の解説だったが。上の絵はがきのチャーミングな女性も同じわけだ。



ヨーロッパ中世の石造の高層階まである都市の建物、しかもそこには、便所がないか、あっても最上階にあったりする。それに対して日本都市はほとんど平家だった。しかも、肥料としての需要があるために、汲み取り式の便所を多く造った。
ヨーロッパ中世では携帯便器(おまる)が普及せざるをえなかったのである。これは、都市型の建物が主たる理由になっている。日本の平安貴族や天皇たちの「樋箱 ひばこ」は、安易に人中へ顔を出すことのできない“高貴”な存在のために考案されたものである。
つまり、携帯便器は異なるさまざまな理由で使い始められたと考えられる。日本の貴族の「樋箱 ひばこ」、将軍などが使った「尿筒 しとつつ」。韓国の「ヨガン」(溲瓶)。フランスの「おまる」(pot de chambre 部屋の壺)や「穴あき椅子」。中国の「馬桶」など、まことに古今東西に分布している。

おまるの必要性がでてくる理由は大きく、つぎの4要素に分類できよう。

  1. 高貴な存在のために共用便所を使用できない。

  2. 都市生活・旅行中など便所が手近にない環境

  3. 寒冷地など、夜分便所へ出かけにくい環境

  4. 幼児・老人・病人など身体的理由で便所に行きにくい事情

中国の「馬桶マートン」については、李家正文『厠まんだら』(雪華社 初版は1961)が紹介してくれているのが、分かりやすい(第2次大戦前の伝統社会についての情報と考えたらよいだろう)。要するに、桶を用いた携帯便器なのである。家族で大小便をする機能から考えると「携帯型便所」という方が、実態を表しているかもしれない。

(中国の)黒い夜尿壺や紅い朱塗りの馬桶は、房の愛嬌ものである。馬桶のウマはよくないもの、汚ないもの、人前に出せないものという意で転注である。(p128)

(中国の女性にとって)この壺は、調度の重要な品であるから、嫁入りにも持参させら れる。それは極めて大きな木製のふたのついたもので、表面は朱塗り、内部は黒塗りで一生使える。婚礼のとき、女たちは、真っ赤に染めた卵をいくつかそのなかに入れて持って行くのを、親類の娘たちが一つずつ盗み出す。娘たちはそうすると早くお嫁に行けるという迷信がある。(p129)

朝になると、その便器を溝や裏のほうにあけて、掃除している。殊に中部のクリーク のほとりでは、女どもが自分の馬桶を持ち出して、タケのささらで洗っている。十数人並んで、すがすがしい朝日をあびながら、朱塗りの馬桶をがらがらと音をたてながら洗う光景は、まことにほおえましい。(p130)

斉藤政喜・内澤旬子共著『東方見便録』(小学館1998)は、現代の大都市、上海の「馬桶」について、詳しくその実態をレポートしてくれていて、興味深い。この本は「アジアのトイレ突撃レポート」という感じで、とても面白い。「馬桶」のことだけでなく、カラフトからイランまで自分で体験してきた臨場感がよく出ていて、お勧めです。なお、イラストレーター・内澤旬子の“『東方見便録』うち明け話”的なサイトがあります。トイレから見た8ヶ国ですが、特に、この中の「絵にも描けない女子トイレ」は必見。本当にここだけイラスト抜きです。この内澤旬子を読んだら、そのサイト「アジアのトイレ」(1~4)を全部読むことをお勧めします。

『東方見便録』がレポートしている「馬桶」自体は、木製(近ごろは合成樹脂製)の小ぶりの桶で、一家の大小便・1日分をその中にする。内容物は共同トイレの専用下水口へ棄てる。だが、面白いのは、その代行業者があることである。朝、家の前に馬桶を出しておくと、業者が回収していき、きれいにして返してくれる。

マートンがあるのは上海や蘇州など、ごく一部の都市だけで、首都の北京にもないらしい。(p14)

現在、上海は急激に都市化が進んでおり、下水道が整備されて水洗トイレが増えている。都市計画の専門家によれば、上海の水洗トイレの普及率は3~4割くらいにまで達しているそうで、マートンは、旧家屋の取り壊しとともに消えていく運命にある。(p19)

うまく回転している都市便所のひとつの方式として、興味深い。わたしは「糞尿処理の将来」を考える際に、この方式をもう一度見直してみたいと思っている。

前掲書で斉藤政喜が指摘していることだが、自分の家族の大小便を桶の中の貯溜物としてたがいに目視しあう、においを嗅ぎあう、持ち運べば重量を体感する、そういう家族共同体を実感するシステムとしても、興味深い。大便の色や形態で、各人の健康状態や食生活は、隠しようもなくあからさまになってしまう。
水洗便所の場合、“サッときれいに跡形もなく流してしまう”という方式であるので、家族の大小便を実感するどころか、自分の排泄したてのものでさえ、ろくに見もせず嗅ぎもしないことが普通だ。ちかごろ家庭で普及している洋式(腰掛け式)では、大便が水没してしまうために、大便の形態・硬軟・においがちゃんと認識されない。ちゃんと認識されないことはこの方式の“よい点”なのだが、自分が排泄する動物であるという事実に直面しない“きれいごと”人間になってしまうおそれがある。特に、生まれたときからこの方式の便所しか体験したことのない子供がどういう自己認識を持つようになるか、重要な問題であると思う。(この問題は、“病院で死ぬ”ことによって、遺族が死に直面しにくくなっていることと類似している。)

自分の排便をしっかり観察するための一助となるのは、考古学の「糞石」(コプロライト coprolite)の分類である。千浦美智子が自らや家族や飼い犬の排便の観察と糞石の比較をはじめた。彼女の分類タームであるが、左上からハジメ・コロ・チビ、中央はバナナジョウ、右上からシボリ・チョクジョウ2点。糞石用だから断片的な用語が多いが、“なま”を扱うには、さら工夫がいるだろう。下痢の場合の分類も必要だ。千浦は食事の内容によって排泄がどのように変わるのかをも研究していたそうである。「排便日記」を長期にわたってきちんとつければ、有用だと思うが。サイズ(長さ、太さ)、重量。色、形状など、標準化した記述法が必要になる。排泄物の重量が表示される便器を売り出すところはないか(彼女は1982年に若くして病没した。その研究を継ぐ人がいないと清水久男は指摘している「研究史抄」『トイレの考古学』p6。彼女の死の様子は、彼女がターミナル・ケアをうけた日野原重明(聖路加病院)によって『死をどう生きたか』(中公新書)のなかで取り上げられている)。
(INAXで開発しているのは、医療用便器として「患者が用を足している間に、排泄物を検査分析し、患者の体重、臀部の体温、血圧、脈拍などを計る」というもの。いまだ製品化されるに至っていないという。『うんち大全』p106)。



韓国の「ヨガン」の情報をネット上で探していて、かつては「花嫁道具」のひとつにかならず入っていた、という次のような記述にであった。梨花女子大学のホン・ナヨン、チェ・ヘギョン教授が、1940年代から90年代の間に結婚したソウル居住の女性28人に対する面接調査をもとにした論文「ソウル地域の嫁入り道具および結納風習に関する研究」の一部。

50年代までは寝具類と裁縫道具、ヨガン(尿瓶)が主流をなしていた嫁入り道具は、60年代に入ってテレビと冷蔵庫が追加され、80年代以降は家電製品と家具類が大きな比重を占めている。(韓国オモシロ情報より)

上の上海の「馬桶」のところでも嫁入りのとき持参するという話を引用しておいた。日本の北陸・東北地方にも、同様の「嫁入り道具」に娘に持たせたという習俗があった。とても面白い共通点である。フランスで「おまる」を新郎新婦への贈り物とする習慣があるということも紹介しておいた。図の上は、韓国のヨガン(女性用溲瓶) 李朝青磁15×18㎝。下は青森県のおまる16×36×15㎝。『日本トイレ博物誌』(INAX1990)の「INAXトイレコレクション」p112から拝借しました。

もうひとつ、ネット上から。ヨガンが使われる理由が分かりやすく述べてある。このサイトは、韓国人と結婚した日本女性が「韓国のいなかで大家族と共に暮らす」感想をおだやかな筆致で書いている。おすすめのサイトである。

マンションなどでは、トイレは住居の一室に設置されるのが当然ですが、以前の韓国の一般の住居では、上下水道の設備が整っていないために悪臭を放つという理由もあって、トイレは住居の外に設置するのが一般的でした。けれども、頻繁に野外のトイレに通うのが面倒な小便は、住居内に置いた、フタの付いた壷(ヨガン)に排泄しました。たまった汚物は、地中深く埋められた大きなカメ(ハアリ)などに溜められ、日本でも昔はそうであったように、畑の肥料として利用されました。
 現在では、環境衛生の面から、汚物を畑の肥料として使用することは不法になりましたが、1970-1980年代頃までは、このような生活が主流だったようです。(韓国のいなか通信

わたしは、このヨガンの例は、はっきりと「北方系」の要因を表していると考えている。夜分寒くて外便所へ出かけて行きにくい地方の風習である。日本の北陸・東北の例もそのことを表している。
上の「韓国のいなか通信」で指摘している「上下水道の設備が整っていないために悪臭を放つ」という貯溜式屋内便所の問題は、かつて日本人が気がつかないでいた(重大問題だと思っていない)ことに関連がある。それは、“便所なし”で過ごしている人々の感覚からすると、自分の家屋内に、日常在住しているところの至近に多量の糞便を蓄えていることの不潔感は、非常なものがあるということである。もちろん、その悪臭もあり、ハエなどの不快さもあるが、何といっても多量の糞便の近くで日常生活を送っているという異常さに、我慢がならないということがあるようである。

発展途上国でよく見られるドブ川の水浴を不潔だというが、外国人達が見たら、 日本の汲み取り便所のように排泄したものを家の中に後生大事に貯めこんで、ぷんぷんと臭い匂いを発散させるばかりか、さらに自分のものや、人のものをそこに加えておくなんてこれ以上の不潔さはないとすら言うのである。(鈴木了司『寄生虫博士トイレを語る』p11)

貯溜タイプの便所を住宅内に設置しているのを、むしろ異様なこととする感覚は、世界にいくらでもあるのである。
おそらく、生まれたときから水洗便所の生活であったいまの若い日本人は、貯溜型便所にたいする拒否反応は非常に強いと思う。


(4.5):腰かけ式
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第1節で「女の立ち小便」を扱ったとき、男の立ち小便とちがって女の場合はいくらか中腰スタイルであることを述べた。男のような完全な直立ではなく、やや腰を折って股を少し開いて、尿線を後ろに飛ばすのが普通である。膝と腰の折り加減では尿線を下方へ向けることも出来、小便桶を跨ぐ場合にはそういう姿勢をとることがあることも示しておいた(第1.2節や前節のポットのフランス女性)。
排尿の際の状況によって、膝や腰を折る角度を調節して、自在に対応できると考えると実際にあっている。服装、履き物、腰を下ろす場所が草深いところか、見晴らしが利くのかどうか、荷物を背負っているか、足元に汚物があるのかどうかなど、状況はいろいろあろう。腰を折る加減があまり深くない場合は「女の立ち小便」に近くなる。
ただ、「立ち姿勢」か「しゃがみ姿勢」かを決めるのは、腰の角度ではなく、膝の角度である。和式にペッタリしゃがみ込んでしまえば(膝の角度=0度)、腰の角度も0度にならざるをえない。「立ち姿勢」は膝の角度=180度が原則で、股を開いてもかまわない。この場合、腕で上体を支えることで腰の角度は調節できる(第1.3節のお婆さんの姿をあらためて見て欲しい。膝=180度、腰=90度である)。

西岡秀雄『絵解き 世界のおもしろトイレ事情』(日地出版 1998)に、インドでの排尿スタイルを実地に見てきた人ならではの貴重な証言がいくつかある。

(インドでは)農村の人びとは一般に、戸外の畑や草むらの中で用を足している。女性 たちはサリーが汚れるのがいやなのか主として中腰で、男性はしゃがんで用を足している。 ・・・・ 男が立ち小便をしているのは珍しいのだ。(p34)

インドでは、男はしゃがみ小便が普通であることは第2.3節で述べておいた。西岡が実際に見たインド女性の「中腰」スタイルの排泄(大・小の区別はされていない)は、膝が大きく曲げられていることで、日本の「女の立ち小便」とは違う。しゃがみ小便と立ち小便の中間形とも考えられる。サリーの裾を汚さないという衣服からの理由も興味深い。これは「中腰小便」と言うのがよいのではないか(イラストは松本康子)。

都市の公衆便所で、洋式便器の腰かけ式を嫌ってかなりの割合の女性が中腰小便をしているという。わたしが読んでいるメールマガジン「まぐまぐアラモード」(2003/8/21受信)が、女性対象のアンケートをしていた。

「うちの会社のトイレには和式、洋式どちらもありますが、圧倒的に和式が人気です。皆さまどうか教えて下さい。」
というアンケートでしたが、こんな結果となりましたー!【トイレは和式?洋式?】
 ◇ぜったい和式!・・・・・・・・・・・・・・554 票(21%)
 ◇私は洋式~!・・・・・・・・・・・・・・・1207 票(47%)
 ◇どっちでもいいかな・・・・・・・・・・・829 票(32%)

このアンケートに寄せられた意見の中になかに、つぎのような、“中腰小便”を告白している女性があった。

家は洋式ですが外では和式を探します。どんな人のお尻が乗ったかわからない便 座に直接腰掛けるのは抵抗あるので。
もし洋式しかなかったら、便座を上げて、腰をおろさずに中腰でします。以前ヨーロッパに滞在していた時に、「島国の 日本人女性は雑菌への免疫が少なく、いろんな人種が出入りする国では、はねかえりですぐに膀胱炎になるから、なるべく離れるように」と、中腰で用を足すように教わってそうしていたので、その名残りでもあります。

山路茂則『トイレ文化誌』には、「イギリスで行われた調査によると、女性が公共トイレで用を足す時、96%が中腰のままとのことである」(p112)という驚くような数字があげてある。これによると、上記アンケートの女性の「はねかえりですぐに膀胱炎になるから、なるべく(便器内水面から)離れるように」という理由もふくめて中腰小便を推奨されたというのと、話が合っている。いずれにせよ女性の“中腰小便”はかなりの割合で行われているものと考えられる。
けれど、「はねかえりですぐに膀胱炎」というような、やや癇ばしったものいいは気になる。もうすこし、余裕を持った考え方はできないものだろうか。

また「お尻合い」を嫌うという表現もあるのだそうである。誰ともわからない人の尻が乗った便座に自分の尻がじかに触れることを嫌うということである。備え付けの1回用のカバー紙があったり、それがなければトイレットペーパーで応急のカバーを作るという。
「誰の尻も似たようなものだし、健康な皮膚は防衛力をしっかりもっている」と考えればいいことだ。むろん、カバー紙やトイレットペーパーで便座に付着している雑菌・細菌が防げるわけではない。ここには第4.3節「手洗い」でのべたような、日本人の見かけの清潔好き、たてまえの手洗いと同じ問題が存在していると思う。
「尿や便は汚ないものだ」という考え方をどこまでも押し進めて便所を作ろうとして、コックのない自動的に水の出る仕掛けや、手洗い後の温風乾燥器を作ったりする。トイレのドアを自動ドアにしてノブに触れなくてもいいようにする。これでは、きりがない。
わたしは、養老孟司の次の文をよく読んで見ろ、と言っておきたい。

もしきたないものを徹底的に嫌うとすれば、自分のなかにある汚れたものを、一切否定することになる。ところが人間は自分のなかにさまざまな汚いものを抱え込んでいる。したがって不潔をあまりに嫌う態度は、結局は自分との折り合いをつかなくしてしまう。

その身体は腸のなかの細菌を含めて、外の世界と完全につながっている。その意味で身体は自分だけの内部に閉じられてはいない。それを忘れてしまうと、自分のものであるにもかかわらず、身体の作り出すものを不潔だと見るようになる。そのときに訂正すべきなのは脳のほうであって、身体ではないのである。 (毎日新聞2000/9/3 「時代の風」より)

大便も小便も一度は自分の口から体内に入れたものだ。有用物として使おうとして使い切れない残部や老廃物を排泄したものだ。そいつらとなんとか「折り合いをつける」ことを考えてもいいのじゃないか。わたしはこういう考え方に賛成である。自分の身内も分身も環界も、自然の循環系の一部としてつながっている。
西岡秀雄『トイレットペーパーの文化誌』(1987)の中の座談会(第4.2節で紹介したのと同じ)に、

いまエイズの問題で、どんどんアメリカで日本の昔のしゃがみ式に切り替えている。(p155)

という発言があった。この本に登場してくる人たちは、この分野では先端的な人たちだと思うが、それでもこんなものなのだ。これは「エイズ偏見」だろうが、事実は事実であるから、1980年代のアメリカでこういうことがあった資料として、注意しておく。
ついでに、日本で「ハンセン病偏見」がなくなっていないことは、2003年11月に熊本県の「黒川温泉ホテル」がハンセン病療養所「菊池恵楓園」の入所者(計25名)の宿泊を拒否した事件に窺うことができる。この偏見の背景には、近代日本国家が警察権力を使ってまで強圧的に“ライ恐怖”を国民に植えつけたこと、その裏返しとして排他的な“清潔信仰”が広がったこと、などが存在していたことを指摘できる。

余談になるが、現代日本では、男性の腰かけ小便の普及もかなりであるという。これは、洋式便器ひとつで大小を兼ねるようになって(公団住宅の省スペースのため1959年から設置)、飛沫がとぶので奥さんの便所清掃が大変で、男性が奥さんに文句を言われることで広まっているのだそうだ。ついでに、どうせ腰かけるのなら、日本人男性も小用のたびに「たてまえだけの清潔さ」を反省して、ペニスを水洗いし、紙を使うことを広めるのもいいかもしれない。

腰かけ式便所は古代ローマの都市ですでに使われていた。次の2つの引用は、「平凡百科事典」の「便所」項目から。

古代ローマにおいては,公衆便所が著しく発展した。多くのローマ都市は上下水道を備えていたので,市内の要所,公衆浴場,ギュムナシウム(体育施設)などに大規模な水洗便所が設けられた。これらは,正方形,長方形,半円形などの中庭あるいは大室で,周壁に沿って深い水路をめぐらし,その上にベンチ状に大理石板の便座を設けたもので,汚物は直ちに水流により下水道へ送られた。今日からみると奇妙なことは,便座にあけられた円形あるいは鍵穴形の穴は60~70cm間隔で並ぶが,相互間に隔壁はなく,また前方にもまったく障壁がない。すなわち,大勢が互いに姿を見ながら用を足していたようで,これは当時のゆるい衣服と関連のある習慣だったようである。(桐敷真次郎)

ただ、古代都市(エジプト、メソポタミア)では屋内便所がない場合が多く、おまるなどの携帯便器の使用が一般的であったと考えられている。携帯便器はそれに直接腰かける場合も穴あき椅子の下にセットして使用する場合もあるが、いずれにせよ腰かけて使うのが普通であったと考えられる。(これは、大便の場合を考えている。小便の場合は「姿勢の自由度が増す」特長があり、腰かけも立ちションもありえたであろうことは、前節4.5で述べた)。

中世においても,便器の使用が一般的であったが,修道院や城郭には,ときには建物につくりこんだ便所があった。修道院ではクロイスター(中庭回廊)の一部に石造の腰掛便器が設けられ,城郭建築では厚い壁のなかや城壁上端に衛兵用の便所がつくられ,排泄物は外壁の穴から外へ落とす形式が多い。この状況はルネサンス以降も変わらず,通常の住宅や宮殿にはまったく便所がつくられなかった。豪奢をきわめたベルサイユ宮殿にも専用の便所や浴室は設けられていなかったといわれ,便器やたらいが用いられていた。(同前)

現在「洋式」水洗便器といわれている腰かけ式の便器は「イギリス式」といわれる。この水洗便器の画期的な点は排水パイプにS字管を設けて、その部位に停滞する水によって下水管の臭気をカットする工夫であった(18世紀末)。ヨーロッパで下水道が普及し始めたのは19世紀後半のことだが、それに伴ってイギリス式水洗便器が普及していった。
ただ、実際には古代から腰かけ式ではなく、単に穴が設けてあるだけの「地中海式」とも「トルコ式」ともいう便所もあった。この、トルコ式の水洗便所は主として中近東以東にあるが、ヨーロッパの公衆便所にもあるという。和式と同じようにしゃがむ。しかし、和式との違いは、便器がない(!)ことで、トルコ式は足乗台と排出口があるだけで、水を流すと足元まで水が来る。(ただし、ヨーロッパでは公衆便所が日本と比べて非常に少ないという。街頭や駅の公衆便所だけでなく、デパートや喫茶店・食堂などの便所も少ない。これは、携帯便器がよく使われたのと同じ伝統につながるのだろう。日本ではどんな小さな駅でも便所のないところはまず考えられない。)

わたしのような腰かけ式(洋式)でも、しゃがみ式(和式)でもいっこうに意に介さないという人間にとっては、腰かけ式排便しかしたことのない人たち(ヨーロッパ、アメリカの多くの人、日本人もその割合が増えてきている)のことを、実感をもって理解するチャンスはなかなかない。第3.4節で歩きながら排便できるパプアニューギニア人の例を キャサリン・メイヤー 『山でウンコをする方法』から引いたが、それは、この本の訳者近藤純夫の「冒険トイレ」という快エッセイからであった。この本の本文は キャサリン・メイヤー というアメリカの年季の入った女性ハイカーが書いたものである。例えば、彼女は女の立ち小便について次のような書き方をしている。

わたしは40年代と50年代に成長期を過ごしたが、その時もっとも注意を払って祖母のおしっこの仕方を観察していたなら、女性のおしっこについて、傑出した指導者になれたかもしれない。いま、わたしには彼女と一緒に公衆便所に入った記憶しかない。彼女はスカートをまくり上げて、だぶだぶのブルマーから片足をするりと抜き出すと、それをもう一方の脚のところで回転させてから、闘牛士のように広げて持ち、それから手綱をきつく引きすぎた馬のようにぎこちない足運びで後退した。そして便器をまたぐと、立ったままさっさと事を始めたものだった。(p88)

第三世界では立小便スタイルが一般的だ。その開けっ広げな方法を見てしまうと私の祖母のやり方さえかすんでしまうほどだ。下着という制約を受けずに育ってきた彼女たちは発達した骨盤と大腿骨を巧みに用いオリンピック選手並の的確さでおしっこができるようだ。(p90)

お分かりだろうか、キャサリン・メイヤー はアメリカ的清潔と上品さのなかで書いているのである。そして、彼女は「野しっこ」が上手に出来ないことを次のような表現で述べている。「野外で無数に繰り返してきたおしっこのせいで、黄疸症状を呈したスニーカーや悪臭を放つ革のブーツが家に転がっている」(p87)と述べている。ねらいが定まらず、また、地面からの跳ね返りで小便を靴にかけた、と言いたいのである。日本の女性はいくら何でもこんなへたじゃないと思うのだが、どうだろう。さらに、

屈むことは決してわたしの得意種目ではない。液体はすぐに水たまりを作り、1メートル以内にあるすべてのものにはねを飛ばす。おまけにわたしはバランスをとるのもヘタときている。すべての筋肉を集中させ、放尿を促進する正しい筋肉だけをひっくり返らずにコントロールするのは、スロットマシンでの幸運に等しい。(p91)

これは、しゃがみ小便ができないことを述べているのである。
彼女が熱心に書いていることは、腰掛けて放尿する習慣にできるだけ近い体勢をつくるために、リュックサックや丸めた寝袋の端に座って放尿する試みのことである。わたしは始めはその意味するところが分からなかった。 キャサリン・メイヤーのような、おそらく優秀なバック・パッカーであってさえ、腰かけ式排泄以外のスタイルを体験していないと、「野しっこ」に適しているしゃがみ小便スタイルをとることが困難なのである。
ここで紹介されているキャサリン・メイヤーの祖母の「便器をまたぐと、立ったままさっさと事を始めた」というのは、第1.2節で紹介した山形県の婦人の完全な立位姿勢の立ち小便と同じであるらしい。



さて、ここで排泄姿勢の3つ、立ち小便(立ち大便)/中腰小便(中腰大便)/しゃがみ小便(しゃがみ大便)について、その定義を述べておこう。

立位/中腰/しゃがみの3姿勢は、膝の角度に注目して区別している。膝が伸びている状態を立位/強く曲げているのをしゃがみ/その中間を中腰としている。

この3姿勢は、いずれも自立して排泄する状態である。
腰かけ姿勢」はこれらと違って、便器に腰かけている姿勢である。この腰かけ姿勢は通常は腰を直角に曲げて背を鉛直にしており、便器がなければ倒れてしまう姿勢である。通常脚の筋肉は弛緩している点でも前記の3姿勢とは異なる。また、既述のように水中排泄の場合は別である。



(4.6):中世都市の排泄問題
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『平凡社百科事典』には、いくつも有用な情報がある。例えば、

古代エジプトやメソポタミアでは,建物内部に便所が設けられた形跡がなく,用便は便器を用いて処理され,戸外の穴に捨てられるか,あるいは直接戸外に掘った穴に用を足したと考えられる。

古代ギリシアでは,プリエネの住宅(前3~前2世紀)に便所らしい小室が見られるが,一般的には便所はなく,やはり便器を用いることが通例だったと思われる。古代ローマにおいては,公衆便所が著しく発展した。多くのローマ都市は上下水道を備えていたので,市内の要所,公衆浴場,ギュムナシウム(体育施設)などに大規模な水洗便所が設けられた。 (項目「便所」より、桐敷真次郎)

携帯便器(おまる)を用いることは、古代エジプト、ギリシア、ローマで行われていたと考えられている。(上図は紀元前5世紀ごろのギリシャの壺絵で、ヘタイラ・遊女が「室内便器」に放尿している姿であるという。エヴァ・C・クルーズ『ファロスの王国』Ⅰ p198 から拝借しました。第4.4節の絵葉書の女性放尿図の2500年前の先輩というわけだ。ついでに、無知をさらして言いますが、彼女を囲む円形モチーフは、ラーメン丼の模様ですね。)
古代ローマでは下水道が発達し、水洗便所が設けられていたのだが、貧しい庶民層はそれを利用できなかったと考えられている。

(豪華な邸宅に住む貴族は別として)ローマの空気は、貧しい者にはいっそう耐えがたかったに違いない。平民に属するすべての人々は、家庭用便所を持っておらず、穴あき椅子やたらいの中身を階段室の下に置かれた桶にあけにいくか、近くのごみの山まで行って用を足していたので、その路地は長らく悪臭を放つことになった。(『排泄全書』p138)

古代ローマ人が創りだしていた下水道を用いた都市は、中世から近代のヨーロッパ都市に受けつがれず、屋内便所のない都市家屋では携帯便器(おまる)を用いた排泄がひろく行われた。排泄物は街路に捨てられた。また、街路での排泄がおおっぴらに行われたので、ヨーロッパの中世・近世の都市は、糞尿だらけの街路であったといってよい。

下水道を造るのにたけていたローマ人は,水洗便所を各地に設けたが,中世から近代にかけてはヨーロッパ諸都市に下水道はなく,市民はつぼや瓶に蓄えた尿を窓から街路に捨てるのを常とした。歩行者は不意に降ってくる尿に不断の注意を払い,男は女を街路の中央よりに歩かせる配慮をするならわしがあり,イギリスの一部では18世紀末まで尿で汚れてもかまわない外套を用いていた。(『平凡百科事典』項目「尿」より、池沢康郎)

イギリス紳士の外套が、糞尿除けに由来するというのは、面白い。
ヨーロッパの中世都市での「街路」の意味が、古代とも近代・現代とも違っていたことを考えざるをえない。

中世は古代の賢明な措置をすっかりわすれ、下水道(クロアクラ)をしだいに崩壊するにまかせ、公衆便所もだんだん使われなくなった。12世紀末まで、下水や排水に関する話はもはや聞かれなくなる。どこの都市も筆舌に尽くしがたいほど不潔になった。・・・・・・法律では通りで用便をしてはならないと定められていたが、「それが悪意や単なる誤解によるものでないことを理解させるために、それぞれの国(地方)や都市が特別にある地区や通りを用を足すための場所に指定したので、それはこれまでどおり秩序正しく、礼節をもって、穏やかに続けられた。」たとえばトロアではボワ通りが、公道で用を足す者すべての糞尿を引き受ける場所に選ばれ、その状態は1743年まで続いた。(『排泄全書』p147)

とても興味深いことは、「街路」の一部が「糞尿を引き受ける場所」となっていたのは、ヨーロッパの中世都市に限らないことだ。20世紀半ばまでチベットのラサがそうであったことは、既述した(第2.1節)。日本の平安京にもこういう特別の通りが在った。『餓鬼草紙』の「排便の図」は特定の「街路」が排便のために使われていた様子を表しているとも考えられる。地面を見るとこの図に登場している人物たち以前になされた、排泄物や紙や籌木(捨木)が描かれている。


上図には、女性2人、全裸の子ども1人、杖をついた男1人がおり、それを見ている餓鬼が描かれているが、人間からは餓鬼は見えないという設定である。この餓鬼を「伺便餓鬼」(しべんがき)という。人間の排便を伺[うかが]っている餓鬼である。人間は全員足駄を履いており、ことに子どもは大人用の大きい足駄を履いている。このことから、描かれているのは排泄用に使われている特定の場所(道、小路)で、足駄を履いてわざわざここに出かけてきて排泄していることが分かる。“糞便小路”とでもいう一種の露天の公衆便所であったと考えられる。
人間たちはお互いに対して無関心であるように見える。異なる方向を向いていて目を合わせないようにしているとは言えるかも知れないが、とりわけ隠そうとしたり恥ずかしがったりはしていない。子供だけがキョロキョロしている。画家がフィクションでこのように描いたと考えるより、20世紀前半のラサなどでそうであったように、“糞便小路”で人びとは何はばかることなくごく自然に排泄行為に没頭していたのが実際だったと考えたい。
第1.1節で『暮帰絵詞』巻4の便所の絵を示したが、その便所の入口が開放されていて目隠しがないことに触れた。わたしは、日本でも平安末期の『餓鬼草紙』の「排便の図」のような「街路」での排泄が普通な時代には、排泄を見られることをそれほど気にしなかったであろうと思う。したがって、便所が一般に作られるようになってもある時期までは(例えば近世までは)開放的であった可能性がある、と考えている。

子供はしゃがみスタイルであるが、女性は二人ともいくらか中腰スタイルである。この人たちの排泄スタイルを眺めていると、足駄をはいているのは単に足を汚さないためだけでなく、しゃがんで排泄しても尻が汚れないためという意味もあることに気づく。低い下駄であると、もっと尻を上げてつよい中腰姿勢をとる必要がある。この“糞便小路”には穴(坑)が掘ってないのであるから。つまり、この“糞便小路”には特に便所らしい設備が設けてないが、事実上みんなが排泄場所として使っている、ということである。“自然発生的な”公衆便所と言ってもよいだろう。宮本常一は「藤原末期のころには庶民社会には便所の設備はなく、空き地があればどこでも大小便がなされたようである」と指摘している(『絵物語に見る日本庶民生活誌』p45)。

子供を拡大すると練達の画家の手によって、まだ幼児に近いような柔らかい肉や皮膚の感じがよく表現されていることが分かる。しかも、完全な裸体である。この子供は下痢便をしている。子供は右手に排便のあとで使う木片(籌木)をもっていて、おそらく、身体の安定のためにそれを軽く地面に突いている。じつにリアルである。しかも、周辺には大便の塊と籌木が転がっていることも分かる。画家がこういう“糞便小路”を実見していることをうかがわせ、古代末・中世初(『餓鬼草紙』は12世紀後半成立)の日本の都市では、こういう光景はありふれたものだったと考えられる。
ついでに指摘しておくが、日本でも赤ん坊や幼児は“裸で育てられた”ということが忘れられつつある。

そういえばアジアの田舎を旅していて、オムツをした赤ん坊を見たことがない。ほとんどが裸か、穿いていても、股間がぱっかりと割れてお尻が丸出しのズボンである。(斉藤政喜・内澤旬子共著『東方見便録』p167)

現代の日本の赤ん坊はオムツをしないことがない、というほどに常に股間に何かをあてているのが常態になっている。

“糞便小路”にぴったりの説話が『宇治拾遺物語』にある(「19 清徳聖奇特の事」巻二の一 (古典体系本p85))。かいつまんだ内容を示す。

清徳という聖、3年絶食し、京へでてきて、ネギを3町たべ、白米1石をたべる。右大臣藤原師輔の出した10石もたべた。清徳ひとりで食べたように見えたが、じつは聖のうしろに従っていた餓鬼・畜生・虎・狼などがたべていた。「4条の北なる小路」で従っていたものたちがクソをえんえんとした。ひとびとは、それを汚がって「くその小路」とよんだが、村上天皇が「錦小路」と改めさせた。

古典体系本の頭注や『 日本の古代9 都城の生態』(p443~)によると、この説話の背景にあった史実は、「具足小路」という小路名が「錦小路」と天喜2年(1054)の宣旨によって改められた、ということだそうだ。「語呂の類似から、このような地名伝説が生じたのであろう」(体系本頭注p87)という。
ただ、「具足小路」を「屎小路」と市民らが呼ぶようになるのは、単なる語呂の類似だけではなく、「屎」を連想させるような汚穢状況があったからだろうと推測させる。『宇治拾遺物語』の原文では“ただ墨のやうに黒きゑどを、ひまもなく、はるばるとしちらしたれば”となっていて、気持ち悪いリアルさがある。

20世紀のラサの市街で、男女を問わずはばかるところなく排泄していたことを西川一三の記録で示したが、チベットのラサは中世都市が生きたまま、化石のように保存されていたと考えることができる。中世都市の街路の糞尿まみれは、普遍的なことのように思える。つまり、人種や少々衣服や履き物や髪形が違っていても、基本的に上の12世紀の平安京の街路便所と同じような光景が展開していたと考えられる(街路で排泄しているのを、こういう完成度の高い彩色画として残している日本の絵巻物というのは、凄いと思う)。

12世紀初頭、パリ市民は常に汚染の中で暮らしていた。敷石はなく、地面は起伏が激しく、穴だらけで、水浸しだった。厚く泥がつもり、汚水が流れ込んで、排水設備がないためによどみ、そしてそこに毎日つぎつぎと新たなごみや汚物が加わるのだった。
中世のパリは、狭く曲がりくねった通りの走る町で、直線道路というものはほとんどなかった。この入り組んだ街路の中に、それ自体傾斜の不安定な排水路が走っているというわけで、低い地区では水はもはや流れなかった。高い家々が空気の流れと太陽の光をさえぎり、水も大きな水溜まりとなってよどみ、そこへあらゆる種類の汚物がたえず流れ込むのだった。通りに捨てられた糞便が、他のごみとまじり、ひどい悪臭を発していた。そうした汚物におおわれて、通りはたいてい、冬は馬車が通行不能になり、夏はそれらごたまぜの汚物が腐敗してさらに胸の悪くなる臭気を発し、その悪臭が家の中にまで侵入してきた。(『排泄全書』p152)

(ジャン・サザランの1270年の覚え書き)この文書は公衆衛生に関するフランス最古の資料とされており、それを読むと、衛生の問題は当時もやはり、とりわけ公道に排泄物が捨てられることであったのがわかる。パリでも王国の他の都市でも、民衆はすべて通りに捨てる以外には方法はなかった。それを免れる場所はどこにもなかった。教会の扉にもしばしば「扉や壁に小便や大便をすることを禁ず」と書かれていたが、守られることはなかった。(同前 p154)

教会であろうとどこであろうと、フランス中世では野糞・野しっこが常態であり、携帯便器(おまる)もその中身をはばかることなく公道へ捨てた。中世のある時期、あたかも普遍的な都市法則があるかのように、都市の公道・空き地が自然発生的な排泄場となりゴミ捨て場ともなった。

(16世紀ごろのフランスの都市では、屋内便所が設けてあっても、便所へ)排泄せず、おまるや溲瓶を用いるときは、もちろん住宅のすべての部屋が用便に用いられることになる。実際、一家の主人やその家族はほとんど便所へ行かず、便所は召使専用になっていた。自宅に便所があるといってもほとんど使用しないのである。ある召使いの証言がその点についてはっきり述べている。「上の屋根裏部屋には、共同便所があった。悪臭を怖れて、主人は素焼きのおまるや穴あき椅子を使っていた。」(同前 p169)

オマルや溲瓶の携帯便器の使用目的の1つは、ここにあった。つまり、不潔な便所に行かないで済む、ということである。「悪臭」が有毒で流行病の原因になるという考え方があったことも、この傾向に拍車をかけただろう。
ヨーロッパでは、暖炉にオシッコをする習慣が広くあったこともつけ加えておいてもいいかもしれない。

(1636年の報告書のパリの街路の状態)「穴だらけで汚ない、泥とごみにあふれている」。「穴だらけで、たくさんのごみ、汚物、糞尿、泥が両側の壁にこびりついている」「汚なく、泥だらけで、ごみや大量の糞尿と泥に溢れ、水路の水の流れを妨げている」。ルーブル宮そのものも、以前の治世にもまして、おぞましい光景を呈していた。中庭、階段、バルコニー、そして扉のうしろで、訪問者たちは平気で、人目を気にせずに用を足した。そのたびに、宮殿の窓からたらいやおまるの中身を捨てるときのはねが、壁にそって、フリーズや石の飾り物の突出した部分に、不潔きわまりない跡となってたまっていくのだった。(同前 p172)

パリでも平安京でもラサでも、似たような状況であった。(第5.2節で、古代ギリシャの都市に「糞垂れ小路」があったことをアリストパネス「平和」によって、述べる。)



(4.7):「トイレの考古学」
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大田区立郷土博物館編『トイレの考古学』(東京美術 1997) は大判で写真が多く、第1線の研究を集めたすばらしい本である。この分野の必読文献であることは間違いない。
大田区立郷土博物館の館長が西岡秀雄で、1996年に「トイレの考古学」展を行った。区立博物館でこのようなユニークで、先端的な内容の展覧会を行ったこと自体すばらしいことだが、この本はそのときの展示内容がひとつの軸となってできている。その展覧会の際に、第1線の考古学者らに専門分野からの講演をしてもらい、その講演会シリーズの講演記録も収録されている。それが、読み物としても優れている。
以下、松井章(奈良国立文化財研究所)の「トイレ考古学の世界」および金原正明(天理大付属天理参考館)「自然科学的研究からみたトイレ研究」という講演を、引用させてもらう。

地面を掘りくぼめた穴・坑に大便をする形式の便所を土坑式と言おう。人糞を肥料として利用するしないによらず、土坑式便所はひろく作られている。尻と排泄物の間隔がとれることで、足の汚れを避ける/蓋をして臭気よけ蝿よけ/埋め戻して新しく坑を掘れば新しくなる、などの利点がある。
それに対して、湖・海・大河や豊かな水流を持つ地域に発生する便所形式は2つあり、ひとつは水中で排泄する方式、もうひとつが川屋=厠式である。前者は熱帯地方に適している。後者は熱帯地方に限らず、ひろく豊かな水辺において行われた。
第4.3節で述べたように、日本列島では縄文期から、厠式の排泄方式が行われていた。だが、土坑式にせよ厠式にせよ専用の便所施設が造られるようになるのは、弥生時代以降と考えられている。古墳時代以降には、便所遺構が発掘されている。

藤原京(694~710)は、日本で初めての計画的都市といわれる。 東西に走る街路を「条」、南北に走るのを「坊」といい、あわせて「条坊制」の都市という。
この条坊に側溝があって、水が流れていた。つまり、都市の立地の自然の傾斜に従って、条坊制による側溝を水が流れていたのである。その流水は邸宅内へ引き込まれて池の水ともなり、また、邸外へ出て行く。この水流は上流では清流で飲用にもなるが、下流に行くに従って汚れてれていく。条坊の側溝をながれる水流による古代都市の給水=下水の構造は、豊かな清水に恵まれた平城京・平安京などでも変わらない。もちろん飲用に適さないときは、適宜井戸も掘られたであろう。
日本列島のほとんどの自然村では、村の中を水流が流れていて、その水流を日常的に使用していたと考えられる。都市において、それが計画的に行われたことになる。日本ではいかに清浄な水が豊富であったかを、思う。
すでに藤原京ではこの側溝の水流を使って、「水洗便所」が作られていた。

【左図は、藤原京の水洗便所の発掘跡。左に側溝があり、弧状水路に手前側から水を引き込み、湾曲部に厠を設け、向こう側から側溝へ排水する。前掲書p26】
貴族などの邸内へ、側溝の水を引き込んで厠式の便所を作っていた。纏向[まきむく]遺跡や藤原京遺跡からこの方式の水洗便所の跡が出ている。下水への垂れ流しの方式であるが、日本の古代都市の邸宅では厠式の便所が、かなり古くから実用されていた証拠である。
この厠式便所は縄文遺跡の鳥浜遺跡などの厠式排泄跡と同系統のものであって、古い方式と考えることができる。日本列島の水辺の、あるいは豊かな水流を持つ地域に、古くから発生した便所である。

(纏向遺跡の導水施設は)トイレとすればおそらく身分の高い人が使ったのでしょう。 ここの排水は、谷筋を通って下りてきて、古墳群の方に抜ける水路を流れて、用水路に入っていくわけです。つまり上手のきれいな上水は身分の高い人が使うということです。このような構造は、この纏向遺跡で初めて成立するのです。(松井章 p180)

厠式の貴族用の便所の他に、土坑式の便所の遺構もある。しかし、多くの一般庶民は野糞式に山野・畑地・路地などで済ませていたであろう。

条坊制の側溝の水流の場合、川上のほうがきれいで、川下に行くにしたがって水流は下水となり、汚れていく。藤原京では、「天子南面す」の方式により、宮殿が飛鳥川の下流域に位置し、上流部に一般住居があった。そのため、汚水が宮殿を流れるというかたちになり、藤原京が短命に終わった理由はここにもあるのではないか、と松井章は指摘している。平城京では佐保川、秋篠川の流れにしたがって、宮殿が上流部にあり、一般住宅が下流に位置し汚水が流れ下る形になっていた。つまり、「天子南面」などの中国流の都城思想だけではなく、水源と川の流れの方向、つまり、土地の傾斜の方向も都城の設計上重要であった。上水・下水の使い分け、と言ってもよい。上流域では飲み水をとることができた流水も、下流では、井戸で飲み水をまかなっている。

貴族は(平城)京の北側、宮の周辺の一等地に住んでいます。ここでは、きれいな水 が使えるのですが、南へ行くに従って汚なくなってきます。京の南側の一帯にはいろいろな工房が発掘で見つかっています。金属工房とか、死んだ動物を解体して革をとる皮革工房などがあったことが確かめられています。この辺りには運河が流れているのですが、これを発掘しますと、死んだウシとかウマの骨が累々と出てきます。(松井章 p180)

側溝がうまく水を流している場合は、垂れ流しの糞便を下流へ流すが、いったん停留してしまうと、ゴミと糞便が街路にあふれ出し、ぬかるみを作る。側溝の清掃を命じる指示がいくども発せられたことが記録されている。つぎの例は平安時代815年の太政官符。

このごろ京中の諸司、諸家、あるいは垣を穿ち水を引き、あるいは水を塞いで路を浸す。よろしく諸司に仰せ、みな修営せしむべし。流水を家内に引くを責めず、ただ汚穢を垣外に露わすを禁ず。よってすべからく穴毎に樋を置き水を通すべし。(松井章 p173)

「汚穢を垣外に露わす」というのは、糞便が邸内から側溝へ出てプカプカ浮いている状態を表している(高橋昌明が、最初に指摘したそうだ)。「穴毎に樋を置き」が、どのような具体的な装置なのか不明だが、便器本体か、なんらかの糞便など汚物流出を留める装置(いまの、汚水マス・雨水マスのようなものか)と考えることができる。もちろん、定期的に清掃する必要が生じる。
もうひとつ、855年の太政官符より。

渠[溝]に近き家、大いに水門を穿ち、好みて溝流を絶つ。垣基これによりて頽毀し、路のほとりこれがために湿悪す。(中略)公私に害なくんば、樋を置き水を引くをゆるす。(松井章 p174)

ここにも「樋を置き」が出てきている。邸宅内に水流を引き込み便所設備を設けたことが分かるが、その手入れが悪ければ下流に汚物があふれたり、路がひどいぬかるみになったりしたことも分かる。

こういう汚物の溜まる「湿悪」の場所が植物の生育が良いことなどを経験的に学んで、意識的に便所を作り、人糞尿を肥料とすることがはじめられたかも知れない。中国では古代から人糞尿を肥料としていたので、日本でもそれを学んだかも知れない。
土坑式の便所遺構(考えてみれば、わたしが子供時代に使用した大便所はこの形式だったのだろう。坑を掘って土固めし糞溜とした)が「汲み取り」式であれば肥料として用いるために造られた便所であった。そういう便所には籌木(糞べら)を捨てない。土坑式でも糞尿を肥料として使うつもりのない便所は、いっぱいになると埋めてしまうもので、また、そういうところへは籌木がたくさん捨ててある。つまり、便所遺跡を発掘することによって、糞尿を肥料として使用するために便所を作ったかどうかがある程度分かるのである。


(4.8):便所の普及
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もう一度平安朝末の日本の都市にもどるために、『餓鬼草紙』を見てもらう。『餓鬼草紙』の主人公はもちろん餓鬼たちであって、けしてしゃがんで脱糞放尿したり、死体となって横たわる生身の人間たちではない。何らかの罪を犯した人間が、来世に餓鬼となって浅ましい姿をさらして苦しむのである。その苦しくも醜い餓鬼を描いているのである。


この「食糞餓鬼」のシーンは、糞尿の池の中で腰まで糞尿に浸かった2匹の餓鬼が、池の中から糞塊を手にすくい取って食べている。池の周辺にはとぐろを巻いた糞跡が多数ありその近くに紙・籌木が散乱している。池に入らずに大便を拾って口に運んでいる餓鬼もいる。人間は描かれていないが、つねに人間がここに来て排便していく場所なのである。さきの「伺便餓鬼」は、人間が排便しているのを伺う餓鬼。しかし、どの餓鬼も糞便を食べていなかった。人間がいなくなった後で餓鬼たちは糞便を食べはじめるのだ。人間がいない画面の方が、糞尿をすすり食べる音が聞こえてくるような生々しさを覚える。
宮本常一はこの「食糞餓鬼」のシーンから、共同便所の始まりを指摘している。

土饅頭のある埋葬地の前の野天に大きな池のような穴が掘ってあって餓鬼が二匹はいって糞を食うているさまが描かれている。これは野外で垂れ流しにしたほか、埋葬地のような汚穢の地に、穴を掘ってそこで排泄することも行われていた事実を物語るもので、きわめて素朴な共同便所がこの当時出現していたのである。そして、このような土穿に排泄物がたまれば、肥料としても使用することができたであろう。(『絵巻物にみる日本庶民生活誌』p47)

わたしは、宮本常一の指摘の中でもっともオリジナルだと感じるのは、この糞尿の池を人工的に掘ったものとしたところである。つまり、たんなる空き地や小路に自然発生的に生まれた排泄場というのではなく、穴を掘ってそこへ排泄させるようにした、というのである。たしかに「食糞餓鬼」の池は人工的に掘りくぼめたようにも見えるが、中古-中世前期の日本の都市には現実にこのような糞尿溜まりがあったと考えることができる。これが、絵師の空想ではなく現実の風景であったというのである。
ただし、官製の共同便所は、平城京にすでに作られていたという。

唐の都長安をまねてつくった平城京には、日本で最初の共同便所が設けられた。東大寺の参詣客用につくられたのがはじまりともいわれるが、実際には都市計画の中にくみこまれていて市中のあちこちに設けられていたようである。・・・・・・共同便所に溜まった屎尿をどうしていたかはまだわかっていない。(本間都「屎尿はどう扱われて来たか」『日本トイレ博物誌』INAX1990 所収 p117)

この共同便所がどれほど一般民衆の排泄行動に影響を与えたのか、わからない。野糞・野しっこに慣れている一般民衆が共同便所に入ったのかどうか。目隠しがあったのかどうか。いろいろ興味をそそられるが、何もわかっていない。先の「伺便餓鬼」のシーンが平安京に存在したのだとすれば、律令的秩序がゆるむにしたがって、平城京の共同便所自体が消滅したことも考えられる。

藤原京の便所の分析から回虫や鞭虫などの寄生虫がすでに蔓延していたことが分かっているので、その時期以前から野菜などに人糞肥料を施していた可能性はあるという。
だが、平安朝以前では糞便溜の中に籌木が捨てられていることから、肥料のために「人糞を集積する」という発想の汲み取り式便所を造りはじめたのは鎌倉以降と考えるのが目下主流のようだ。
『トイレの考古学』から金原正明「自然科学的研究からみたトイレ研究」を引用する。

目的意識を持ってトイレに糞便を蓄めるのは、人糞を肥料として利用する農業技術が生まれてからになると思います。ですから、井戸状の大きなトイレは12,13世紀以降しか出てきません。それ以前の土坑型トイレは、蓄める形態を持っていても不整形で、ある程度蓄まるとそのまま埋めてしまい、トイレごと廃棄するという状況が見られています。(金原正明 p215)

この金原正明は花粉分析の専門家で、便所研究では寄生虫の研究もしてきたのだそうである。上引の講演記録はとても面白いものだが、たとえば、縄文人は鞭虫をもっていたが回虫は持っていなかった、という事実なども刺激的である。青森の三内丸山では、水流を利用した垂れ流し式の芥溜めが便所を兼ねていたらしいが(つまり固定的な便所跡は発見されていない)、その分析によると、鞭虫が高濃度で検出されているが回虫はないということだそうだ。

日本にはもともと回虫がいなかった可能性が高いということがわかってきました。弥生時代になり稲作文化が浸透すると供に、この[回虫と鞭虫の]2つがセットで出てくるようになるという状況があります。ということは人が移動してきたからかどうかはわかりませんが、稲作文化の伝播と共に回虫卵が伝播してきて、その感染経路が鞭虫卵と一緒なので、蔓延し出すという可能性があるのではないかと考えています。(金原正明 p201)

興味深いことは金原の講演で上引の続きに述べられていることだが、ネイティブ・アメリカンも本来は鞭虫しか持たなかったところへ、コロンブス以後急激に回虫も広まったのだそうである。


便所問題と人糞肥料問題とは、区別して考えないと混乱が生じる。稲作文化と同時に人糞肥料が施されるという農業手法が伝わった可能性がある。たとえば、安田徳太郎は『人間の歴史2』で、

わたくしは、水田農業とともに、南方から緑肥、堆肥、糞尿肥料の知識も、いっしょに持ちこまれたと考えている。黄土帯の中国北部とちがって、インドシナや中国南部の湿地帯に定着して、水田農業をやっていたとしたなら、農民はそうとう早くに、肥料の知識にたっしたにちがいない。(p176)

と述べているが、合理的な主張だとおもう。稲作技術は“セットとして”(おそらく、相当数の人間の移住もともなって)伝えられたと考えるのが妥当だと思う。そして、すでにそのときから人糞肥料が水田にほどこされた可能性はある。弥生遺跡から各種「田下駄」が出ており、緑肥の踏み込みが行われていたことは確実である。しかし、汲み取り式の「糞便蓄積型便所」ができたのははるか後世の中世になってから、と一応分離しておいていいと思う。
水田や畑が野糞の場所であったという可能性もあろう。農民自身の自家用の便所が小規模ながらできていて、それがすでに、汲み取り式の「糞便蓄積型便所」であった可能性さえある。糞尿は数ヶ月貯留して完熟させる必要がある。小規模な弥生期の村落の考古学的発見が困難であるから発見されていないだけなのかも知れない。

平安中期から二毛作が行われていたことは確かであり、鎌倉時代にはかなり盛んになっていた。室町初期に来日した朝鮮使節の記録により、摂津尼ヶ崎付近の水田でムギ、イネ、ソバの三毛作が行われていたことがわかる。「これを可能にしたのは人工的な灌漑排水の普及による乾田の増加,品種改良,施肥量の増大などを中心とする当時の農業技術の発展があったからで,戦国時代には広く各地で二毛作が奨励された」(平凡百科事典 「二毛作」の項目、 三橋 時雄)。二毛作が行われるところでは、意識的に施肥を増やす努力がなされていたことは、まちがいない。
意識的な施肥には、緑肥(草)や焼灰・厩肥・腐植土などとならんで、人糞尿が意識的に集められることが含まれていたはずである。すなわち「糞便蓄積型便所」が普及しはじめ、肥溜で完熟させることなど、農業技術が普及していっただろう。農民はあらそって人糞を集める。野糞・野しっこは“もったいない”として、便所で排泄するのがあたりまえになっていく。

野糞・野しっこが常態である社会では、排泄を見られることをそれほど恥じ入ることはないのではないか。つまり、日本人が自分の排泄を他人に見られるのを強く恥じ、また清潔について非常にナーバスなのは、日本人があまりにも便所を普及させたことによる「文明化」が理由なのではないか。フランスやイギリスの社会が、スカトロジックにタフなのは、中世以来ずっと便所が少ない社会であったからではないか。

ルイス・フロイス「日欧文化比較」(1585)に、日本では汲み取り人が糞尿を買う、と織豊時代にすでに肥料としての人糞尿の価値が高かったことが記載されている。江戸時代に入り都市の発達がこの傾向をますます押し進め、人糞尿は価値ある商品として売買せられ、それを肥料として農民は田畑へ入れ、食料生産に努力した。この、人糞尿の循環型処理システムは、日本経済が世界市場に飲み込まれ化学肥料が入り始める1920年代(大正時代)まで円満に続いたのである。
その後、この循環が詰まり逆流しはじめ、第2次大戦後、都市化を進める日本列島全体に「公共下水道」というコンクリートとアスファルトの“建設省”型の手法が登場し、悪いことに1970年代以降「流域下水道」というような巨大主義が跋扈バッコした。巨大主義とは“大きいことはいいことだ”というスローガンをマジでかかげた官僚思想のことである。それは今もなくなっていない。“寄らば大樹のかげ”式に強国アメリカにすり寄ったり、そういう政策をよしとして安全策に身をよせる日本人多数が、支持している。
糞尿の処理の歴史を見ていることで、過去の日本人は世界に類のない循環型の世界を作り上げていたことがわかる。人口百万人の江戸は当時世界最大の都市であった。それを循環型世界の中心に取り込んでいたことは特記すべきことなのである。(下水道の問題は、次節でかんがえるつもりである。)

もう一点、重要だと思うことをくりかえし指摘しておきたい。日本では中古(平安期)から近世(江戸期)に至る間に、糞尿肥料のための、汲み取り式の「糞便蓄積型便所」を徹底的に造ることによって、高度な農地の生産性を獲得し、独特の“清潔な”近世都市-農村系を作り上げることに成功した。食料・木材・水などの安定的な物質循環系ができていた。この循環系のキーワードが人糞尿なのである。
ただし、この系は、多数の不労階級(武士)を抱えていたこと・農民階級に食料生産のしわ寄せがいっていたこと・農業が基盤であるために天候不順に弱いことなどの弱点を持っていた。悲惨な飢饉がいくども繰りかえされた。だがこの系を形成していた、農民以外の階層、工人・商人や諸国遍歴の宗教者などが社会全体に流動性を与え、活気のある民衆社会を形成していた。

ヨーロッパでは糞尿肥料の使用は一部にとどまり、糞尿処理は下水による垂れ流し方式にならざるを得なかった。産業革命による都市の高度化(近代化)は、大規模な下水道の設置による排出(垂れ流し)の不合理さを拡大し、20世紀に入ってやっと「下水処理」を開始した。ヨーロッパは自らの系の中で自足することができず、アメリカを含めた植民地貿易によって地球規模の物質循環を“経済”として行うことによって、近代に突入した。つまり、自らが持っていた矛盾を地球規模に拡大し、しかも絶えず煽り立ててその矛盾の拡大の渦中に全世界を巻き込んでいった。もちろん、日本もそれに巻き込まれた。
しかし、江戸期の日本がかなり実現していた「安定的な物質循環系」は、明治以降の近代日本が地球規模の物質循環すなわち“世界経済”に突入することによって、捨て去られ壊れていった。わたしは、日本が中世-近世都市形成で示したヨーロッパ都市とは異なる展開の仕方はもっと評価されていいと思う。ヨーロッパが全世界を巻き込んだ“世界経済”の激しさと大きさに目を奪われて、そのことが忘れられていると考える。

20世紀後半に、現実のわれわれの“人間活動”が地球規模であることが問題の中心になってきた。人間活動の反作用も地球規模となり、その大きさは生物としての人類の生存条件をも左右する規模となった。わたしたちの排泄問題も、そういう水準の問題とリンクしてしまうのは当然である。







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第1~4節 おわり

排泄行為論 第5節

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第5節 目次

第5節:糞尿問題の将来(5.1):ユーゴー(5.2):下水道史概観(5.2.a)   a:欧米の場合(5.2.b)   b:日本の場合(5.3):下水道の本質(5.3.a)   a:下水道の機能(5.3.b)   b:下水処理(5.3.c)   c:流域下水道(5.3.d)   d:個人下水道(5.4):携帯便器(おまる)の将来性(5.5):未来をふくむ現在(5.5.a)   a:空気・水・食べ物(5.5.b)   b:植物・細菌・古細菌(5.5.c)   c:生命活動とエントロピー(5.5.d)   d:地球圏(5.5.e)   e:未来をふくむ現在
あとがき
文献
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(5) 糞尿問題の将来


(5.1):ユゴー

第5節 目次  全体の目次へ戻る

ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』の最後ちかく、主人公ジャン・ヴァルジャンが、バリケードで負傷し気を失っている青年マリユスをかついで、パリ市街の地下の下水道に入り、それを抜けて青年の祖父の館まで送り届ける。そして、この長編小説の大団円が近づく。
パリ市街地下の下水道を抜けて行くという、この長編の最後のクライマックスの前に、ユゴーは「巨獣のはらわた」という章をおいた。その冒頭は次のようになっている。

パリは年に2千5百万フランという金を水に投げ込んでいる。これはたとえ話ではない。どうやって、どういう方法で?昼も夜もである。どういう目的で?目的もなしに。どういう考えで?考えもなしに。なんのために?なんのためでもなしに。どういう器官をつかって?そのはらわたによって。はらわたとは?下水道である。(井上究一郎訳 河出書房新社1989 河出世界文学全集10 p369)

ユゴーはこの「巨獣のはらわた」で、彼の下水道論を展開するのである。下水道の改良を論じるというより、その下水道によって垂れ流しされている糞尿の価値を称揚する、という論の持って行き方である。その意味では、糞尿論ともいえる。
そこで、小論では、ユゴーの「巨獣のはらわた」の糞尿論に関連して、見えてくる問題をいくつか指摘しておきたい。

糞尿が肥料として優れていることは「シナ人」の方がよく知り、よく利用しているとユゴーはいう。

科学は長いあいだ摸索したあげく、こんにちでは、肥料のなかでいちばん土地を肥やし、いちばんきき目があるのは人肥だということを、知るようになる。恥ずかしい話だが、シナの人のほうがわれわれよりも先にそのことを知っていた。エッケベルクの話では、シナの百姓は町に出ると、われわれが汚物と呼ぶものを2つの桶になみなみと入れ、竹竿の両端にさげてはこんでかえらないということがないそうだ。人肥のおかげで、シナの土地はこんにちもアブラハム時代と変わりなく若い。(同 p369)

このように価値のある糞尿を、下水道によって川へ捨て、海へ吐き出す。そのことによって「土地はやせ、水は汚れる。飢えが田野から起こり、病気が川から起こる」。ユゴーはこのように論じて、パリの下水道を断罪する。
都市パリが行っているこの「おどろくべき気のきかなさ」は古代ローマ以来のことだ、とユゴーは歴史的な展望を行う。

「ローマの下水は」とリービッヒは言っている、「ローマの農民の福利をすっかりのみつくした」ローマの田野がローマの下水道によって荒れはてたとき、ローマはイタリアをおとろえさせたのであり、さらに、イタリアを下水に流してしまった以上、シチリアも、サルジアも、つぎにアフリカも下水に流しさった。ローマの下水道は世界をのみこんだ。(強調は引用者 同p370)

要するに、パリはこの古代ローマの下水道と変わりのない、田野を荒廃せしめる下水道を持っていると、警鐘を鳴らしているのである。(「第2編 巨獣のはらわた」は6節にわかれている。ここまでに簡単に紹介したような糞尿論と古代ローマ以来の下水道史のほかには、19世紀に入ってからの、つまりユゴーにとっての現代史であるパリの下水道の調査や、拡張について述べている)

上引でユゴーが言及していたJ.リービッヒ(1803~73)は、有機化学の理論的出発点を画するドイツの有名な化学者である。パリのソルボンヌ大でゲイリュサックに学んでいる。リービッヒはユゴー(1802~85)と完全な同時代人であり、ユゴーの下水道論に影響を与えている。「ユーゴーは、中国へ旅行をしたリービッヒから、中国人がし尿を土に返している、という話を聞き、またリービッヒの『有機化学の農業利用』を読んでいたという」(岡並木『舗装と下水道の文化』p100)。『有機化学の農業利用』(1840)は、それまで理論的追及で成果を上げたリービッヒが、応用方面に向かったときの著書で、肥料の3要素、窒素・リン酸・カリを主張し、農芸化学の基本をつくった。つまり、植物の生長や栄養にかんする分析的追及の出発点となる、重要な著作である。

皮肉なことに、この「肥料の3要素説」が日本の大学では「植物は無機肥料だけでいい」と短絡的に教えられており、戦後の人糞肥料・有機肥料否定の「化学肥料万能」の考え方に拍車をかけていたという(岡前掲書p100)。つまり、植物は土中の栄養を窒素・リン酸・カリの無機栄養として吸収するのだから、それらを化学肥料として直接与えればよい、という理論的な説明である。「戦後、化学肥料の増産が可能になると、[日本]政府も有機肥料の必要を全く認めようとしなかった」(同p100)という。「肥料の3要素説」が化学肥料万能の理論的根拠とされていたのである。日本では1970年頃から、農家の現場から化学肥料だけを続けた農地が“死んで”しまっている現実が突きつけられ、有機栄養をたっぷり含んだ“生きている土壌”の重要性が再認識されるようになる。
植物が有機質を直接吸収することも分かってきただけでなく、無数の土中生物が豊富に生きている土壌中でこそ農作物も健康に育つことが分かってきた。健康な農作物こそ食料として優れているという原点の再認識である。そして、健康な農作物は健康な土壌に育つという原点である。

ちょっと脇道にはいるが、ここで、土壌微生物に関連する良書を3冊紹介する。
デヴィッド・W・ウォルフ『地中生命の驚異』(青土社2003)は実に面白い本で、知的好奇心をかき立てられる。ここに関連する1事例だけ紹介する。ほとんどの陸上植物は土中に下ろしている根において、地中の真菌類・細菌類と共生しているのだという。マメ科植物の窒素固定細菌との共生はよく知られているが、それは(非常に重要な)一例にすぎない。そういう真菌類・細菌類を「菌根」類というらしいが、土中の水分やミネラル分を植物が吸収できる形にして根に提供している。植物の方は、地上で光合成した栄養を根を介して真菌類に与えている。そのようにして、植物と真菌類は共生関係で結びついている。地中深く広く張りめぐらされた菌糸網によって、植物同士がつながっていることなども確かめられている。あるカエデから隣のカエデへ養分が移ることが放射性のカルシウムや燐を用いて実証されている。マメ科の植物によって固定された大気中の窒素が、菌根菌の働きによって隣のマメ科ではない植物に移ることも分かっている、という(前掲書p141)。
われわれが植物を食料としてたべるとき、けして、地中の無機栄養素と光合成の成果を食べている、というような簡単なものではないのである。陸上植物は、土中に広大に広がる“地中生物圏”に根をおろして、それらと結びついて、地上での永続的な生存をかちとっているのである(永続的というのは、人類の“文明世界”の寿命数百~数千年に比較してのことだが)。「化学肥料万能」が可能だと思えたのはほんの数十年間でしかなかった。わたしたちが食物を食べるとき、35億年の生命進化史の総体を食べている、と考えるべきである。わたしたちの「食べ物のほとんどは生きものである」し、私たち自身が生命進化史の上に生存していることは、間違いないことだ。

服部勉『大地の微生物世界』(岩波新書1987)を読んで驚いたことは、土壌中の細菌については、ほとんどが未知である、ということだ。コッホの「平板法」(ペトリ皿の上に寒天やゼラチンの培養基を平らにつくり、その上にうすく細菌を塗布する。数日~数週間でコロニーができる)でコロニーを作る土壌細菌は全体の1%程度に過ぎないのだという。 残りの99%は、培養基の栄養に反応せず増殖しないのである。従って、研究の対象にならない。たとえば水田の微生物は「地球上の陸地に住む微生物たちで、もっともよく研究されている例」(p108)であるのだという。そこには、土1グラムあたり数十億個の細菌がいる(これは、顕微鏡で直接数える)。しかし、さまざまに用意されている培地で活動してコロニーを作るのは、そのうちわずか0.1%以下である。

つまり研究の対象となった働く細菌は、水田に住む細菌全体のなかの、わずか0.1%以下である。それでは、他の99.9%の細菌は、何をしているのであろうか。(同p108)

「自然発生説を批判した時のパストゥールの考え方は、微生物は栄養物が与えられれば、必ず増殖が起こるということであった」(p162)。しかし、「土をはじめとする自然に住む微生物のなかで増殖中であるものはきわめて少なく、むしろ例外的であるといえよう」(p196)。また、増殖する細菌でも、コロニーを作って肉眼に見えるようになるほどの多量の増殖は「むしろまれである」。数回分裂して止まってしまうようなケースも多いのだという。

微生物についていえば・・・・・・研究されたのは、平板状でコロニーを形成するもののうち、ごくごく一部に過ぎない。しかもコロニーを作る微生物は、全体の1パーセント程度であると考えると、地球上にはいかに未知微生物が多いか想像されよう。(同p203)


勝木渥『物理学に基づく環境の基礎理論』(海鳴社1999)も、知的好奇心をかき立てられるすばらしい本である(この本は、槌田敦らにはじまる「エントロピー学会」の環境論の現在の到達点を示している。その骨格は次節5.5「未来をふくむ社会」で紹介する)。ユニークな挿話が多数入っていて興味をつないでくれ、どんどん読み進められる。その中から、動物と植物の比較、動物の消化管と土壌の比較をしているところを紹介する。

植物は、水や養分を大地の土壌から根によって吸収する。そのために植物、特に根のある植物は、成体となってからは位置の移動が自由にはできない。
動物が自由に移動できるのはなぜか。それは、環境を体内に取り込んでいるからである。すなわち、、植物にとっての土壌に相当するものを消化管として体内に取り込み(唾液から始まって、土壌中の微生物に相当する数々の消化酵素が、消化管の中ではたらいている)、生命発生時の海に相当するものを血液として体内に取り込んでいるからである。腸壁あるいは絨毛は、植物の根あるいは根毛に相当している。

植物の立場に立つと、土壌はわれわれの胃や腸に相当している。今、化学肥料の乱用等によって、土が病んでいると言われるが、、それを「植物語」に翻訳すれば、植物たちはわれわれの胃腸病に相当する病を患っている、と言えよう。胸焼けや下痢に悩むようなとき、われわれは病む土に生うる植物の苦悩にも思いをいたすべきである。(p127~8)

(なお、この勝木渥の本を手に取ったら、ぜひ「まえがき」と、「あとがき」以下の長文の「謝辞」や「第2刷にあたってのコメントと追加」をも読むべきである。)


『レミゼラブル』の執筆は1845年から48年にかけて初稿、長い間中断されたのち完成は1862年である。この時期は、パリでやっと近代的な下水道工事がはじまった時期にあたっている。パリでは1808年頃に下水渠(開渠式)が20kmぐらい整備されていた。パリ名物の大下水道は、汚水・雨水・道路上のゴミなどを全部受け入れ、上水道・ガス管などの共同埋設も兼ねている。その建設は、第2帝政(1852~70)の始めから終わりまで、1852年に総延長140km、1869年には560kmとなっていた。

この頃の下水は、汚水を都市内部から外部へ移送し、そこで放出する機能を持っていただけで、下水処理という発想がなかった。汚水を放出されるセーヌ川が余りにも汚れるので、下水の出口をつけ替えて、下流に移したのもこの頃である。同じことはイギリスでも生じており、ロンドンではテームズ川の汚臭がひどくて国会議事堂で審議にさしつかえたほどだったという

下水道の建設は、ロンドンの方が、やや先行していたようである。19世紀前半に下水道の設置が進むに従って、それまでは市内から馬車で屎尿を農村へ運び出していたのが、汚物を下水道に捨て下水道はテムズ河に放出することになった。見市雅俊『コレラの世界史』(晶文社1994)に1827年の文書が示してあるので、それを引用させていただく。

つぎに、水質の悪化。[「タイムズ」の編集者である] ライトはつぎのように言う。「これだけおおぜいの人間がこれだけ狭い空間に集まったことは、これまでの文明史になかったと思う。」この「メトロポリス」を横断するテムズ河の水質が悪化している。原因は汚物のタレ流しである。以前はテムズ河にゴミを投棄することが処罰の対象になった。ところが、[以下、引用は、ライトの1827年文書]ここ数年の間に、その点にかんする首都の条例がまったく正反対のものになった。3世紀前であれば違法行為とみなされ、処罰の対象となった行為が、いまでは住民に対して義務として実行するように奨励されているのである。この問題の権威であるサー・ギルバート・ブレーンによれば・・・・・・『これまで各家庭の汚物はすべて汚物だめに集め、清掃人に・・・・・・汲み取ってもらっていた。ところが、現在では下水道管理委員会がそれをすべて下水道に流すことを住民に許可したばかりか、奨励しているのだ。』・・・・・・以前は膨大な量の汚物が馬車に積み込まれ、肥料として農地に散布されていたが、いまや下水道を使ってテムズ河にタレ流すことを認められたのである。・・・・・・(かつては)排泄物は農村に送られていた。それが今や、西はチェルシーから東はロンドン塔まで139もある放水口から昼夜を分かたずテムズ河に放出されているのだ。テムズ河は「ひとつの巨大な下水道」と化した。その水を水道会社は市民に給水しているのである。(p153 [ ]内は引用者注)

興味深いことは、この文書で19世紀前半まではロンドンの市中の屎尿が周辺農村へ肥料として運び出され散布されていたことが分かることである。また、下水道によってテムズ河が汚れ、しかもそれを水道の源水として使っているために、市民は薄まった汚水を口にすることになっている(この点については、下の(5.2.a)節で扱った)。ヨーロッパでのコレラの最初の流行は、前掲文書の直後の1830~32年頃とされる。

安田徳太郎はド・カンドル(1806~93)の『植物生理学』を示しながら、ヨーロッパでも人糞尿を肥料に使用していたことを指摘している。

ところで世界中で、アジアの水田耕作民だけが、人間さまの大小便を肥料にしてい るというのは、大いにでたらめである。ド・カンドルも、はっきり、ヨーロッパの農民は大昔から家畜の糞尿だけでなく、人間さまの大小便をも、さかんに肥料に使っていたと述べている。(『人間の歴史』3-p88)

ロジェ=アンリ・ゲラン『トイレの文化史』(大矢タカヤス訳 筑摩書房1987)は理論書としてきちんとしており、レベルの高い良書である。先に引用した『やんごとなき姫君たちのトイレ』の種本の1つになっているようだ。その中で、スペインのムーア人たちが人糞肥料をよく使用したという記述がある。

屎尿水に肥料としての効果があるということは中世以来知られており、その散布は 主にスペインのムーア人によってよく実行されていた技術なのである。(p137)

つまり、ヨーロッパでも人糞尿を肥料にすることは知られていたし、実施されていた。だが、その方法は十分に普及していたとは言えず、近世日本におけるように至るところに汲み取り式便所が作られ農民が争って都市の糞尿を汲み取りにくるようなことはなかった。つまり、ヨーロッパにおいては個別に、または民族によっては人糞尿を肥料としていたが、それが都市の便所と結びついた広汎なシステムとして一般化してはいなかった。このことは、ヨーロッパ都市の便所(私用便所・公衆便所)の未発達の原因となり、携帯便器(おまる)の普及を促したと考えられる。(これらのことについては、前節の末尾「便所の普及」でも述べておいた)

19世紀西欧にはユゴーのような人糞肥料論者がいたのに対して、その一方では人糞肥料の否定論(人糞肥料は有害であるという論)もあったようである。というより、人糞肥料否定論のほうが多数派で、ユゴーは「巨獣のはらわた」で“蒙を開く”というスタンスをとっていた、と考えられる。
『トイレの文化史』は、人糞尿が肥料に適するかどうかの「実験」が行われたことを述べている。1869年からパリ市の予算が付き、実験農場で屎尿水を肥料に使い、牧草を育て、それで牛を飼い、その「牛乳とバターは土木学校の実験室で分析され、欠陥なしと認定された」(p138)ということである。これは、日本でいえば明治2年のことであった。ヨーロッパでは人糞尿を肥料とする農業技術が成立しておらず、普及してはいなかったことが、この「実験」実施によって示されているといってよいと思う。



(5.2):下水道史概観

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下水道は、都市の存在を前提にしているとしてよいであろう。都市住民の糞尿の排泄問題が下水道と関連してくる。しかし、下水道の役割は、糞尿排除だけではないので、以下しばらくは(5.2節、5.3節)、糞尿問題よりやや視野を広げて見ることになる。

最初の都市は、宗教=政治的神殿を中心にし城壁にかこまれていたとされ、たいへん古くから存在していた。

都市の誕生は前6千~前1千年紀にアジアの数ヵ所で別々におこったと考えられている。前5000年のメソポタミア東部中央のジャルモと,パレスティナのヨルダン川西岸のイェリコ,前3千年紀のメソポタミア南部のウルとインダス川右岸のモヘンジョ・ダロ,さらにナイル川や中国の渭水でも前2000年より以前に都市が立地していたことが知られている。(田辺健一 平凡社百科事典「都市」項目)

都市内部に生じる排泄物・生活排水は、はじめは雨水の排水に使われる自然水路・掘割などを通じて河川へ運ばれ、都市外部へ排除されたであろう。都市計画が行われるようになれば、人工水路や側溝などの開渠式の下水路が造られるようになったであろう。
BC25世紀の古代インドのモヘンジョ・ダロやハラッパーの都市遺跡にはすでに、上下水道の優れた施設ができていた。古代アッカド人たちのメソポタミアの都市(BC22世紀)にも水洗便所や下水道遺跡がある。

だが、不思議なことに、古代ギリシャの都市では、下水道はおろか便所の遺跡さえ発見されていないという。

ギリシャの都市に対する精力的な発掘にもかかわらず、ギリシャの住宅に便所があったという考古学的な資料は、ただの1つも発見されていないし、また公共便所があったという証拠も全くない。(川添登『裏側から見た都市』NHKブックス1982 p76)

川添登のこの本で知ったのだが、高津春繁訳のギリシャ戯曲のなかに「糞垂れ小路」というものが出てくるという。調べてみるとアリストパネス「平和」だった。この戯曲はビックリするようなスカトロ系の作品だった(有名なことなのかも知れないが、わたしはギリシャ戯曲にまったく暗いので)。そこで、やや詳しく紹介してみる。
「平和」は、アテナイの農民トリュガイオスの二人の奴隷が、糞置き場で糞をこね回し、大きな糞団子をつくっている場面から始まる。その糞団子はトリュガイオスが飼っている巨大な黄金虫(糞転がし)に餌として与えるためのものなのだ。トリュガイオスはペロポネソス戦争が長引くのに腹を立てて、天のゼウスと談判するためにその黄金虫に乗って天空高く舞い上がっていこうとしている。
舞い上がろうとする主人トリュガイオスに奴隷のひとりが、「何のために、この気違い沙汰」をするのか、と問いかける。それへのトリュガイオスの答え。

静かに、不吉なことは
ひと言も口にしてはならんのだ、万歳をとなえろ。
告げよ、人みなに、しずまれと。
雪隠と糞垂れ小路
新しい煉瓦で塞げよ、
尻の穴には栓をしろ。

引用は、『世界古典文学全集12』(高津春繁編 筑摩書房1982 p175 強調は引用者)。「糞垂れ小路」に訳注がついていて、「昔のギリシャの町では、家と家の間に路地があって、そこには汚物がいっぱい溜まっていたらしい」としている。上引の少し先には「小便小路」が出ているが、同じものを指しているように思える。(ついでに、「雪隠」が出ているのだから、ギリシャ住宅からの考古学的資料はなくとも、便所はあったのであろう。)
日本平安末の都市を反映しているであろう「伺便餓鬼」の図(第4.6節)を思い出す。またそでは、世界の各地の都市に「糞便小路」があったことを述べておいた。

食事をすれば雑排水は生じるし便所はなくとも排泄行為はあったわけで、汚物の都市外部への排除は必ずしなければならなかった。それを自然的な排水路でまかなうことのできた都市もあったであろう。だが、人口密集や下水量の多少によって、人工的な排水路(道路側溝や下水溝)をつくったり、人力・荷車などで汚物・塵芥を都市外部へ排除することが必要となったであろう。排水路の悪臭や不潔(伝染病への配慮)から、暗渠になったり管路となったりする。
下水路が必要となるもうひとつの理由は、降水の排除である。降水量の違いによって下水道が担う重要度に違いが出てくることになるが、都市内部に溢水が生じないようにすることを目的とする。ほんとうは、こちらの理由の方が汚物排除より先行しているかも知れない。
河川に沿った土地に都市が生まれ、もともとあった自然水流が排水路として使われるようになる。必要とあらば、運河・下水溝などが人工的に作られるようになる。湿地帯の排水によって土地を広げたり、埋め立て地をつくり、そこに都市が作られていく。そういう場合は、ことに排水の機能が重要である。河川管理と下水道とが関連してくる。
下水道の重要な機能をふたつ挙げておく。  
〈1〉汚物・汚水排除〈2〉降水排除
ギリシャ文化を受けついだ古代ローマに、すでに下水道があったことはユゴーも熱弁をふるっていたように、よく知られている。ローマの上下水道や道路については、ここでは触れないことにする。しかし、ローマ帝国衰亡とともに、帝国の誇る道路や下水道なども衰亡し、ヨーロッパの中世都市にその下水道は引き継がれることはなかった。不潔で疫病が流行する長い中世となる。


(5.2.a):欧米の場合
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産業革命によって都市に人口が密集し、工場の煤煙・廃液によって汚染された劣悪な環境が極限にまで達した、そのはてに、ヨーロッパでの近代的下水道がはじまる。つまり、ヨーロッパの近代的下水道は、劣悪化する都市環境を改善するために必然的に・試行錯誤的に作られていったものである。日本の場合のように欧米先進のお手本を見ながら造っていったのとは、根本が異なる。

ここで、有名なエンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』(岩波文庫 上下 1990)を参照しておこう。ドイツ・プロイセンで1820年に生まれたフリートリッヒ・エンゲルスが、父の経営する工場の事務を執るためにイギリスのマンチェスターへ行ったのは1842年のことである。

当時のマンチェスターは人口約40万の一大工業都市で、イギリスのみならず、世界の木綿工業の一大拠点であった。そこでは蒸気力と機械類が用いられ、分業の著しい進展のもとに、大規模に生産が行われていた。(一條和生・杉山忠平 同書解説 上巻p319)

エンゲルスは、短い「第1章 工業プロレタリアート」で、工業が集中し人口が集中し都市が形成されることを述べている。そのうえで、長い章である「第2章 大都市」で非常に多彩な資料を集めて、ロンドンやマンチェスターの大都市で生活する工場労働者や貧民の現実を示す。たとえば、次のような具合である。

「これらの街路は」と、都市の労働者の健康状況にかんする論文のなかで、あるイングランドの雑誌が伝えている。「これらの街路はしばしばひじょうに狭いので、一軒の家の窓から向かいの家の窓へわたれるほどである。家は何階にも高くつみかさなっているので、そのあいだの裏小路や横町にはほとんど日が入らない。町のこの部分には下水溝も、その他、家に属する排水口や便所もない。そのため、少なくとも5万人から出るごみくずや排泄物がすべて毎晩側溝に放りこまれる。その結果、街路をどんなに清掃してもひからびた糞便の山に悪臭が生じるために、視覚と嗅覚が害されるだけでなく、住民の健康も極度におびやかされる。・・・・ たいていの場合、住居はたった一部屋で、換気がきわめて悪く、それでいて窓は割れ、窓わくのたてつけも悪いために寒い――ときにはじめじめしていて、一部は地下にある。寝具は常にとぼしく、まったく住み心地が悪い。だからひとやまの藁がしばしば家族全員のベッドとしてつかわれ、その上で男も女も、老いも若きも、言語道断なざこ寝をしている。水は共同ポンプからしか手に入らない。」(上p84)

わたしは、ここではもうひとつ、下水問題に結びつきそうな箇所を引用することにする。若いエンゲルスの視線を感じることもできる箇所である。

[マンチェスター旧市街の]大通りから多くの裏小路に通ずる、上を建物でおおわれた多数の通路が右左に走り、そこに入ると、他に類例のない不潔と、不快きわまるよごれのなかに入りこむ。ことにアーク川に下る裏小路がそうであり、そこにはこれまでにわたしが見たなかで、無条件にもっとも醜悪な住居がある。このような裏小路の1つでは、上を建物でおおわれた通路がおわっている入口のすぐそばに、ドアもない便所がある。この便所たるやきわめて不潔であって、それをとりまく腐敗した大小便のよどんだ水たまりを通らずには、住民は裏小路に入ることも、裏小路から出ることもできない。・・・・[デューシィ橋から見下ろすと] 谷底をアーク川が流れている、あるいはむしろよどんでいる。それは狭い、真っ黒な、悪臭のする川で、ごみくずを多数浮かべ、より平坦な右岸のほうに流れ寄せられている。乾いた天候のときには右岸に長い一列の不快きわまる黒緑色のぬかるみが生じ、その底からはたえず瘴気性ガスのあわがたち、水面から14ないし15フィートもある橋の上でさえ、耐えがたいほどのにおいを発生させている。・・・・ 橋の上手には丈の高い鞣し工場があり、さらに先には、染色工場や骨粉製造所、ガス製造工場があって、そこからの排水や排物はことごとくアーク川に運ばれる。アーク川はそのほかに、これに接続する下水溝や便所の中身も受け取る。(上p107~109 [ ]は引用者)

エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』執筆は1844~45年に故郷にもどって行われた。
産業革命に伴ってうまれた工業都市の劣悪な住居環境・都市環境は明らかだとしても、ただそれだけでは、未熟なブルジョア国家が下水道を完備した衛生的な都市環境をつくるべきであるという方向に自発的に向かうものではない。その方向へ財政投下・都市改造をうながしたのは、「新型流行病 コレラ」であった。
コレラはインドのガンジス流域の風土病であったとされるが、それが全世界的な流行を示したのは、19世紀になってからである(第1次流行1817~)。コレラは世界交通と劣悪な都市環境によって出現した「19世紀型」の世界的流行病といえよう。
パスツールの「生物の自然発生説否定」の有名な“白鳥の頸フラスコ”による実験は1862年のことである。コッホの炭疽菌の発見は76年のことだが、「病原菌」という概念がそれ以来やっと成立するのである。それ以降はつぎつぎに新たな病原菌が発見されることになる。つまり、“多くの病気は微生物によって引き起こされる”という覚醒が人類に訪れたのは、このころなのだ。「微生物界」の存在が知られ、それが流行病の「原因」となる場合があるという認識は画期的なものであったが、「伝染病」という概念そのものは、原因が何であるかとは独立に、非常に古くからあった。

コレラが伝染病であるということは、その病原菌説が確認される以前から十分知られていたし、また多くの国ではこれが他国から侵入してくるものであることも、それがインドに発原することが確認される以前から、体験的に知っていた。そしてこのコレラ流行はきわめて広域的・世界的であることから、コレラ防疫には自国ばかりでなく、国際的な体制が必要であることも認識されていた。日本でも、文久年間にコレラが流行したさい、すでに洋書調所(蕃書取調所)の教授たちが熱心に検疫のことを力説していた。(立川昭二『病気の社会史』NHKブックス1971 p195)

日本の自主的な防疫・船舶隔離などは、不平等条約によって欧米(特にイギリス)に拒まれ、明治前半のコレラ流行をくい止め得なかったひとつの原因になっている(不平等条約撤廃がなるのが1899(明治32)年)。
一般に、微生物についての認識が下水道問題に関しては不可欠である。そこには下水道問題の本質がどこにあるかを考える鍵がある。このことは、後に論じる。


配水管をS字に屈曲させて臭気トラップをかける発明があって、現在と同じような水洗便所がはじまったのは、18世紀末のロンドンである。しかし、水洗便所も当初は汲み取り式であった。汚水槽からテームズ川への直接の排水が認められたのが1815年のことであるという。だが、排水溝は開渠式であり、汚水や糞尿がテームズ川を汚染し、衛生状態の改善には結びつかなかった。

19世紀にはいると、水洗トイレ-下水道-テムズ河放出という「近代的」な汚物処理システムが急速に普及した。この点でもロンドンは他のヨーロッパ都市をリードしていた。上水道の普及が水洗トイレの普及を可能にしたのである。汚物処理の「物理的」な条件が急速に整備され、住居からの汚物の迅速な撤去が容易になった。(見市雅俊『コレラの世界史』晶文社1994 p146)

つまり、ヨーロッパの近代的下水道の始まりは、河川への直接の汚物・工場排水の放出のシステムであった。当然のことにテームズ川は汚染され、水道の取水口がテームズ川であったために、ロンドン市民は便所・工場の汚水を水道水として飲むことになる。『コレラの世界史』は、インドでの生活体験がある医師ジェイムス・ジョンソンの著作から次のようなところを引いている。

私たちは、隣人が用を足しているそばでヒンズー教徒が喉の渇きを癒すのをみて、彼らにはデリカシーというものが欠けている、と嘲笑う。では、ウエストミンスターのデリケートな市民のことを、一体どう表現すればよいのだろうか。彼らはテムズ河の水で水桶と胃をみたす。ところがそに水は十万の便所が・・・毎日そのぞっとするような不潔な中身を放出している地点で取水されたのである。(同前p148)

水洗トイレによって、水洗トイレをつけられるような裕福な家は、ということだが、たしかに清潔な「私的な空間」ができた。その代わりに河川が汚れ、多数の市民が汚れた水道水を飲むことになった。(実際には、生水を飲まないでビールを飲む人が多かったという。したがって、コレラ患者は女・子供が多くなった。紅茶飲用の流行は1840年代からである。紅茶飲用が単なる嗜好の流行ではなく、19世紀の都市構造にかかわることであったことの認識は重要である。『コレラの世界史』第5章参照。)
テームズ川への汚物・汚水の放流は、家庭排水だけでなかったことは、言うまでもない。ガス会社の廃液のタレ流しもあった。先のエンゲルスの引用には、マンチェスターのことだが、鞣し工場・染色工場・骨粉製造所・ガス製造工場が挙げられていた。つまり、西欧の近代都市においては、工場の建設と工場労働者の移住とが同時に自然発生的に生じたのであり、工場からの排水と生活排水が混じり合って下水を流れ下り、河川に放流されることが避けられなかったのである。
(日本では欧米を見本にして下水道を作ったがために、工場廃液を下水道が引き受けること「混合処理」を前提とした。下水道法第10、12条など。
そもそも「公共下水道」という名称そのものが、下水道は国家・地方行政が用意して建設し、下水道が出来たら全国民はそれを利用する(しなければならない)という原則を、物語っている。それは、勝手に汚水を河川に放出してはいけないということの裏面である。家庭への公共サービスとしての下水道という面と、企業が排出する工場排水の処理を公共下水道が引き受けることは、まるで質が違う。が、その常識が通用しないのである。この点、のちに再述する)

都市内部からの雨水排除のために自然にできていた小川や堀割・側溝を利用していた下水路が、水洗トイレや工場排水の排出路となり、その不潔さから暗渠式となり、土管やレンガの長大な下水管路となる。下水路き開渠式か暗渠式かということが、下水道の「近代性」をみるひとつの指標となる(もうひとつは、管渠終末で下水処理を行うかどうかである)。

ユーゴーも述べていたように、パリでは19世紀初頭から下水道は徐々に普及していったが、下水を直接セーヌ川へ流し捨てる点では、イギリスと同じことであり、コレラの大流行(1831)を防ぐことが出来なかった。

G. E. オスマンによる50年代からの大規模なパリ市街地の都市改造の一環として,水道本管とともに延長400kmに及ぶ下水道が建設された。パリの下水道は,汚水と雨水,それに道路上のごみも洗浄により排除する方式で,これは今日でも特徴となっている。また下水排除のほかに,上水道管,ガス管などの共同地下埋設を兼ねており,幹線では幅6m,高さ5mの大断面をしている。(松井三郎 平凡社百科事典「下水道」項目)

パリ市街の汚水・雨水を地下道に導くことで市内はたしかに清潔になるが、結局セーヌ川に放流するのであるから、セーヌ川を汚染することになる。セーヌ川は、河口の開くイギリス海峡を汚染することになる。

欧米各都市での下水道工事がはじまったのは、19世紀前半から半ばにかけてである。ハンブルグが1842年から、ミュンヘン・ベルリンが58年から、アメリカでは1801年にフィラデルフィアで下水道が最初に設置され、58年にニューヨークのブルックリン地区に、1年遅れてシカゴ市に建設され、60年までにはアメリカの主要な12都市で公共下水道が設置された(松井三郎 同前より)。いずれも、直接河川・湖沼・海へ汚水を放流するものであった。
ロンドンでもパリでも、下水の放流口をできるだけ下流へつけ替え、都市から離すことが行われた。しかし、放流規模が増大するにつれて、下流域の漁業や農業に悪影響が出てくる。そのために、下水道の末端で、何らかの汚水処理を行ってきれいにした処理水を放流するということが行われるようになる。この汚水処理の問題は次節5.3「下水道の本質」で扱うことにする。

ヨーロッパの都市の汚ないところばかり取り上げたので、川添登のつぎのようなバランスのとれた評言を最後に示して、勘弁してもらう。

ヨーロッパの諸都市が、都市の浄化に対して本格的に取り組むようになるのは、ペストによる荒廃からようやく立ち直り始めてからのことと思うが、(中略)イタリアやドイツの都市では、清潔さのシンボルである噴水が、美しくつくられて、その町のシンボルともなっていたが、いまや多くの都市で水道や下水が作られ、道路は舗装されるようになり、都市改造も行われ、カールスルーエやマンハイムに代表されるような新しい都市計画による都市も建設された。そして少なくとも18世紀末には、シュトラスブルグ、フランクフルト、マンハイムなどは、清潔な都市になっていたようである。(『裏側から見た都市』p121)

ギリシャのアテネ、ヨーロッパ中世都市の多く、そして近世のパリ、ロンドン、マンチェスター、それにニューヨーク、シカゴなどは、まことに不潔な都市だった。しかし、それを欧米一般の都市へと普遍化してしまっては、真実を見誤るおそれがある。スペインやイタリアなど地中海の諸都市、ドイツのシュトラスブルク、フランクフルト、マンハイム、それにベルギーのブリュッセル、オランダのロッテルダムなどは、はやくから清潔な都市として知られていたことは、すでに紹介したとおりである。(同p152)



(5.2.b):日本の場合
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「水の都・大阪」はある程度アッピールされ知られているが、江戸も幕府による計画的な埋立地や低湿地へ下町が発展していったため、水路・運河が発達していた。大阪や江戸などの大都市だけでなく、一般に江戸期の内陸水運の重要さは、あらためて全国的に認識される必要がある。内陸水運を維持するには、河川に常に十分の水が流れ、水深もあることが求められた。それは、湖沼・河川管理(つまり、内水面管理)だけでなく、周辺の山岳森林や水田・湿地に対する全体的な目配り/管理が必要であった。

江戸では掘割が発達しており、掘割下水網がくまなく張りめぐらされ上水との区別が厳しく守られていたことは、よく知られている。そして、既述のように屎尿は農地へ肥料として施される広汎なシステムが成立していたので、下水が受け持つのは生活雑排水と雨水であり、開渠式の掘割でそれほど問題がなかった。

江戸では17世紀半ばの正保・慶安のころ,〈下水ならびに表の溝〉〈表裏の下水〉などの管理について,頻繁に町触が出されている。また表通りに面した家は3尺おいた前に〈雨落ちの下水〉を掘り,ふたをして,往来のものが落ちないようにと命じている。このような表の溝,表裏の下水,雨落ちの下水は,江戸の町々が建設されるときにその設置が考えられたのであった。こうして下水は,雨落ちの下水→小下水→大下水と集められて,堀や川へ排水された。

江戸幕府は,こうした下水支配のために初め下水奉行を設置したが,1666年(寛文6)に廃止し,以後は下水の埋まった場合など,そのたびごとに奉行を任命することにしている。さらに後になると道奉行がこれを担当した。下水の管理は町々の負担であったが,近世中期以降になると関連する町々が下水組合をつくり,費用を負担した。(伊藤 好一 平凡社百科事典・同前)

つまり、江戸では当初の都市建造の段階はともかく、後には町々の一定の自治に任せる形で、下水の管理が行われていた。また、それが実際に有効に機能していた。もちろん、これは江戸に限られることではなく、江戸期の日本全体について一定の村・町の“自治”が行われていたことは、多数の証拠がある。(ここでは、渡辺京二『逝きし世の面影』(葦書房1998)から、つぎの引用をしておく。

幕藩権力は年貢の徴収や、一揆の禁令や、キリシタンの禁圧といったいわば国政レベルの領域では、集権的な権力として強権を振るったのであるが、その代償といわんばかりに、民衆の日常生活の領域には、やむをえず発するそして実効の乏しい倹約令などを例外として、可能な限り立ち入ることを避けたのである。それは裏返せば民衆の共同団体に自治の領域が存在したということで、その自治は一種の慣習法的権利として、幕藩権力といえども叨に侵害することは許されぬ性質を保有していた。(p221)

この渡辺京二の労作は、江戸期から明治前半に来日した外国人の残した見聞記・旅行記などをもとに、近代以前の日本の“面影”を浮かび上がらせようとしたものである。「日本近代について長い物語を書きたいという途方もない願い」(本書「あとがき」)に突き動かされ、その壮図を実現すべく書かれた1冊目であることは本書『逝きし世の面影』が「日本近代素描Ⅰ」と題されていることから分かる。今後が期待される重要な書物。)

明治維新以後、銀座通りの洋風改築などが実施されたが、道路脇溝渠が整えられただけで、下水道敷設という発想ではなかった。都市の下水の必要性が認識されたのは1877(明治10)年のコレラの大流行以後といわれる。オランダ人技師 J. デ・レーケの意見によって,1884~86(明治17~19)年東京神田鍛冶町などに分流式下水道(雨水と家庭汚水を分ける)を建設したのが日本の近代下水道の最初とされ、レンガや陶管で延長約4kmが敷設された。また同じころに横浜外国人居留地にもレンガ造りの下水道が敷設された。

上の神田鍛冶町の下水道4kmは、それだけで孤立しているもので、東京市の下水道網建設という展望をもって作られたわけではなかった。一種のアドバルーン的なものであった。「都市下水道計画」といってもかまわないものは、1889(明治22)年、W.バルトン、長与専斎(内務省衛生局長・医学)が東京市に提出した「東京市下水道設計第一報告書」が第一であろう。(ただし、この計画書は着工されずに終わった。)
雨水を下水に入れるべきかどうかを検討している箇所。

汚水管に雨水を流入せしむるときは、汚水管を大にせざるべからず。之を大にするときは従って工費を増加するのみならず、降雨なくして雨水の管に流入せざるときは、水量甚だ少なくして流下の速力大いに減じ、汚水の流過を以て自然管の中を掃除すること能わざるの不便あり。・・・・・・雨水を汚水管に流入せしむるときは、汚水を希薄にし従って其の分量を増加するを以て沈殿法・濾過法・灌漑法を用ひ汚水を排除するに困難なるは勿論、汚水管を大にし、且つ喞筒[ポンプ]機械を用ふるに於てはその機械力を増さざるべからず。(『東京市下水道沿革誌』初版大正3年 東京都下水道局再発行1978 p81 原文は漢字カナ混じり文、濁点、句読点なし)

要するに、合流式にすると管渠やポンプ場が巨大化し、工費が増大する。下水処理の点でも不利である、と言っている(「灌漑法」は畑のような広い地に下水を導き、滞留させて浄化する方法。フランスなどで行われていた)。百年後の官僚と土建屋と違って、バルトンらは工費を心配して、できるだけ内輪で済む工法を考えていて、分流法を提案しているのである。
分流式を採用するもうひとつの理由として、合流式は降雨のある時とない時とで下水管中を流れれる水量が非常に異なる。雨水のない少量の場合でも下水管をきれいにしておくために、管の断面を卵形にする必要があるが、これの製作は難しく費用がかさむとしている。また「雨水を汚水管に注入せしむるの弊は多年欧米衛生学者認識するところとなり」とも言っている(p82)。
「衛生学者」がその弊害を認識しているのに欧米で分流式の採用が少ない理由に触れつつ、次のように述べている。

欧米諸都府に於いて、雨水を汚水管に流水せしむるは、実施止むを得ざるに出づるものありと雖も、本邦に於いては家屋の敷地街路と概ね同水平に在るを以て、雨水の多分を汚水管に流入せしめざること亦難からず(同前p82)。

欧米諸都市でなぜ分流式にしにくいのか理由が不明瞭であるが、日本の場合、雨水の多くが「街路」の溝渠に集められ排除されている従前通りの方式を使用できることを指摘しようとしている、と理解できる。つまり、江戸以来の溝渠を従来通り雨水排除に用いれば、下水道は汚水専用にすることができる、というのがバルトン・長与案の「分流式」採用の根拠であったように読める。本当は、雨水排除用の管渠建設も含めて計画すべきであるのに。この点、次に扱う18年後の中島鋭治案のほうが論として徹底している。ただし、中島案は「合流式」を主張するが。

糞尿の排除について、バルトン・長与案がどのような見解であったかを見ておく。結論は、「糞尿は引き受けない」というのである。

糞尿は農家の肥料に供する必要品にして、東京市内の糞尿は近県に搬出し、其の値を計算するときは巨額に至るべし。・・・・・・今欧米諸都市の例に倣ひ、之を汚水管に流入して排除するの必要を見ず。(同p82)

屎尿の肥料としての価値をまったく疑っていない、と言っていいだろう。欧米のまねをして下水道で排除してしまうことを戒めている、とも言える。そのうえで、「水雪隠」(水洗トイレ)も将来は増加していくことを踏まえ「糞尿を汚水管に流入することを禁ぜず」としている。
糞尿の搬出法については、江戸期以来の「慣行に従」って行うが、さらに「改良を勉め」ればよい、としている。
糞尿を引き受けると下水管中の「不潔」が増す、という心配はないことをつぎのように断言している。糞尿の下水管排除に未経験な日本人への提案としての配慮である。

糞尿を汚水管に流入するも、此の設計を用ふるときは、衛生上決して障害を為すものにあらず。加之[しかのみならず]欧米の実例に徴するに管中汚水の不潔は、糞尿を混ずると否とに関せず同一なりとす。(同p82)

この、バルトン・長与案(総工費350万円)は、しかし、実施に移されることなくこのままタナザラシの憂き目にあってしまう。東京の長年の懸案であった「市区改正事業」(都市計画事業)が予算不足の中で行われていく際に「上水道優先」がとられ下水道は後回しになっていった。
明治当初から東京の上水の不衛生な状態についても気づかれており、江戸以来の木管による流水式(神田上水などから分流する)では汚水や雨水の流入が避けがたく、伝染病の感染源として改良が強く望まれていた。上記バルトンは、同時に上水道案もつくっており、上水道完成の後に下水道にかかるとして延期されたのである。

三多摩地方が神奈川県から東京府に編入されるのが1893(明治26)年のことであるが、これの最大の理由は、水源である多摩川の確保であった。東京市の近代的水道は1897(明治30)年を目標に工事が行われた。

3年の遅れで、明治32年12月10日、全市への給水を開始する。[都市計画上で]新参の水道が古株の道路を抜いて着手され、わずか3年の遅れで、一歩の後退もなく実施されたのはなぜであろうか。ひとえに伝染病対策を兼ねていた点に答は求められよう。明治19年の夏、東京はひどいコレラ禍に見舞われており、菌に汚された水をそのまま家庭に届けてしまうこれまでの流水式江戸水道は恐怖の的となり、何をおいても上水改良をうながさずにはおかなかった。(藤森照信『明治の東京計画』岩波同時代ライブラリー1990 p251)

ただし、誤解のないようにする必要があるが、コッホのコレラ菌発見が1883(明治16)年であり、未だこの段階では「これまでの流水式江戸水道は恐怖の的となり」といっても、現代の感覚とは同じではない(病原菌を主張するコッホと衛生学権威のペッテンコーフェルの対決があったのが1892(明治25)年11月2日のことである。ペッテンコーフェルはコッホのコレラ菌培養液を飲みほして見せたが、発病しなかった)。伝染病という概念はもちろんあったのだが、いまだ当時は、汚水・悪臭などを排除する「衛生学的予防法」が主流の時代であった(第4.2節で紹介した「自働手洗器」の宣伝文の中に、「衛生法」とあった)。上水道を完備して衛生を重視するというコレラ予防法に対して、コッホのワクチンなどを用いる免疫的方法が主流となり「水道から注射へ」の転換が行われるのは、大正中期である(藤森前掲書p252)。

1907(明治40)年、土木畑の東大助教授中島鋭治が東京市の新しい下水道設計調査をまとめた(「東京市下水設計調査報告書」)。そこでは、バルトン・長与案と根本的に違う合流案が提案されていた。

下水工事の目的は、適当の水路に由りて、雨水及び汚水をして些かも途上に停滞せしむることなく、其の腐敗を始むるに先だち凡て之を市外に排除処分せんとするにあり(『東京市下水道沿革誌』p126 原文は漢字カナ混じり文、濁点、句読点なし)

中島案は、雨水排除に関して「合流法」(合流式)と「分離法」(分流式)があるとし、合流式を採用する理由を次のように述べている。

  • 東京は降雨量が多く、雨水排除は汚水排除と同様に目下の急務である。

  • 道路が狭く屈曲あり、「電車道を始め、水道瓦斯電話地下線」などがすでに縦横に走っている道路に、雨水用・汚水用の2本溝渠を埋設するのは困難である。

  • 分流式にくらべ合流式は溝渠が1本で済み、工費が節減できる。

  • 降雨のたびに、大量の雨水によって下水管が洗浄される。管が大径となるので、検査修繕が容易になる。

広い低湿地帯を抱える東京市(中島案では「下谷浅草或いは本所深川の4区」をあげている)では、雨水だけでなく「地下水の排除」が必要であり、それの必要性をうたった中島案の合流式提案は、工費節減もあって、説得力を持っていたと考えられる。
だが、下でも再度述べるように、この中島案を東京市が採用して以降、日本全国の都市で合流式が主流になっていくことになる。そして、都市が巨大化していけば行くほど、雨水の合流式排除が本質的に難しい問題を提起してくることになる。

中島案の糞尿排除への態度を見ておく。

糞尿を下水管によりて排除するは、欧米諸都市の慣例なりと雖も、本邦においては糞尿は農家唯一の肥料にして之を下水に排出するの習慣なし。然るに時勢の進運に伴ひ、漸く家屋の構造を改め水雪隠を設くるもの逐年増加の傾きありと雖も、本計画に於ては之を収容するも支障なし。(同p144)

ここの論理はダルトン・長与案とほとんど同じである。「糞尿は農家唯一の肥料」であるとしながらも、水洗トイレから下水道へ流される糞尿を引き受けてもかまわない。そうしても下水道としての働きに支障は出ない、と機能的にとらえるだけで、論をとどめている。
総事業費は3366万円で、これは明治40年度の東京市の総財政規模の2.5倍であった。これが実際に動きだすのは尾崎行雄市長の1911(明治44)年6月からで、このとき下水改良事務所が設置された。

バルトン・長与案がタナザラシにあって東京の下水道実施が先送りになっている間に、下水道法・汚物掃除法などが1900(明治33)年に成立している。このころに、日本の技術者による最初の近代的下水道が行われている。中島鋭治の計画で1899(明治32)年に着工した仙台市の合流式下水道である。

中島鋭治が合流式下水道を採用してからは,広島(1908年着工),大阪,名古屋,東京(いずれも1911年着工)の都市に続いて函館,岡山,明石,松山,会津若松,福島,大分の諸都市が合流式下水道を建設していった。以後,第2次世界大戦前の日本では合流式が主流となった。(松井三郎 同前百科事典)

仙台、広島などの下水道がどのようなものであったのか、興味があるが、わたしは今はそこに手を伸ばす余裕がない。これらの地方が幕末-明治前半の変動をどうくぐり抜けたのかに関係するのか、それとも無関係なのか。ここに挙がっている都市名、函館,岡山,明石,松山,会津若松,福島,大分から何が読みとれるのか、“下水道からみた日本近代地方史”というようなことを考えたくなる。資料をきちんと収集して全集刊行を構想するようなことをこそ、日本のお役所はやったらいい。下水道工事の巨大プロジェクトに比べればほんのはした金で済む。

日本で最初に作られた下水処理場は、三河島汚水処理場で、竣工は1922(大正11)年。「散水濾床法」が用いられた。だが、これはうまくいかなかったという。東京での処理場稼動の様子を見ていた名古屋や大阪では、すでに世界の主流となっていた「活性汚泥法」を用いての実用化が行われていった。
下水道史の資料(東京都下水道局編著など)や著作をいくづか読んでみたが、戦前の日本での下水処理にかんする研究は欧米の水準に遅れないように、熱心に行われていたといって良いと思う。下水道関係の現場にいる技術者や関連分野の大学研究者などは、健闘していたと言えるだろう。だが肝心な点は、戦前の日本では、下水道問題が都市計画の重要分野として位置づけられることはなく、“余裕があれば手当てする”という程度の扱いで終始してきた、ということだろう。

既述のように、江戸期には都市屎尿を郊外農村へ供給する循環システムが見事にできあがっていた。そのシステムは農村から都市へ作物を、都市から農村へ屎尿をという意味で循環システムなのであった。だがその伝統的状況とは無関係に、明治・大正・昭和と小規模ながら近代的都市の下水道が建造され、屎尿を河川・海へ流出するシステムができていった。それと並行して

  • 都市への人口集中によって、屎尿排出量の増大

  • 近郊農地の宅地化

  • 金肥(魚肥、大豆かす、過燐酸石灰、硫安)の普及

などによって、屎尿の需給バランスが崩れていく。それまで、近郊農家が屎尿汲み取りにやってきていたのが、来なくなって都市住民が困惑するのである。市民の窮状に突き動かされ、東京市が汲み取りに乗り出さざるを得なくなる。そして、1920(大正9)年から、市営の有料汲み取りが始まる。江戸期以前から続いてきていた「肥の汲み取り」をキーワードにした循環システムが崩れだした、画期の年である。
その前後を年表で表しておく。


1919(大正8)年東京市は市営の無料汲み取り1920(大正9)年東京市は市営の有料汲み取り1921(大正10)年「水槽便所取締規則」で浄化槽式の便所1922(大正11)年東京市の下水道に水洗便所取り付け可となる1923(大正12)年震災直前で、都心・下町に186kmの下水道

その間、都市的下水道は徐々に広がってはいた。特に、大正末から昭和初年にかけての不景気時代に「失業対策下水道工事」と呼ばれる事業が行われた。(昭和2~7年、事業費375万円で東京山の手地区に45.5kmの下水道を引いている。なお、不景気になると下水道工事というパターンは戦後も変わらずに、行われている。)だが、屎尿を運ぶ大八車や汚穢馬車・汚穢自動車の行列は、第2次大戦後までなくならなかった。(バキュームカーは、川崎市の工藤庄八という清掃課長の苦心によって昭和27年に完成した。特に、圧に耐えさせるゴムホースの工夫、その長さ、など興味深い苦心談は、村野まさよし『バキュームカーはえらかった!』(文芸春秋1996)川崎市が清掃の先進都市であったことなど、この本で初めて知った。)
東京の下町の水辺で、かつてはいくらでも見かけた「汚穢船」の実態が、上の『バキュームカーはえらかった!』に出ていたので紹介しておく。昔、汚穢舟に乗っていた人の談話なのだが、こういう生き生きした記録はめったにない。役人は勿論、ブルーカラーもこの種のことは話したがらないから。

[野島崎灯台沖、何マイルというような]投棄の場所に行ってバルブを開けると、黄色い帯が何百メートルも船の後ろにつづくんですよ。走りながら排出するわけですからね。きれいとかなんとか思いませんでしたが、充実感がありましたね。・・・・・・コヤシのなかにいるウジ虫とか、回虫をえさにするんでしょうかね、かもめをはじめとしてものすごい数の鳥が、どこからともなく集まってきましたよ。何百、何千羽と集まってきました。(p148)

厚生省の資料(『日本の廃棄物』88,91,94,00)による、糞尿の海洋投棄の量。


西暦 年度196370758085919597m3/日13,12213,62213,26313,15810,1517,3405,9845,679汲み取り屎尿中の%20.514.912.411.89.77.36.36.1
これは、バキュームカーなどによって汲み取ってくる糞尿についての統計である(つまり、最初から下水に流される水洗トイレの分は含まれていない)。1997(平成9)年度については、1日の汲み取り総量が9万2608 m3であって、そのうちの6.1%が海洋投棄されているのである(日本全糞尿量の2.3%推計)。毎日の海洋投棄分5,649 m3が、4tトラック 1400台ほどというのだから、なかなかすごい量だ。
人口でいうと97年度は、総人口1億2614万のうち水洗トイレ使用者が9953万(78.9%)、未使用者(汲み取り便所の人)2661万(21.1%)。(上表の最新が97年になっているのは、『日本の廃棄物』の最新刊2000年所載がそうだからである。少なくとも91年版までは著者は厚生省をうたっていて、毎年発行だったようである。発行者は社団法人全国都市清掃会議。お役所系の発行だからどの公立図書館でも完備していそうなものだが、実際にはちがう。2000年版を東京都図書館横断検索でさがしても、39都区市町の図書館中わずか4館しかヒッとしない。2000年12月の日付のある2000年版の「まえがき」には

厚生省では「廃棄物処理事業実態調査」を毎年実施し、その結果を公表しておりますが、その解説版に当たる、いわば「廃棄物白書」ともいうべきものが、この「日本の廃棄物」です。
いうまでもなく、「日本の廃棄物」はわが国の廃棄物処理の実態を一覧することの出来る唯一の刊行物であり、その継続的な刊行は各方面から強く望まれているところです。

としている。にもかかわらず、92年以降は毎年発行ではなく、実際の流布状況もお寒い限りである。このように、わたしのような在野の者が厚生労働省のデータにアクセスするのは難しい。「廃棄物処理事業実態調査」を厚生労働省のサイトで検索しても、見当たらない。
建設省がにぎる下水道関係では、全国的「白書」はおそらく存在しないのではないか。)

江戸崩壊から百年間のあいだ、欧米に範をとった都市下水道システムと伝統的な屎尿循環システムとが共存していた、と考えることができる。そして、中島鋭治以降の都市下水道システムが関心を持っていたのは“欧米のシステムをどのように日本に移入するか”であって、並存していた伝統的な屎尿循環システムから学ぶという観点はほとんど見られない。
だが、伝統的な屎尿循環システムの方は伸縮自在なところがあって、第2次世界大戦の困難な時期には自家菜園にイモを作ったりする際には見よう見まねで肥汲みをしたりした。終戦後の食糧難時代に、化学肥料も供給されないころには屎尿がもてはやされたりした。

ついでに、ここに記しておくが、東京では第2次大戦の終わりごろには燃料も乗組員も不足して、海洋投棄の汚穢船を出すこともできなくなった。空襲の危険もあった。海洋投棄の禁止が1944年5月。都民が困惑した。東京都が西武電車・東武電車に依頼して、電車で都民の糞尿を郊外まで輸送し、線路脇の肥溜から農民が汲み取って畑へ施すという糞尿輸送策を作りだした。44年6月から始まり、西武が53年3月まで、東武が55年3月まで続いた。名古屋でも名鉄が同様のことを実施している。(ネット上では民鉄の黄金列車(糞尿の鉄道輸送)が詳しい。また、小林茂『日本屎尿問題源流考』に、東京都の場合の朝日新聞昭和55年12月20日号の特集からの引用があって、興味深い。)

戦後日本が下水道建設に本格的に乗り出すのは、経済の高度成長段階(1960年代)に至ってからである。やっとこの時期にいたって、工場排水・家庭排水の河川へのタレ流しによって全国的に河川の汚染が急激に進行し、下水道建設・廃水処理の必要性が急務であることが認識されるようになった。第1次下水道整備5ヶ年計画がはじまるのが1963(昭和38)年である。この年を、重要な画期と考えたい。

明治維新から第1次下水道整備5ヶ年計画までと、それ以降の日本経済の高度成長段階とともに進展する日本の下水道の問題とは区別して考えた方がいい。この前期・後期の分割はわたしが仮に思いついた作業仮説である。すなわち

前期(明治維新~第2次世界大戦後):
明治後半になって日本各地において、都市中心部だけでも雨水・糞尿排除という最低限の都市機能を作り出そうとして下水道建設が行われた。コレラ禍がきっかけとなった場合が多い。上水道がつねに優先され、先送りが常の、オマケの都市計画のようなものであった。
日本の近代化の歴史のうちにふくめて考えるべきである。

それに対して、

後期(高度成長期~現在):
日本の土木官僚が「大きいことはいいことだ」という日本経済の肥大症に伴って下水道問題を意図的にねじ曲げたのと、公害問題や環境問題の進展が重なってきた時代である。
河川護岸工事・ダム建設・海岸の護岸工事や埋め立て、高速道路・新幹線の建設、都市の徹底舗装(くるま社会)などと連動している。

前期の近代化の段階では、下水道建設は都市建設における主たる問題であるとは考えられていなかった、あるいは、後回しにされてきた。後期の現代の問題としては、巨大土木工事の大波のなかで、官僚や土建屋の餌食になってしまったことが一番大きい。だが、宇井純・中西準子などの少数の学者の努力、日本各地に起こった住民運動、日本経済の失速などによって、官僚側もある程度の軌道修正を行ってきた。そういう、改善の面もあることは認めなければいけない。

だが、わたしが日本の近代-現代の下水道史を見てきてもっとも感じることは、下水道はわれわれの排泄行為に直接つながる私的極点から始まる問題であるにもかかわらず、市民の主体性が完全に骨抜きにされ、「お上頼り」になってしまっているということだ。われわれの心的姿勢が「お上頼り」になってしまっている。裏返して言えば、下水道のことを完全なブラック・ボックスにして、「お上任せ」にしてしまっている。この重要な分野(人間生活の重要な分野)を、非主体的に生きることで失っているものがたくさんあるのだろうな、と思う。願わくは、わが私的極点に発するこの分野に主体的な見通しをもって、のびのびと生きたいものだ。

しかし、ことは下水道だけの問題ではない、というべきだ。近代日本においては都市建設そのものが「外圧」にはじまり、あわただしく「普請中」(森鴎外の小説の題名、1910年)を続けるものであった。その中で、市民の私的生活に足をおいた主体的都市造りという観点から「近代日本の都市計画」を見直すことが必要だと思う。「お上」と大企業と大学教授にばかり、都市計画を語らせないで。
近代日本の都市計画(地方都市計画、および都市計画史)を見渡すこと、その遠近法のなかで「近代日本の下水道問題」を扱うというのが、本筋だろうと思う。



ここまで、日本近代-現代の下水道史を簡単に見てきたが、汚水排除を中心にしていた。以下、下水道のふたつ目の重要な機能である雨水排水について、すこし触れておきたい。日本では降雨量がおおく、排水問題はきわめて重要な下水機能なのである。

東京の場合をメモしておく。東京(江戸)は利根川・荒川などの水系の下流域に発達した平野にできた都市であり、元来、河川には恵まれていた。そのことはまた、洪水も多かったことを意味しており、江戸時代以前から治水工事が行われていた。江戸時代には「利根川東遷、荒川西遷」といわれる、大工事が行われたことは有名である。もともと両川とも(現在の)東京湾に流れ込んでいたのを、利根川を東へ移して銚子へ持っていき、荒川はもとの入間川につけ替えた。これによって、洪水を防ぐだけでなく、水運の便を計った。

[東京]市内および近郊を流れる河川は荒川、中川および江戸川の3川をはじめとし、大小63あり、総延長8万7630メートルあって、交通上重要な位置をしめているばかりでなく、雨水はこの河川に自然に流れこみ放流されていた。目黒川、古川、神田川、汐留川などはみな市内を流れ主要な排水路になっていた。(『東京百年史』第3巻 p709)

中川も江戸川も利根川の旧河道。なお、隅田川は荒川の下流部を言い(江戸時代は大川と言っていた)、現荒川は1930(昭和5)年に完成した荒川放水路のこと。
『東京百年史』は明治20年代はじめ、東京の公道は延長960kmと見積もられ、道の左右に溝渠のない部分も多かったとしている。

大雨が降れば、公道が排水路に変わり、たちまち道は泥濘化することもあり、道路が舗装されなかったこともあって、東京の道路にぬかるみの多かったのもこの下水道が完備していなかったためであり、溝渠には汚水が停滞して蚊や蝿の発生源となり、衛生上からも放任できない問題であったのである。また道路が乾燥すると両側の溝渠の汚水を撒水に利用することもあって、臭気が鼻をつくような場合もあったのである。(同p709)

上でちょっと触れた荒川放水路は、1910(明治43)年8月の大洪水のために埼玉県から東京市下町一体が水没する被害が出て、放水路をまったく新たに掘削して作るという大工事を行ってできたものである。現在の岩淵水門(東京都北区)から隅田川が始まっているが、この大工事まではそれが本流であった。



岩淵水門から上流を見ている。赤い水門は旧岩淵水門(1924~82年の間使用されていた)でその右手が現在の荒川本流。赤い水門から手前左方へ延びる水路が隅田川のはじまり。遠景に荒川水源の秩父方面の山が見えている。2003-1/28撮影。
荒川放水路の工事は、当時としては非常に思い切った巨大工事であったことを指摘しておきたい。買収面積1098町歩・移転戸数1300戸で、蒸気式の掘削機を導入している。仮の河道ができた段階で水を入れ、浚渫船で川底をさらに掘った。これは人力頼りだった土木工事に、わが国で最初に機械力を導入した画期的なものである。できた放水路は幅500mで約21kmであった。いま行ってみると分かるが、人造河川と思えない広い川原をとっていることに驚く。もちろん、洪水時の遊水地としてなのだが、現在はゴルフ場やグランドとして利用されている。

この工事の責任者・青山士[あきら]は内村鑑三門下で、パナマ運河建設にかかわったただ一人の日本人技師である。青山の知見と経験があってはじめてこの画期的大工事が可能だったのだろう。蒸気式の掘削機械の最初は、スエズ運河開削工事の後半(1860年代後半)だという。もちろんパナマ運河でも使われている。買収面積約11km2は現在の小さめの区の面積に相当する。墨田区14km2、台東区10km2。
青山士は後に内務技監(内務省の技術官僚のトップ)、日本土木学会会長などに就いているが、その清廉高邁な人生態度は氏を知る人に感銘を与えるものであったようだ。荒川放水路の工事の途中の1921(大正10)年に機械学会に招かれた講演で、つぎのように述べている。

[荒川放水路の]工事費は都合2945万円要ることになります。2945万円というと大分大きな金のように思われますが、軍艦一艚備えれば3200万円掛かるのであります。軍艦たった一艚、それで荒川の水害を除くことができるのであります。荒川の水害というものは明治40年と43年位の洪水では、ずっと上から浸水区域を調べますと56万町歩浸水してしまうのです。(中略)荒川上下共で6300万円位掛かりますが、まあ軍艦2艚でそれが出来る訳であります。そうすると百姓がたすかるのみならず、洪水が出るといつも人も死にますが、そういうようなことを思いますと、私どもは終始泥まみれになって仕事をしておりますが、お互いにもう少しばかり不便を忍んで仕事をしていいと思って、毎日毎日泥を掘っております。(高崎哲郎『評伝 技師・青山士の生涯』講談社1994 p152)

青山士の『評伝』を読んで驚くことは、青山が大工事をなしとげてその記念碑・銘板に自分の名前をほとんど残さなかったことである。荒川放水路の場合は「多大ナル犠牲ト、労トヲ払ヒタル我等ノ仲間ヲ記憶セン為ニ」として、「荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ」としている。(青山士については、他に『写真集 青山士/後世への遺産』(山海堂1994)がある。)

荒川放水路の思い切った巨大工事を考えると、明治-大正期の政府・東京市の指導者たちの見識とスケールを改めて認識し直す。かれらは明治年間には東京に下水道工事をせず、それ以後も大正から昭和戦前期には予算をケチりながら、最低限の下水道建設しかしなかった。それは、第1に富国強兵の軍事優先国家として民生に予算を回さなかったこと、第2にそれを許す糞尿を肥料として利用する伝統があったこと、第3に高「密集」の都市が少なかったこと、などをその理由として上げることができよう。明治43年の大水害は(千住方面の人は「43しじゅうさん年の大水」と言っていたらしい)、東京下町一帯は一面の泥水になり、その秋は船で通行することが続き、水が引いて地面が見えたのが12月だったという。つまり、下水道工事は先送りを続けていた政府・東京市の指導者たちも、「この規模の水害を回避できないと首都としての東京が存立できない」という決断をして実施した、必死の巨大工事であったのではないか。 (荒川に関する情報は、荒川「歴史教室」がお勧めです。)


一般論としては、都市からの排水には次の2つの課題がある。

  • 雨水の排除。これは溝渠によって河川へ導くという自然的システムに始まる。

  • 地下水の排除。低湿地帯の排水や埋め立て地の排水など。

雨水の排除については、降雨がどれだけ地面にしみ込むか、舗装がどれだけしてあるか、によって、この問題の深刻さがまったく違ってくる。舗装率が上がると降雨のほとんどすべてが人工的な溝渠に集中するので、処理すべき水量が極端に大きくなる。 合流式の場合には日本のような雨水の多いところでは(特に、台風など集中豪雨がある)、降水量のピークを想定して巨大な管路・処理設備を作らざるをえない。日常的には眠っている設備を豪雨のためにあらかじめ用意しておくのである(家庭汚水の排出量を雨量に変換すると、平均 0.1㎜ 程度で、きわめてわずかの雨量でしかないのだそうである)。しかし、百年に1度、2百年に1度の降水量ピークを想定しても、それにもかかわらずその処理能力をうわまわるような豪雨がありうる。地球温暖化・都市のヒートアイランド現象によって記録的な強さの豪雨が、局地的に降るようになってきている
したがって、都市内部からの雨水排除を単に下水道だけの課題として引き受けようとすると、“下水道の巨大化”を発想していかざるをえず、しかも、その巨大化には限度がない。このことは、巨大土木工事が欲しくてしかたがない土木官僚-土建業界にとっては、願ってもないことである。
下水道の巨大化は、下水道が“金食い虫”となることを意味する。公共性を錦の御旗にする下水道であるから“税金食い虫”である。ところで、下水道が“税金食い虫”であって、直接困る人は誰もいない。官僚は自分に巨大予算がついて嬉しい。事業を発注される土木関連企業は、潤う。住民は立派な下水道ができることで、満足。この構造があるために、下水道関係者は問題を「できるだけ下水道だけの問題として引き受けたがる」。本当は都市計画や国土計画全体の見直しを必要とする問題であるのであっても。

極端までいった下水道工事の“巨大主義”は「流域下水道」で現出した。地方公共団体を単位にして設置される「公共下水道」にたいして、複数の市町村にまたがって設置される下水道のことである。市街地の「密集」特性から離れて、長大な管渠を設置する必要が生じる。これにかんする問題点は、第5.3.c節流域下水道で扱う。

いま東京で行われている下水道関係の巨大工事は、豪雨の際の浸水・氾濫防止として「地下遊水池」建設である。道路・環状7号線の地下に内径12.5mという4階建てビルほどの管状空間をつくり、7号線が横切る妙正寺川・善福寺川・神田川があふれそうになったら、地下「遊水池」へ導こうとする計画。鹿島のサイト神田川・環状七号線 地下調節池を見てください。これが、ある程度の氾濫防止になることは確かだろうが、万全でないこともあきらか。ヒートアイランド化した東京の夏で、かつてない激しい集中豪雨があるかもしれない。ゆえに、この工事がおわったら、その次は・・・・・・と“税金食い虫”は盛んに活動して、とどまることはない。

わたしの身近に起こった水害なので、生々しく記憶している1999年7月21日の「練馬新宿水害」では、100㎜以上の雨が1時間ほどの間に中野区北部から練馬区江古田地区の狭い範囲に降った。都市型水害の被災者になってという優れたレポートがある。「都市型水害」という名称も重要だと思う。従来型の水害は“川の方から水がくる”のであるが、都市型水害は、何と“風呂場の下水口から水が逆流してくる”のだ。

大雨の場合、処理しきれない下水は、処理せずに河川に放流するしかない(河川への出口を「雨水吐口」という)。合流式の場合には、下水中の糞便・油かす・工場廃液・ゴミなどが直接河川に放出されることになる。しかも、初期雨水は、屋根・道路などに堆積していた粉塵など汚染物質・砂泥をまき込んでくる(これは分流式でも同じ)。合流式の場合は、水量の少ない通常時に下水管で停留していた汚物堆積をも一気に押し流してくる。ゆえに初期雨水は、大量な/濃厚汚水が一気に流出する可能性がつよく、受け入れられない量(オーバーフロー分)は、都市河川へそのまま放流する(それをしなければ/できなければ、ただちに浸水となる)。大雨の時に未処理下水を河川に放流する、これは合流式都市下水が原理的に抱え込む困難な問題なのである。そして、ことに初期雨水は汚ない、というわけだ。

次は、国土交通省サイトの「合流式下水道の改善」からの引用(強調は引用者)であるが、わずか2,3 mm の降雨でオーバーフローが生じるというのには、驚く。

汚水と雨水を同一の管きょで排除する合流式下水道は、早くから下水道を整備している大都市を中心に採用しています。昭和40年代後半以降、新規に着手する市町村では分流式下水道を採用しています。 雨天時には、約2~3mm/hの降雨で合流式下水道から未処理下水が流出するため、公衆衛生上、水質保全上極めて問題です。未処理下水の吐口(雨水吐) は全国で約3,000箇所です。そのうち東京都では、約800箇所です。 合流式下水道の改善に必要な施設の構造及び放流水質を規定するなど、下水道法施行令を改正しました(平成16年4月1日施行)。 改善計画を策定し、原則として10年以内に対策を実施します。

平成14(2002)年度末現在で、合流式を使っているのは、都市数の約1割・処理区面積で約2割・処理人口で約2割であるという(上記サイトにはもっと細かい数字や、初期雨水が河川に「糞便大腸菌」をどれくらい吐出しているか、などを示している。それを見ていると、雨の降り始めには都市河川には近づかない方がいい、と思えてくる)。
初期投資は合流式の方が安上がりとしても、雨量の多い日本の都市では分流式の方が適しており、先にバルトン・長与案(明治22年)の「雨水を汚水管に注入せしむるの弊は多年欧米衛生学者認識するところとなり」を抜き出しておいたように、理論的にも分流式がすぐれていることは、19世紀からの定説であった。上に見るように、日本の行政がこれを受け入れるのが「昭和40年代後半以降」(1970年以降)なのである。

都市の排水問題で、もうひとつ扱っておきたいのは舗装のことである。土の表面を敷石・コンクリート・アスファルトなどの固い被覆層で覆ってしまうことだ。
道路が舗装される前は、雨ごとに道がぬかるみとなり、水溜まりができたものである。強雨となれば、洪水の可能性があった。洪水とまで言わなくても「雨が降ると子供の通学も出来なかった」(『明治文化史12 生活篇』p363)というような道路は珍しくなかった。したがって、道路に排水溝を設け、下水道に導くなどの「浸水対策」が必要になった。
埋め立て地・低湿地帯に都市をつくる場合、地下水位を下げることが必要であることは、1907(明治40)年の中島鋭治の東京市下水道案にもあったことを既述した。
その後、トラックやバスが泥道をムリヤリに走るので、道路が荒れ、雨が降ると水たまりができひどい泥はねが普通のことだった(トラック・バスが、戦前の日本では軍用のため特別保護をうけていた)。(わたしは終戦後まもなく小学校へ入学した世代だが、親から“歩き方”を厳しくいわれたものである、“ハネの上がらないように歩きなさい”と。下駄を履いてぬかるみ道を歩いて、ハネを上げないのは神業に等しかった。向こうからバス・トラック・乗用車などがやってくると、ハネを掛けられないように傘で避けたりした。)

日本の都市では条坊制の側溝以来の古い伝統があって、江戸でも排水溝が公的指示によって作られていたことは知られている。しかし、明治以前には馬車が使われることはなく、貴族たちが使用した牛車は都城を出ることはなかった。近畿圏の一部では江戸期には、牛車が米などの運搬に使用され、割石を敷いて補強した道路が設置されたという(大津-京都-伏見の“牛車稼ぎ”)。
日本での荷馬車・乗合馬車の増加は明治10年代に入ってからで、道路の近代化(砕石道路・舗装道路、幅員の拡張、急カーブ・急坂などの是正、橋梁・トンネル)は遅れた。アスファルト舗装が大規模にはじまるのは関東大震災(1923)以後のことで、自動車交通の普及が本格化する第二次大戦後を待って、本格的な舗装道路建設がはじまる。

道路の舗装は、自動車を中心的な輸送手段とする社会(“くるま社会”)と深くかかわっている。(くるま社会は、石油多消費型社会の基幹構造のひとつである。遠距離・高速の「輸送」をキー・ワードとする社会である。それは自動車産業・石油業界にとって、なくてはならない社会環境である。道路建設で土建業界が潤うのはもちろんだが。
船舶・自動車・航空機による輸送は、かつてなかったような遠距離・高速な大量なものの移動を実現し、それによって、はじめて、大量生産・大量消費が可能となった。生産地と消費地が遠く離れていること、世界をまたいで各地から原料が生産地へ集まること。輸送が石油多消費型社会のキー・ワードであることは、強調しておく価値がある。)
道路の舗装がはじまると、都市では路地の隅、敷地のすべての地表を舗装してしまうところまで、極端に走るようになってしまった。“舗装しておけば雑草が生えない”、“自家用車を止められる”、“ぬかるみの心配がない”などという発想である。舗装化が徹底して、降った雨の大部分が下水道に流れ込むようになると(降雨のうち何%が下水道へ入って下水となるかを「雨水混入率」という)、大量の雨水に対する特別な対策が必要になる。東京などのように徹底して舗装し家屋を建ててしまっている都市は、雨水混入率が100%近くなる。
雨水混入率を下げるために、浸透舗装がはじめられているが一部にとどまっている。宅地内の雨水浸透設備については、建築基準法ではなにも規定していないのだそうである。東京では区のレベルで「指導・助成」を行っているが、強制力がなく、野放し状態であるらしい。わたしなどは、宅地内舗装はすべて浸透舗装を義務づけるようにすべきだと思っている。

水問題はその裾野が広く、小論では糞尿-下水道とかかわる限りで、瞥見しておくにとどめる。掘り割り・小川や河川という地表を流れているはずの水を、地下の管渠のなかへ導いて処理場まで流し、放流する。この「人工環境」が当たり前だと考えられている現状こそが問題である。小水流が路地の溝渠を洗っている環境を取りもどすことを真剣に考えたい。
例えば、次の引用は東京都水道局のサイトからであるが、誇らしげに書いているのが、なさけない。

神田川の柳橋周辺では9割以上が、また、隅田川の両国橋周辺では7割以上が下水の処理水です。下水道の普及によりリバーサイドは今や都民のいこいの場となっています。

両国橋の下を流れる隅田川の水の7割以上が、長い下水管を抜けてきていることを、「困った都市文明のあり方だ」と理解する必要がある。暗黒の下水管の中を抜けてくる隅田川7割の水は、われわれの都市生活の「汚れを排出する」という重要な・必然的な仕事を担っているのであるが、この人工的な水流は、自然生態系の深刻な犠牲の上に作られていることを忘れてはいけない。しかも、その水流が下水管で運んできた汚物処理の最終段階で、多量の石油を使った「燃焼処理」を行っているのが現状である(この点、後述)。


宇井純は『公害原論』のなかで、「現在の衛生工学の3悪技術」を数え上げて、

  • 合流式(汚水と雨水を合流)

  • 混合処理(工場排水を下水に入れる)

  • 海洋投棄


3つを指摘している(『合本 公害原論』亜紀書房1988 p243)。
石井勲らは「合流式と単独浄化槽を作ってしまったことが、日本の下水処理史の2大汚点である」と言っている(石井勲・山田国廣『浄化槽革命』合同出版1994)。このように合流式にはさまざまな問題を含んでいる。(石井勲らのこの本は、下水道問題が単なる環境問題ではなく日本官僚制との闘いを含んだ問題であることをはじめて教えてくれた、わたしにとっては貴重な本であった。中西準子を読み始めたのはその後である。)
だが、日本の下水道の問題はいうまでもなく、合流式だけに集約されるわけではない。「単独浄化槽」問題も重大であるし、「流域下水道」問題も深刻である。

上で、明治以後の下水道史の“後期=現代の問題”と言ったところを一口でいえば、日本官僚制の悪い面が強く出てきて、官僚と巨大土建屋・大企業と御用学者らは、不合理で非科学的な政策を推し進めた、ということになる。(水俣病・イタイイタイ病で、日本の学者がいかに不正義であり/事実を歪曲するものであり/研究費をくれる官僚へ迎合するものかがわかった。われわれが知った「制度のなかの科学」というのはそういうものであった。)
だが、そういう日本官僚制や「制度のなかの科学」の問題の背後には、われわれ市民の非自律的態度があるのではないか。われわれは自分の尻の問題も「お上任せ」にしてしまっている、というように。逆に言えば、わが私的極点に立脚することで、みずらかの自律性=自立性へ進むことが、少しはできるのかもしれない。


(5.3):下水道の本質



(5.3.a):下水道の機能
第5節 目次  全体の目次へ戻る

下水道は都市に必然的である、というところから出発して、下水道の機能について、考えてみよう。
都市のあり方は非常に多様で、その適切な「定義」すら難しい。商業都市・工業都市・政治都市・港湾都市・・・など、都市の機能的特徴をさす名称をいくつか挙げてみれば、その多様さがよく分かる。ただ、小論では都市の完全な定義を必要としているわけではなく、その多様な特徴のうちのひとつ「密集」に注目すればたりる。
人口の密集・企業体の密集・居住の密集・消費の密集・生産の密集・・・・。狭いところに多くが集まっている。密度高く、多様な特徴が集まる。

これら「密集」が意味するところは、

  • 人工物(建物、道路など)の集積が起こること。人間の生活環境の多くが、人工物によって構成されるようになる。

  • それによってさまざまの“脅威”から隔てられるということ。というより、意識的にそれを目的として「密集」が行われる。外敵の侵入などの防御のために城壁を築いた都市はよく知られている。そういう「人的脅威」だけでなく、「自然の脅威」もある。ここで自然の脅威というのは暑さ・寒さ・飢え・水害などのことである。

  • 人工的環境のなかでの生活。住居はもちろん道路や景観までが人工的なものになっていく。現代都市ではそれが徹底した「技術環境」とでもいうべき温度・湿度・煤塵などのコントロールされた環境内での生活が、実際に行われている。それなしでは現代都市での生活がほとんど不可能になっている、といえるほどだ(「技術環境」という語は平凡百科事典の項目「文明」杉山光信による)。

  • この「密集」から外へ排除すべきいくつかのものがあること。エネルギー的には「廃熱」であり、物質的には固体状「ゴミ」と液体状「下水」と気体状「排ガス」である。密集が甚だしくなるにつれて、これらの「排除のシステム」を都市の必然的な基本設備として設置せざるを得なくなる。

都市からの「廃熱」がうまくいかないためにヒート・アイランド現象が起こったりすることはよく知られている。下水は汚れを水に溶かし込んで棄てるだけでなく、廃熱の点でも重要な機能を果たしている。だが、水の「気化熱」が大きいことを利用して効果的な廃熱の機能を果たさせることができるはずである。水冷式クーラーはともかく、地表の舗装をできるだけ減らして植物を植えること、ビルの屋上や壁面を植生で覆うことなど、植物の蒸散作用は水の気化熱による廃熱である。
雨水をできるだけ地中にしみ込ませ、地下水を豊富にし、地表からの水の蒸発を計って廃熱を計ることも重要である。地表からの水の蒸発のためにも舗装されていない地面が露出していることは重要である。要するに、都市に水循環を復活させるということである。(無視できないのは、水道からの「漏水」である。東京都水道局のサイトによると、2001年の漏水率が6.4%である。これが、八木沢ダムの利水量を超えているという。つまり、水道から東京の地下にそれぐらいの水を浸透せしめているのであり、給水という観点からは漏水は無駄なのだが、地下の湿り気・地下水を考えると無意味とはいえないのである。下水道からの漏水や浸水の現象も、現場では重大問題らしい。)

固体状「ゴミ」の問題は、いわゆる廃棄物問題であって、それがいかに深刻な現代の問題であるかは、多言を要しない(必ずしも都市問題に限定されない)。ゴミ出しの分別・廃棄物のリサイクル・廃棄物の焼却・廃棄物の捨て場・・・・・・のどれひとつ簡単に解決のつきそうな問題はない。
小論の主題である糞尿は、元来が生物循環のレベルの問題であるのだから、生物による物質循環にのせてやれば解決がつくはずだ、という正解が存在している(後述)。それに対して、廃棄物問題は、20世紀後半に至って俄然難しい問題となってしまった。それは、物質循環にのらない物質(プラスチックなど)が大量に廃棄されるという状況がもたらされたからである。これらは、結局焼却処分するほかないのだが、焼却による炭酸ガスの発生による温暖化問題、ダイオキシンなどの有害物質の発生の問題などがあり、焼却処分という強引な方法が正しい解決法とはとうてい思えないのである。わたしは、「廃棄物のリサイクル」という手法が本当に有効なのかどうかについて、かなり懐疑的である。リサイクルするために新たに費やす材料・エネルギーの収支がトータルで有効になっているのか。この方面について、関心を持っている。しかし、小論の範囲を超えるので、廃棄物問題には踏みこまないことにする。ただ、糞尿問題は廃棄物問題の一部分であるのは確かであり、一般化して扱った方が問題の急所が見えてくるような場合は、どんどん領域を越えていくつもりである。たとえば、下水処理の最終段階で焼却処理をするのが現在普通なのだが、それをどのように評価するか、というような問題の場合である。


わたしは、ここまでの考察で都市にとって、下水道は必然的であると結論したい。
下水道は、基本的には「下水」を都市外部へ排出する水路である。はじめは天然の水路も利用されたであろうが、溝・掘り割りなど人工水路が作られ、開渠であったものが、悪臭・疫病などを防ぐために暗渠、管路となっていく。
都市は、都市民の「密集」して住む/働くところである。その都市民たちが、どんな目的のために「密集」していようとも、そこで生きているというだけで必然的につくりだす排棄物質・廃熱(炭酸ガス・糞尿・生活排水・ゴミ)がある。それを排除するシステムは、都市が都市として機能するための必然的なシステムである、と考えられる。

都市民が例外なく作りだす糞尿や生活雑排水の処置は、都市がその成り立ちからして備えているべき基本機能でなければならない。その意味で、下水道には公共性がある。

その基本機能が果たされなくなると都市は崩壊する。それは「水不足」の形で都市を襲うであろう。「飲み水」が不足するはるか手前で下水道が機能しなくなって、都市の「密集」性が低下しはじめ、都市としての質が落ち、ゴーストタウン化しはじめる。

江戸のように屎尿を農民が有料で買い取っていくシステムがある場合には、屎尿処理を下水道に委ねる必要はなかった。その代わりに貯溜式便所と汲み取りという方式が必要であった。上水道が設備されるにしたがって水洗便所が普及しはじめ、それが下水道に接続される方式を一旦経験すると、貯溜式便所のうっとうしさに戻ることは不可能である。その意味では、水洗便所は必然的だ、といえる
だが、現在広まっている水洗便所(の形式)が必然的だとは、とうてい思えない。水洗を前提としても(湿式)改良の方向はあるだろう。非水洗(乾式)の方向も考える価値はあると思う(紙などによる清拭法)。こういう問題については第5.4節携帯便器の将来性で論じるつもりでいる。

なお、明治時代の最初の水洗便所は「浸透式」であった。

[東京で]建物を建てそこで排出する汚水は宅地に汚水溜(下水溜)をつくり、道路に流出しないようにして自然浸透にまかせ、蚊と蝿の発生源になっていた。また大雨が降るとあふれて流出するといった状景が見られたのである。(『東京百年史』第3巻p710)

このあと、大正時代には「単独浄化槽」が使われるようになった。微生物による浄化を行うもので1921(大正10)年の警視庁令に規定があるという。この点、資料がなく詳細は分からない。しかし、このタイプの浄化槽が戦後まで使い続けられた。これに関する問題は、第(5.3.d)節個人下水道で扱う。


もうひとつ下水道に期待される重要な機能は、雨水が都市内部に滞留しないように、速やかに排除することである。これは、降水量の多い日本の都市などにとってはゆるがせにできない機能である。
だが考えてみると、本来は雨水は、「下水」として排除の対象になるべきものではないことは自明である。森林・原野や田畑にとっては、なくてはならないものだ。都市にとって雨水が排除対象となるのは、浸水・洪水を恐れてであって、都市住民の上水道は、原則的には水源地の降雨によってまかなわれている。つまり、雨水をはじめから下水として扱う現在の都市の下水道システムは、とても身勝手なやり方をしていることになる。だから、この機能については、考え直してみる価値がある。“雨水を下水としないシステム”が考えられるはずである。

そうであったとしても、都市における雨水排除の機能が重要であることには変わりがない。そして、それは「河川管理」の問題と関連して、水循環全体のなかで考えていくべきことであることは言うまでもない。河川管理といったが、それは水管理(水資源確保、浸水・洪水対策)だけの問題ではない。湖沼・河川を利用しているのは人間だけではなく、あらゆる生物が利用しているのである。あらゆる生物がその生を享受している環境の中で人間も生きていくというのが、人間の生存様式として望ましい。つまり、水循環は生態系全体の中で考えていくべきである、と考える。
(水を“水資源”としか考えない発想から、ダム建設やコンクリートで固める護岸工事が安易に発想されている。“水系加工”とでも言いたいような、土木屋の力任せの巨大工事は、水を産業用水資源としか考えていない発想によってはじめて可能である。実際には、水はすべての生物が利用しているのであり、ある水系は無数の生物によって、利用されているのである。)

雨水を他の汚水・排水と同一の管路で排除する下水道の方式を合流式という。雨水用の管路を設けて、汚水・排水とは別にあつかう方式を分流式という。これらについては、前節(5.2.b)「日本の下水道史」で述べたので、繰りかえさない。

下水道の機能の3番目として扱わなければならないのは、工場排水の処理である。
たとえば、先に引用したエンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』のなかに、

・・・・ 橋の上手には丈の高い鞣し工場があり、さらに先には、染色工場や骨粉製造所、ガス製造工場があって、そこからの排水や排物はことごとくアーク川に運ばれる。アーク川はそのほかに、これに接続する下水溝や便所の中身も受け取る。

という描写があった。19世紀前半のマンチェスターで、自然水路への「工場排水」の放流の実態を示している。この状況を改善すべく、近代的下水道を設置するのであるから、「工場排水」が「下水」の仲間に入れられるのは必然性があった。このように、工場排水を一般の下水道に受け入れる方式を混合処理という。
しかし、企業の活動に伴う工場排水と、都市民の私的生活に必然的に伴う家庭汚水とを同じ扱いで公共下水道が受け入れるのは、あきらかにおかしい。都市民が必然的に排出する汚物・汚水と、私企業の活動による排水。この二つはすくなくとも論理的には区別されて扱われるべきである。公共下水道は国・自治体が、税金によって公的に設置するものであるからである。(ある企業がその生産活動によって工場排水を出すということがある。別の企業はまるで出さない。ある企業は有害物質を排出する、別の企業は処理しにくい有機物を大量に出す。つまり、企業の排水はさまざまである。もちろん、それらの企業活動は私的利益追求のために行われている。
それに対して、都市民の私的生活に必然的に伴う糞便・生活排水は、生存していれば排出される。それは任意でもないし排出せずにすませるというものでもない。
前者・工場排水は私的任意性がある。それにたいして、後者は普遍的であり、下水道の公共性の根拠そのものである。)

下水道は一度つくってしまうと、そう簡単につくり変えることができない。そのために、計画の段階でどれだけの企業が工場排水を出すかを見積もって設計することになる。しかし、企業の生産活動は「私的」な経済活動であって、予定通り生産が行われるかどうかは保証の限りではない。景気が悪くなって工場団地の誘致がダメになった、などという話はいくらでも聞く。下水道が工場排水を受け入れることを原則とすると、将来の生産活動のためにあらかじめ十分な処理能力のある下水道を作っておく、ということになる。しかも、税金によってである。ここにも下水道が巨大化しやすい動機があり、企業の生産活動への過度な保護がある。いうまでもなく、企業は排水を工場内で処理し浄化して環境へ放流することを原則とすべきである。論理的にもそうだが、下水道技術的にもそうなのである。生まれたばかりの廃液をその発生現場で処理するのが、もっとも容易であるから。

さらに、より深刻な問題がある。工場排水は家庭汚水のように主として有機的汚物からできているのではなく、有害な無機物質を含んでいたり自然界には存在しない物質であったりする。しかも、排出される量が家庭汚水とくらべて比較にならないほど多量であることが普通だ(家庭汚水と同程度の量と質の企業排水であるなら、公共下水道へ受け入れるのはかまわないだろう)。もちろん、現行法に有害物質等を工場排水として下水道へ流し出してはいけないという条文はあるが(例えば下水道法第12条の2)、それが実際に守られているかどうかの検査は難しい。違反の現場を押さえないと実効性が乏しいが、違反は承知の上でやるのだから、深夜に放流したり雨の降りはじめにタレ流すなど、工場側も知恵を絞る。
いくつかの工場からの排水が混合され、家庭排水とも混合されて下水処理場に達することになるが、混合され薄まって大量となった下水を処理するのは、個々の工場で混合前の排水を処理するのにくらべて、比較にならないほど困難である。この点は、すぐ上でのべた「発生現場で処理する」を原則とすべきだということである。

このように、筋の通らない奇妙な制度である「混合処理」について、中西準子はつぎのような決定的な根拠をあげて批判している。

工場排水を下水道にとりこむ政策は、決して、無知や偶然からおこなわれているのではない。自治体や住民が企業の廃水処理の責任を肩代わりするという、はっきりとした方針のもとにおこなわれてきたのだ。「昭和42年、公害対策基本法制定をめぐって産業構造審議会が答申した中に、企業の公害対策負担を軽減するために下水道を整備されたいとの1項がある」(宇井純)ことがこれを端的に示している。(『下水道 ―― 水再生の哲学 ―― 』朝日新聞1983 p36 強調は引用者)

昭和42年は1967年で、4大公害訴訟がはじまった年である(新潟水俣病67・四日市ぜんそく67・富山イタイイタイ病68・熊本水俣病69)。1970年のいわゆる「公害国会」(公害関連法案が17も成立した)を越えて、1971~72年にかけて原告勝訴の判決がつぎつぎに出る。
こういう時代背景の中に「企業の公害対策負担を軽減するために下水道を整備されたい」という産業構造審議会の答申をおいて考えないといけない。「混合処理」という方式は、“下水道は本来どのようなものであるべきか”という下水道の本質にかかわる看過できない重大な問題をはらんでいる。下水道の公共性が、企業の「公害対策」をふくんでしまって「企業国家」の「公共」に貶められようとしていた。本当は、下水道の公共性は、都市民の私的極点に発する糞便の普遍性に根ざすものであるのに。
中西準子は、住民運動によって建設省が態度を変更したことをつぎのように指摘している。

建設省は当初、下水道法の建前から「すべての工場排水を下水道へ受け入れなければならない」という見解でしたが、1970年代の全国的な流域下水道反対運動のなかで、「現行下水道法のもとでも、工場排水を下水道で受け入れない下水道計画は可能」というように態度を変更しています。住民運動が強かったところでは、原則として工場は自己処理、下水道は生活排水と水質が生活排水に近い工場の排水だけを受け入れるというように、計画を変更しているところがたくさんあります。(中西準子『いのちの水』p51)

このようにして、1980年代以降、下水道行政も徐々に路線を修正してきている。ことにバブル崩壊後、財政難に苦しむ地方公共団体が“巨大工事”主義についてこない傾向がはっきりと出てきている。

日本の下水道を考える際に無視できないこととして、水道行政を扱う“役所の縄張り”の問題がある。
明治・大正時代を通じて、水道行政(上水・下水をともに含む)は内務省の管轄だった。昭和13年に内務省から厚生省が独立したが、水道行政はこの両省が「共管」(共同管轄)することになった。戦後、内務省はGHQによって解散させられたが、昭和22年に内務省の所管部分を建設省が引き継いだ。したがって、建設省・厚生省の「共管」となった。昭和31年には通産省所管の「工業用水法」が成立し、さらに混乱の種をふやした。昭和32年以降は、上水道は厚生省、下水道は建設省、ただし、終末処理場は厚生省、工業水道は通産省と、「水道行政の三分割」ということになった。


以上、下水道の役割を分析してきて、次のそれぞれ異なる由来と性質を持つ3種類に分類できることが分かった。下水の種類として、表示しておく。


     ┌─ 家庭汚水(台所・風呂場の雑排水、水洗便所からの糞尿)
     │
     │
下 水─┼─ 雨水(降雨、降雪、融雪)
     │
     │
     └─ 事業場排水(工場、事業所、官庁、その他)



(5.3.b):下水処理
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都市内部の汚物・不用物を水流によって都市外部へ排除するのが、下水道の機能である。この場合、なぜ水を利用するのかについては第5.5節未来をふくむ社会でちゃんと取り上げるつもりだが、一口で言えば、「地球の水循環の一部に乗って、それを利用している」ということにほかならない。水に汚れを溶かし込んで水流として(地球の重力を用いて)都市外部へ流し出すのだが、その水はやがて水循環によってふたたびきれいな水となって戻ってくる。
水循環を断ち切らずに保っていれば、使って汚した水が再び雨水となって戻ってくるので、循環していくらでも使える。事実上、無尽蔵に使える。このような物質循環のシステムを保っている流体は他にない。したがって、下水道が水を使うのには必然性がある。(地球物理的な必然性である。)

下水の放流量が少ない場合は、河川などが本来持っている自然浄化作用(微生物・植物の働き)によって、汚染は浄化されるが、放流量が一定の限度を超えると河川汚染が深刻化する。河川汚染が進むと、湖沼汚染や海の汚染につながる。
放流される物質が毒性を持っていたり河川の微生物の食物にならないものである場合には、そもそも自然浄化作用の対象にならない。近代工業が発展し、工場廃液を下水に流すようになると、後者の問題が深刻になる。

河川などの環境へできるだけ汚染を放流しないために、下水道の終端で何らかの処理、下水処理をするようになる。
最初は、沈殿池を設けて砂泥などを沈殿させ、上澄み水を放流するという方式がとられた。これは、物理的処理ということができる。
下水には糞尿や料理屑・残飯などが溶け混じり、汚水となって流れているのであるから、沈殿させただけでは“きれい”になったとはいえない。また、下水にははじめから薬品の水溶液が排出される工場廃液も混入することがある。汚水の臭いや色など水の中に溶解している物質や微細な浮遊物は、物理的処理によっては取り除くことはできない。それなら、どうすればよいのか。これが意外に難問であった。

19世紀末には、欧米の研究所でさまざまな方式による下水処理の研究が開始されていた。その研究はいずれも、砂礫の間を通すと水の汚れが浄化されるという川や地下水でよく知られている事実を出発点としている、と考えることができる。
では、砂礫層によって、なぜ、水がきれいになるのか。これについて“濾過”(漉し取る)効果をしか考えないと、問題の本質に近づけない。濾過効果(吸着もふくめて)は基本的には物理的な効果である。砂礫層に生息する微生物によって、汚れが食べられることが本質的である。

例えば、小石の転がる浅瀬の川のシミュレーションである「散水濾(ろ)床法」は、砕石を積み重ねた濾床に汚水を撒くという方法である。使われるのはゴロゴロした砕石であり、濾過効果は期待できない。それでも汚水が浄化することは確かなのである。それは、砕石表面に微生物膜が発達し、汚水中の有機物を消化して分解するからである。この場合、微生物膜は空気と接触している状態であるから好気性細菌などが繁殖する。この散水濾床法の研究が開始されたのは、アメリカのマサチューセッツ州ローレンス研究所で、1891年のことであるという(藤井秀夫『江戸・東京の下水道のはなし』技報堂出版1995 p135)。
この濾床の石の表面についている細菌層をはがして、水中で空気を加えながら繁殖させる研究が行われ、「活性汚泥法」として実を結ぶ。(汚泥sluge というのは、微生物の塊、またそれに水中浮遊物が付着していることもある、固形と液体の中間の状態のもの。泥状のもの。泥といっても土が入っているという意味ではない。汚水中の有機物が微生物に食べられて、微生物の体を構成する物質として固定されたものと考えることができる。それ以外は水と炭酸ガスになって分解されている。)活性汚泥法が最初に実用化されたのは、1914年イギリスである。アメリカでは1916年以降つぎつぎに大規模な処理場が建設された。

活性汚泥法は、水中の細菌やプランクトンを好気性環境(空気を吹き込んだり、プロペラで水面をかき回したり、水車を半分水中に沈めて回転させるなど)のもとで繁殖させ、汚水中の有機物を食べさせる。有機物を食べれば微生物は増殖する。つまり、汚水中の有機物が微生物の体に「同化」したのである。
この段階で活性汚泥法の運転を止めると、汚水はきれいになっているが微生物の量(つまり、汚泥量)が増えている。更に運転を続けて、微生物が自分の体内の栄養を消費しできるだけ“痩せた”状態を作り出す(「内生呼吸」という)。それを通り越すと微生物は死滅期に入り、汚泥が細分化されて濁りが出たりする。そこで、ちょうど良いタイミングで運転を止め、不用の微生物の体(汚泥)を取り出す(「ひき抜く」という)ことになる。

増殖による生体量の増加を「同化」と呼び、内生呼吸や死滅による減少を「異化」と呼んでいます。浮遊物質をほとんど含んでいない廃水の処理でも、内生呼吸がほぼ終わった時点では、フローラに供給したエサ(BOD量)の約60%が異化されますが、約40%は汚泥の形で残ります。(本多淳裕『環境バイオ学入門』技報堂出版2001 p89)

つまり、汚水中の溶解有機物の4割程度が汚泥として残るというのである。新しく汚水が入って来たら、この汚泥の一部は種[タネ]として加えてやるが、のこりは余剰汚泥として引き抜き、次の処理(消化処理、脱水、焼却など)に進む。
このように活性汚泥法を実際に運転するには高度な技術と経験が必要で、空気を吹き込むために電力も使う。しかし、大量処理が可能で、現在全世界で用いられている下水処理の中心的な方法である。

小川や川原を流れる浅瀬などを典型とする好気性環境にたいして、澱んだ沼やドブの嫌気性環境がある。落葉や枯れ枝など、魚や動物の死体などが、沼底に沈む。すると、酸素があれば好気性細菌が活動するが、やがて、それらが酸素を使い果たして水底が嫌気的環境になると、嫌気的条件のもとで活動する細菌が活動をはじめる。残っていた有機物の分解は、嫌気性細菌にバトンタッチされる。その結果、水素や炭酸ガス、ギ酸、酢酸などとなる(水素生成細菌などという)。さらにそれら水素などを食べてメタンを合成するメタン生成細菌が活動しはじめる。いずれにせよ、有機物は完全に「消化」されて水と幾種類かの気体となる。
これが、澱んだ沼やどぶからブクリ、ブクリと“沼気”(瘴気)がわき上がってくる現象である。このガスはメタンが6割、炭酸ガスが3割、そのほかに少量の硫化水素、水蒸気などからなるとされる。
ここでは、小論に関係する限りで、メタン生成細菌について触れる。(後に、古細菌のところでもう一度出てくる。第5.5.b節植物・細菌・古細菌

メタン菌は有機物の末端分解者としての意義が大きい。一般に好気性微生物の分解作用の物質循環系における役割は巨大なものであるが、好気性菌の作用はかならず酸素の消失した区域を生ぜしめ、そこでは嫌気性菌の作用が重要になる。メタン菌は水素を消費することによってこの嫌気分解に参加している水素生成菌の活動を助けるとともに、みずからも有機物を炭素1個の化合物にまで徹底的に分解する役割を果たしている。(古賀洋介『古細菌』東大出版会 p135)

これらの嫌気性細菌の活動をシミュレートしたのが、下水処理場で「嫌気消化」とか「消化処理」と呼ばれている処理工程である。
通常は、好気性処理が終わったあとの余剰汚泥(スラッジ)の処理として行われる。有機物をメタンにするのだから、汚泥量が減り、同時に発生する硫化水素によって重金属イオンが不溶性塩となって沈殿する。嫌気消化中に病原菌・寄生虫卵などが死滅する。通気の必要がないので「活性汚泥法」などのように電力を使って曝気する必要がない。発生したメタンは燃料としてエネルギー源となる。このように嫌気消化はいいことづくめなのだが、嫌気消化の欠点は、処理に時間がかかることである。現状では通常は大きなタンクを用意し、半月~1月の消化の時間が必要である。したがって、この処理法のすぐれた点は認められても、現在は“余裕があれば”行うという程度の補助的な位置づけとなっている。(水団連のサイト下水汚泥と消化ガス(2001/12/5)によると、「下水汚泥処理における嫌気性消化法の採択は26.4%とあまり高くない」としている。)


下水の“よごれ”は、基本的に糞尿・台所ゴミなど人間の生物としての活動(食べること、排泄すること)にかかわる有機的排出物であって、それを処理するのに食物連鎖の循環のなかの微生物に任せるという方法で処理されていることになる。微生物を使うのは、流体である下水に対する大量処理に適しているからであって、単に食物連鎖の中の生物に任せるということなら、豚便所の豚や養魚場の魚に糞尿・台所ゴミを食べさせるという方法でもよいのである。

ある人を自然人とした場合に(下水道などの人工的施設がなかったとした場合に)、その糞尿・食物カスなどが食物連鎖のルートに乗ってたどっていく分解の道筋を考える。その最後の行程(炭酸ガスと水などに分解されるところ)までたどれば、糞尿・食物カスなどは完全に分解され、微生物の体に取り込まれたり(同化)、無機物になったり(異化)している。その微生物もやがて死に、別の微生物にたべられる。そして、地球の物質循環に加わって、再び循環をはじめる。この食物連鎖の道筋の一部をとりあげて、人工化・工業化したのが下水処理である。したがって、この「自然モデル」とそっくり置き換えられるような下水処理であれば、それが理想的な下水処理なのである(前節5.3.aで、「正解」といったのはここのことである)。

自然の過程では、食物連鎖が物質循環の部分として働いて、全体が動的安定系を作っている。個々の物質は動いているのだが、その全体はひとつの生物-物質系として安定しているのである。したがって、ここで問題になるのは、その一部分に下水道が割り込んでも、物質循環が途切れずにきちんと行われているかどうか、ということである。農地でとれたものが循環してもとに戻っているか。山でとれたものが山に戻っているか。牧場でとれたものが牧場に戻っているか。海でとれたものが海に戻っているか。
人間が実際にもとに戻してやる必要はかならずしもないが、循環してもとに戻っているかという観点で下水道を見ることが重要だということになる。例えば水循環は、基本的には太陽エネルギーによって水蒸気が大気圏を上昇して雨雲となることで循環が起こるので、処理場から放流された後の水循環はそれほど心配する必要はない。むしろ、上下水道の入口から出口までの間の管路が、天然河川の水を奪っているのではないか、という問題がある。炭素循環と窒素循環については第5.5.b節植物・細菌・古細菌で触れる。それらには、細菌が介入する循環が存在している。しかし、窒素は人工の窒素固定工場の作り出す窒素化合物にくらべて、硝化細菌・脱窒素細菌などの働きが遅く、循環が滞っている。リンも生物にとってきわめて重要な元素であるが、リン酸塩が海に出て堆積物となりリン鉱石となる地質学的速度と、人間が過リン酸石灰などの肥料を土中にまき、それが食物となって最終的に下水から放出される速度は比較にならないほど速い。特に、窒素やリンが湖沼など閉鎖水域で過剰になる富栄養化は避けがたい。

もうひとつ重要な観点は、もともとの自然の物質循環のなかに存在しなかったものを、人間が新たに加えていないか、ということである。生物が35億年の歴史のなかで作ってきた、食物連鎖を基本とする物質循環が、扱ってこなかった物質を人間が加えていないかという問題である。(物質循環には生物活動がなくとも成立する地球物理的循環も存在する。まず、水循環である。さらに、マグマ流動やプレート運動、大気の動きや海流などがある。が、地球温暖化の問題は、人間活動が地球物理的水準にまで影響を与えているかどうか、ということだ)
食物連鎖の循環のなかの微生物の手におえない物質が、都市の下水道にはいりこめば、循環がうまく流れず、滞ってしまう。それは1つは工場排水であり(これを「混合」処理ということについては、既述)、もう1つの懸念は都会の雨水である。これらを下水に合流せしめると、微生物の食物にはなりえない物質や微生物を殺してしまう有害物質やが混じる可能性がある(初期雨水の問題は、第5.2.b節日本の場合で扱った)。

余剰汚泥の処分は、実はもっとも難しい問題を含んでいる。お役所の下水道パンフレットは大規模な下水処理場の写真を載せて終わっていることが多いが、処分の肝心なところは下水処理場では終わっていないのである。都市が廃棄した下水を最終的にどこへ持って行くかということのなかに、下水道システムのあり方を問う究極の問題点が存在しているのである。
東京の場合、『下水道東京100年史』から抜き出してみると(p222~223)、

  1. 戦前、東京湾に散布投棄していた。

  2. 戦時体制下、汚泥運搬船の運転が困難となり、汚泥を天日乾燥させて肥料化はじまる。

  3. 昭和30年代半ば、余剰汚泥が大量となり、肥料としての需要も落ちた。脱水汚泥の埋め立てが研究されるようになった。

  4. 焼却処分がはじまったのが、東京都では昭和42年小台処理場で。

大雑把にいうと、海洋投棄・肥料化・焼却処分などの方法がとられ、結局最終的には、大量処分が可能な石油多消費の焼却処分に頼ることになっていく。焼却処分は石油の多消費の問題以外に、炭酸ガスだけでなく重金属類・その他有害物質を大気中に放出しているという問題がある。残った灰は固めて敷石など低級建材として使うか、埋め立て地に埋設するなどの処分方法しかない。物質循環が断ち切られてしまうところに、焼却処分の最も本質的な問題がある。
量が少なく、重金属など有害物質をふくまない場合は、海洋投棄・肥料化のいずれも合理性があり意味があった(「タレ流し」がいちがいに悪いとは言えないのである。すくなくとも“最悪”ではない)。ことに「肥料化」は、「屎尿を肥料として使用する」という日本社会の伝統的システムになじみやすいというだけでなく、この処分法は焼却処分とくらべて循環型であるところが本質的に優れている。埋設処分するしかない不要物を作らない、という点が重要なのである。『下水道東京100年史』から該当個所を引用する。

汚泥の肥料化とは、生汚泥(沈殿池からひき抜いたばかりの未処理の汚泥)を沈殿濃縮したのち、汚泥乾燥床で天日乾燥し、これを粉砕して農家に売却するというものである。この方法はすでに一部で実施されていたが、(昭和)19年以降、三河島処理場内で本格的に開始される。
戦後になると、おりからの肥料不足を反映して、有機肥料として高い価値を持つ汚泥肥料の需要はいっそう増加することになる。このため21年には芝浦処理場で、さらに32年からは砂町処理場でも汚泥肥料の生産が開始された。(p222)

この「汚泥肥料」生産という意義のある処分法が立ち行かなくなった理由の第1は、1960(昭和35)年ごろの下水量の急激な増大である。


年195019601965処理水量50万104万188万
(水量は、m3/日)
これによって、高度成長期(1960年代)以前には可能であった「天日乾燥」などという牧歌的方法が意味を持たなくなったことが、推測されよう。
第2は、処理場周辺の宅地化によって、汚泥乾燥床の増設ができなくなり、悪臭やハエの発生が問題化して、天日乾燥が難しくなってきたこと。
第3は下水へ有害物質が混入していることにより、汚泥肥料が肥料としての安全性に疑問がもたれるようになったこと。

天日乾燥に対して、人工乾燥が発想されるのには必然性がある。人工乾燥から焼却処分へは、あと一歩である。
「全国で発生する汚泥の76%程度(乾燥重量ベース)が焼却され」ているという(山形県の汚泥処理施設に関する懇談会から)。汚泥の8割は焼却されている、ということだ。山形県の前記サイトによると、山形県では汚泥の46%をコンポスト(堆肥 compost)化している、という。全国平均の数字が知りたいのだが、目下不明(少なくとも2割よりは少ない筈)。つまり、山形県は下水処理の方面では優等生ということになるようだ。このサイトの次のような指摘は、参考になる。

平成12年度に制定された循環型社会形成推進基本法では、廃棄物の排出抑制(リディュース)、資源の再使用(リユース)、再使用できなくなったものの再生使用(リサイクル)が求められている。また一方では、管理型産業廃棄物最終処分場の残容量が非常に逼迫している現状を考慮すれば、有効な資源になり得る下水汚泥をただ廃棄するだけでなく、コンポストの需要が頭打ちになっていること、家畜排泄物によるコンポストが新たに大量に市場に出てくることが予想されることなどから、コンポスト以外の新たな有効利用法を確立することが緊急の課題となっている。(強調は引用者)

「コンポストの需要が頭打ちになっている」ということが深刻である。しかし、なぜなのだろうか。日本の農業のあり方も気になってくる。
上引の中にあった「家畜排泄物によるコンポスト」というのは、同サイトの注を引いておく。次のような事情があるというのだ。

平成16年11月1日から、「家畜排泄物の管理の適正化及び利用の促進に関する法律」の適用により野積み・素掘り等の不適切な処理が出来なくなるため、堆肥化施設によるコンポスト化が進められている。(牛・馬10頭、豚100頭、鶏2000羽以上の大規模畜産農家が法律の対象)

われわれの糞便を下水に流して、それがコンポスト(「堆肥」と言えばいいのに、下水処理などの過程から作られる場合は、この業界では「コンポスト」と言いたいらしいのだ)となって田畑へ戻ってくるのなら嬉しいが、重金属混入など「混合処理」の心配のないところでも、「需要の頭打ち」という最後の引導を渡されてしまうのだとすると、展望が開けない。
日本は多量の食糧を外国から輸入して、まかなっている(約5兆円程度で、1984年以来世界最大)。それを食べた(食べ残して棄てた)あとの糞尿・料理ゴミは、最終的に下水処理して、コンポストにして、原産地の田畑へ戻せばバランスがとれる。もちろん、実際にはそんなことはしておらず、リンや窒素がもとの田畑へもどらずに、日本の湖沼などに滞留していたずらに富栄養化湖沼が生まれている。日本の田畑が「コンポスト」を必要としないというのは、国際レベルのアンバランスの問題とも考えられる。日本の農家の実際は、違う理由によるのかも知れないが、大局的にはこういう問題なのではないか。
農作物の原産国で肥料・農薬・水を消費し、日本に輸入して、消費して下水処理して8割を焼却処分している。リン・窒素などの栄養素の一方的な移動(原産国から日本へ)が生じている。原産国の土壌は荒廃し、日本の湖沼・内湾・近海が富栄養化するのは避けられないのである。

ただ、余剰汚泥の処分法を考える上で、忘れてならないことは、「生汚泥」なるものが、きわめて扱いにくい代物だ、という点である。98%が水分である生きた微生物の塊であるから、とても腐りやすい。病原菌も含まれている。できるだけ早く水分を取り、扱いやすく衛生的にも安全・安定したものにする必要がある。機械的に脱水して水分75%ぐらいにして焼却炉に入れる。
焼却炉のなかで、余剰汚泥(といっても要するに微生物の死骸である)が燃える。炭酸ガスなど気体になるものと、灰となって燃え残るものとにわかれる。後者の中にはリンなどが含まれているのであるから、焼却灰から更にリンを取り出す研究などが為されている。
単なる有機物だけであるならまだしも、工場廃液も引き受けている「混合処理」では、重金属などが入っている。煙突から周辺大気へ放出される重金属などは有害であるから回収する。何という非能率。源の工場で回収する方が比較にならないほど能率的であることは明らか(発生源では濃度が濃いことと、いかなる物質が含まれているかよく分かっている)。




(5.3.c):流域下水道
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下水道は、都市の特性のひとつである「密集」から必然的にはじまる。都市が拡大し市街地が急激に膨張するとき、下水道もその市街地と一体のものとして、ともに膨張していくことが求められる。下水道は下水管渠をはりめぐらせ下水の自然流下を計るのであるから、地形的な自然条件に規定されている。そのため市町村の区分けを越えて、複数の市町村が共同設置する下水道が合理的である場合がある。「流域下水道」について、もっとも好意的に理解すれば、このようになる。

『下水道東京100年史』に流域下水道の始まりを次のように説明している。

流域下水道は、大都市地域の水汚染を早期に解消し、人口急増地帯など市街地における下水道設備を有機的、一体的にすすめるために発足したもので、昭和40年に大阪府の寝屋川流域下水道が最初に整備された。それ以後大都市にかぎらず広域的な下水道整備手法として全国的に実施され、60年末現在で北海道から沖縄まで40都道府県85か所にのぼっている。(p676)

寝屋川流域下水道は、すくなくともその設置の趣旨は合理性があったと考えられる。問題は、その後である。「それ以後大都市にかぎらず広域的な下水道整備手法として全国的に実施され」、市街地以外のところに、市町村の区分けを越えて、大規模な下水道を作ろうとしたのである。
ある流域に沿った地域全体をひとつの下水道領域とみなして巨大な下水道網で覆わんとする。ひとつの流域が持っている自然浄化作用を全面的に人工的な下水道に取り込んで、大規模に管渠網を作り、巨大な下水処理場で充分スケールメリットを生かして下水処理を行う、というのが流域下水道の“売り込み文句”である。

下水道法の「用語の定義」(第2条)には、つぎのように書いてある。

4.流域下水道
もつぱら地方公共団体が管理する下水道により排除される下水を受けて、これを排除し、及び処理するために地方公共団体が管理する下水道で、2以上の市町村の区域における下水を排除するものであり、かつ、終末処理場を有するものをいう。

「流域」という命名の理由が判らないので、これでは何度読んでも頭に入っていかない。法律というのは、得てしてそいうことが多い。現実の形式的なある側面を、一面的にとりあげて法律文章・字句としているからである。
この定義は、「複数の市町村にまたがって働く下水道であること」要するに、肝心なことはそれしか言っていない。A,B,C ・・・ の市町村があり、それぞれの下水道管を接続する太い幹線管渠を、これら市町村を貫いて造っておくわけだ。その幹線管渠の終末に充分大きな「終末処理場」を設置し、その処理場一ヶ所で、幹線管渠につながっている全部の市町村の下水処理を済ませてしまう。それぞれの市町村で同じような処理場を複数造るのにくらべて、ずっと、安上がりだというわけだ。
A,B,C ・・・ の市町村を貫いて延びていて、終末処理場にまで至る幹線管渠を想像してみて欲しい。A,B,C ・・・ のうちの高い方から低い方へ順に結んで連ねていくであろう。管渠の中で下水を自然流下させたいからである。すると一群の市町村A,B,C ・・・ は、高い方から低い方へある河川の流域に分散・分布しているような一群である場合が、合理的であり、この「流域下水道」なるものにふさわしいことになる。
幹線管渠を山越えさせて、異なる水系の市町村と接続させるのは、下水のポンプ・アップが必要になったりして、明らかに不合理である。したがって、条文は「2以上の市町村の区域」と言っているが、実際にはひとつの水系のいくつかの(中小の)市町村をまとめてひとつの下水道系にし、末端処理を一ヶ所で済ませようという発想なのである。これで「流域」という命名の理由はわかったと思う。

下水道法に上引の流域下水道の規定が入ったのは、1970(昭和45)年のいわゆる“公害国会”においてである(既述のように、公害関係の法令が17本も一挙に改正・成立した国会。「改正下水道法」もその一つだった)。流域下水道の設置・管理は原則として都道府県が行うとする、など流域下水道の法的位置づけがはじめて明らかになった。
このとき下水道法の目的に「公共用水域の水質の保全に資すること」が加えられた。この時期の日本は、1960年代からの高度成長期のさなか公害問題がピークに達しており、“公害国会”で一定の修正を計らざるを得なかったのである。(東京の環境悪化の例として江戸時代からの伝統ある隅田川花火大会の中止がよく知られている。隅田川の汚染が深刻化することによって、1963~77(昭和38~52)年の15年間は、花火大会が中止になっている。“公害国会”を挟んで悪臭などかなり改善され、花火大会は再開されたのであるが、隅田川はコンクリート護岸で固められ両国周辺は首都高速道路や高層ビルの建築が行われており、水環境と景観をふくめた総合的な都市計画の視点がなかったことを痛感させられる。)
「下水道を作って、清浄な河川をとりもどそう」というようなキャッチ・フレーズが、下水道局のパンフレットには必ず出てくるようになった。このうたい文句で、実際には、「流域下水道」の巨大工事の計画がつぎつぎにぶちあげられた。(この点の批判は、すぐ下の「問題点」の【4】を見て欲しい。)

日本経済の高度成長期以前には、駅周辺の小規模な商店街とその周辺に点在する農家からなる集落であったところが、高度成長期を通じて分譲住宅などで急激に市街地化したようなそういう地区では、市町村を越えた下水道をいくつかの市町村が共同設置することに合理性があることがある、と思う(下の「東京都の流域下水道について」を参照)。
しかし、その手法を、市街化地区以外の農山村に限度なく広げると、使用する住民にとっては、メリットよりも重大な損害が生じる。「密集」の条件がみたされないような地域で、統合的な下水道設備は、かえって不合理なのである。
その場合、この計画で利益を得るのは、巨大予算を手にできる中央官僚であり、巨大土木企業である。ようするに、税金を中央と地元の利権パイプが利益として分配していくものたちが笑うだけである。そうであるからこそ、「流域下水道」計画は、強力に推進され続けている。中西準子らの果敢な批判によって理論的な破綻は明らかであるのにもかかわらず、“下水道族”は健在である。

「流域下水道」が引き起こす問題点を、4点あげてみた。
【1】
実際のところ、この「流域下水道」の計画が、どういうところでつまずいているかというと、巨大予算・巨大工事というところが直接の原因となっていることだ。何十年計画であるために順調にいっても即効性がないこと・人口予測や経済発展予測などの予測が外れる可能性があること・市町村の財政を圧迫すること。高度成長時代に計画して将来予測を立てて着工しても、そののちの不況にぶつかって、頓挫してしまう。


【2】
下流末端につくられる巨大処理場は、その処理場周辺の住民にとっては、他の市町村の下水をわざわざ移送してきて自分のところで処理する、そのための設備である。だから、処理場建設に賛同しにくく、反対運動が起きやすい。自分らの出した糞尿・生活排水だけの処理ならまだ我慢できても、遠くの自治体のしまつを自分らのところに持ってきて付けるというのには我慢できない。


【3】
都市の特性である「密集」にはふさわしい下水道網も、住宅が点在する状態の農村集落では不合理な設備になってしまう。なぜなら、点在する住宅をカバーする下水道管渠の一軒あたりの負担が異常に増大するからである。
同じように、市町村の間を結ぶ幹線管渠は、延々と長大なものになってしまうので、下水処理場を設置しなくてすむことによる有利さをすぐに相殺してしまう。


【4】
流域下水道の効能として、河川の浄化が言われる。ひとつの水系から取水し上水として使用した水が、下水となって下水道を流下するが、その下水処理水であっても元の水系に戻さずに、できるだけ河口近くに処理場を作って、最後は海に放流するからである。この通りであれば、その水系の川はつねに清浄な水(一度も管渠をくぐっていない水)が流れている、というわけである。
清浄という観点からは望ましいことのように思えるが、実は深刻な問題がある。それは、川の水を使うたびに水量が引き算になり、場合によっては河道だけあって、水が流れない状態になる。雨が降ったときだけ流れる。そして、もとの川の水は幹線管渠という巨大下水道のなかを流れているのである。これは、人工環境の最たるものである。
この意味では流域下水道は、河川という自然的存在を否定するものである。水を「水資源」としか見ておらず、河川は水資源の移動路としか考えていない。この考え方に対しては、河川を自然界の水環境の重要な一部として認識し、その環境をめぐって生息する多数の生物(動植物から微生物にいたる全体)の存在を大切に考えるという立場が対置される。
以上の4点である。

当初「流域下水道」の考え方の中には一定のまっとうなものが含まれていた、と思う。だが、日本経済が高度成長期からバブル期へかかる時期に実際に露出したのは、グロテスクな“巨大事業信仰”とでもいうべきものであった。
流域下水道が「下水道整備5ヶ年計画」で独立した項目として取り上げられるのは「第2次下水道整備5ヶ年計画」(1967~71)である。総事業費9300億円。法的に位置づけが明確化したのが、前述のように改正下水道法で、1970年の“公害国会”でのことだった。「第3次下水道整備5ヶ年計画」(1972~76)では、総事業費がなんと2兆6000億円になっている。この時期、巨大土木事業に惜しみなく税金が注ぎ込まれたことがよくわかる。この「第3次下水道整備5ヶ年計画」の『下水道東京100年史』での説明を引用しておこう。流域下水道の事業に使われた税金の麻薬的巨額さを味わうべきだ。

なかでも環境基準を達成するための事業、とくに流域下水道事業は強力な推進が図られることとなる。このため流域下水道事業の事業費は、第2次5ヶ年計画の6倍増にあたる3600億円に、総事業費にしめる割合も6.5%から14%にはねあがった(p239)

「全総」(第1次全国総合開発計画)が「新全総」(同第2次)に更新されたのが1969年5月の閣議である。「開発可能性の全国への拡大と大規模プロジェクト」が“売り”だった(全総は経済企画庁/国土庁が策定している。現在は1998年決定の第5次全総で「21世紀の国土のグランド・デザイン」)。

1970年代の流域下水道建設がもっとも派手に打ち出されたころ、全国に流域下水道反対運動も広がっていった。その運動の理論的支柱であった中西準子のこの時期の著作『都市の再生と下水道』(日本評論社1979)から、流域下水道は住民の生活改善のためという美名にかくれた工場誘致の基盤整備にすぎない、と主張している部分を引用しておく。

東京・大阪・名古屋などの従来の公共下水道も工場排水を含んでいたが、その割合は1~2割であるのに、流域下水道は少なくて2割、多いところは7割4分(境川・矢作川夕域下水道衣浦東部処理区――まだ計画決定されていない)にもなっている。・・・・公共下水道が、市街地整備の結果、住宅地に混在していた中小企業の排水が入り、やがて大企業も入ってきてしまうという経過をたどっているのに対し、流域下水道はむしろ今後の工場誘致のために整備されようとしている。(p85)

不況で、造成した工業団地はどこもガラ空きという時、廃水処理を自治体が引き受けることが工業誘致の重要な条件になっている。流域下水道が計画されている現地をじっくり歩いてみると、人家はまばらで、工場さえこなければ、ここに巨大な下水道が必要なはずはないというようなところがたくさんある。
下水道はいまや生活関連施設と看板をかかげつつ、内容は産業基盤施設へと変わっているのである。現在の下水道政策の最もきわ立った特徴はここにある。(p86)

全国の反対運動や中西準子らの努力と、不況期にはいった日本経済の状況によって、「流域下水道」建設について行政側の一定の柔軟化、見直しがある。(たとえば、1983年に建設省は、都道府県に対して「変更する必要が生じたときには、遅滞なく、流域下水道整備総合計画を変更するものとする」という通達をだしている。)だが、全国のおおくの流域下水道計画は推進され、実現しつつあることも事実である。実施状況のデータは国土交通省サイトの流域下水道の実施状況を参照して欲しい。


● 東京都の流域下水道について ●
わたしの土地勘のある東京都の流域下水道に関して、メモを残しておく。
東京都の区部は現在下水道普及率がほとんど100%になっている。下水道整備が立ち後れていた多摩地区に対して、1970年代に入って流域下水道の設置を促進しはじめた。
この地区は急速に市街化が進行していき、下水道の要求が高かった。多摩ニュータウンのような巨大団地の建設も行われて、それにあわせた下水道整備も行われた。多摩ニュータウンの入居開始が1971年3月で、南多摩処理場が運転を開始した。
『下水道東京100年史』が次のように自己評価しているのは、ある意味で正当である。

ただ幸いにして、多摩地域では流域下水道に対しさほどつよい反対運動はおこらなかった。逆にいえば、下水道未整備による弊害が、それだけ大きかったということであった。(p241)

東京郊外が区部~多摩地区の区別なく、全面的に一様に市街地化している。そのような巨大市街地化が望ましいことかどうかの議論を別にすれば、この地域の市町村の区域分けによらずに流域下水道の網目で一気に覆ってしまうというのには、合理性がある、と思う。上で「ある意味で正当である」と言ったのは、この意味である。むしろ、多摩川上流域などにおける流域下水道が妥当かどうかに関しては、下流市街地とは別個に評価すべきだと思う。

多摩地域は、多摩川流域と荒川右岸域に分けられる。荒川左岸域は埼玉県になる。多摩川流域は左岸(北側)と右岸(南側)に分けられる。八王子市・立川市・三鷹市はそれぞれ独立の公共下水道を持っている。

東京都下水道局サイトより(一部改変)

多摩地区左岸多摩川上流処理区北多摩1号処理区北多摩2号処理区野川処理区(立川市単独の公共下水道)多摩川右岸秋川処理区浅川処理区南多摩処理区(八王子単独の公共下水道)荒川右岸荒川右岸処理区区部との境界域(三鷹市単独の公共下水道)武蔵野市の一部

わたしが30年ちかく住んでいた東村山市は荒川右岸域に入る。この地域は、空堀川・柳瀬川・黒目川・石神井川の流域であり、これらの中小河川が荒川(隅田川)に流入することを意味している。この地域は比較的平坦で急激な市街地化が進行しており、この地域内にある10市がそれぞれ処理場を個別につくる余裕がなかった。そのために、「流域下水道」方式によって下水道を実現するというのには、合理性があった。
下水は清瀬処理場に集められ処理され、そこで荒川に放流される。したがって、清瀬市の説得・埼玉県との調整に手間取ったようである。都市計画決定は1972年12月。



(5.3.d):個人下水道
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「流域下水道」が巨大なものになりがちであり、しかも、スケールメリットがいつも成立するとは限らないことを前節でのべた。つまり、その地区で住居が密集しているのか、まばらに分散しているのかによって下水道のあり方も変わるべきだ、という考え方が必要であることがわかる。住宅密度と経済的に最適な下水道のあり方、という問題である。

下水道網で覆って下水を下水処理場に集める、という方式は、住居密度の高いところに適している。住居が離ればなれに点在しているようなところでは、管渠をなくして個々の住居において下水を処理してしまう個人下水道がふさわしい。おそらく、その中間的な形態、農村集落などで集落単位に共同の処理場を設けるのが適当な場合もあり得るだろう。中西準子はこれを集落下水道と呼んでいる。そして、人口密度(住居の密度)のちがいによって、最適の下水道の形態もそれぞれちがうことをしめしている。この考え方は、長野県駒ヶ根市の下水道計画の「環境アセスメント」を依頼されたときに、はじめて中西らによって提案されたもので、その経緯は『下水道:水再生の哲学』(朝日新聞1983)に詳述してある。そのレポートは駒ケ根市の市民を巻き込んだ「環境調査」など、とても興味深いものである。

人口密度の高い市の中心部は公共下水道、やや離れたところにかたまって存在する集落には集落下水道、人口密度が低い地区には個人下水道というように、使い分けるべきことを主張した。集落下水道は、100戸とか200戸とかの集落の下水を1か所に集めて処理するシステムである。(『水の環境戦略』岩波新書1994 p69 上図も)

中西らは、個人下水道に適しているのは1ヘクタール(ha 100m四方)あたり40人以下の人口密度の場合としている(前掲書で、日本の人口の3~4割が該当するとしている)。上図のB地区とC地区の境目の人口密度の目安である。
80年代のはじめに中西準子らが駒ケ根市の環境アセスメントに取り組む中で提案した、人口密度によって3種の下水道を使い分ける方式は、その合理性・経済性が明瞭である。はじめ否定していた建設省自身が「下水道マップ」という形で認めざるを得なかった。

下水道関係者の多くは、私の駒ケ根市の計画を見たとき、「非常識」の一言でかたづけました。しかし、3年後、その建設省自身が、下水道マップを作ると発表せざるを得ませんでした。そしてて、下水道マップ作成マニュアルを1986年に出しました。下水道マップとは、私が駒ケ根でやったこと、つまり区域ごとに公共下水道か集落下水道か個人下水道かの区分をした地図のことです。(『いのちの水』読売新聞社1990 p59)

個人下水道は中西準子の造語であって、行政用語では合併浄化槽という。ようするに、各家ごとに合併浄化槽という装置をつけ、家庭からの下水を処理して浄化された水を側溝や小川などに放流するということである。
合併浄化槽の「合併」とは、家庭下水のうち糞尿と雑排水(台所、洗濯、風呂)の両方を合わせて処理するという意味である。歴史的には単独浄化槽というものが存在したので、それと区別するために合併浄化槽と称しているのである。

1960年代から70年代にかけて、とりあえず“トイレを水洗にしたい”という要求は強く、下水道の未設置地域に単独浄化槽が普及した。単独浄化槽は家庭下水のうち屎尿処理のみを行う装置である。それ以外の雑排水は処理せずに流してしまうことになる。そのために、台所や風呂の油脂・洗剤などが河川・湖沼に直接入り、日本全国で汚染が進んだ。 水質汚濁防止法(1971年施行)等により、工場、事業場からの産業排水の規制が進み、わが国の水への汚濁原因の第一のものが、一般の家庭から排出される生活排水といわれるようになった。その元凶は、まず総人口の4分の1に相当する下水未処理地区からの排水であるというわけだ。むろん、産業排水も水質汚濁の主要原因のひとつであることは変わりがない。
次の表は、1999年の「閉鎖性水域の汚れの原因」(環境庁調査)である。


 東京湾伊勢湾瀬戸内海生活排水67.653.447.5産業排水21.134.442.6その他11.312.210.0
数字は、各水域ごとの%

ここでついでに、2002年度の下水道普及状況を、利用者人口別に表したデータを示しておく(環境庁発表)。


下水道農業集落排水施設合併浄化槽コミプラ以上計未処理人口総人口8,257311993389,5993,07012,66965.2%2.5%7.8%0.3%75.8%24.2%100
上段の数字は人口で、単位は万人、「コミプラ」はコミュニティ・プラント
「未処理人口」というのは、下水道・農業集落配水施設・合併浄化槽・コミュニティプラントなどのいずれの施設にもつながっていない場合を示している。その家庭へは、糞尿についてはバキューム・カーなどで汲み取りに行っているのだろうが、雑排水はいずれにせよ環境へタレ流ししていることになる。その多さに驚く。総人口の約4分の1もある。(環境庁のデータは1999(平成11)年度から単独浄化槽はすでに浄化槽あつかいしておらず、データの表面から消えている。2001年からは単独浄化槽の新設は事実上禁止された。つまり、単独浄化槽しか設置していない家庭は「未処理人口」に含まれているということである。2000年のデータでは、単独浄化槽が2537万人、合併浄化槽が914万人となっている。とすると、未処理人口の8割は単独浄化槽使用者であることが、推測される。)
単独浄化槽の規定は1921(大正10)年の警視庁令にさかのぼるのだという。衛生関係者の間では、この単独浄化槽は浄化機能が低く否定されていた。戦後当初GHQの指導もあって、合併浄化槽に切り替える準備をしていたという。1949(昭和24)年建築基準法を制定するとき、建設省は警視庁令の単独浄化槽をそのまま構造基準として入れてしまった。それ以来、建設省と厚生省の縄張りあらそいもあって、合併浄化槽が長い間認められなかった。(ここは中西準子『いのちの水』p62辺りを参考にしています)

しかし、単独浄化槽の処理能力の悪さと家庭雑排水のタレ流しとによって、河川汚濁の元凶のひとつとされるようになっていった。そのため、1983年に議員立法により浄化槽法が成立、85年から実施された。87年から合併浄化槽の設置に補助金を出すことになった。
中西準子は、単独浄化槽しか認めなかった建設省が合併浄化槽を認め、さらに、補助金まで出すようになった経緯を、つぎのように振り返っている。

単独下水道は、日本独自のものです。こういう中途半端なものを設置するのを認めただけでなく、小規模の合併浄化槽をつけることを長きにわたって認めませんでした。(中西準子『いのちの水』p62)

家庭用の合併浄化槽の第1号が建設大臣の認定を受けたのは、1985年4月、駒ケ根市に関する私の提案が出されて3年後でした。東京都は翌年の1986年3月に水源地域で、合併浄化槽を設置する家庭について、単独浄化槽との差額を都が補助し、合併浄化槽の設置を奨励することにしました。
つづいて、翌年の1987年に厚生省は、市町村が下水道事業認可区域外で、合併浄化槽に補助金を出す場合、その3分の1を国が負担することに決めました。・・・・ これは日本の下水道の歴史で画期的なことでした。(同前 p60)

単独浄化槽の禁止を要求する声は早くからあがっていたが、実際に浄化槽法の改正で単独浄化槽の新設が禁止されたのが2001年。しかし、合併浄化槽への切り替えは「努力義務」とされたために、既設の単独浄化槽のために家庭雑排水のタレ流しが依然として続いているのが実情である。(上で述べたように、未処理人口の8割程度が単独浄化槽使用者であることが推測されるが(国民の2割弱に相当)、下水道行政が早く手を打って、合併浄化槽に切り替えていればその大半は防げた数字である。流域下水道などの巨大土木事業にうつつをぬかさずに。)

厚生労働省サイトに現在ある最新の「厚生白書」(平成12年2000)には、次のように述べられていて、依然として「単独浄化槽」が新設されつつあることがわかる。

新たに設置された浄化槽全体に占める合併処理浄化槽の割合は、全国平均で1989(平成元)年度の10.0%から1999(平成11)年度第3四半期の70.9%へと着実に上昇しているものの、依然として地域格差は大きい。

この白書もそうだし『日本の廃棄物』もそうなのだが、「新設」される浄化槽については合併浄化槽の割合が多い、ということを強調したがっている。だが既述のように、建設省を中心に日本の官僚は長年単独浄化槽の設置を押し進めてきたのであって、そのために累積して実際使われている浄化槽の数は、単独浄化槽が圧倒的に多いのである(下表、最下段)。官僚の作成する白書類には、自分らの「先見の明のなさ」を反省する言葉などどこを探しても、カケラもない。

1997年について、合併浄化槽と単独浄化槽の比較
 合併浄化槽単独浄化槽注使用人口数(万人)9572515総人口12614対総人口比(%)7.619.9計27.5対合計人口比(%)27.672.4計100使用人口/設置数9.53.4 設置数(万基)101736 対合計設置数比(%)12.187.9計100
なお、この表で、設置数比で約9割を占める単独浄化槽が、使用人口比で約7割に落ちているのは、単独浄化槽が所帯ごとに設置されることが多い(1基あたりの使用者数平均3.4人)に対して、合併浄化槽はマンションのような共同住宅にも設置され大型設備もあること(1基辺り使用者数平均9.5)を反映している。

全浄協(全国合併処理浄化槽普及促進市町村協議会)のサイトから合併浄化槽の構造図・概念図を拝借した。(これは、ひとつの例です。実寸法がこれでは不明ですが、最小の5人用のコンパクトなもので、1×2×1.8mくらい。90万円程度。)




「単独」にせよ「合併」にせよ、浄化槽内に微生物を繁殖させ、屎尿など汚濁物質を微生物に食べさせて、きれいになった処理水を放流するというもので、その原理は公共下水道の処理場の活性汚泥法と同じである。だが、各家庭で微生物処理の装置を備えるのであるから、ある程度その原理を知って、微生物にとって有害な薬品などを流さないこと(例えば、トイレ掃除の際の塩酸)、微生物の食べ物にならない物質(合成洗剤など)を流さないなどの禁止事項を守ること。さらに、定期的な保守・清掃や、微生物が繁殖しすぎた場合の処置など日常的なケアーが必要である(日常保守を業者に任せることも、もちろん可能)。

たとえば広島市のサイトでは、浄化槽に関して市民へつぎのような啓蒙をしている。


浄化槽は生きています!
浄化槽に住む微生物が元気に働けるよう、
使用の際にはちょっとした心づかいをお願いします。
トイレで紙おむつ、衛生用品、たばこの吸殻を流さない。トイレットペーパー以外のものを流すと、つまりの原因になります。

台所で使った油や残飯などを流しに流さない。微生物が食べきれません。

洗濯で洗剤、漂白剤は適量を使う。微生物が死んでしまいます。

浄化槽でブロワ[送風機]の電源を切らない。微生物が窒息してしまします。



このような日常的な「心づかい」はともかく、定期的な保守点検などを家庭で行うのは難しいという考え方もあろう。だが、ひっくり返して言うと、公共下水道に頼っていると、自分の糞尿のしまつを誰がどのようにつけているかについて、まったく無関心になってしまっているということである。それは健全な自律的な生き方とは言えないであろう。
各家庭が浄化槽を持ちそこに微生物群を繁殖させて、自分らの糞尿などのしまつをそこでつけるミニマム・システムを備えていることこそが、健全だという考え方があろう。つまり、浄化槽は下水道ができるまでの繋ぎの一時的装置というものではなく、もっとも理想的な下水処理システムを暗示的に示している、と考えることができるのではないか。小さくて、自分の出したものをできるだけ自分の近くで処理してしまう、という。しかもそれは、ディスポーザーのような機械的な処理ではなく、微生物群を飼っておいてそれに処理してもらうという“共生”の感覚がある。

しかし、浄化槽で重要なことは、正常な運転をしていても汚泥(微生物の塊、死骸)が溜まってくるので、定期的な汚泥除去=「ひき抜き」が必要であるということだ。バキュームカーに来てもらって汚泥を除去してもらう。通常、1年に1回以上の汚泥除去と清掃が義務づけられている。
ひき抜かれた汚泥は、屎尿処理施設/下水道処理施設/その他で、通常の処理ルーチンで処理される。

(第5.2.b節で著書『浄化槽革命』を紹介した石井勲の作りだした浄化槽は、ヤクルトの殻の底を抜いたのを使うもので、非常に優れた性能を持っている。石井式浄化槽のホームページによると、槽内の水流の速度をきわめて遅くしているのが特徴で(0.3m/分、一般の浄化槽では6~7m/分)、多様な微生物が棲み着いていて、有機物を食べてくれる。槽が動的安定状態に入ると、余剰汚泥がほとんど生ずることなく、10年以上汚泥除去をせずに放置して運転が続けられるという。もちろん、放流水の水質はきわめて良好でBOD 1 ppmを誇っている。石井式の実際はグリーン・コンパニオン・レポートが分かりやすい。
石井式を使っている体験記我が家の石井式合併浄化槽・体験記は、リラックスした書き方に好感が持てる。ただし、この体験記では業者に任せて汚泥除去をしているようである。また、うまく運転ができず、苦労しているケースもあるようだ。“石井式浄化槽”で検索して見てください。)


近代-現代の日本では、「下水は下水道で処理するもの」という根強い“信仰”があった。官民挙げての信仰なのだが、歴史的には官主導で形成されてきた“信仰”といっていいだろう。欧米の諸都市で19世紀から試行錯誤的に建設してきた近代的下水道システムをモデルとして、日本の都市へ導入するのが日本の下水道建設であって、はじめは、欧米の技術者の指導を受け、明治末から日本の技術者によって建設されてきた。
たしかに、建設技術を日本人が身につけるのは早かったが、“人間の生活にとって下水道とは何か”という原理的な問いを忘れた促成栽培の技術であった。また、そうであったからこそ、すばやく技術を身につけることができたともいえる。江戸の町の掘り割り下水や糞尿を肥料として使用するために成立していた広汎なシステム(村と町方・移送・請負組合などのシステム)などを、歴史的に切断して、欧米の都市-下水道モデルを移植したのである。
官と学が用意したモデルを、日本の技術者が日本に建設する。実際には、上水道を先にし、下水道は予算不足のためつねに後回しにされてきた。そのため、屎尿肥料の伝統は第2次大戦後まで残ったが、GHQの衛生指導と化学肥料の導入によって、日本経済が高度成長期に入る頃には、ほとんど否定されてしまっていた。そして、「下水は下水道で処理するもの」という“信仰”が成立した。
下水道は官が用意し、民はそれに依存して自分の糞尿・雑排水の処理を官へ“丸投げ”する。

個人下水道(合併浄化槽)は、自分の糞尿・雑排水にかんして、自己責任を負って自分の目の届く範囲内で処理をし、十分に清浄な処理水を中水道として利用し、側溝・小川などに放流する“自己完結的”な処理系を体験する。この日常的な体験は、自分が排出するものについて関心を持つための重要な契機となる。
個人下水道がふさわしいのは、住居が点在しているような農山村集落であり、住居の周辺に小さな水流がながれ、その水流での自然浄化作用をも期待される。個人下水道からの放流水が住居周辺の水流に戻ることによって、そういう環境が維持できることが実感される。しかも自分の環境を流れる川が水涸れしないことに寄与している実感がある。当然、放流水の水質について、自分の責任において、関心を持つことになる。(小論の第1.1節「わたしの体験」で、幼少年期を過ごした山陰地方の田舎屋敷には、小川が流れていたことをちょっと記しておいた。裏山から直接流れ出している小川で幅50㎝もない小流である。朝の顔を洗うときから、洗い物も洗濯もみなその小川でやっていた。夕方になると、どの家でも主婦が川端に出て米をといでいた。何軒もの家で使うわけであるから、汚れた水を流さないように気をつけていたのは言うまでもない。そういう小川が部落内を数本流れていた。農業用水のための用水路は別に引いてあった。飲み水は別に山裾の泉までバケツで汲みに行って甕に貯えておいた。)

個人下水道について考えていると、そこには下水処理についてのある原理的範型が存在していることに気づく。公共下水道はこの範型をとてつもなく大規模に拡大したものにすぎないのだが、大規模に拡大することによって、個々の人びとは、自分の排出物の行方について関心を持つことができず、また、自分の生活の場に自然浄化作用が生きていることを実感することもできない。

下水道処理の原理的範型の特徴を、数え上げておく。
(1) 汚物の発生源で、直ちに処理すること
(2) できるだけ小規模であること、身の丈の装置であること
(3) 自然の循環を維持して壊さないこと
現在普及しつつある「合併浄化槽」は、合成樹脂容器/小型モーターのファン/嫌気性・好気性微生物 などの20世紀の技術を使用したものであり、さらに今後の改良があり得るだろう。



(5.4):携帯便器の将来性
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携帯便器(ここでは、オマルと表記する)には、将来性があると思う。前節の最後で述べたように、「浄化槽」という個人下水道も将来性があると思う。わたしはそう考えている。以下、この節ではわたしが想像し願望する「将来のオマル」について、できるだけ述べてみようと思う。だから、この節は他の節とはまったく性格が異なる。そのつもりで。
なお、第(4.4)節携帯便器(おまる)で、フランス・中国・韓国・日本の「おまる」について既述したので、それをも参照して下さい。(蛇足ながらここでは、「おまる」は既存のものを、「オマル」は将来的なものを表すという漠とした基準で、使い分けます)

まず、オマルの特徴を、既述のものを挙げておく。

排泄場所を、自由に移動・選択できる。個人(多くとも家族)単位である。排泄姿勢に自由度がある。排棄する時と場所を選べる。夜排泄して、朝排棄するというように。上海の馬桶(マートン)のように、排棄/清掃業者がありうる。

個人下水道(合併浄化槽)のうち、家族単位のもの(最小規模のもの)は、私がここで述べようとしているオマルと近接している。わたしは、個人下水道の十分な改良がおこなわれれば、無理にここで考えているオマルに切り替える必要はないとも思っている。
家の周囲に自然水路があって、それに充分清浄な処理水を放流して、自然浄化力にも期待するという環境はすばらしいと思う。したがって、個人下水道は維持していくべきだと考えている。ただし、ここで考えているオマルは、わが糞尿を直接処理することによって、信頼おける肥料源などとして使えること大きな特徴としようとしているので、個人下水道と併用してよいと考えられる。 つまり、もしここでわたしが考えているような糞尿処理システムができれば、(個人、公共)下水道は雑排水の処理を主眼とするものとなるであろう。

既存の携帯便器(おまる)の機能は、基本的に“簡便な便溜め”にすぎない。大小便をそこに溜めておいて、時間と場所を選んで排棄する、ということ以上の機能はない。わたしが想像しているオマルは、それ以上の“高機能”を持たせて、大小便のしまつを住居内で済ませてしまうことが可能になるようにしたい、ということである。“将来、宇宙飛行士が長期間の宇宙旅行をして宇宙船内でできるだけの循環系を構成しなければならない、という際に考えられるような便所の機能を実現したい”、という風に言えばSFらしくて、わたしの意図が伝わりやすいかも知れない。

わたしが考えているオマルは電気(電子)器具であって、可能なら微生物処理も行う。電気掃除機程度の大きさ・重量で手軽に持ち運べ、個人持ちが普通であるようなもの。機能を挙げてみると、

脱臭の能力があること。取り出す際に不潔感がないように処理され包装されていること。その包装は、そのまま回収業者に出すか家庭菜園で使える。浄化水が発生することも考えられるが、それは“中水道”に流す。

などが、考えられる。

オマルには、現在の都市の水洗式のように下水道網を前提として各種の異質な下水の中に糞尿を混ぜ込んでしまい、その上で処理・分離するという非能率を避けうる可能性がある。オマルは、各人から排泄された瞬間にその個別のまま処理する方式がとれる。
たとえば、凍結・包装・一時処理というような個別的処理の機能を持ったオマルを開発することはできよう。これに加えて、微生物による本格的な分解処理まで行う“高機能オマル”も可能ではないか。
このオマルで処理した上で、一般ゴミとして捨てるのでもいいし、人肥として再利用する工程に送るべく包装してもいい。ここまでの構想では、このオマルは糞尿をできるだけ、次の処理に不潔感なくおくる、という程度のことしか述べていない。
しかし、少なくとも糞/尿の質的違いを考えて、わがオマルは最初から糞/尿を分離して扱えるようになっているべきである。糞/尿が生理的にまったく違うものであることについては、第5.5.a節空気・水・食べ物で述べている。尿は体内の細胞膜を通過しているのであって、(健康で排泄直後であれば)まったく無菌でこれ以上に清潔なものはないほどの、しかも、さまざまな栄養素などを含んだ液体である。

糞と尿を分離して取り出し、それぞれを有効に使用できるように処理すること。

分離して取り出された尿は、腐敗しないような処置が施されて、輸血と類似のあつかいで有効利用しうる筈である。大便は基本的には肥料としての利用に回したらよい。いずれにしても、現在われわれが行っている大量の水で水溶して下水に流すことで薄め、家庭排水・工場排水・雨水などの非生物経由の物質と混合してしまうのは最悪の方式である。
オマルの有利な特徴を最大限生かした工夫がなされるべきだ。オマルの有利な点とは、

個人単位の屎尿の量を見積ることができる。だいたいの上限が分かる。処理に数時間以上の時間の余裕がとれること。きわめて栄養価の高い、無害の肥料原料(薬品原料)となりうること。

などを挙げることができる。
いずれにせよ、わたしたちの頭の中にある幾つかの迷妄を振り払う必要がある、“携帯便器(おまる)は便所の間に合わせである”、“糞尿の処理は下水道に任せるべきだ”など。使いやすく、高機能で、小形なオマルが使われはじめれば、便所を超えた排泄用具としてのオマルがその地位を獲得するのではなかろうか。わたしにはそういう期待がある。モービル・トイレである。それは、食べることの“個性化”に見合った、排泄の自由度の拡大をめざすものである。排泄の自由度とは、“いつでも・どこでも・自然に”とCMコピー風にまとめておこうか。
しかし、わたしたちのオマルがどのようにコンパクトに高機能になろうと、自然の循環系のシミュレーションから離れた空想的なシステムが可能になるわけではない。水の循環系にどこかでアクセスする必要があるはずである。

“糞尿の処理は下水道に任せるべきだ”という“信仰”については、第(5.3.d)節の個人下水道で述べておいた。近代的な都市下水道の普及はたかだか150年ほど(日本は50年ほど)であるのに、公共下水道がもっともまっとうな汚物処理システムであるという信仰は広くいきわたっている。汚物処理を個々人レベルに引き戻すことに、多くの人はとても臆病になっている。だが、“食べること”の個性化を主張するのと同じ程度の重要さで、“排泄すること”の個性化を主張していいのである。それにはオマルが将来性を持っている。
公共下水道への信仰は、一歩踏みこんで言えば、じつは公共下水道への白紙委任ないしは、“丸投げ”と言っていいのではないか。公共下水道が何をなしているかについては、知りたくない、知らせないでほしい、という「白紙委任」である。実際には、公共下水道は国-地方自治体が行う税金を使った公共事業である。それに白紙委任することによって、すでに何度も述べたように、われわれは自分の尻の問題を、“お上”に預けてしまっていることになる。

排便は生物としての人間に必然の行為であるから、個人に生じる現象である。このことには例外がない。食べることの“対”(対偶)として排泄行為が生じる。いうまでもなく、食べることは個人に生じる現象であり、個人が個別に解決する(食べる)しかない。排泄行為もそうである。これらを極私的行為といっていいだろう。だが、排泄行為は普遍的な極私であって、必ずしも閉鎖的である必要はない。中国の公衆便所が開けっぴろげであることは、日本の田舎では20世紀半ばまで女性の立ち小便の姿が公然であったのと同様、原理的には何の不思議もない。
排泄物の処理は、個々人に生じた結果のままで、個人のレベルで処理するのがもっとも合理的で(科学的に)容易である。そのためには、すぐれた個人下水道(浄化槽)が今後とも工夫されることを望みたい。

上海の馬桶(マートン)に見られるように、オマルにはその専門の処理業者が成立可能である。都市流通の業種として、各家庭からでるオマル処理物(第1次処理を受けた糞尿)をどのようなシステムにするにせよ集積・集配し、それを肥料や薬品原料などに第2次処理をし、販売する。この専門処理業者は各家庭からと販売先からと、両方から対価を得ることができる。現在、ゴミの集配がなされているが、それの類似のシステムが考えられる。

自由度があって、快適で、経済的負担が軽い(かつては糞尿が有価で売ることができた時代さえあった)などの、オマルにとっての有利な点を生かす。しかも、人類普遍の技術になりうるので(特に都市生活では必需品となるのではないか)、開発動機は十分にある。もし、この種の未来型オマルが商品として当たれば、巨大市場が待っている。

もう一度くりかえそう。都市の現存の便所=大規模水洗下水道の方式には、将来性はない。将来性のあるのは、20世紀に日本の官僚-巨大産業どもによって考えられてきたような、大規模な下水処理システムではなく、個人別で小規模で、しかもエネルギー多消費型でない設備である。その一例が、個々人に割り当てたオマルと小規模浄化設備をベースにした屎尿処理システムである。個別のオマルを高機能にして、小規模・多数な処理システムにする、という方式には将来性があると思う。この方式の強みは、われらが糞尿は無害/栄養豊富である、という点である。そして、この方式には、小規模・多数のハードを集配するソフト・システムが必須である。

巨大化した都市の密集には、巨大な下水道システムが必須である。しかし、これは都市全体の汚物排除・廃熱のために必要なのであって、水道の共同性の“対”(対偶)としての下水道である。わがオマルはこの下水道システムのなかから屎尿処理を可能な限り回避させることを狙うものになるであろう。




(5.5):未来をふくむ現在



(5.5.a):空気・水・食べ物
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わたしたち人間にとって、生物として生きていくのにどうしても必要なものを挙げれば、空気・水・食べ物となる。

空気(この中の2割ほどが酸素)は呼吸によって肺から体内に取りこまれる。空気が体にとって必須であることは、ほんの数分ていどの窒息で死亡してしまうことから、疑問の余地はない。ただ、酸素は体内で炭水化物を“燃やして”エネルギーを取り出すのに使われるといわれるが、その働きの欠如がなぜこのような激甚で急激な結果をもたらすのか、ちょっと合点がいかないほどである。
ネット上に、若杉長英(阪大教授)「法医学から見た脳死」という論文があった。そのなかの「脳と酸素欠亡」から。

脳の細胞はどのくらい酸素欠乏に弱いか。呼吸停止後、各臓器・組織が壊死に至るまでの時間を比較すると、大脳の表面にある大脳皮質は、わずか5分の呼吸停止で細胞が死んでしまう。大脳皮質は心臓から最も遠い部分であり、血圧が下がるとこの部分の血流量が不足してくる。延髄では20分以上細胞が生きることができ、心筋もほぼ同様である。細胞によっては何時間も生きているものもあり、脳の細胞が非常に酸素の欠乏に弱いことが分かる(脳と酸素欠亡)。

大脳皮質延髄心肺骨格筋骨細胞5分20分以上10-20分2-4時間20-70時間

その理由(生理機制)はよくわからないが、酸素供給が断たれると、脳細胞はわずか数分で破壊されるのである。脳がいかに激しく酸素を使い、炭水化物(ブドウ糖)を燃やしているかが、想像される。そして、その破壊は非可逆的である。
たえず呼吸を行い、酸素を取り込み炭酸ガスなどを体外に出すことを続けていないと、生命は維持されない。「酸素の流れ」をつくって、それのわずか数分の滞りが致命的になるほど、この循環は深刻な機能を担っているといえる。体内に酸素を溜めておくことができない、といってもいいだろう。(なお、空気中21%ほどの酸素は一度肺に入って体内にその一部が吸収され、呼気として体外に出されるとき17~18%程度になっている。人工呼吸の口対口が有効なのである。空気中の酸素が6%以下になると直ちに窒息死の危険あり)

は数日飲まないと死に至る。水の身体にとっての重要さは、細胞液・血液などの大部分が水溶液であることから、身体構成物質として多量に使用されている(約60%)ことからいちおう納得される。しかし、それだけでは、なぜ、常時(数時間おきに)水分摂取が必要なのか、その差し迫った重要さが鮮明ではない。通常1日2~3リットルの水を摂取しているという。そして摂取された水は、尿・汗・大便によってたえず体外に排泄されている。たとえば、次は国立循環器病センター(NCVC 大阪府吹田市)の「食事について」という啓蒙サイトから。

水が体重に占める割合は成人で平均60%~66%です。その3分の2は細胞内液で、残りが血漿、組織間液などの細胞外液となっています。
水は短時間で体内に吸収されて、酸素や吸収された栄養素を血液などに溶かし、すべての細胞に運びます。また老廃物を体外に運ぶことも重要な役目です。汗などでの体温の調節、体液の成分のバランスを保つ役割も担っています。

成人は1日に食事その他から1.3~1.5リットル、飲む水分として1.2~1.5リットルの計2.5~3リットルの水分を摂取し、ほぼ同量を排泄します。通常、排泄量の約3分の1が汗や吐く息から自然に排泄され、残りは尿として排泄されています。体内の水分は飲水や排尿などによって一定に保たれていますが、体内の水分の10%が失われると身体機能に異常があらわれ、20%が失われると死に至ることもあります。このように水分の摂取は大切ですが、糖質やナトリウムを含む清涼飲料は飲みすぎに注意しなければなりません。(NCVC食事について

労働科学研究所編『労働衛生ハンドブック』(1988)によると、成人1日の年平均の水摂取量は2.6リットルとし、その排出は、尿 1500,汗 600,呼気 400,糞その他 100mlとしている。

仮に2.5リットルの水を摂取し、それを尿として排泄する場合を考える。
尿の中に多種・多量の“老廃物”が溶かし込まれて排泄される。その、老廃物を分析することによって、身体活動の異常を検出する尿検査はおなじみだ。この場合、重要な観点の1つは、尿(汗も同じ)はいったん体内に取り込まれた物質のうち使用済みのもの=老廃物を水溶液として体外に排出しているということである。人体という生命システムにとっての「ゴミ捨て」を行っているといってよい。
もうひとつ重要な観点は、尿(汗)は廃熱も行っているということに注目することである。たとえば、15℃の水を飲んで37℃の尿を2.5リットル出したとすれば、

(37-15)×2500×1=55000cal=55kcal

の熱量を体外に捨てたことになる。基礎代謝量(安静状態で心臓・肺・内臓などの活動に必要なエネルギー)は 1500kcal などといわれるから、これでは、廃熱はまったく不十分である。
水の気化熱が大きい(25℃で583cal/g)ことを利用した発汗作用によって必要な廃熱が調節される。たとえば、基礎代謝程度の熱量の廃熱に必要な汗の量は(仮にすべて蒸発するとして)

1500÷0.58=2590=約2.6リットル

となる。もちろん、基礎代謝がすべて熱量になるというわけではないが、相当程度の発汗量が必要であることは理解されよう。日本クレーン協会のサイトに「夏の健康チェック“汗の話”」という、いかにもこの業種らしい記事があり、

平均気温が29度の夏に,体重65kgの人が室内で活動すると,一日の汗の量は3リットルくらいになるそうです.もし高温環境の工場で8時間働くと,12リットルにも達するそうです.

と述べていて、水分補給の重要さを書いている。激しいスポーツの場合も同様だが、時間あたり1リットル程度の発汗があり、必要な廃熱を行っている。

身体活動のエネルギーは基本的に化学的エネルギー(たとえばブドウ糖が持っているエネルギー)であって、それの解放(ブドウ糖を酸化する過程)はエネルギーを作り出すが(たとえば筋肉を収縮させる)、そのさい発熱を伴う。この発生した熱を効果的に排出してやらないと、その部位の体温の急上昇をまねき、正常な生理活動が不可能になる。熱容量の大きい水が血液として循環しており、発熱部位から直ちに熱を移動させ、静脈で体表面へ熱を伝導・輻射させて体外に逃がすだけでなく(動脈が身体の内側に静脈が外側に近く分布しているのは合理的である)、発汗をうながして水の大きな蒸発熱を利用して廃熱する。一口でいうと体温を保つ機能である。身体を熱機関(エンジン)と見たとき、廃熱が正常に働かないとただちに“焼き切ってしまう”ことになり、非常に危険である(熱中症はこれである)。
以上をまとめると、

水は身体の構成要素としても重要だが、常時摂取し排泄するという循環を行っていることの認識も重要である。老廃物は主として尿で、廃熱は主に汗で体外に捨てている。

なお、後に再論するが、尿は体内の構成要素であったものの“老廃物”を溶液として溶かして体外へ排泄するのであるが、大便は消化管を通過してきて体内に取り込めなかった不用物を排泄しているのであって、その重要度がまったく異なる。尿の排泄の方がずっと重要である。(この点に関して、第5.4節携帯便器の将来性のなかで、尿と糞の分離回収の意味を述べておいた。)

食べ物には多様なものがあるが、エネルギー源となる炭水化物・脂質などと、身体をつくるタンパク質、調節機能をはたすビタミン・ミネラルの3つに大きく分けられる。もちろん、この分類は大雑把なもので、タンパク質はエネルギー源としても使えるし、脂質は細胞膜をつくるのに使われるし、血液中にも含まれ(中性脂肪とかコレステロールとか)、脂溶性ビタミン(A、D、E、K)を供給する役割も重要。

さて、食べ物を口から入れ、咀嚼し唾液と混ぜ合わせ、嚥下して胃に達する。胃では蛋白質分解酵素(ペプシン)や胃酸(塩酸、カルシウムを溶かすこと、細菌の繁殖を防ぐ)が分泌される。食べ物がどろどろの粥状のものになることは“嘔吐物”でおなじみ。
12指腸で、膵液・胆汁が分泌される。膵液は糖質・脂質・タンパク質を分解する消化液、胆汁は脂肪を吸収しやすくする。ここまでは、ほとんど吸収は行われない。
小腸で腸液が分泌される。炭水化物はブドウ糖(グルコース)に、脂質は脂肪酸などに、タンパク質はアミノ酸に分解される。分子量の小さな形に分解される。そして、腸の絨毛などの微細組織において細胞膜を通り抜けて、体内に取り込まれる。
大腸では、小腸で吸収しきれなかった水・ミネラルなどが吸収され、棲みついている多数の腸内細菌の働きによってさらに分解・発酵が進み、吸収が行われる。残余が、大便として排泄される。

食べ物の澱粉も脂肪もタンパク質も分子量が大きすぎてそのままでは細胞膜を通り抜けることができない。そのために、分子量の小さな“原料”(人体を再構成するための原料)にまで分解されて吸収されるのである。吸収されたブドウ糖・アミノ酸・脂肪酸などは血液やリンパ管によって体内の必要な個所、貯蔵所へ運ばれる。ただちに消費されたり、合成過程をへてヒト独自のタンパクなどとなって身体を構成する(牛肉を喰っても人肉ができる)。

消化管(口-胃-腸-肛門)は外界と直接つながっており、第5.1節で消化管は

植物にとっての土壌に相当するものを消化管として体内に取り込み(唾液から始まって、土壌中の微生物に相当する数々の消化酵素が、消化管の中ではたらいている)

と勝木渥『物理学に基づく環境の基礎理論』からの引用を示した。「体内に取り込まれた外界」を通過して、体内に取り込まれなかった残余が大便である。つまり、大便は尿と違って“体内活動の廃棄物ではない”のである。したがって、排便は取り込まれなかった食物残余にすぎないので、排便が滞ること(便秘)はそれほど緊急で致命的な問題ではない。この点は、排尿が滞ること(閉尿)の深刻さとは比較にならない。閉尿は尿毒症につながり致命的になることが多い。



(5.5.b):植物・細菌・古細菌
第5節 目次  全体の目次へ戻る

植物は光合成をする点が動物と大いに異なっている。植物は葉の葉緑体で、太陽光線、炭酸ガス、水によって、澱粉を合成する。

液体の水 + 炭酸ガス + 光量子  →  ブドウ糖 + 水蒸気 + 酸素

液体の水が、根から吸い上げられる。炭酸ガスは大気中に平均0.032%(体積%)存在しているが、それを気孔から取り入れる。光量子はクロロフィルなどの色素で吸収されて、水の分解に提供され、そのとき発生した化学的エネルギーと水素原子が、炭酸ガスをとりこむ複雑な回路(カルビン・ベンソン回路)に入って、結果的に澱粉を作り出す。

この反応は光量子を吸収している反応(吸熱反応)である。ブドウ糖1分子について、約16個の光量子が吸収されている計算になるという。上式はその最終収支をあらわしているに過ぎず、途中に、きわめて複雑な多数の反応がかかわっている。
その途中の反応過程を進行させるためには、上式の光量子とは別に、ブドウ糖1分子あたり32~44個の光量子が必要になるとみつもられる。後者の光量子は「光合成の役には立ったが、結局は熱になってしまったことになる」(勝木前掲書p103)。この、光合成の化学反応を進行させるのに使われる光量子40個ほどは、発熱反応を行ったことになるから、その廃熱を上手に行わないと反応はすぐ止まってしまう。それどころか、葉緑体を破壊する(焼いてしまう)ことになりかねない。この熱量は水分子128~175個を蒸発させる際の蒸発熱に相当するという(同p104)。言うまでもなく、この水の蒸発こそは、葉の裏側に多数分布している気孔で行われている蒸散作用であり、光合成の化学反応に伴って発生する熱を、素早く廃熱するための必然的な作用である。根からあがってきた水が、気孔で水蒸気となって大気中へ蒸散することが必要なのであった。

つまり、ブドウ糖の“原料としての水”だけでは足りないのであって、光合成の化学反応が進行するためには、“原料としての水”の28倍程度の水が必要なのであった(“原料としての水”はブドウ糖1分子あたり6分子必要)。ところが、実際には、光合成で葉の葉緑体が吸収する光は、特定の波長のもの(450,680nm)であって、それ以外のものは反射されるか吸収される。吸収された太陽光は熱となる。つまり太陽光で無駄に暖められることも、かなりあるわけである。それによる温度上昇を廃熱することも計算に入れると、“原料としての水”の約100倍の水が必要とみつもられる(同p108)。

要するに、光合成という奇跡のようなブドウ糖合成過程を進行させるには、原料として使われて澱粉の中に固定される水の100倍程度とみつもられる多量の水が、

根  →  維管束  →  葉  →  気孔

と上昇し蒸散することが必要なのである。そして、この廃熱は大気中へ、水蒸気に担われて拡散する(捨てられる)のである。この地中から大気中へ、植物体の内部を上昇する水流が存在することが、光合成の複雑な化学過程を滞りなく進行させるための必須の条件なのである。つまり、水冷式クーラーが運転されていないと光合成工場はすぐ焼き切れてしまう、と考えたらいい。

(ここの、光合成に関する考察は、まったく勝木渥『物理学に基づく環境の基礎理論』に依存して、それをつまみ食いしながら述べているに過ぎない。わたしの叙述にもし特徴があるとすれば、わたしはまだ「エントロピー」という語を一度も出していないことである。

勝木渥が依拠したのは19世紀後半に確立した熱力学の諸法則、特にエントロピー増大の法則であり、この法則を“普遍的な原理”とする立場から(それ以外の立場は、まずあり得ないが)、勝木は考察を展開している。つまり、「エントロピー増大の法則」を光合成の過程に適応してみた場合に、どのような、まだ見えていなかったことが見えてくるか、という問題意識であった(と推量できる)。逆に言えば、古典物理学の原理として確立しているはずの「エントロピー増大の法則」が一部の物理学者以外には十分に理解されておらず、光合成過程の研究に生かされていなかった、という事情があったと言えよう。)

植物の光合成で、炭酸ガスを取り込んでブドウ糖ができる(炭酸同化)ことは、奇跡のようなことであるが、しかし、植物はブドウ糖(デンプン)だけで生きているわけではない。動物(や他の生物)と同じく、その細胞を構成するためにはタンパク質や脂質を必要とする。それらすべては、他の生物と同様に細胞内で合成されている。その原料となる水や養分は根から植物体内に取り込まれ、ブドウ糖の分解過程で生まれる化学的エネルギーを利用して合成する。
水と炭酸ガス・酸素から炭素、酸素、水素は得られるが、タンパク質や核酸に主要元素として含まれている窒素がどこから由来しているかが問題である。窒素は空気中8割を占める窒素ガスN2として、豊富にあるのだが、N2が非常に安定で、通常の生物はそれを直接利用することができない。N2を常温で分解できるのは、マメ科植物の根に共生している根粒細菌など特殊な細菌に限られている。この働きを窒素固定という。
つまり、窒素固定細菌類によってつくられたアンモニアなどの有機窒素をもとにして、植物もそれを食べる動物も、必要なタンパク質や脂質や核酸などを作っている。つまり、窒素固定細菌が固定した窒素が生物の体の中を、食物連鎖で循環していくのである。ゆえに、地球上の窒素が生物活動によってどのように窒素循環を行っているか、という観点が重要となる。

人糞尿を肥料として用いることは、近代以前の世界各地の農業で行われていたが、既述のように、中世-近世の日本ほど屎尿を肥料として使う社会的システムを整え、徹底して生かしていた国はない。

19世紀半ばまでは窒素肥料として用いられたのは動植物質有機質肥料だけであったが,1802年にペルーでグアノ(海鳥糞の堆積物)が発見されて肥料に利用されはじめ,また,30年ころにはチリのチリ硝石 NaNO3 が肥料として利用されるようになった。(平凡百科事典「窒素肥料」項目より)

グアノはいうまでもないが、チリ硝石も動物の糞・海藻が原料になっていると考えられている(硝石の由来については未解明な点あり。なお、動物・人間の糞から硝石ができる現象は、その理由は不明ながら、古くから知られていた。日本でも、古い農家の床下に結晶ができていることが江戸期の文献に出ている。これは、硝化細菌の働きであることが後に分かった。火薬の原料として注目されていたのである。黒色火薬は硝石75%・硫黄10%・木炭15%を混合したもの(比率は1例)。)
窒素循環が根粒細菌などの窒素固定細菌の働きによっていることがはっきりしてきたのは、19世紀末である(窒素固定細菌リゾビウムが分離されたのが1888年)。すると、必然的に次のような重大な事実に人類が直面していることが明らかになった。すなわち「この窒素固定細菌の働きによってできるアンモニアに始まる有機窒素以外には、地球上の生物が利用できる有機窒素化合物は存在しない」という事実である。もちろん、過去35億年の生物史のなかで貯蔵されている有機窒素(地上・地中・海)を利用するとしても、人類の人口急増は、チリ硝石などを掘り尽くした後は、窒素固定細菌の作り出す有機窒素の量によって頭打ちになるだろうという悲観的な予言があった。

科学者たちが窒素循環の経路を繋ぎ合わせ始めた20世紀初頭、彼らはパニックに襲われた。堆肥や採掘された埋蔵窒素だけでは急増する人口を支えるだけの肥料を十分に作れないという警告が発せられたのだ。1900年代初期に英国の有名な科学者サー・ウイリアム・クルークスがロンドン王立協会に向けた演説の中で荒涼たる光景を描き出して大量飢餓を警告したことで、その懸念にかなりの信憑性が与えられた。われわれの運命は[窒素]ガスから利用可能な窒素を作り出せるわずか数種類の土壌微生物、窒素固定細菌の活動にかかっているというのだ。(『地中生命の驚異』p121)

20世紀始めは、食糧問題だけでなくTNT火薬の原料としてのアンモニアを求める国家的要請も強大であった(第1次世界大戦は1914~19年)。
このような情勢の中で、アンモニアの人工合成の研究が各国で必死に行われ、ドイツのフリッツ・ハーバーがアンモニア合成(500℃、150~200気圧、オスミウムOs触媒)を行ったのが1908年、その工業化は1913年からである。これによって上述のような「窒素危機」は克服され、肥料工業が世界的に隆盛となりそれは同時に火薬製造の兵器産業ともつながっていた。この状況は、現在に至るまで本質的に変わってはいない(人類は高温・高圧下での窒素固定しかできていないということも含めて)。
(『地中生命の驚異』はF.ハーバーを「窒素を固定した男」として紹介しているが、同時に彼は第1次世界大戦にむけて毒ガス研究を行ったことも書いている。ハーバーが1919年にノーベル化学賞を受賞したとき、「道徳的にふさわしくない」として抗議の辞退をしたフランス人科学者もいたという。
ハーバーは毒ガス研究を行った理由を次のように説明しているという。「化学兵器の恐怖が戦争の短期終結をもたらして全体的な苦しみを減少させる」と(同前p123)。これは、第2次大戦で、米軍が広島・長崎に原爆を投下したことについて、それを正当化するのに使われた論理と同一であることに驚く。)

菌類・細菌類 動物や植物の死体・枯体・排泄物などは昆虫・ミミズ・線虫などに食べられた後、土中の真菌類・細菌類によって、さらに分解が進む。多数の、レベルの異なる「分解者」たちの食物連鎖の共同作業によって、デンプンやタンパク質の巨大分子はつぎつぎに分子量の小さな分子に分割され、物質循環の最底辺まで到達する。

植物が光合成によって炭酸ガスと水から合成したデンプン類は、多様な生物の“呼吸”によって最終的には炭酸ガスと水に戻る。菌類・細菌類においていは、通常の酸素を必要とする呼吸(好気呼吸)以外に、アルコール発酵や乳酸醗酵などの嫌気呼吸がある。たとえば、アルコール発酵はグルコースをエタノールに変え、炭酸ガスを発生させる。メタン生成菌によるメタンガスの発生もある。空気中に出たメタンガスは最終的には、酸化されて炭酸ガスに変換される。炭酸ガスは空気中に出る場合もあるし、水に溶け石灰岩などに取り込まれることもある。これが炭素循環である。

タンパク質を構成する主要元素が窒素Nであった。空気中の窒素ガスは窒素固定細菌によってアンモニアに固定され植物が利用しうるのであった。そこを基点にしてすべての生物にタンパク質や核酸の形で窒素は広がっていく。排泄物・死体のタンパク類は、菌類・細菌類の分解を受けてアンモニウム塩になる。アンモニウム塩は植物に栄養塩として吸収される。硝化細菌によって硝酸塩に酸化されてから植物に利用される場合もある。硝酸塩を直接窒素ガスにしてしまう脱窒素細菌というものも存在している。これは、窒素固定細菌と反対の働き(硝酸塩→N2)をしていることになる。硝酸塩は水に溶けて最終的には海に蓄積される。したがって脱窒素細菌が窒素ガスとして窒素を空気中へ放つのは重要な窒素循環の一環なのである。

工業的な窒素固定が行われ出してまだ100年を経ていない。しかし、人類は無尽蔵に化学肥料を手にすることになったのである。多量な施肥も、下水道処理の不十分さも(下水汚泥から、窒素・リンを取ることが難しいことは第5.3.b節下水処理で述べた)、いずれも水溶性の硝酸塩類によって、湖沼・内湾の富栄養化をもたらす。糞尿・台所ゴミなどは、多量の施肥によって可能になった大量の農産物が形を変えて下水に入っていくものにほかならないもので、多量な施肥と下水道処理の不十分さによる環境汚染は、深く内的に関連している。

真菌類はキノコなども含む真核生物で、原核生物である細菌類とはまるで違う生物である。が、日本では同一の文字「菌」を使うために混乱が生じている。特に、この分野に疎い素人にとっては、混乱の種である(わたしのことだけど)。
例えば「酵母菌はアルコール発酵をおこない、乳酸菌は乳酸醗酵をおこなう」と書いてあれば、酵母菌も乳酸菌も似たような仲間なんだな、と誤解してしまいがちだ。酵母菌は「子嚢菌類」でキノコ類に近く、乳酸菌は細菌類である。本当は“乳酸細菌”と言うべきところだ。
『地中生命の驚異』の「訳者あとがき」で、長野敬が次のように苛立たしげに述べているのに、まったく賛成だし、この本で多くを啓発された。

いま、根粒菌でなしに根粒細菌と書いた。細菌を「~菌」と呼ぶのは、青緑細菌(藍色細菌)を「藍藻」と呼んでいたのと同じに、ウーズ以前そしてホィッテカー以前の気楽な単細胞軽視のシステムの名残だ。藍「藻」という生物学的な偏見は急速に是正されつつあるが、結核「菌」というような医学的偏見は、世間で定着していることもあって、改まる気配がない。(前掲書p260)

まったく、“藍藻類”と言われれば、植物だと思うよ。学問的に厳正で“温厚”な立場と思われる筑波大学生物科学系植物系統分類学研究室の藻類のサイトでは、藍藻をつぎのように位置づけている。

藍藻は葉緑体やミトコンドリア,ゴルジ体などの細胞小器官をもたない原核生物の仲間で,系統的にはグラム陰性細菌などとともに真正細菌(Eubacteria)の一員である。しかし,光合成細菌と異なり,真核光合成生物(植物)と同様に酸素発生型光合成を行うために,古くから植物あるいは藻類の一員として扱われてきた。現在では細菌の一部として認識されているが,いまでも慣習の面から,あるいは研究技術が類似していることから藻類として扱われることが多い。




古細菌 メタン発酵というものがある。澱んだ沼やどぶ川からブクリ、ブクリと“沼気”(瘴気)がわき上がってくる現象である。このガスはメタンが6割、炭酸ガスが3割、そのほかに少量の硫化水素、水蒸気などからなる。沼の底に沈殿した有機物が、嫌気的条件のもとで活動する細菌に分解されて水素や炭酸ガス、ギ酸、酢酸などとなる。それらを原料として、メタンを合成する細菌が存在する。これを「メタン生成細菌」という。
このメタン発酵によって、無酸素状態での有機物の分解が保証される。なぜなら、水素生成細菌が嫌気的条件の下で活動しても、水素がメタン生成細菌によって消費されないと活動はすぐ停止してしまうからである。
深海底(数千m)の海嶺に分布する熱水のわき出し口の高温・高圧下で生存するメタン生成細菌が発見されている。これは、地球内部から発生する水素を利用している。

高温(たとえば最適温度85℃)・高圧下の無酸素状態でよく生存する細菌は、光合成生物が発生して大気中に酸素ガスが充満する以前の太古の地球に生存していた可能性がある。ウーズ(R.C.Woese)は、すべての生物の細胞に存在しているリボソームの比較研究から、メタン細菌が、他の生物とまるで異なる特徴を持つ新しい生物分類概念(domain / kingdom)に属すると考えるべきだとした。そしてそれを“古細菌”(archae-bacteria)と名づけた。ウーズの古細菌に関する最初の論文は1977年。

これによって、生物界は、次の3ドメインに分けられることになった。

     ┌─ 古細菌 (Archaea)
     │
     │
生 物─┼─(真正)細菌 (Eu-bacteria)
     │
     │
     └─真核生物 (Eucarya) ── 真菌類・植物・動物
従来、古細菌と真正細菌はあわせて「原核生物」といわれていた。細胞核をもたない単細胞生物と分類されていた。だが、この単細胞生物のレベルで重大な進化が行われていたこと、それは動物-植物の飛躍以上の飛躍であったこと、長野敬の言う「単細胞軽視」の頭では発見できないものであったことが明らかになった。

動物や植物や真菌類は真核生物に入る。生物分類史上画期的だったことは、この分類が2分法ではなく3分法だったということだ(動物か植物か/真核生物か原核生物か)。いまのところ古細菌と真正細菌の“共生”から、真核生物が生まれたと考えられている。しかし、古細菌と真正細菌の発生の先後は簡単に位置づけることができない(古細菌から真正細菌が生まれたというような関係ではないということ)。
メタン生成細菌は、最初に発見された古細菌である。他には、塩田や塩湖から発見された高度好塩菌や、高温の温泉などから発見された高度好熱菌などがある。
深海底(数千m)の海嶺に分布する熱水のわき出し口の高温・高圧下で生存するメタン生成細菌が発見されている。これは、地球内部から発生する水素を利用している。

生物の活動は、エネルギー源となる物質(食物/栄養)を取り入れ、それを(好気的/嫌気的に)“燃やす”のであるが、化学的エネルギーを解放する多段階の精妙なサイクルを用意してあって、少しずつ化学的エネルギーを解放・利用していくことによって、行われている。生物が利用する食物/栄養は、互いに幾重にも絡まりあった食物連鎖の中で、つながりあって、循環している。ある生物種の身体/排泄物は別の生物種の食物/栄養になる。その連鎖は1本の鎖ではなく、無数の相互関係からなる網の目のようになっている。「食物網」という熟語もある。この食物連鎖(食物網)を通して、物質循環が行われている。
生物の歴史35億年は、この物質循環を持続してきた歴史である。それは、全生物に共通のDNA様式で遺伝情報が伝えられてきていることが何よりも雄弁に示している。生物が維持してきた物質循環は、DNAを維持するものであった。しかも、それは途中で“進化”(システムとしての進化)しながら35億年持続してきたのである。

生物の変転きわまりなさとはかなさに対して、天地自然の悠久不滅を述べるロマン主義文学などがあった。だが、山岳が大地の褶曲作用で出来たというだけでなく、大陸も動くのである。それに対して、生物の遺伝システムは35億年の古さを誇っている。
生物の変転をいうなら、それと同程度に天地自然も宇宙天然も変転常ないのである。天地自然の悠久・不変をいうなら、生物も悠久・不変であることをいうべきである。わたしは、生命の不思議を思うことしばしばであるが、自分のこの自意識そのものが35億年の生命史の上にあることをいつも思う。そして、それが「カゲロウのごとき、はかなき命」ではなく、山岳・大陸と比べても負けはしない強固な生命システムの上にあると思っている。「カゲロウの命」も山岳・大陸と比べて負けはしないのである。

おそらく生命システムは、“偶然にできた頼りない存在”ではなく、宇宙に遍在する強固な物質集団のあり方(物質系の存在様式)のひとつであるという考え方、つまり、生命が発生するのには必然性があり、それは遍在しているだろうという考え方をとりたい。そうでなければ、35億年というような長年月を生命が持続しうる可能性は少ない、と考える。つまりわたしは、「生命は非常に安定した物質系のあり方のひとつだ」と思う。




(5.5.c):生命活動とエントロピー
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わたしたちは、動物・植物・真菌類・細菌類・古細菌と、ごく大雑把に生命活動のエネルギー的な収支および物質循環を見てきた。
海底熱水付近での地球内部からの水素を利用している古細菌を別にすれば、太陽光線を利用する光合成生物は、天体からのエネルギーを直接利用して炭素固定を果たす点で、特筆すべきである。それ以外のすべての生物は、他の生物と食物連鎖(食物網)で結びついて物質循環を動かす一員として生存している。
生物が利用する食物/栄養は、互いに幾重にも絡まりあった食物連鎖の中で、つながりあって、循環している。ある生物種の身体/排泄物は別の生物種の食物/栄養になる。その連鎖は1本の鎖ではなく、無数の相互関係からなる網の目のようになっている。「食物網」という熟語もある。この食物連鎖(食物網)を通して、物質循環が行われている。
生物の歴史35億年は、この物質循環を持続してきた歴史である。それは、全生物に共通のDNA様式で遺伝情報が伝えられてきていることによって、何よりも雄弁に示されている。DNAという核酸の存在が35億年の間持続するような物質循環でなければならなかった、ということは確実である。

生物の活動は、エネルギー源となる物質(食物/栄養)を取り入れ、それを(好気的/嫌気的に)“燃やす”のである。だが、その“燃やす”過程はけして一気に進むのではなく、化学的エネルギーを解放する多段階の精妙なサイクルがつながっていて、少しずつ化学的エネルギーを解放・利用していくことによって、行われている。

生物は、食物/水/空気を取り入れ、それを分解/合成し、身体を作り/排泄する。生物におけるこのエネルギーと物質の流れは、二重の流れになっている。ひとつは「分解」の流れであり、もうひとつは「合成」の流れである。

分解-呼吸-燃焼-化学的エネルギーの解放-発熱-(無秩序の増加)

合成-小分子量から大分子量へ-化学的エネルギーを使用-(無秩序の減少)

この二重の流れは、絡み合っていて、別々に分離することはできない。「分解」によって得たエネルギーを用いて「合成」するのだが、「合成」された酵素なしには、「分解」を一歩も進行させることはできない。「分解」と「合成」の二重の流れを分離できないひとつの生命運動ととらえて、そのお互いがお互いの原因であり結果になっている必然性を認識することが大事である。
そして、水(液体の水、水蒸気)の存在が重要であった。多くの段階で発生する熱は速やかに排棄することが必要であり、廃熱は水の潜熱・蒸発熱を使って、環境へ(水中・大気中)へ排棄していた。

その生命活動とは、どのようなものだろう。重要そうな事柄を挙げてみる。

 栄養を取り、呼吸をし、排泄する(エネルギーを作る) 自分の体を作りだしていること(物質合成) 感覚、行動、意識活動(これは、合成の合成か) 繁殖があること(他個体を作りだす)

生命活動は、身体という「新しい物質秩序の形成」であり、身体の行動(感覚現象・筋肉行動)は「動的秩序の形成」であると考えたい。子孫形成は他個体という、より高次の「形成」と考えることができる。
そこで、わたしは生命活動の特徴を次のように一口でまとめておく。

生命活動とは、物的・動的な新しい秩序の形成である。

この、「新しい秩序」を形成するのに、すべての生物は分解-合成の二重の流れを外界と身体の間に作りだし、その流れを持続させていることが必要であった。

たとえば、わたしたちが食物を消化管を通して腸で体内に取り込むときには、消化酵素によって小分子量の物質に分解して(タンパク質ならアミノ酸にして)取り込む。取り込んだ上で、ヒトのタンパク質を合成するのだが、この合成過程はエネルギーを必要とする(ここで、食物から得られるエネルギーが使われる)。しかも、この合成によって、巨大タンパク質分子が形成される。つまり、これはミクロなレベルで起こっている「新しい秩序の形成」なのである。

多数のアミノ酸  →  タンパク質分子

生命の場では持続的にこのような「新しい秩序の形成」が生じている。
ここで生じている反応は、自然界で禁じられている(不可能な)反応ではない。そのことは言うまでもない。禁じられている反応でなければ、自然界では、たまたま偶然に、この反応が起こることは(低い確率かもしれないが)あり得る。しかし、生命の場では、この反応が持続的に起こることが確保されているのである。
多数のアミノ酸が、あたかもひとつの目的のために集まってくるようにしてタンパク質分子を合成する。この「新しい秩序の形成」の過程は、まるで、合目的的な行動であるかのように見える。意味のある行動のように見える。タンパク質分子の設計図がDNA情報として保存しあり、それを読みとり、多数の酵素による精妙な反応の複雑な連鎖の過程が、細胞内で実行される。

わたしは、ここでエントロピー概念を持ちだそうと思う。

上式の左辺の「多数のアミノ酸」は、てんで、バラバラに並んだり、方向が無秩序であったりしているだろう。原料となる何種かの多数のアミノ酸は、生体内で別々の場所に貯蔵されていて、必要な場所へ運ばれてこなければいけない。その意味で、左辺の「多数のアミノ酸」は無秩序の度合いは大きいわけである。それに対して、右辺のタンパク質分子は、アミノ酸が一定の配列でつながっていて、全体でひとつの立体構造を示し、決まった特徴ある形を持っている。だから、無秩序の度合いは少なくなっている、と考えられる。
この無秩序の度合いをエントロピーというのである。上式では、多数のアミノ酸が合成されてひとつのタンパク質分子ができることで、エントロピーは減少したのである。

エントロピー = 系の、無秩序の度合い

と考えて欲しい。「無秩序」の定義をしていないので、この式は“雰囲気”を伝える程度の働きしかないが、まあ、それでも、重要なことを定性的(非数値的)に述べることができる。「無秩序」のことを“”というのだと考えていても、それほど間違いではない。
(エントロピーはきちんとした物理的概念で、数値的に定義されている。単位は【エネルギー÷絶対温度】で、例えば ジュール/Kである。絶対温度T゜Kの熱源からQジュールの熱が系に流れ込んだら、その系のエントロピーはS=Q/Tだけ増加する。ただし、小論では Q/T という式がなぜ出てくるか、ということには踏みこまない。)

19世紀後半に確立した熱力学の第2法則とは、どのような系(考察対象)であっても、その系に対して「エントロピー S」という量を定義することができて、

孤立した系で実際に起こる変化では、系のエントロピーは増加する

というものである。「孤立した系」というのは、熱的な出入りがないように断熱材で覆われている実験装置、というような意味である(詳しくは後述)。
物理学の多くの法則のなかで、この熱力学第2法則は、じつに異風を呈している。それが、どういうことか、思いつくままに書いておく。

  • 第1法則は、「質量/エネルギー保存の法則」である。(ゾンマーフェルト『熱力学および統計力学』(講談社1969)の表現を引いておく。熱力学的な系はすべてそれに固有の状態量、エネルギーを持つ。エネルギーは体系が熱量dQを吸収すればそれだけふえ、系が外へ向かって仕事dWを行えばそれだけ減じる。(p13))

  • 第2法則の表現法はいくつもあるのだが、ほとんどは“文章”で説明する形になっている。簡明な方程式になっていない点が物理法則としては際立っている。(むろん、⊿S≧0 と書いてもいいが、その由縁を述べる文がつくことが普通だ。たとえば、クラウジュウスの表現は「熱はひとりでに低温から高温に移ることはない」であり、ケルビンの表現は「ただ一個の物体の温度をそのまわりの最も冷たい部分の温度よりも下げることによって、仕事を連続的に得ることはできない」である。ゾンマーフェルト前掲書(p27))

  • エントロピーSなるものは、「無から生じる」という点で、その他の物理量と雰囲気が違う。そいつは、ある系の中で生まれて、どんどん増えるが、決して消滅しないのである。一度生まれると、移動はするが消滅はしない。しかも、どんどん生まれてくる。この法則は、そういうことを主張している。

  • 閉じた系では、エントロピーSが増加するような変化しか起こらないのである。このことは、時間の進行方向を決めている、ともいえる。“この世界では、無秩序が増加するようにしか、物事は起こらない”という言い方で、時間経過の方向を決めている。

  • 上式の表現(ゾンマーフェルト前掲書による)では「実際に起こる変化」という言い方が奇妙である。これを読むと、物理学者に「実際には起こらない変化」というものがあるのか、と質問したくなる。これはしかし、エントロピーを数量的に計算するとき必要な「準静的過程」ではない、という意味なので、あまり深く考えても無駄である。
    (準静的過程とは、理念的に想定する理想的過程で、釣り合いを保ちながら無限に時間をかけてゆっくり変化を生じさせる過程である。準静的過程は可逆過程である。
    具体例をすぐ下の注[ジュールの自由膨張の実験のエントロピー]で、計算方法を示して説明してみる。エントロピーの定義をきちんと知るためには、カルノー・サイクルなどからエントロピーの定義へ正面からぶつかるより、まず、次のような計算を自分でやってみるのが早道だと思う。)



【ジュールの自由膨張の実験のエントロピー】
ある気体をを体積V1の容器Aに閉じこめておいて、コックCをヒネって、真空の容器B、体積V2に噴出させる。すると、気体は容器AとBの両方へ、体積V1+V2に広がる。この時、外界と熱の出入りのないようにしてあったとする。この実験を断熱的な自由膨張という(単に、断熱膨張というときには、外気圧に向かって膨張する)。

ジュールはこの実験の前後の温度変化を調べ、温度変化がないことを確かめた。二つのガスボンベや断熱材・温度計などが熱を吸うことが考えられるので、難しい実験だと思えるが、ともかく、実験誤差の範囲内で、熱の発生・吸収がないことを確かめたのである。

この実験結果は、系全体が断熱的で、しかも、気体が外部に向かって仕事をしないときには、気体の内部エネルギーは体積に無関係である。

ことを意味する。これは、気体の分子同士が反発しあったり、ぶつかり合ったりする影響がほとんど無い状態、つまり、充分薄いガスなら、エネルギーが“内部”(気体の分子同士の間)に貯えられることはないと考えてよい、というふうに理解される。
この性質が厳密に成り立つとしたものを理想気体といい、その1モルについて、圧力p、体積V、温度T、気体定数R(=8.31 J/mol K)の間に、pV = RTという関係式(状態方程式)が成り立つ。

さて、この自由膨張の実験は、非可逆的であることは、分かりやすいだろう。Aに閉じこめてあった気体が、真空だったBに向かって、ひとりでに広がり、すぐA+Bに一様に広がって安定する。この状態を元に戻すには、コックCを締めてから、真空ポンプなどを用いて、B内の気体を吸い出してAに入れることをしないといけない。すくなくとも、ひとりでに、最初の状態にもどることはありそうもない。
このような、非可逆的な変化にともなって必ずエントロピーの増加が起こっている、というのが熱力学第2法則であって、以下、具体的にこの場合のエントロピーの変化を計算してみる。

始 状態:体積V1 ,圧力p1 ,温度T終 状態:体積V2 ,圧力p2 ,温度T

温度が共通であることに注意。また、状態方程式があるので、p1= RT/V1,p2= RT/V2となり、圧力は消去できる。
エントロピーの計算は、始状態から始めて、終状態まで到達するように、系にたいして準静的に変化を加えながら進む。その変化の路をたどりながら、系に接している“熱源の温度T”(系の温度である必要はない)と系に与えられる熱dQとしたときに、つぎの積分を行えばよい(小論では、この式の導出はしていない)。

S = ∫dQ/T
学生にとって、この話でもっとも理解しにくいところは、準静的とか、上の回路積分などではなくて、始状態から終状態まで達する路が、現実の系がたどった路(今の場合「自由膨張」)である必要はなく、適当に選んだ(無数にある)準静的な路のうちのどれか1つで行えばよい、という点である。たいていの場合は、計算しやすいような路を選ぶことになる。どのような準静的路を選んでも、エントロピーの計算結果は全部同一の値になるのである(そのことを、エントロピーが「熱力学な状態量」である、という)。(じつは、上で熱力学の第1法則をゾンマーフェルトの表現で紹介したところで、「エネルギーは状態量である」としていた。)

ここでは、2種類の異なる準静的路を考えて、それに沿っての積分計算をそれぞれやってみる。

【計算 その1:等温曲線に沿って】
準静的で、等温的に変化をさせることにしよう。

始 状態:体積V1 ,圧力p1 ,温度T途中で :体積V  ,圧力p  ,温度T終 状態:体積V2 ,圧力p2 ,温度T

とおいて、上式を計算していけばよい。すなわち、温度Tの熱源に接しているガスを準静的に(各瞬間に釣り合わせつつ、無限の時間をかけて)変化させる。装置の外にpと書いているのは、ガスの圧力に釣り合わせるためにピストンに加えている圧力である。


(理想)気体は等温の条件では、内部エネルギーの変化はない。したがって、流入する熱dQは、そのまま外部への仕事pdV(これは、仕事=力×距離から直接に導かれる)になる。

S = ∫dQ/T
  = ∫pdV/T
  = ∫(RT/V)dV/T   (状態方程式を使って変形した)
  = R∫dV/V

  = Rlog(V2 /V1 )  ・・・・・・  結論

【計算 その2:断熱曲線に沿って】
今度は、断熱的にV1 → V2 と膨張させ(むろん、準静的に行う)、そのことによって、温度が下がっているだろうから(その温度をT3 とする)、熱源T3 に接っさせて暖めて、本当の温度Tにする。
まず、断熱的な膨張を準静的に行うときは、当然、熱の出入りがない、すなわち、

dQ = 0
であるから、エントロピーの変化はない。しかし、温度変化T→T3 はある。T3 を求めるには、次のようにする。
断熱変化する理想気体について、ポアッソンの式というものがある。

pVγ = 一定   
γ は比熱比という量で、定積比熱Cv に対する定圧比熱Cp の比、すなわち

γ = Cp /Cv
である。Cp の方がつねにCv より大きいので(最後に使うが、理想気体では R だけ大きい)、γ>1である。
さて、上のポアッソンの式により、

p1V1γ = p2V2γ
状態方程式 pV=RT を用いて、

T V1(γ-1) = T3V2(γ-1)

ゆえに、

T3 = T( V1/V2)(γ-1)
これで、T3が求まった。
そこで、体積一定のまま、温度をT3→ T へ上げる。これは、定積比熱Cvを使うことになる。Cv は定数だから、

S = ∫dQ/T
  = ∫Cv dT/T
  = Cv ∫dT/T
  = Cv log(T/T3 )

  = Cv log(V2 /V1 )(γ-1)

  = Cv (γ-1)log(V2 /V1 )  (ここで γ=Cp /Cv を用いて)

  = (Cp-Cv )log(V2 /V1 )

  = Rlog(V2 /V1 )・・・・・・  結論

最後の行は、理想気体について成り立つCp = Cv +Rを用いた。
これによって、二つの異なる準静的経路による計算結果が一致することが示された。

なお、この部分は戸田盛和『熱・統計力学』(岩波書店1983)(p30~63)を参考にした。この本は、瞹眛さなく丁寧に書いてある優れた熱力学の教科書だと思う。


熱力学第2法則を再度掲げてみる。
どのような系(考察対象)であっても、その系に対して「エントロピー S」という(状態)量を定義することができて、

孤立した系で実際に起こる変化では、系のエントロピーは増加する

というものである。そして、この「エントロピー S」は、「系の無秩序性を表している」と考えることができる。

前に、いくつも例を挙げたが、光合成やタンパク質合成などの生物体内で行われる多くの反応は、二酸化炭素やアミノ酸などの小分子を合成して、秩序だった構造を持つ巨大分子を作り上げる反応であった。その反応が進めば進むほど秩序が増加する。それは、無秩序性の減少に他ならない。つまり、これらの合成反応を見ると、あたかも生物体内で起こっている現象は、エントロピーの減少を意味しているように思えるのである。すなわち、熱力学第2法則に反する反応のように見える。

熱力学第2法則は確固たる経験に基づいている法則であるから、生物の関与する現象についても、きちんと成り立っているのだ、と考えるのが順当である(合理的である)。とすると、あたかも生物体内で起こっている現象が、熱力学第2法則に反する反応のように見えるのは、つぎの2つの、いずれかを意味する。

注目している系が、実は、「孤立した系」ではない。注目している系のなかに、見落としている反応がある。

よく考えてみると、この2つは実は、同じことを言い表している場合も多い。見落としている反応が、注目している系を外部の系とつないでいる、というように。
“秩序の増加”のように見える反応の陰に、“無秩序の増加”である反応が進行していて、その両者を併せ考えると、エントロピーの増加のほうが、減少を上回っている、ということになっている筈である、もし、熱力学第2法則が普遍的に成り立つとすれば。

“生命現象は物理学の及ばない神秘な現象だ”という立場に立たない限り、生命現象においても普遍的に熱力学第2法則が成り立っているはずだ、と考えるべきである。しかも、それは、単なる教条主義(お題目)ではなく、生命現象を探求する指針を明示している点で有意義である。なぜなら、生命現象があたかも熱力学第2法則に反するように見えるのなら、「エントロピーの増加をもたらす現象が隠れているにちがいない」ことを主張しているのだから。

例えば、結露の現象がある。「朝露」でもいいし「鍋のふたの水滴」でもいい。ともかく、空中に広がっていた(拡散していた)水蒸気が集まってきて、液体の水のしずく、すなわち露になる現象である。この現象だけに注目すれば、明らかに、エントロピーの減少である。
第2法則によると、エントロピー増加の現象が同時に進行しているはずである。それは、「物質の拡散」または「エネルギーの発散(放熱)」のような現象であるはずだ。結露の場合は、水蒸気から気化熱に相当する熱を奪う必要がある。水蒸気からすれば、気化熱に相当する熱を周囲環境へ放出して、自らは液化して水となる。すなわち結露の現象にともなって、水蒸気から周囲環境への熱の移動があった、ということが分かる。

ただ、実際には「水蒸気圧」の問題がある。鍋のふたの場合は、鍋の中が飽和水蒸気圧になっている状態でふたが外気と接していて、そこで水蒸気が気化熱を奪われ結露する、と考えていいだろう。その熱は鍋の底を熱しているコンロから来ている。
朝露の場合は、朝方に大地の放射冷却で気温がどんどん下がっている状態を考えよう。大気中に含まれている水蒸気の量はあらかじめ決まっていると考えてよいだろう。湿った夜とか乾燥した夜とか。気温が下がって、水蒸気圧がその温度の飽和蒸気圧に一致したら、結露がはじまる。水蒸気は大地に気化熱を奪われると、その分だけ結露する。すなわち、水蒸気 → 大地 → 放射冷却の流れで熱が移動し、放熱される。 厳密にいえば、その間、気温の低下は止まり、放射冷却は結露に使われている。結露が進んで、水蒸気圧が下がれば、今度は気温の低下が再開することになる。
いずれにせよ第2法則によって、結露と同時進行で必然的に放熱現象が起こっているはずだという見定めができるのである。

もう1例、大気中の水循環を考察してみよう。
地表にある水(液体の水)が蒸発し、水蒸気になって上昇し、上空で液化(水さらに氷)して雲となり、雨滴となって落下してくる過程である。
手元の『理科年表』(国立天文台編 丸善)をみると、水の気化熱は25℃で583cal/g、100℃で540cal/g と示されている。これを利用するために、地表の気温が25℃だったとしよう。25℃で1gの水が蒸発して、水蒸気になったとする。このとき、この水は周囲から538calの熱をもらって気化し、水蒸気になったのである。この1gの水 → 水蒸気の変化によって発生したエントロピー

S1  = Q/T = 538/(25+273) = 1.805 cal/g K

である。分母に登場している273は、摂氏℃を絶対温度Kに変換するためのものである。水の蒸発現象でこれだけのエントロピーが発生し、水蒸気はそれを持って上空へ向かった、と言っても良いし、周囲の環境から熱を吸収した水蒸気が上空へ向かった、といってもいい。ただ、「熱を吸収し」と言っただけだと、この現象が、熱力学第2法則による必然的なエントロビー増加の非可逆な現象であるという認識をともなわない可能性がある。したがって、ここでは単に「熱」とせず、「エントロピーが発生した」ないし「エントロピーの増加」とはっきり言った方がよい。
さて、この水蒸気が上昇していく。例えば、成層圏の上のほう1万m辺りで、水滴/氷になったとしよう。『理科年表』では1万m上空は温度223K(-50℃)、気圧265hPaとしている。この条件での気化熱は不明であるが、仮に25℃のときと同じだとすれば、

S2  = Q/T = 538/223 = 2.413 cal/g K

つまり、温度が低いので、それだけエントロピーが大きくなっていて、上空で行われる放熱によって、S2だけのエントロピーを水蒸気は「上空に置き去りにして」雨滴として落下してくる。上の計算では水1gについて S2-S1= 0.608 cal/g K のエントロピーを上空へ持ち上げたのだ。置き去りにされたエントロピーをもった熱は、最終的には宇宙へ放射される。(地球が宇宙へ行う熱放射の見積り計算は、ここでは省略する。たとえば勝木渥前掲書の第3章「環境としての地球」を参照されたい。)
つまり、地球からの廃熱(大気圏の水循環を通じた廃熱)は、このようにして、エントロピーを宇宙へ捨てているのである。

この水循環にエントロピーの観点から注目し、その本質的重要さを最初に指摘したのは、エントロピー学会The Society for Studies on Entropy(設立1983 http://www.entropy.ac/entropy/nyuwkai.html )である。わたしはこの会員ではないが、設立当時からこの学会関連の書物から多くを学んでいる。ここまでに名前をだした勝木渥、槌田敦のほかに、柴谷篤弘、室田武、玉野井芳郎を挙げておく。なお、「自然保護をめぐって」という旧拙稿(1984)をサイト「き坊の棲みか」で公開している。エントロピー学会ができた頃、わたしが関心を持っていたことを書いている。ただ、エントロピーに関してはほとんど触れていない。

【シュレディンガーのネゲントロピーについて】
量子力学の創始者のひとりであるE.シュレディンガーは、20世紀前半の物理学の有数のリーダーであった(オーストリア生まれ、1887-1961)。1943年の講演をもとに『生命とは何か』という有名な本が出版され、その中に「生物は“負のエントロピー”を食べて生きている」という言葉があって、よく記憶された。わたしは岡小天・鎮目恭夫訳の岩波新書(初版1951)を手元に持っているが、1983年・第39刷であり、よく読まれた本であることが分かる。
シュレディンガーが「負のエントロピー」(ネゲントロピー)という語をどのように使っているか、見ておく。

・・・・・・したがって生きている生物体は絶えずそのエントロピーを増大しています――あるいは正の量のエントロピーをつくり出しているともいえます――そしてそのようにして、死の状態を意味するエントロピー最大という危険な状態に近づいてゆく傾向があります。生物がそのような状態にならないようにする、すなわち生きているための唯一の方法は、周囲の環境から負エントロピーを絶えずとり入れることです。――後ですぐ分かるようにこの負エントロピーというものは頗る実際的なものです。生物体が生きるために食べるのは負エントロピーなのです。このことをもう少し逆説らしくなくいうならば、物質代謝の本質は、生物体が生きているときにはどうしても作り出さざるをえないエントロピーを全部うまい具合に外へ棄てるということにあります。(前掲書p125)

エントロピーの差引勘定で、生物体は「負」が勝るようにしている、それが物質代謝の本質だというだけでは足りず、「負エントロピー」を食べていると言ったのである。その限りで、まちがった表現ではない。
しかし、その「負エントロピー」が一人歩きしてしまったので、エントロピーの差引勘定の「頗る実際的な」過程に踏みこんで解明することが疎かになりがちになってしまった。生物活動には、エントロピーを増大する過程にともなって、そのエントロピーを棄てる過程が必ず存在しているのであり、その別々の過程のそれぞれの特性を、それぞれ解明する必要がある。

たとえば、人間(動物)の場合、排尿・発汗などによって廃熱および排汚水を行うことによって(他にも呼気や輻射放熱などある)、生物個体としては「エントロピーが減少している」ような差引勘定になっているのである。食物を採り、水を飲み、呼吸をしていること(摂取)と、廃熱・排汚水をしていること(その全体を「排エントロピー」と言っていいだろう)、の差し引きで後者の方が勝っているというのである。われわれはその勝っている分だけ、身体形成をし目的意識的行動をし精神活動をしているのである。すなわち、低エントロピーを創出しているのである。この差し引きの前提となる「摂取」と「排エントロピー」の2つの過程の実態究明をネグって「負のエントロピーを食べている」と言ってしまうと、あたかも食物・水・酸素が特性として「負のエントロピー」を持っていると誤解してしまいがちである。本当は「排エントロピー」過程が働いていることによって、“食物・水・酸素が「負のエントロピー」を持っている”という解釈を許しているというのに過ぎないのに。



(5.5.d):地球圏
第5節 目次  全体の目次へ戻る

地球は、生命が存在している天体である。
(いまのところ、地球以外の生命の存在する天体は知られていないので、「希有な天体」であるというべきかも知れない。勝木渥は「宇宙広しといえども、生命の存在する天体はこの地球だけであろう、との思いを私は抱く」前掲書p146 と言っている。

わたしは、むしろトーマス・ゴールド『未知なる地底高熱生物圏』(大月書店2000)にしたがって、生命の遍在する宇宙像の方に親近感を覚える。だが、勝木渥は旧制高校(六高)時代に梯明秀[かけはしあきひで]から「人類発生によって宇宙は即自的(an sich)な段階から向自的(fur sich)な段階に入った」という人類発生の宇宙史的意義を講義で聞き(同p151)深く感動したという。
わたしは、梯明秀の名前に懐かしい思いをした。40年も前に、梯明秀『物質の哲学的概念』などで即自的-向自的段階という概念を学んだことがあったからである。そのころわたしは黒田寛一と吉本隆明をまぜこぜに読みながら梯明秀[カケハシメイシュウといっていた]も買い揃えたりしていたのである。)

なぜ、地球に生命が発生したか、いま35億年前と言われているが、よく分かっていない。そもそも、「生命」とは何かが、よく分かっていない。だが、生命の存在様式は分かっている。

生命は、内/外を区別できる境界を持ち、物質/エネルギーが流動する動的安定のなかで、エントロピー減少を意味する、秩序化/組織化を持続的に形成している存在様式の系である。

したがって、この生命系にο、必然的に随伴して「エントロピー増大」をうち消す系が存在しているのである。そのことによって、はじめて「エントロピー増大」は生命系内で動的に引き算されてトータルすると「負のエントロピー」状態になっているのである。その主たる担い手はである。
その水の働きのポイントは、つぎの3点である。

  1. (液体としての)水が廃棄物をよく溶かして、汚水として排出されること

  2. 気化熱の大きさを利用して、蒸発(蒸散)によって、大気中へ効率よく廃熱すること

  3. 水蒸気が大気中を上昇し、上空で雲を作り雨滴(氷粒)となる際に、宇宙へ廃熱すること

生物(動物から細菌に至る全生物)はすべて個体として生存し、体内-体外を明確に区別している。生物個体はすべて必要物質・エネルギーなどを体内にとりいれ、不用物質・廃熱などを体外へだす。その過程で、エントロピーを体外=環境へ廃棄する。環境には水循環が存在していて、エントロピーを「環境の環境」へ棄てる。
大気中に廃棄されたエントロピー(廃熱)は、最終的には大気圏の水循環によって宇宙へ棄てられる。この水循環の永続が、地球生物の生存の永続の必須の条件である。
(エントロピー排棄の観点から眺めると、「環境」、「環境の「環境」」、「環境の「環境の「環境」」」、・・・・・・という形で環境はかならず階層構造をなしている、という勝木渥『環境の基礎理論』p140~144 の弁証は見事である。)

大気圏での水循環を復習しておこう。地上には液体の水(海、湖沼、河川)があり、水蒸気となって蒸発して上空へあがり雲ができ(対流圏界面が約11km上空)、低温のため液化(水/氷)し、降雨(雪)となって再び地上に戻る。
地上で蒸発熱を奪った水蒸気は、上空で気化熱として放出する。地上と上空の温度差(地上20℃程度、対流圏上部で-50℃)が存在し、その中で水が循環し、液体/気体と相を変化させていることによって、地上のエントロピーを持ち上げ、宇宙へ棄てている。この絶妙な構成によってエントロピー排棄が行われており、この構成のどれかひとコマが欠けても、この循環はうまく回らない。

  • 水の物質としての特異な性質(気化熱・比熱が大きい、氷が水に浮く、ものをよく溶かす)

  • 地球表面には(液体の)水が大量に存在する(地球の大きさと質量)

  • 地上と上空の温度と温度差(太陽光線の放射、大陽との距離、大気の温室効果)

  • 水蒸気が空気より軽い(水の分子量が小さい、水=16、空気=28.8)

水の少ない環境が、非常に厳しいものになることはよく知られている。砂漠などでは、太陽光線が岩・砂などにあたり、そのエネルギーがほとんどそのまま熱になってしまう。その熱を廃熱する水がないために岩・砂は温度が上がり、温度上昇の上限は主として輻射放熱によって決まるであろう(地中への熱伝導は少ないのではないか?)。夜間は輻射放熱によって、地表温度がどんどん下がる。
大規模な気候変動でもない限り、極端に乾燥した環境が自律的に生物の棲める環境に変化する要因はない。極端に乾燥した環境からは、水蒸気の蒸発そのものが少なく、雲ができないからである。異常気象で、突然降雨があっても、植物がないために水をたくわえることが出来ず、土砂とともに一気に水が流れてしまう。

森林を保護する意味は、いろいろあるだろうが、水循環の観点からもきわめて重要であることは論を待たない。水に対する森林の働きは保水浄化の2つが主たるものである。
降雨の雨粒は、大気中を落下してきて、最初に森林の葉にぶつかる。さらに、小枝を伝わり、幹をつたって地上に降りてくる。地上の下草を濡らし、落葉の堆積の間に溜まりコケに水を与え、土壌に染みこむ。森林に生息する生物は水を飲み、体内にとりこむ。樹木は地中に張りめぐらせた根から水を吸い上げる。地中の小生物も真菌類・細菌も必要な水をとりこむ。
降雨が続けば、コケの間に早くも小水流が生まれる。土壌に染みこんだ水は、土中を長い時間をかけて伝わって、最後は地下水路に達する。崖の端から地表にあらわれ滴ることもある。小水流が、やがて谷川となり、それが合流して河川となる。
これらの、多様で複雑な環境(微環境)があるために、降雨が河川となるまでに、長い時間を要する。健全に発達した森林であれば、降雨が一度に山肌を流れ下ることがなく、森林が十分な保水機能を持つ。ゆっくり時間をかけて移動する水は、森林に生息するあらゆる生物に利用される。もちろん、森林を構成する植物自体にも利用されて、より発達した複雑な森林を作り上げる。
植物の蒸散作用で空中に出るものもあり、生物体内を通って尿として老廃物を体外に運び出した水もある。土壌の水溶性物質を溶かし込み、河川に流れ入る。
多くの生物に利用されるのも、地下にしみこんで地下水となるのも、森林の内部で水がゆっくりと移動することに基づいている。

自然界に存在する淡水全般について書かれたもので、E.C.ピルー『水の自然誌』(古草秀子訳 河出書房新社2001)ほど想像力をかき立てられ、科学的に厳密で、しかも、詩情をたたえているものは知らない。内容は地下水の存在形態から河川、湖沼、湿地、プランクトンと多岐にわたっていて、しかも挿し絵の図表がすぐれている。ここで、この魅力的な本の紹介を兼ねて、川と倒木を扱っている箇所を引用しておこう。

まず、樹木だ。森林流域では、河川は粘土や砂や礫ばかりでなく、落ち葉や木の枝などの有機物も運んでおり、それらは水面に浮かんでいるものもあれば、水に浸かっているものものある。さらに、水流の障害物といえば、丸太は巨礫よりもありふれている。森林地域の河川では、・・・・・・階段をつくているのは、組み合わさった巨礫ではなく倒木である。
・・・・・・巨礫のダムは構成している岩石がしっかり組み合わさっていれば何世紀でももつのに対して、倒木のダムは有機物であるために、比較的すみやかに分解する。倒木は微生物によって弱められ腐敗し、水生昆虫に噛みくだかれて餌にされる。(『水の自然誌』p173)

どうだろう。そもそも、谷川を横切る倒木がつくる「ダム」について取り上げているような著作に、わたしは始めて出会った。

流れがあまり速くなければ、大量の落ち葉や木の枝などが積み重なってダムをつくる。そうしたダムは、濾過器の働きをして、上流から運ばれてきた木屑や無機堆積物(粘土や砂)をさえぎる。ダムはしだいに大きくなり、洪水が起これば流される。木屑のダムは、河道幅の数倍の間隔でかなり規則的に形成されることが多い。

このあと、山道によく見かける雨の流水の後の「落葉のダム」の跡である「葉が積み重なってできた低い階段」についての詳細な分析がある。なお、この本の原著『Fresh Water』は1998年の出版で、著者はカナダ在住。第11章「顕微鏡でしか見えない生物」はプランクトンや細菌を扱っているが、古細菌や「青緑色細菌」(藍藻のこと)についてきちんとした記述になっている。(第5.5.b節植物・細菌・古細菌で長野敬の苛立ちを紹介したが、苛立ちなく読むことができる。)

水辺には多数・多様な生物が棲むことができる。水中にも多様な生物圏が広がっている。というより、現在の地上の生物は、長い進化の過程で水中から上がってきたものである。地上の昆虫でも卵-幼虫時代を水中で過ごすものは多い。水中微生物が水底の小石や泥に多数棲んでいる。川底のぬめり・水苔の薄い層は、微生物の集まりである。大きな岩や礫や砂、水辺の葦や水草。それらが作り出す複雑で多様な微環境に、それぞれ適した微生物が棲み分ける。水流があり酸素豊富な場所。水がよどみ低酸素の泥の層。
これらの多様な水辺-水中の生物たちは、水流が運んでくる枯葉枯れ枝・生物死体・老廃物などの有機物を“食べる”。多様な微環境の中に多種多様な微生物が棲み、それぞれが独特の“食べ方”をするのである。そのことによって、有機物の分解が止まることなく、徹底的になされる。この自然の分解過程では「余剰汚泥」はあり得ないのである。
食物連鎖の鎖は、単にながい鎖であるだけでなく、多様な手法が駆使される鎖である。その鎖の連続の中で、有機物はだんだんと分子量の小さな物質に分解されていく。この分解の過程が、水を清浄化する過程でもある。水の自然の浄化作用というのは、このことにほかならない。


この自然の浄化作用の一部をとりあげて、工業技術的に大規模・高速化したのが、現在の下水処理法の「活性汚泥法」であることは、すでに述べた。
下水に空気を吹き込んで好気性細菌に“汚物”を食べさせる。空気を吹き込むのに多量の電力を使うが、その分、高速化をはかれるので、現代の都市下水の処理法として好まれているのである。エネルギー多消費型の手法として、現代都市に適合しているというだけのことであって、けして、望ましい処理法だということではない。
下水処理技術は、自然の浄化作用の一部分を取り上げてシミュレートしているに過ぎないので、下水中の汚物を完全に分解し終わることは不可能である。「余剰汚泥」が出ることが避けられない。第5.3.b節下水処理では、4割程度が余剰汚泥となるという記述を紹介しておいた。
その余剰汚泥を、「汚物」のそもそもの発生源である農地・牧場などへ戻すのが理想的だが、それは難しい。汚泥の中に有害物質が混入していること、コンポスト(堆肥)化しても必ずしも農家がそれを求めるとは限らない。(日本国内には、有機農法をおこなう農業者や地域循環型農法を試みている地域があるが、そういうところの需要を大きくうわまわる大量の余剰汚泥が発生しているはずである。なぜなら、日本は大量の農作物輸入国であるから。この点も第5.3.b節で既述。)

多量の化学肥料が農地に施されているのが現状であり、それが植物体となって食糧となる。家畜飼料となって肉・乳製品となる。とすると、それを食べて糞尿を排泄し、下水処理されてできるのが余剰汚泥である。仮に余剰汚泥の全量を農地などへ戻すことができたとすると、多量の化学肥料が不用になってしまう。
現代の工業社会では、大量の化学肥料を生産しそれをたえず消費する必要がある。余剰汚泥は循環させる必要はないのである。循環しては困るのである。余剰汚泥の多くは焼却処分し、その焼却灰を埋設するか、建築素材・道路舗装素材などとして使う。つまり、循環させないのである。そして、循環させないことが現代の工業社会が存続するための要請でもあるのである。

くりかえしになるが、気づいた点を列挙しておこう。

  1. 「活性汚泥法」の巨大な処理場の汚水槽のなかでは、激しく吹き込まれる空気気泡にもまれながら好気性微生物が有機物を食べる。したがって、この汚水槽では定着した安定した環境を好む微生物は繁殖しにくく、自然の水流・水辺におけるような多様な環境が用意されていない。つまり、自然の浄化作用のきわめて局部的な一面を巨大化し高速化したのが、現代の下水処理である。そのため、処理の歩留りが大きい。

  2. 下水処理では、嫌気性環境で「嫌気消化」がひきつづき行われる(ことがある)。そこで発生するメタンを燃料として使用できるし、窒素やリンの消化も計れるので消化処理は望ましいのだが、現代の都市下水のシステムのなかでは生かし切れていない。というのは、この嫌気消化が半月~1月の時間を要するからである。
    ただ、個人下水道では、合併式浄化槽で嫌気/好気過程が組み合わされているのが普通である。「高速化」を求めなければ、それが可能なのである。

  3. 工場下水などを受け入れる下水(混合処理)で、微生物に有害な物質が流されたり、微生物の食物になりえない無機/有機物質が流されたりする。雨水を受け入れる(合流式)ことによっても、有害煤塵などの流入は避けられない。家庭排水にも洗剤などで微生物処理できないものがある。

  4. 下水処理の最終産物=余剰汚泥の処理が容易ではない。含水率が大きく、焼却処分は不経済であるが、大量であることと処理速度を考えると、それに頼らざるをえない。ここでも石油多消費型の技術が主役である。

  5. 下水処理の最終産物=余剰汚泥は、結局“廃棄”される。これは、現在の下水処理の致命的なところだ。自然の循環系のなかに組み入れることができていないのである。
    人間の食べ物はみな自然物(生物)である。それを食べておいて、糞尿を自然へ戻すことができないのである。これは、自然からの収奪システムである。

  6. 巨大な化学肥料生産企業は、この収奪システムをこそ求めている。土地(アメリカなど)に投入される多量の化学肥料で生産される農産物は、遠隔地・外国(日本など)へ輸送(輸出)されてそこで消費される。その結果生じる余剰汚泥は焼却処分され、埋設される。このすべての局面で、(石油)エネルギー多消費型の方式がとられている。

この収奪システムという農業のあり方の致命的な点は、この方式を続けると土地が痩せて荒廃地と化してしまうことである。
痩せた土でも、化学肥料を与えることで相当程度、作物を作ることができるのは事実である。しかし、それを続けていると病害虫に非常に弱く、冷害にも弱くなっていく。また、アメリカなどでは、雨によって表土が流出し荒廃してしまう現象が広く見られている。農地の砂漠化である。これらは、土中微生物が減少することによるものらしい。
第5.1節「ユーゴー」で「菌根菌」を紹介した。これは植物の根のまわりに棲む真菌類(カビ)の一種であるが、「これら菌根菌の働きは、化学肥料をあたえると不要になるためか抑えられて」(服部勉『微生物を探る』新潮新書1998 p192)しまうという。

菌根菌とは別に、植物の根のまわりには厚さ数ミリの根圏とよばれる細菌やカビのとくべつのすみ場所があります。根圏の中では外側とはちがった細菌、カビが活動しており、細菌全体の密度は外部の数倍以上であることが一般的です。また健康な根の表面にも細菌が集落をつくって分布していますが、根が生長する先端には微生物がいない無菌部分があります。
健全な植物の根圏や根面の微生物は、根から分泌される糖などを栄養として利用する一方、アンモニア、硝酸、リンなどの無機栄養物を植物に供給しています。また根に侵入しようとする病原菌を阻止するはたらきをします。(服部勉前掲書p192)

化学肥料だけで育てる作物が病害虫に弱くなるメカニズムの説明はこのようなものであるのだろう。有機農法をおこなっている水田が冷害に強い理由のひとつは、化学肥料と農薬にたよる水田とは、冷夏の際に土中温度が違うことが挙げられている(3℃違う例があるという)。土中微生物の活動によるものであろう。

永続的な農業のためには、有機農業(化学肥料・農薬の使用をできるだけ抑える)が必要である。だが、単に「有機肥料」というだけでは不十分で、ある農地でとれた作物はできるだけその地域で消費し、植物体(藁稲、枝葉など)や糞尿・残飯などもその農地に返して循環させることを目指すべきである。それが可能であるためには、農業で作物を作ることを「商品をつくる」と考えないことが根源になければならないと思う。商品が市場原理で売買されることになれば、国際的食糧企業・肥料産業・農機具産業に向きあわざるを得ず、商品として敗北する可能性が大きい(消費者と直結という方式もあるが、それは本質的解決にはならないだろう、とわたしは考えている)。
「地域循環型農業」という理念を掲げている山形県長井市のレインボー・プランなどは、有望だと思うが、残念ながら生ゴミ回収にしか目がいっておらず、屎尿肥料の問題が正面切って話題にされていないようだ。

東京都の場合、下水として処理場に流入してから最終的な焼却灰がどれぐらい出ているのか、表にしてお目に掛ける。

東京都の下水処理のトータル量(2000年度の年間量)
受水量17億3898万m3汚水排出量11億4367万m3汚泥処理量6068万m3濃縮汚泥量977万m3消化汚泥量137万m3脱水汚泥量109万 t 脱水汚泥焼却量103万 t 焼却灰発生量4万7266 t 
多量すぎて、とらえにくいが、日量にすると脱水汚泥焼却量は 2831t/日、焼却灰発生量は 129t/日。毎日4t トラック700台余の汚泥を焼却炉に入れ、32台余の焼却灰ができるということになる(実際には汚水処理場-焼却場の間は送泥管で移送している)。(受水量=汚水+雨水。蛇足ながら、水なら1m3の重量=1t なので、上表の単位は、流体にたいしてはおよそ同一単位とみなしていい。最下段の焼却灰は水が飛んでるので別。)




(5.5.e):未来をふくむ現在
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わたしたちは、食べ、排泄する。これは、生物としての人間の基本的与件である。したがって排泄行為は、人間にとって普遍的であり、将来とも変わらない。変わりえない。
人造肛門は珍しくないが、肛門のない人間は口のない人間とほぼ同義であって、ありえない。体内からの老廃物を水溶させて排泄する尿は、さらにわれわれの生命活動に内的に直結しているのであって、人工腎臓(透析)はあっても、排尿という排泄行為をそのものをやめることはできない。

わたしたちの排泄行為は、生物としてのわれわれが地球の生物圏の一員としてその物質循環の一端に加わっていることの、日常的な実践なのである。なぜなら、食べるのは(水やミネラルなどを除けば)すべて生きものを食べるのである。野菜もワカメも米も大豆も魚も肉も・・・・・・、すべてが生きものなのである。だから、われわれは、排泄物を次の食物連鎖の鎖に受け渡すしかその処理方法を知らないのである。いま、下水道処理がおこなっている活性汚泥法などもすべて、自然界の物質循環の不細工なシミュレーションにすぎない。「次の食物連鎖の鎖に渡す」以外の処理法を人間はやったことがないのだ。

だが、それにもかかわらず、われわれの糞尿は「次の食物連鎖の鎖に渡す」ことができずに、焼かれて灰になったり、有毒金属と混ぜられて地中に“廃棄物”として棄てられたりしている。したがって、厳密にいえばその部分は処理をしていないのだ。隠して棄てているにすぎない。窒素やリンはとりきれないので、かなりの割合で環境水系へたれ流してしまっている。
遠隔地/外国の農場でとれた作物が都会に集中し、糞尿が処理され/処理されず、廃棄・埋設され/環境へ出てしまう。

化学肥料 → 農場 → 消費地 → 下水処理 → 埋設・環境
この物質の流れは循環せず、偏頗な一方交通を意味する。そして、農地の荒廃と、環境の富栄養化を結果する。現代の成熟した産業社会が作り出すこの膨大な物質の流れは、とどまることなく、続いている。


排泄行為

明るく清潔な水洗トイレで排泄行為を済ませ、温水便器で尻を洗ってもらい、
適度に柔らかく吸湿性のあるトイレットペーパーでちょっと水気を吸い取らせて、
コックを捻って下水へ流し去る。
ゴボ、ゴボ、ゴボ。

これが、われわれの毎朝行う欺瞞行為だ。
なぜなら、この排泄行為は完結していないから。
「ああ、サッパリした」
本当は、すこしもサッパリしていないのだ。
ゴボ、ゴボ、ゴボ の終端では、
石油多消費で焼くか、どこかへ排棄している。
見えないようにしているだけの欺瞞。

生き物たちが、わが体内を通過して、
糞尿が生まれる。
そこまでは、35億年前から地球生命の王道だ。
だが、わが糞尿は、
生き物たちの循環世界へ戻ることを禁じられている。


自分の糞尿を石油多消費で焼却処分しようが、有毒物質と混合されて地中に排棄されようと、かまわない。いま自分が快適ならそれで良いんだ、という態度はありうるし、現代文明の態度がそういうものだとも言える。産業資本主義の高度な発展段階にある現代文明は、時間的には刹那主義である。それを極端な形で表しているのが“エッジ・ファンド”などの金融情報企業である。
だが、この現代文明の態度が問題なのは、「その態度は永続できない」という点なのだ。 石油がいわゆる「化石燃料」で有限の埋蔵量しかなければ、石油を使い切ってしまうときがいつか来ることは明らか。ただ、昨今の情勢からは、埋蔵石油の涸渇の問題よりも、炭酸ガスやメタンガスの増加による地球温暖化のほうが差し迫った問題となっている。
産業資本主義の高度な段階である現代文明に時間性を入れることが求められている、とわたしは考えている。需要-供給、欲望の実現というような資本主義経済理念の根底に、時間性を入れることが、わたしの根源的なモチーフである。生物がかかわる地球の物質循環系を遮断しない人間活動を基礎にする、というのはひとつの時間性の入れ方である。

では、なぜ「現代文明の態度が永続できない」ことが問題なのか。これには、わたしはひとつしか解答はないと思っている。それは「生命は未来を必要としている」からである。未来を前提にしないと、生命はあり得ない。
生命にとって未来とは子孫である。自分の次に生まれて来る「若い世代」を前提としないで生命活動はあり得ない。これは、ほとんど生命の定義である。
人間は観念世界(「生命活動の「活動」」)を持っているが、そのこと自体がすでに時間性を意味しているというべきである。なぜなら、「生命活動」を振り返って見るという「「活動」」こそが時間性の根源であると思うからだ。(梯明秀に敬意を表して、「向自的活動」といってもいい。)

「石油は化石燃料ではない」というトーマス・ゴールドの説も、段々有力視されてきている。ゴールドの訳本2冊『地球深層ガス』(日経サイエンス1988)・『未知なる地底高熱生物圏』(大月書店2000)は、いずれも実に面白い。メタン・ハイドレートの発掘も具体化しつつあり、日本周辺に日本人の消費する燃料百年分はあるとも言われている。ただし、石油に対抗できるほど安価に採掘出来るようになるかどうかはまだ未知数。経済産業省の息のかかったMH21は、経済的に掘削・回収する技術開発のプロジェクト。
むしろメタン・ハイドレートは、惑星生成論をふまえて地球深部から上がってくる炭化水素の流れがあるというゴールド説を、支持する有力な証拠として意義があるとわたしは思っている。
それにしても、この膨大な埋蔵炭化水素の起原をすべて化石植物に求めるのは無理があるのではないか。石油を「化石燃料」と言いきってしまって、まったく疑問を呈していない論を見ると、知的怠慢じゃないかとさえ思う。

地球温暖化による南北両極地帯の氷融解/海面上昇/異常気象などは、すでに近未来を考えるのに無視できないファクタになっている。世界農業の動向・食糧生産の問題が、人口急増にともなって深刻な問題になりつつある。この周知の問題は論者も多いことなので、ここでは触れない。
わたしがこの問題(物質循環を断ち切る現代産業社会の問題)に目を開かれたのは、槌田敦『エネルギー 未来への透視図』(日本書籍1980)を読んだときで、20年ほど前である。

農村から、米、麦を町へ持ってきた。町では、もはや処理能力が無いから汚染になるわけです。要するに、更新性資源の使い方というのは、出来た場所で使って、出来た場所に落とす、というのが一番良いのです。これしか生き延びる方法は無いのです。(p62)

石油文明の特徴は内燃機関にあり、またこれによる遠距離の大量輸送にある。現在アメリカから大量の食糧が日本に運ばれてくるが、おそらく、近い将来、アメリカの農地は収奪の結果疲弊して作物が出来なくなるだろうし、日本の農地は減反などで完全破壊されて、これまた生産しなくなるだろう。今、石油文明後を指向する決心をするとすれば、この遠距離輸送の否定から始めるべきであろう。つまり、食糧というのは、生物循環の一部分であるから、人間のところでこの循環を切ることは、将来の保証をきることなのである。人間が食糧を利用したことによる廃物は、食糧を得た土へ返すことが必要になる。そして、人間社会を含めた生物循環が発生する種々の形をしたエントロピーを水循環に渡し、最終的には宇宙へ棄てるというエントロピーの流れを取り戻す必要がある。(p107)

小論を書くために再読してみたが、この本は古ぼけているところはほとんど無かった。日本の食糧自給率は現在ほぼ40%(熱量ベース)で、1960年に82%だったのが、とどまることなく減りつづけ40年で半分になった(なお、穀物自給率だけだと現在28%という恐ろしいほどの数字)。輸入先はアメリカ、中国、オーストラリアなど(1998年でアメリカが38%(金額ベース)で、断然多い)。

アメリカでは化学肥料を大量に与え、遺伝子操作作物を用いて、農作物の大量生産を行っている。「穀物メジャー」と呼ばれる多国籍企業などが操る国際市場を介して日本は食料を輸入している。槌田の指摘しているように、その「廃物は、食糧を得た土へ返すことが必要になる」はずだが、もちろん、「穀物メジャー」はそんなことを考えてもいない。痩せた土地は放棄して、べつの土地で多肥農業を行うまでなのである。土壌の劣化(砂漠化)は世界で毎年500~600万ヘクタール(日本の農地面積程度)と見積もられている。一方、水資源の涸渇も重大である。深井戸による揚水の過剰によって、地下水位が下がり国土全域を深刻な水不足が襲っているところが、世界中でいくつも指摘されている。
たとえばレスター・R・ブラウンのネット上の論文水不足は食糧不足に直結する(2002)が具体的に状況を説明しながら指摘したのは、イエメン・イラン・エジプト・エチオピア・スーダン・メキシコ・中国華北地方などである。アフガニスタンの水不足はペシャワール会の中村哲医師の活動で知られている。インド・パキスタンも、そしてアメリカも水不足から無縁ではない。

つまり、石油多消費型の文明にどっぷり浸かっているわれわれは、土壌の砂漠化と水不足を構造的に招いているのである。日本人は世界中から食糧を大量に輸入して、ふんだんに食べる。それがどのような国際巨大企業の思惑に沿ったことなのか気がついていない。そんなことには関心がない。けれども、世界各地の農地で収穫した食糧をはるばる輸入してきて、その糞尿は再び石油で焼却しているのである。
生産地の土壌が痩せる一方であるのは、当然である。引き算ばかりしているのだから、これはエコロジカルな収奪である。痩せた土壌から作物を売るために、化学肥料の多肥で農耕を行う。この方式は長続きしない。土壌の微生物が生きていけないからである。

しかも、いまだに日本では「米の減反政策」が行われている。1970年代に始まったこの愚行はいったい何であったのか。米価格と税金投入が最も問題だったのではないか。「穀物メジャー」とどのような取り引きがあったのか。第2次世界大戦の時期にもっとも厳しかった国家社会主義的な統制を、戦後も延々とひきずり、半世紀以上経た現在に至っているのである。
水田は、保水装置としても非常に優れており、水環境の保全の意味でも「減反政策」は愚行であったと思う。社会全体が産業資本主義を超えようとする現在、農業そのものが見直されるべきである。日本のような高度資本制社会では、農業は食物生産の意義だけでなく、環境保全の意味を持っているものとして、水田維持を奨励して良いのではないか。トラクターなど大型機械の使用をおさえ、できるだけ小回りの利く小機械と人力による小規模農業をめざすこと。しかも、食物生産を基本的には自家用の食物生産に限定し、商品としての農作物の育成を奨励しないようにするのである。専業農家という発想は止めて、食糧自給をしつつ「三ちゃん農業」の伝統を引き受けるという“家庭菜園”の発想でよいのではないか。農業を産業資本主義化しなければならない必然性はないのではないか。農業はみずからの口に入れる食べ物をつくる特別な仕事であって、大量・画一的な巨大産業である必要はない。現代の巨大農業は、18,19世紀の植民地主義の生き残りなのではないか。 プランテーション経営が膨大な数の現地民を非自立的な貧困労働者に追いやり、外から持ちこんだ商品としての食糧を買って食べる生活を強制した。
(「三ちゃん農業」という語も、死語になっている。「20世紀の流行語」サイトを調べると1963年の流行語だという。高度成長期にかかって、働き盛りの男は勤めに出て家におらず、じいちゃん・ばあちゃん・かあちゃんの「三ちゃん」でかろうじて農業を行う状況を揶揄した言葉。)
同様に、林業・水産業などの1次産業を「三ちゃん産業」として見直すこと、あるいは、その産業に意義を見いだす者の「生きがい産業」として継続させること、などの発想の転換が求められている、と考える。

できるだけ食べ物を商品にせず、遠くへ運搬せず、地域で消費して循環せしめることが、価値ある物質循環系であると考えること。この価値観転換なしには、現代産業文明を越えていくことはできない。



生きているかぎりいましかない。
それが生命のあり方だ。
つねに生命はいまのなかに実在している。
過去や未来がどこかにあるのではない。
いまのなかに過去も未来も含まれている。
それが生命のあり方だ。

しばらくこのまま生きていると、ある日、未来が来ているわけではない。
そのときもやはりいましかない。

いま生きている
このわたしたちの生き方が
未来の人びと、つまり
わたしたちの子孫の負担を作りだしているのに気づくことほどの憂鬱はない。
その子孫たちと直に顔を会わせることはないからかまわないとは言えまい。
なぜなら、彼らは未来のわたしたちだから。

いまは未来を含んでいる。
未来はここ以外のどこにも存在しない。

「食べて出す」そのことが
わたしちの子孫の負担を作りだしているのは憂鬱である。
じつに、憂鬱である。
毎朝、憂鬱である。



あとがき

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「女の立ち小便」、「男の座り小便」についてそれぞれ、個人的な体験があって、小論を書いてみる気になった。
といっても、深刻な個人的体験があったというわけではない。「女の立ち小便」は、わたしの幼少年期に周囲で見聞きしていた普通のことだったということ。「男の座り小便」はチベット方面を日本軍の探偵として潜行した木村肥佐生・西川一三という二人の希有な男たちを知って調べたときに、珍しい習俗として知った。それらのことは、小論の始めの頃に書いておいた。
「小便」の排泄行為について書き進めるうちに、わたしが思いもかけなかった分野に関連がついてきた。そのたびにわたしは遠慮なく新しい分野に踏みこんでいった。なかでも驚いたのは女性下着の問題だった。服装や仮面の問題を、わたしは「ライ病」について調べたときに発見したのだが、それが、下着問題で甦ってきたのである。「見かけ」とか「皮膚感覚」ということが人間にとって本質的に重要だということ、しかも、この問題は形而上的な分野にすぐ結びつく“挑発的な”分野だということなどである。
隣接する分野としては「仮面」や「演劇」がある。スカトロギーについては、J・G・ボーク 『スカトロジー大全』を第3.3節「尿筒」で、ほんの申しわけ程度に紹介した。もっともっと、広く深い世界があることを感じているが、自分の力量不足で、踏み込めなかった。

下水道問題をめぐって、20年ほど前に考えていた地球規模の食糧問題や環境問題につながったことも、じつは意外だった。いずれも重大で難しい問題であって、第5節はほんの素描程度にすぎない。関連する種々の分野に、ちょっと、当たりをつけてみたという位だ。けれども、わたしたちの糞便の問題が直接、世界の物質循環や産業社会のあり方に結びついていることを示そうとした、というだけで意義はあると思っている。
下水道建設に関連しては、日本の官僚制のこと・制度としての科学のことなどそれぞれ別々の文脈で関心を持っていたことが、一度に関連づいて出てきてしまった。そのために、第5節はいろいろなものを詰め込んで、見苦しく統一のとれないものになってしまった。しかし、わたしの現状を表しているので、このままにしておこうと決心した。
また、そのために、ふくらんでしまった第5節だけをファイルとして切り分けて別立てにした。

いつものわたしの流儀で、新しいことをつぎつぎに学んでいくことが面白くて、終点に到着するのに思いもかけず手間取ってしまった。書き出してからほぼ9ヶ月である。大多数の文献はわたしの居住地周辺の公立図書館を利用した。公立図書館の多くもインターネットに接続するようになったので、自宅で原稿を書き進めながら、必要な本を探したりその本の閲覧を予約したりできる。そういう方法で文献を発掘する面白さを、わたしは十分に楽しんだ。
新しい知識を得ること自体の面白さと、公立図書館の利用という至極“平民的”な手法の面白さをわたしは強調しておきたい。

内容的な手法(方法論)としては、わたしが前から継続してきたやり方をここでも踏襲した。つまり、

自分が実際に体験した事実を核として位置づける。そうして、その核に出発点を置いて、そこから探索の手を伸ばして、飛躍せずに連続的手法で到達できる範囲のものを記述していく。

自分が興味を覚えているかぎり、どんどん探索の手を伸ばしていくこと、わたし自身が面白く思っているのなら読者にも面白いはずだという前提で、進める。小論においても、この方法論が有効であったことを実感している。しかし、「女の立ち小便」から出発して、都市論や地球環境まで話が広がることは予想していなかったので、自分としては“どの辺で納めるか”ということで苦労した。

引用について、お断りをしておく。
小論に引用した文章・図について、一切、著作権者に許諾を求めていない。多くのものは、学術目的での引用ということで許される範囲内であろうと考えているが、わたしに落度がある場合もあろうかと思う。お気づきのことがあれば、下記メールへご指摘いただければありがたい。直ちに、必要な処置をとります。
お気づきのように、わたしは引用の際にはうるさいほど出典を明記したつもりである。関心を持つ読者の便を図るためであるが、著作者への敬意と感謝の気持ちの一端を表そうとしてもいる。

ごく少数の読者であっても、読んでくださる方があるというのは、拙論のようなものを書く際にとても重要である。実際には読む人がゼロであっても可能態としての読者が存在しているというだけで、大違いである。わたしのように小さなサイトを開いて、その上でものを書いていくという手法は、インターネット時代のひとつのやり方であると考えている。
感想やご批判を下記メールへ寄せていただければ、ありがたい。



大江希望
 kib_oe@hotmail.com

2004年3月





文献

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ここに掲げたのは、私が小論のなかで引用したり言及した文献に限っています。完璧ではありませんが、公立図書館で閲覧する際の情報として十分だと思います。

(順序はほぼ出現順ですが、正確ではありません)
nb.作者・編者作品名出版社、出版年(分かれば初版年)1. 暮帰絵詞続 日本絵巻大成4 中央公論社19852.渋沢敬三 編著日本常民生活絵引(第1~5巻)角川書店19653.渡辺信一郎江戸の女たちのトイレTOTO19934.西川一三秘境西域八年の潜行 上巻芙蓉書房1978新装頁5.井上章一パンツが見える朝日新聞社20026.永六輔旅=父と子角川文庫19757.須藤功編写真で見る日本生活図引4 すまう弘文堂19888.曲亭馬琴羇旅漫録日本随筆大成 第1期1 吉川弘文館1975 9.小山田与清松屋筆記国書刊行会190810.喜多村均庭・信節嬉遊笑覧日本随筆大成 別巻7-10 吉川弘文館197911.周達観・和田久徳訳注真臘風土記東洋文庫507 平凡社12.椎名誠ロシアにおけるニタリノフの便座について新潮文庫199013.十方庵敬順遊歴雑記初編東洋文庫499,504 平凡社14.山路茂則トイレ文化誌あさひ高速印刷出版部200115.西沢一鳳皇都午睡新群書類従1 第一書房197616.南方熊楠南方熊楠全集5平凡社197217.安田徳太郎人間の歴史1~6光文社1951-5718.礫川全次編著糞尿の民俗学批評社199619.井筒俊彦訳コーラン岩波文庫195720.ジョン・G・ボーク スイス・P・カプラン編スカトロジー大全岩田真紀訳 青弓社199521.大野盛雄,小島麗逸編著 アジア厠考勁草書房199422.西岡秀雄トイレットペーパーの文化誌-人糞地理学入門-論創社198723.鈴木了司寄生虫博士トイレを語るTOTO出版199224.ヘロドトス歴史松平千秋訳 筑摩世界古典文学全集1025.マルタン・モネスティエ排泄全書吉田春美・花輪照子訳 原書房199926.渋沢敬三編明治文化史12 生活編洋々社195527.小西正捷編スカラベの見たものTOTO出版199128.李家正文糞尿と生活文化泰流社198729.鷹司綸子服装文化史朝倉書店199130.鴨居羊子わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい初版1973 旺文社文庫198231.上野千鶴子スカートの下の劇場河出書房新社198932.フリードリッヒ・S・クラウス日本人の性と習俗安田一郎訳 桃源社196533.菅江真澄菅江真澄遊覧記1内田武志・宮本常一現代語訳 東洋文庫54 平凡社196534.内田ハチ編菅江真澄 民俗図絵岩崎美術社198935.佐藤哲郎性器信仰の系譜三一書房199536.千葉徳爾編日本民俗風土論弘文堂198037.千葉徳爾女房と山の神堺屋図書198338.間壁葭子考古学から見た女性の仕事と文化日本の古代12『女性の力』中央公論社198739.桐生操やんごとなき姫君たちのトイレTOTO出版199240. 信貴山縁起絵巻日本絵巻大成4 中央公論社197741.畑中純愚か者の楽園新潮社200042.畑中純まんだら屋の良太 43双葉社198743.伊丹十三日本世間噺体系文春文庫198744.猪瀬直樹天皇の影法師新潮文庫198345. 天狗草紙続日本絵巻大成19 中央公論社198446.五来重絵巻物と民俗角川選書198147.五来重宗教民俗集成4 庶民信仰の諸相角川書店199548.ジャン・フェクサスうんち大全高遠弘美訳 作品社199849.河口慧海チベット旅行記 1~5講談社学術文庫1978 50.和田正平裸体人類学 裸族から見た西欧文化中公文庫199451.宮本常一絵巻物に見る日本庶民生活誌中公新書198152.木村伊兵衛木村伊兵衛写真全集 昭和時代第1巻筑摩書房198453.上野千鶴子対話編 性愛論河出書房新社199154.李家正文厠まんだら増補新装版 雪華社1988 旧版196155.高倉テルミソクソその他恒文社199656.長谷川町子いじわるばあさん 4姉妹社196957.キャサリン・メイヤー 近藤純夫訳・エッセイ山でウンコをする方法 自然と上手につきあうために日本テレビ放送網199558.西岡秀雄絵解き世界の面白トイレ事情日地出版199859.斉藤政喜・内澤旬子共著東方見便録小学館199860.大田区立郷土博物館編トイレの考古学東京美術199761.鈴木了司トイレ学入門光雲社198862.真山増誉明良洪範国書刊行会191263.エンゲルベルト・ケンペル江戸参府旅行日記斉藤信訳 東洋文庫303 平凡社64.滝田ゆう寺島町奇譚 ぬけられます青林堂197165.林丈二型録・ちょっと昔の生活雑貨晶文社199866. 餓鬼草紙 病草紙日本絵巻大成7 中央公論社197767. 宇治拾遺物語日本古典文学大系27 岩波書店196068.都丸十九一写真でつづる上州の民俗未来社199969.森川昌和鳥浜貝塚人の四季日本の古代4 『縄文・弥生の生活』中央公論198670.井上満郎古代都市の成立日本の古代9 『都城の生態』中央公論198771.エヴァ・C・クルーズファロスの王国岩波書店198972.わかぎえふすみっこのすみっこ双葉文庫199773.ヴィクトル・ユゴーレ・ミゼラブル井上究一郎訳 河出書房新社1989 河出世界文学全集1074.岡並木舗装と下水道の文化論創社198575.デヴィッド・W・ウォルフ地中生命の驚異青土社200376.服部勉大地の微生物世界岩波新書198777.服部勉微生物を探る新潮新書199878.勝木渥物理学に基づく環境の基礎理論海鳴社199979.見市雅俊コレラの世界史晶文社199480.ロジェ=アンリ・ゲラントイレの文化史大矢タカヤス訳 筑摩書房198781.川添登裏側から見た都市NHKブックス198282.アリストパネス平和『世界古典文学全集12』高津春繁編 筑摩書房198283.エンゲルスイギリスにおける労働者階級の状態岩波文庫 (上下) 199084.立川昭二病気の社会史NHKブックス197185.藤井秀夫江戸・東京の下水道のはなし技報堂出版199586.渡辺京二逝きし世の面影葦書房199887.東京都下水道局施設管理部/編東京市下水道沿革誌 初版大正3年 東京都下水道局再発行197888.小林茂日本屎尿問題源流考明石書房198389.藤森照信明治の東京計画岩波同時代ライブラリー199090.村野まさよしバキュームカーはえらかった!文芸春秋199691.厚生省日本の廃棄物厚生省92.宇井純合本 公害原論亜紀書房198893.東京百年史編集委員会東京百年史 全6巻別巻3東京都1972~7894.高崎哲郎評伝 技師・青山士の生涯講談社199495.青山士写真集編集委員会編写真集 青山士/後世への遺産山海堂199496.石井勲・山田国廣浄化槽革命合同出版199497.中西準子いのちの水読売新聞社199098.中西準子都市の再生と下水道日本評論社197999.中西準子下水道:水再生の哲学朝日新聞1983100.中西準子水の環境戦略岩波新書1994101.本多淳裕環境バイオ学入門技報堂出版2001102.東京都下水道局下水道東京100年史東京都1989103.自由評論社編東京都下水道事業大観’80年度自由評論社1980104.古賀洋介古細菌UP BIOLOGY 東大出版会1988106.ゾンマーフェルト熱力学および統計力学大野鑑子訳 講談社1969107.戸田盛和熱・統計力学物理入門コース7 岩波書店1983108.シュレディンガー生命とは何か岡小天・鎮目恭夫訳 岩波新書1951109.トーマス・ゴールド地球深層ガス日経サイエンス1988110.トーマス・ゴールド未知なる地底高熱生物圏丸武志訳 大月書店2000111.E.C.ピルー水の自然誌河出書房新社2001112.槌田敦エネルギー 未来への透視図日本書籍1980


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