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安部公房

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安部 公房
(あべ こうぼう)

キネマ旬報』1967年1月正月特別号より。

誕生安部 公房(あべ きみふさ)
1924年3月7日

日本東京府北豊島郡滝野川町
(現在の東京都北区西ケ原)死没1993年1月22日(68歳没)

日本東京都多摩市墓地上川霊園職業小説家
劇作家
演出家言語日本語国籍

日本教育学士医学)最終学歴東京大学医学部卒業活動期間1948年 - 1993年ジャンル小説
戯曲文学活動第二次戦後派
シュルレアリスム代表作『』(1951年)
けものたちは故郷をめざす』(1957年)
第四間氷期』(1959年)
砂の女』(1962年)
他人の顔』(1964年)
燃えつきた地図』(1967年)
友達』(1967年、戯曲)
箱男』(1972年)
密会』(1977年)
方舟さくら丸』(1984年)主な受賞歴戦後文学賞 (1950年)
芥川龍之介賞(1951年)
岸田演劇賞(1958年)
読売文学賞(1963年・1975年)
谷崎潤一郎賞(1967年)
フランス最優秀外国文学賞 (1968年)
芸術選奨(1972年)デビュー作『終りし道の標べに』(1948年)配偶者安部 真知子(安部 真知)(1947年 - 1993年)子供安部 ねり(長女)

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安部 公房(あべ こうぼう、1924年大正13年)3月7日 - 1993年平成5年)1月22日)は、日本小説家劇作家演出家東京府北豊島郡(現在の東京都北区)出身。本名は安部 公房(あべ きみふさ)[1][注釈 1]。「ノーベル文学賞に最も近い人物」とノーベル委員会から評価を得ていた中、脳内出血により急死した[2]

概要[編集]

東京府で生まれ、満洲で少年期を過ごす。高校時代からリルケハイデッガーに傾倒していたが、戦後の復興期にさまざまな芸術運動に積極的に参加し、ルポルタージュの方法を身につけるなど作品の幅を広げ、三島由紀夫らとともに第二次戦後派の作家とされた。作品は海外でも高く評価され、世界30数か国で翻訳出版されている。

主要作品は、小説に『壁 - S・カルマ氏の犯罪』 (芥川賞受賞)、『砂の女』 (読売文学賞受賞)、『他人の顔』『燃えつきた地図』『箱男』『密会』など、戯曲に『友達』『榎本武揚』『棒になった男』『幽霊はここにいる』などがある。演劇集団「安部公房スタジオ」を立ちあげて俳優の養成にとりくみ、自身の演出による舞台でも国際的な評価を受けた。晩年はノーベル文学賞の有力候補と目された[3]。ノーベル文学賞委員会のペール・ベストベリー委員長は読売新聞のインタビューで、「急死しなければ、ノーベル文学賞を受けていたでしょう。」と述べている[2]

生涯[編集]

生後まもなく満洲へ[編集]

北海道開拓民の両親をもつ[注釈 2]安部浅吉と井村よりみの二男二女の長男として、1924年 (大正13年) 3月7日、東京府北豊島郡滝野川町 (現東京都北区西ケ原) に生まれる。 本籍地は北海道上川郡東鷹栖町 (現旭川市)。1923年 (大正12年)、満洲医科大学 (現中国医科大学) の医師であった浅吉は勤務先の奉天市から一時出向していた東京でよりみと結婚。翌年、よりみは公房を妊娠中に唯一の小説『スフィンクスは笑う』 (異端社)[注釈 3]を上梓するが、以後は一切の筆を折った。

1925年 (大正14年)、生後8ヵ月の安部公房は家族と共に満洲に渡り、奉天の日本人地区で幼少期を過ごした。小学校での実験的な英才教育「五族協和」の理念は、後に安部の作品や思想へ大きな影響を及ぼした。1937年 (昭和12年) 4月、旧制奉天第二中学校に入学。奉天の実家にあった新潮社の世界文学全集や第一書房の近代劇全集などを読み、特にエドガー・アラン・ポーの作品に感銘を受ける。1940年 (昭和15年)、中学校を4年で飛び級して卒業。日本に帰国し旧制成城高等学校 (現成城大学) 理科乙類に入学。ドイツ語教師の阿部六郎 (阿部次郎の実弟) からの影響で戯曲や実存主義文学を耽読する。在学中、高木貞治の『解析概論』を愛読し、成城始まって以来の数学の天才と称された[4]

同年冬に、軍事教練の影響で風邪をこじらせ肺浸潤を発症。一時休学し、奉天の実家に帰り療養。恢復を待って1942年 (昭和17年) 4月に復学。同年12月9日、エッセイ『問題下降に依る肯定の批判』[5]を書き、翌年2月に発行された高校の校友会誌「城」の第40号に掲載される。これが安部の活字化された最初の作品となった。

1943年 (昭和18年) 3月、戦時下のため繰上げ卒業。この頃、安部の初の小説とされる『(霊媒の話より) 題未定』を書く[6]。同年10月、東京帝国大学医学部医学科に入学。1944年、文科系学生の徴兵猶予が取り消されて次々と戦場へ学徒出陣していく中、「次は理科系が徴兵される番だ」という想いと「敗戦が近い」という噂から家族の安否を気遣い、同年末に大学に無断で満洲に帰るが、友人が代返をして取り繕ってくれていた。1945年 (昭和20年)、奉天で開業医をしていた父の手伝いをしていた頃に召集令状が届くが、入営前に8月15日の終戦を迎えた。同年冬、発疹チフスが大流行して、診療にあたっていた父が感染して死亡する。

1946年 (昭和21年)、敗戦のために家を追われ、奉天市内を転々としながらサイダー製造などで生活費を得る。同年の暮れに引き揚げ船にて帰国。北海道の祖父母宅へ家族を送りとどけたのち帰京する。以後、安部は中国を再訪することはなく、小説家としても満洲における体験を書くことはなかった[注釈 4]

帰国・作家デビュー[編集]

1947年 (昭和22年) 3月、女子美術専門学校 (現女子美術大学) の学生で日本画を専攻していた山田真知子 (後年、安部真知名義で安部の著書の装幀や芝居の舞台美術を手掛ける) と結婚し、それまで真知子が住んでいたアパートで同居生活を始める。同年、安部は満洲からの引き揚げ体験のイメージに基づく『無名詩集』を、謄写版印刷により自費出版する。ライナー・マリア・リルケマルティン・ハイデッガーの影響を受けたこの62ページの詩集には、失われた青春への苦悩と現実との対決の意思が強く込められていた[7][注釈 5]

1948年 (昭和23年)、東大医学部を卒業。ただし、医師にならないことを前提とした条件付きの卒業単位付与であり[注釈 6]、医師国家試験は受験しなかった[注釈 7]

同年、安部は「粘土塀」と題した処女長篇を、成城高校時代のドイツ語教師・阿部六郎のもとに持ち込んだ。この長篇は、一切の故郷を拒否する放浪の末に、満洲の匪賊の虜囚となった日本人青年が書き綴った、3冊のノートの形式を取った物語であったが、阿部六郎はこの作品を文芸誌『近代文学』の編集者の1人である埴谷雄高に送った[10]。埴谷はただちに安部の才能を認めたが、当時の「近代文学」の編集は合議制であり、埴谷は同人の平野謙に却下されることを危惧し、他の雑誌へ安部を推挙した。その結果「粘土塀」の内の「第一のノート」が翌年2月の「個性」に掲載された。これが安部にとってはじめての商業誌への作品発表となる。これがきっかけとなり、安部は埴谷、花田清輝岡本太郎らが運営する「夜の会」に参加。埴谷、花田らの尽力により、1948年10月、「粘土塀」は『終りし道の標べに』と改題され、真善美社から単行本で上梓された。

1949年 (昭和24年) 4月、初めてシュルレアリスムの手法を採り入れた短篇小説、『デンドロカカリヤ』を発表する[11]

1950年代・芥川賞受賞[編集]

1950年 (昭和25年)、勅使河原宏瀬木慎一らと共に「世紀の会」を結成。埴谷によると、この時期の安部は食うや食わずの極貧で、売血をしながら何とか生活をしているという有様であり、埴谷は幾度か安部に生活費をカンパしたほどだったという。 同年夏ごろ、日本共産党に入党[注釈 8]1951年 (昭和26年)、「近代文学」2月号に安部の短篇「壁 - S・カルマ氏の犯罪」が掲載される。これは、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」に触発された作品であり、テーマとして満洲での原野体験や、花田清輝の鉱物主義の影響が見られる超現実主義的な内容である。

「壁 - S・カルマ氏の犯罪」は1951年上半期の第25回芥川賞の候補となり、選考委員の宇野浩二からは酷評されたものの、川端康成瀧井孝作の強い推挙が決め手となり、同じく候補に挙げられていた石川利光の『春の草』とともに受賞を果たす。川端は『壁』のような作品の出現に今日の必然性を感じ、新味があり好奇心をそそったとしている[13]。同年5月28日、この短篇は「S・カルマ氏の犯罪」と改題され、短篇「バベルの塔の狸」と、4つのパートからなる中篇「赤い繭」を加え、石川淳の序文、勅使河原宏による装幀、桂川寛の挿絵を得て、安部の最初の短篇集『壁』が刊行された。

同年、友人である赤塚徹の伝手で画家の黒崎義介茗荷谷に所有していた敷地内の納屋を借り、真知や友人たちの手を借りて改装し転居する。11月、短篇小説『闖入者』を発表。 1952年 (昭和27年) 5月、江馬修徳永直野間宏藤森成吉らとともに『人民文学』に参加。『人民文学』が『新日本文学』と合流した後は新日本文学会に移る。6月、短篇小説『水中都市』を発表。

劇作への傾倒[編集]

1953年 (昭和28年) 3月、短篇小説『R62号の発明』を発表。7月、初の戯曲作品『少女と魚』[14]を発表。以後盛んに劇作をおこない、推敲を重ねて改作し様々な媒体で発表するようになる。1954年 (昭和29年) 2月、長篇小説『飢餓同盟』発表。 同年、長女誕生。真知の発案で宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」から採った「ねり」と命名する[15]。12月、小説『奴隷狩』[16]を翌年3月にかけて発表するが中絶。 1953年 (昭和28年) 3月、戯曲『制服』[17]を発表。6月、前年に未完のまま中絶していた小説を戯曲『どれい狩り』[18]として発表、劇団俳優座によって上演される。7月、小説『闖入者』を沼田幸二との共同脚本によるラジオドラマとして放送。同月、短篇小説『棒』を発表。8月、戯曲『快速船』[19]を発表。

1956年 (昭和31年) 4月、中野区野方の借家に転居。同月17日、新日本文学会と国民文化会議の代表としてチェコ作家大会参加のためプラハを訪問、スロヴァキア各国を周り6月24日に帰国する。11月から12月にかけてラジオドラマ『耳』および『口』[20]が放送される。 1957年 (昭和32年) 2月、前年に訪問した東欧の印象をまとめたエッセイ集『東欧を行く ハンガリア問題の背景』を刊行。4月、長篇小説『けものたちは故郷をめざす』を発表。5月、花田清輝、佐々木基一、関根弘、野間宏、勅使河原宏、長谷川龍生らと「記録芸術の会」[注釈 9]を結成する。6月、短篇小説『夢の兵士』発表。同月、子供向けのラジオドラマ『キッチュ・クッチュ・ケッチュ』[22]田中明夫ほかの出演で放送。7月、『夢の兵士』をラジオドラマ化した『兵士脱走』放送。11月、短篇小説『鉛の卵』発表。同月、小説『棒』を戯曲化したラジオドラマ『棒になった男』[23]放送。12月、1954年から1957年にかけて書かれたエッセイをまとめた単行本『猛獣の心に計算器の手を』刊行。

1958年 (昭和33年) 1月より『群像』にエッセイ『裁かれる記録 映画芸術論』[24]を1年間連載。6月、戯曲『幽霊はここにいる』を劇団俳優座により上演。7月、長篇小説『第四間氷期』を発表。10月、短篇小説『使者』を発表。 1959年 (昭和34年) 3月、前年発表の『使者』が『人間そっくり』として戯曲化される。4月、勅使河原宏から譲り受けた調布市若葉町仙川の敷地に真知の設計になる新居を建て、家族とともに転居する。5月11日よりNHKラジオ第1放送にて子供向けのラジオドラマ『ひげの生えたパイプ』[25]熊倉一雄ほかの出演により放送。8月23日よりミュージカル『可愛い女』[26]千田是也の演出、黛敏郎の音楽、ペギー葉山ほかの出演で上演。10月、ラジオドラマ『兵士脱走』を和田勉の演出によりテレビドラマ化した『日本の日蝕』[27]をNHKにて放送。

1960年代・世界の前衛へ[編集]

1960年 (昭和35年) 3月、前年放送のドラマ『日本の日蝕』を再び戯曲化し、舞台劇『巨人伝説』[28]として劇団俳優座により上演。6月、長篇小説『石の眼』を発表。9月、短篇小説『チチンデラ・ヤパナ』を発表。同月より子供向けのラジオドラマ『お化けが街にやって来た』[29]益田喜頓ほかの出演により1年間放送。10月20日、ルポルタージュの手法を採り入れたテレビドラマ『煉獄』放送。同月26日、安保闘争をテーマとした戯曲『石の語る日』を千田是也の演出、林光の音楽、久米明ほかの出演により、中国にて試演[注釈 10]。翌27日には小説「赤い繭」をラジオドラマ化した『ラジオのための作品 赤い繭』を諸井誠の音楽、芥川比呂志ほかの出演で、NHK第2放送およびNHK-FM実験放送にて放送[30]。12月15日、初めて自己の年譜を書く[31]。クリスマスには子供向けのミュージカル・コメディ『お化けの島』[32]南美江ほかの出演にて上演。 1961年 (昭和36年)、日本共産党が綱領を決定した第8回党大会に批判的な立場をとり、党の規律にそむいて意見書を公表し、その過程で党を除名される。 4月、短篇小説『無関係な死』を発表。7月から9月にかけて福岡県の三菱鯰田鉱業所にて『煉獄』の脚本を改作した映画『おとし穴』(勅使河原宏監督作品)のロケ撮影が行なわれ、安部もエキストラ出演する。

1962年 (昭和37年)、昆虫採集の途次に迷い込んだ村に閉じ込められ、そこから脱出を図ろうとする教師とそれを阻もうとする村人を描いた『砂の女』を発表。以後は創作活動の比重を書き下ろし長篇に移し、都市に住む人々の孤独と他者との通路の回復を主たるテーマとして、次々と実験精神あふれる作品を発表し、国際的な評価を得るようになる。1964年 (昭和39年) 発表の『他人の顔』では事故で顔を失った男性が引き起こす騒動を、1967年 (昭和42年) の『燃えつきた地図』では失踪者を追う興信所員を主人公とその両者の末路を書いた。

1970年代・安部公房スタジオ[編集]

1970年 (昭和45年)、大阪万国博覧会に自動車館のシンクタンクとして参加する。1971年 (昭和46年) 3月より新潮社の雑誌『』に「周辺飛行」と題するエッセイの連載を開始する。1972年 (昭和47年)、段ボール箱を被ったまま生活する男を描いた小説『箱男』を発表。1973年 (昭和48年)、自身が主宰する演劇集団「安部公房スタジオ」を発足させ、本格的に演劇活動をはじめる。発足時のメンバーは、新克利井川比佐志伊東辰夫伊藤裕平大西加代子粂文子佐藤正文田中邦衛仲代達矢丸山善司宮沢譲治山口果林の12名であった。以後安部公房スタジオは堤清二の後援を受け西武劇場を本拠地として活動する。

1975年 (昭和50年) 5月14日、アメリカ・コロンビア大学から名誉人文科学博士称号を授与される[注釈 11]。また、この年の6月に連載が完結した「周辺飛行」を再編集した単行本『笑う月』を11月に刊行。

1977年 (昭和52年)、病院を舞台とし、奇妙な病気にかかった患者とその治療に当たる奇妙な医者たちを描いた『密会』を発表。同年、アメリカ芸術科学アカデミーの名誉会員に推挙される。また、写真家のアンリ・カルティエ=ブレッソン渋谷区宇田川町にあった安部公房スタジオの稽古場を訪れ、安部のポートレイト[34]を撮影する。1979年 (昭和54年) 5月、安部公房スタジオを率いて渡米。セントルイス、ワシントン、ニューヨーク、シカゴ、デンバーで行なった『仔象は死んだ』の公演はその斬新な演劇手法が反響を呼んだ。

1980年代・箱根での日々[編集]

1980年以降は、文壇との付き合いをほとんど断ち、真知とも疎遠となり、箱根芦ノ湖を見下ろす高台に建てた山荘を仕事場として独居するようになる。同年1月より『芸術新潮』に自ら撮った写真を用いた『フォト&エッセイ - 都市を盗る』[35]を翌年12月にかけて連載する。1982年 (昭和57年)、自身の体調不良を理由に安部公房スタジオの活動を休止する。1984年 (昭和59年) 11月、シェルター構想などをモチーフとしてワープロで執筆した初めての小説『方舟さくら丸』を発表。1985年 (昭和60年) 1月、NHK「訪問インタビュー」にテレビ出演する。番組では箱根での仕事ぶりが紹介され、以後も1987年まで同局の番組に数回出演した。1986年 (昭和61年) 9月、1980年代に書いたエッセイやインタビューをもとにした単行本『死に急ぐ鯨たち』を刊行。以後はいくつかのエッセイや寄稿を残して80年代を締めくくる。

1990年代・最晩年[編集]

1991年 (平成3年)、奇病にかかった患者を主人公とした小説『カンガルー・ノート』を発表。結果としてこれが安部公房が擱筆した最後の小説となった。この頃、安部はクレオールに強い関心を寄せ、それをテーマとした長篇『飛ぶ男』の執筆に取り組んでいたが、同年12月1日に行なわれた談話ではそれに続く新しい構想として「アメリカ論」を挙げ、「チョムスキー風に言えば、学習無用の普遍文化。コカ・コーラやジーンズなどに代表される、反伝統の生命力と魅力をもう一度見直してみたい。」[36]と語っている。

1992年 (平成4年) 12月25日深夜、執筆中に脳内出血による意識障害を起こし、東海大学病院に入院。1993年 (平成5年) 1月16日には経過良好で退院したが、自宅療養中にインフルエンザを発症し、1月20日に多摩市日本医科大学多摩永山病院に入院。1月22日には解熱し一時的に恢復したものの、就寝中の同日7時1分、急性心不全により死去。68歳没。1992年12月に執筆していた小説『さまざまな父』[37]が未完のまま絶筆[注釈 12]となった。なお、入院時に愛人・山口果林宅より搬出されたためスキャンダル扱いとされたが、最期は家族に看取られた。

死後[編集]

1月23日、自宅で通夜、翌24日に告別式が営まれる。安部が使用していたワープロのフロッピーディスクから執筆途中の『飛ぶ男』 162枚、『もぐら日記』 240枚などが発見された。妻の真知は安部の死後に癌を患い、同年9月22日に急性心筋梗塞で死去[39][40]。長女の真能ねりは、1997年 (平成9年) から2009年 (平成21年) にかけて刊行された全集の編集にも尽力した。2011年 (平成23年) 3月には、安部ねり名義で『安部公房伝』(新潮社)を上梓する。

2012年 (平成24年)、母方の実家に養子に入っていた実弟の井村春光宅(北海道札幌市)から、安部が1946年の引揚時に船内で執筆したと見られる未発表短編『天使』が発見され、同年11月発行の『新潮』12月号に掲載された[41][42]

2013年、女優の山口果林が自身のエッセイ『安部公房とわたし』で、安部との20年以上に亘る愛人関係を公表した。山口によれば、安部は1987年に前立腺癌を患い、闘病していたが、本人の強い希望で隠されていたとされる[43][44][45]

2018年8月16日、長女のねりが胸部大動脈破裂のため死去。64歳没[46]

人物[編集]

交友[編集]

  • いわゆる文壇とは距離を置いており[注釈 13]、交友関係も極端に狭かったため、その晩年には若年層などの間で死亡説[48]が囁かれるなど、半ば伝説化した存在となっていた。これには安部の特異な性格も影響していたようである。そんな中、石川淳とはデビュー後まもなく師事した事情もあり、事実上の弟子であったが、ともに孤立した存在であり、安部も「石川さんは例外」と述べていた。なお安部は、石川が没し1988年1月22日に営まれた告別式「石川淳と別れる会」にて、弔辞[49]を読んだ1人である。

  • 萩原延壽とは1968年当時、自宅が近くの高輪にあった石川淳の紹介で親交を深めた。なお、2人とも安部と誕生日が同じであり、のちに萩原は新潮学芸賞大佛次郎賞などで安部と共に選考委員を務めている。

  • 安部の初期作品はSFに属するものが多く、時期的にも日本における同ジャンルの草創期と軌を一にしている。そのため、日本SF作家クラブには未入会だったが、1970年 (昭和45年) に日本で開かれた国際SFシンポジウムで中心的役割を果たすなど、この分野の関係者とは親交が深かったが、そのなかの1人である星新一とは酒場での同席を避けるなど互いに意識しあっていたという[50]

  • 大江健三郎とは、相互に自宅を訪問しあうほどの仲で、同時に谷崎賞を受賞したが、1968年 (昭和43年) 頃に大学紛争を巡り意見が対立するなどしたため、関係が疎遠となった。大江は、「それから、本気で仲直りすることがあった、とは思いません。」と言っている[51]。ただ、辻井喬の計らいで1989年から共に読売文学賞の選考委員を務めるほか、しばしば対談も行っている[52]

  • ドナルド・キーンとは大江健三郎を介して知り合い、生涯にわたる親交を結んだ。キーンにとっても安部は三島由紀夫とともに重要な友人であり、三島の死後は唯一無二の存在となった。なお、キーンは安部の戯曲『棒になった男』 (1975年)、『友達』 (1986年) などの英訳紹介を行っている。

  • 堤清二とは、1970年代の初め頃に新潮社の編集者(出版部長などを歴任)新田敞(にった ひろし)を通じて親交を結んだ[53]。堤は安部作品の舞台上演にしばしば西武劇場を提供するなど、パトロンとしても重要な存在であり、1973年6月に同劇場で行なわれた安部公房スタジオ第1回公演「愛の眼鏡は色ガラス」では、安部に音楽の担当者として武満徹を推挙している[54]

  • 武満徹は安部が原作やシナリオを担当した映画すべての音楽を担当するなど、近しい関係であった。

  • 谷川俊太郎に対しては冷淡な態度を取っていたが、亡くなる1年前に評価をあらためていたことが武満の著書で明かされている[55]

日本文学[編集]

堤清二によれば、安部は日本人作家については、大江健三郎や安岡章太郎などをのぞいてほとんど認めようとしなかったという[60]。たとえば、自身と同時期にノーベル賞候補と噂された井上靖を「物語作家」、井伏鱒二を「随筆作家」などとこきおろしていた。その一方で、1980年代にはいくつかの文学賞の選考委員を務め、以下の作品などを推挙している[61]

また、1991年12月3日に行なった河合隼雄との対談のなかで、安部は昔から椎名麟三が好きだったとし、もしかしたら日本で作家と言えるのは椎名だけではないかと述べている[58]

外国文学[編集]

  • 外国文学が安部公房に及ぼした影響について、埴谷雄高は『壁』の解説文のなかで「安部公房はハイデッガーから出発した。(中略) その後の彼はリルケを経て、サルトルとカフカとシュペルヴィエルの影響を強く受けたが、それは普通いわれる文学的な影響とはやや異なっている。空間の造形的表現が、彼の小説の方法論となった。」[62]と書いている。

  • フランツ・カフカについて、安部は1956年 (昭和31年) と1964年 (昭和39年) の二度にわたる東欧旅行の途次に、彼の生まれた街プラハを訪れている。安部は初回訪問時にはまだ公認の作家ではなかったカフカが、再訪時には再評価が進み生家跡も発見されたことを知り、プラハにおけるカフカの位置についてのエッセイを書いた[63]。また、1980年 (昭和55年) には中野孝次との対談で「カフカは世界そのものの存在を提出しえた、途方もない作家だったと思う」[64]と述べている。

趣味[編集]

  • カメラマニアとしても有名であり、木村伊兵衛写真賞の選考委員を第7回 (1981年度) から第9回 (1983年度) まで務めるなど、カメラの腕前も趣味の領域を超えるものだった。コンタックスなどを愛用し、インテリジェンスに富む作品を残したが、その一部は『箱男』 (1972年)、『都市への回路』 (1980年)、『死に急ぐ鯨たち』 (1986年) などの著書[注釈 17]にも使用された。1980年代以降は箱根の仕事場に暗室不要型の簡易現像器具を置き、自らプリントした写真を壁に貼って構想を練った[69]

  • 日本人で最も早い時期からワープロで小説を執筆した作家の一人である (1984年から使用[注釈 18])。NECのワープロ開発に参画し、ワープロ『文豪』は文字通り文豪が関わった機種だった。安部が使用していたワープロはNECの『NWP-10N』とその後継シリーズ『文豪』である[70]。また、ワープロ用フロッピーディスクからの遺作発見という、昭和の”文豪”としては特異な顛末も話題となった。なお、そのデータを解析した結果、安部の執筆手法や手順の一端が明らかになっている。

  • 美術ではジョージ・シーガルを評価しており、いくつか著書の表紙に使用している[注釈 19]。また自身でも彫刻をよくし[76]、『方舟さくら丸』のカット用にゴム印を自作したほか、1980年代以降には箱根の仕事場でトイレット・ペーパーの芯や空き瓶、マンゴーの種などを用いてオブジェを作った[69]

  • 愛煙家であり、パイプ葉巻なども嗜んだ。また『タバコをやめる方法』というエッセイも書いている。[77]

評価[編集]

  • 受けた賞は数多く、主なものだけでも、戦後文学賞 (1950年)、芥川龍之介賞 (1951年)、岸田演劇賞 (1958年)、読売文学賞 (1963年・1975年)、谷崎潤一郎賞 (1967年)、フランス最優秀外国文学賞 (1968年)、芸術選奨 (1972年) などがある。

  • いち早く安部を高く評価していた埴谷雄高は、1951年 (昭和26年) の芥川賞受賞作『壁』の書評において、安部が自分の後継者であるばかりか、自分を超えたと述べている。

  • 安部の作品は特に共産主義圏の東欧において高く評価され、西欧を中心に評価を得ていた三島由紀夫と対極的とみなされた。その三島もまた安部を評価し、1967年の谷崎潤一郎賞の選考において安部の戯曲作品『友達』を熱心に推挙し、長篇小説を主な授賞対象としていた同賞では異例といえる戯曲の受賞を実現させている。

  • 1975年 (昭和50年) 5月13日、安部はアメリカ・コロンビア大学名誉人文科学博士称号の授与式において、プレゼンターから「あなたは人間性という普遍的なものをお持ちだ」[78]という賛辞を贈られた。

  • 1979年 (昭和54年) 5月に行なわれた安部公房スタジオのアメリカ公演『仔象は死んだ』は好評をもって迎え入れられた。安部によると、ラ・ママ実験劇場英語版)での公演では加速度的に観客が増え、楽日には通路から階段、ミキサー室まで観客であふれたという[79]。ニューヨーク・タイムズのメル・ガソー英語版)は当公演の劇評でポーランドの劇作家、タデウス・カンター英語版)を引き合いに出し、「(カンターと)安部公房は独創的で、変容自在のヴィジョンと、作家自身の感性の延長のように動く一団の俳優を持っているという点で共通している」とし、「行動芸術家としての安部公房は演劇における偉大なパフォーマーであり、デザイナーである」[80]と締めくくっている。

  • 武満徹は、1995年8月4日に書き留めた文章のなかで、安部はある意味完璧主義者ではあったが、透徹したリアリストであり、その一字一句にまで推敲を重ねる姿勢は、作品の表面的な完成度のみを追求するためでなく、自らを詩的な坑道に置き、そこから現実を逆照射するためであると述べている。[81]

  • 村上春樹は、1996年に行なったディスカッションで、「安部公房は奇妙な話を書きますが、変かというととくに変ではないですね。その奇妙さは良くも悪くも一貫した奇妙さであって、「変」ではない」と述べている。[82]

  • ガルシア=マルケスは1990年代末に行なった大江健三郎との対話のなかで、「自分たち外国の作家は日本の作家というと安部公房を知っていた。そして他の作家については知らなかった。自分にとっては安部公房は重要な作家だった」[83]と述べている。

  • 大江健三郎は、安部公房をカフカやフォークナーと並ぶ世界最大の作家と位置づけている。1999年に行なわれたインタビューで「僕の感じだと、日本的な作家ということで、たとえば谷崎川端三島が知られていたとしてもですね、ほんとうに現代作家として外国の知識人に読まれた作家は安部さんが最初だった。そしていちばん強い印象を与えたのが安部さんだったと思うんですね。(中略) ほんとうにたとえばガルシア=マルケスやル・クレジオが自分の好きな作家として持ち出す人として安部さんがあったと思うんです」[84]と語っている。また、1994年に自身がノーベル文学賞を受賞したおりには、大岡昇平、井伏鱒二の名前と共に安部の名前をあげ、もっと長生きしていれば、自分ではなくて彼らがノーベル文学賞を受賞したであろうという事を述べている。[85]

  • ノーベル文学賞を選考するスウェーデン・アカデミーノーベル委員会のペール・ベストベリー委員長は、2012年3月21日、読売新聞の取材に応えて、「(安部公房は)急死しなければ、ノーベル文学賞を受けていたでしょう。非常に、非常に近かった」と述べている[3]

受賞歴[編集]

作品一覧[編集]

小説[編集]

戯曲[編集]

  • どれい狩り・快速船・制服 安部公房創作劇集 (青木書店、1955年)

  • 幽霊はここにいる (新潮社、1959年 / のち「幽霊はここにいる・どれい狩り」新潮文庫)

  • 友達榎本武揚 (河出書房新社、1967年、新版1975年 / のち「友達・棒になった男」新潮文庫)

  • 棒になった男 (新潮社、1969年 / のち「友達・棒になった男」新潮文庫)

  • 安部公房戯曲全集 (新潮社、1970年)

  • 現代文学の実験室1 安部公房集 (1970年6月、大光社)

  • 未必の故意 (新潮社、1971年 / のち「緑色のストッキング・未必の故意」新潮文庫)

  • 愛の眼鏡は色ガラス (新潮社、1973年 / のち「緑色のストッキング・未必の故意」新潮文庫)

  • 緑色のストッキング (新潮社、1974年 / のち「緑色のストッキング・未必の故意」新潮文庫)

  • ウエー 新どれい狩り (新潮社、1975年 / のち「緑色のストッキング・未必の故意」新潮文庫)

評論・随筆[編集]

  • 東欧を行く ハンガリア問題の背景 (大日本雄弁会講談社、1957年)

  • 猛獣の心に計算器の手を (平凡社、1957年)

  • 裁かれる記録 映画芸術論 (講談社ミリオン・ブックス、1958年)

  • 砂漠の思想 (講談社、1965年 / 講談社文芸文庫、1994年)

  • 内なる辺境 (新潮社、1971年 / のち中公文庫)

  • 反劇的人間 (中公新書、1973年 / 中公文庫、1979年) - ドナルド・キーンとの対談

  • 手について (プレス・ビブリオマーヌ、1973年)

  • 発想の周辺 (新潮社 1974年) - 対談集

  • 笑う月 (新潮社、1975年 / のち文庫) - 創作ノート

  • 安部公房の劇場 七年の歩み (安部公房スタジオ編、1979年)

  • 都市への回路 (中央公論社、1980年 / のち文庫)

  • 死に急ぐ鯨たち (新潮社、1986年 / 新潮文庫、1991年)

詩集[編集]

  • 無名詩集 (自費出版)

作品集[編集]

  • 新潮日本文学46 安部公房集 (全1巻、新潮社、1970年 / 新装版 1981年) - 9篇収録[注釈 20]

  • 安部公房全作品 (全15巻、新潮社、1972年-1973年)

  • 安部公房全集 (全30巻、新潮社、1997年-2000年、2009年[注釈 21])

映画[編集]

ラジオドラマ[編集]

  • ひげの生えたパイプ

  • お化けが街にやって来た

  • 耳(文化放送、1956年11月)

  • 棒になった男 (文化放送、1957年11月29日)

  • 吼えろ! (朝日放送、1962年11月、脚本)

  • 審判 (文化放送、1963年11月)

テレビドラマ[編集]

映像化作品[編集]

  • 砂の女』は、1964年東宝より映画化された。監督:勅使河原宏、脚本:安部公房、音楽:武満徹、出演:岡田英次岸田今日子

  • 『他人の顔』は、1966年に東宝より映画化された。監督:勅使河原宏、脚本:安部公房、音楽:武満徹、出演:仲代達矢京マチ子

  • 『燃えつきた地図』は、1968年に東宝より映画化された。監督:勅使河原宏、脚本:安部公房、音楽:武満徹。出演:勝新太郎市原悦子

  • 『友達』は、1988年に映画化された[86]。監督・脚本:シェル・オーケ・アンデション、撮影:ペーテル・モクロシンスキー。出演:デニス・クリストファー、レナ・オリン。

以下は映像化企画はあったが未制作となった作品。

  • 『けものたちは故郷をめざす』(脚色:恩地日出夫。恩地氏のシナリオは、『映画評論』1965年8月号掲載。)

  • 『第四間氷期』(脚色:安部公房、監督:堀川弘通。安部が1965年9月7日に脱稿した本作品のシナリオは東宝映画が映画化を企画。シナリオは、『映画芸術』1966年4月号掲載。)

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 戸籍に振り仮名が存在しないため、後年は筆名をほとんど本名のように扱っていた。『群像』2009年9月号の加藤弘一によれば、本人のパスポートには〈KOBO〉と表記してあったという。

  2. ^ 安部浅吉の両親は香川県出身、井村よりみの両親は徳島県出身であった。

  3. ^ 2012年に講談社文芸文庫から復刻

  4. ^ 満洲を舞台にした唯一の長篇小説『けものたちは故郷をめざす』も体験とはかけ離れたものであり、のちに安部はエッセイ「一寸先は闇」に私小説を書かない理由を記している。(初出:『新潮日本文学46 安部公房集』月報 (新潮社、1970年) / 再録:『安部公房全作品 15』(同、1973年)、『安部公房全集 <023>』p.24-26 )

  5. ^ なお、この詩集には真知子に捧げた「リンゴの実」という作品も収載されていた[8]

  6. ^ 全集後半に何度か本人の弁がある

  7. ^ 後輩である養老孟司が本人から直接聞いた話によると、長谷川敏雄による卒業口頭試問では人間の妊娠月数を2年と答えたと伝えられている[9]が、大江健三郎によると、本人は象の妊娠期間19ヵ月を答えられなくて落ちたと言っていたという(初出:大江健三郎「顔に表れる歴史・伝統・文化」 朝日新聞 2008年5月20日付朝刊 / 再録:大江健三郎『定義集』p.113)。

  8. ^ 関根弘によれば、安部が入党した明確な日にちは不明としながらも、コミンフォルム批判に端を発した党派分裂を契機として所感派に入党したのではないかと推測している[12]

  9. ^ 他にもメンバーとして井上俊夫、岡本太郎、小林勝杉浦明平瀧口修造武田泰淳、玉井五一、鶴見俊輔徳大寺公英中原佑介長谷川四郎羽仁進、埴谷雄高、林光針生一郎、柾木恭介、真鍋呉夫らが在籍していた[21]

  10. ^ 当戯曲は前橋市民主商工会の閉店ストライキをモチーフとして制作され、劇団俳優座・文学座劇団民藝のメンバーで構成された訪中新劇団によって試演された。初出:『世界』12月号、岩波書店 / 再録:『テアトロ』1961年3月号、白水社(改稿版)、『安部公房全集<012>』p.341-414.(初稿版)所収。

  11. ^ 授与式の模様はNHKニュースセンター9時などで採り上げられ、安部は放送時のテレビ画面を写真撮影した[33]

  12. ^ 安部の死後、フロッピーディスクから発見された文書データより絶筆と判定されている[38]

  13. ^ 安部は文壇付き合いについて「文学畑の人たちと付き合っていると疲れる、常識が合わない」と養老孟司に語っていたという[47]。養老はつづけて「理科系のわたし (養老) からすると、文学者は主観の塊で、根本的には度し難い人種なのである」と書いている。

  14. ^ キーンによれば、安部は国家主義こそ世界平和への最大の障害だと考えていたという[57]

  15. ^ キーンから「これはあなたが読むために書かれたような小説だ」と言われたという。(初出:「地球儀に住むガルシア=マルケス」 / 再録:『死に急ぐ鯨たち』、『安部公房全集 <027>』p.122)

  16. ^ 安部は発売元だった西武自動車販売の広報用にチェニジーの装着方法を図解入りで執筆している[68]

  17. ^ 近年では『安部公房全集』全30巻の箱裏と見返し、新潮文庫より刊行されている安部作品の表紙に使用されている

  18. ^ それ以前にも、1970年代末ごろから星新一など幾人かがワープロの使用を試みているが、平井和正 (1982年頃から使用) や村上春樹などを除き、いずれも程なくして断念したという。

  19. ^ 新潮文庫旧版の戯曲集『友達・棒になった男』 (1987年)、『緑色のストッキング・未必の故意』 (1989年)に使用された。なお、後者では美術家の承諾を得て一部の彩色を変更している。

  20. ^ 収録作品:『砂の女』 『他人の顔』 『燃えつきた地図』 『友達 (戯曲)』 『デンドロカカリヤ』 『棒』 『水中都市』 『時の崖』 / エッセイ『一寸先は闇』 (月報収録)

  21. ^ 資料編の最終30巻目のみ、刊行が大幅に遅れた。

出典[編集]

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 45頁。

  2. ^ a b 「文藝春秋」写真資料部. “ノーベル文学賞に非常に近かった安部公房 | 「文藝春秋」写真資料部 | 文春写真館”. 本の話. 2023年5月26日閲覧。

  3. ^ a b 安部公房は受賞寸前だった…ノーベル委員長語る 読売新聞 2012年3月23日閲覧。リンク切れ

  4. ^ 『新潮日本文学アルバム51 安部公房』p.14

  5. ^ 『安部公房全集 <001>』p.11-16

  6. ^ 安部ねり『安部公房伝』p.45

  7. ^ http://booklog.kinokuniya.co.jp/abe/archives/cat283/ 紀伊国屋 書評空間 Booklog "阿部公彦"2011年4月18日のブログ

  8. ^ 安部ねり『安部公房伝』p.81

  9. ^ 養老孟司『小説を読みながら考えた』p.54-55

  10. ^ 初出:「錨なき方舟の時代」 / 再録:『死に急ぐ鯨たち』、『安部公房全集 <027>』p.169

  11. ^ 安部ねり『安部公房伝』p.93

  12. ^ 谷真介『安部公房レトリック事典』p.371-372

  13. ^ 川端康成「『壁』を推す」 (第25回昭和26年度上半期 芥川賞選評)(文藝春秋 1951年10月号)

  14. ^ 初出:「群像」1953年7月号(大日本雄弁会講談社) / 再録:『安部公房全集 <003>』p.473-506. 所収

  15. ^ 安部ねりさんと語る加藤弘一HP「ほら貝」

  16. ^ 初出:「文藝」(河出書房)1954年12月号および1955年3月号/再録:『安部公房全集 <004>』p.419-454. 所収

  17. ^ 初出:「群像」1954年12月号(講談社) / 再録:『安部公房全集 <004>』p.455-480. 所収

  18. ^ 初出:「新日本文学」1955年7月号 / 再録『安部公房全集 <005>』p.97-181. 所収

  19. ^ 初出:『どれい狩り・制服・快速船』(青木書店) / 再録:『安部公房全集 <005>』p.203-264. 所収

  20. ^ 初出:『現代文学の実験室1 安部公房集』(大光社) / 「新日本文学」1957年11月号 / 再録:『安部公房全集 <006>』p.201-213.p.237-248. 所収。文化放送(「耳」はラジオ九州との共同制作)による「現代劇場 人間の顔シリーズ」 の第1作、第2作として1956年11月2日および12月7日に放送。

  21. ^ 『安部公房全集 <007>』巻末作品ノート p.9

  22. ^ 『安部公房全集 <007>』p.209-302. 所収

  23. ^ 初出:『現代文学の実験室1 安部公房集』(大光社) / 再録:『安部公房全集 <007>』p.463-475. 所収

  24. ^ 単行本初出:講談社刊 / 再録:『安部公房全集 <008>』p.85-169. 所収

  25. ^ 『安部公房全集 <010>』p.10-541. 所収

  26. ^ 『安部公房全集 <011>』p.39-120. 所収

  27. ^ 初出:『現代文学の実験室1 安部公房集』 (大光社) / 再録:『安部公房全集 <011>』p.201-224.所収

  28. ^ 初出:『安部公房戯曲全集』(1970年) / 再録:『安部公房全作品10』、『安部公房全集 <011>』p.375-435.所収

  29. ^ 『安部公房全集 <013>』p.7-505.『安部公房全集 <014>』p.7-499.所収

  30. ^ 再録:『安部公房全集<012>』p.415-420.所収。なお、初回放送時のラジオ台本は散逸しており、同年12月8日に草月会館で催された舞台上演時の台本のみ現存する。

  31. ^ 初出:『新鋭文学叢書2 安部公房集』筑摩書房 / 再録:『安部公房全集<012>』p.464-467.所収。

  32. ^ 『安部公房全集 <012>p.469-491

  33. ^ 『安部公房全集 <025>』箱裏、安部ねり『安部公房伝』p.180-181

  34. ^ 『新潮日本文学アルバム51 安部公房』表紙、安部ねり『安部公房伝』p.184

  35. ^ 『安部公房全集 <026>』p.433-481 所収

  36. ^ 『われながら変な小説』(初出:「波」1991年12月号、新潮社) / 再録:『安部公房全集 <029>』p.212-215

  37. ^ 『安部公房全集 <029>』p.251-273 所収

  38. ^ 『安部公房全集 <029>』巻末作品ノート p.10-11

  39. ^ 妻子ある有名作家との23年間を、はじめて公に文藝春秋WEB、2013.09.26 リンク切れ

  40. ^ 安部ねり『安部公房伝』p.227および、谷真介『安部公房レトリック事典』p.430。真知の命日は前者、直接の死因となった病名は後者の記述に拠る。なお、真知の命日について後者では9月23日と記載されているが、より刊行年の新しい前者の記述に拠った。

  41. ^ “安部公房さん未発表作発見 最初期の短編「天使」”. 共同通信社. 47NEWS. (2012年11月7日) 2012年11月20日閲覧。 リンク切れ

  42. ^ “安部公房の未発表短編見つかる=札幌の実弟宅で―「新潮」に掲載 - WSJ日本版 - jp.WSJ.com” リンク切れ

  43. ^ ノーベル文学賞候補といわれた作家・安部公房の封印されてきた過去ダ・ヴィンチ、2013年08月27日

  44. ^ 『安部公房とわたし』山口果林著 人生賭けた悲運の不倫劇産経新聞、2013.9.22 リンク切れ

  45. ^ 安部公房、隠し通した「がん闘病」 山口果林さん、手記で語る朝日新聞、2013年7月25日 リンク切れ

  46. ^ 作家・安部公房氏の長女、安部ねりさん死去 64歳 - 産経ニュース 2018年8月20日

  47. ^ 養老孟司『小説を読みながら考えた』p.210

  48. ^ 初出:『われながら変な小説』(初出:「波」1991年12月号、新潮社) / 再録:『安部公房全集 <029>』p.212

  49. ^ 初出:「すばる」(臨時増刊石川淳特集記念号) 1988年、集英社 / 再録:『安部公房全集 <028>』p.378-379

  50. ^ 最相葉月『星新一 1001話をつくった人』p.412

  51. ^ 『大江健三郎 作家自身を語る』p.294-295

  52. ^ 対談「明日を開く文学」 (初出:福島民報 1984年1月1日 / 再録:『安部公房全集 <027>』p.178-182.所収。) 対談「チェコ 演劇 三島由紀夫」同「クレオール 文学 国家」同「SF 分子生物学 意思」 (初出:朝日新聞 1990年12月17日-19日 / 再録:『安部公房全集 <029>』p.72-79.所収)

  53. ^ 『叙情と闘争』「芝居と現代音楽」p.225.

  54. ^ 『叙情と闘争』「芝居と現代音楽」p.228.

  55. ^ 『時間の園丁』「エピソード-安部公房の否(ノン)」p.90.

  56. ^ その説得力-司馬遼太郎「南蛮のみち」(安部による同賞の選評)初出:「新潮」1984年8月号 / 再録『安部公房全集 <27>』p.235

  57. ^ 『思い出の作家たち』単行本 p.137. 文庫版 p.163

  58. ^ a b 1991年12月3日に行なわれた河合との対談「境界を越えた世界」(初出:トーハン「新刊ニュース」1992年2月号 / 再録:『こころの声を聴く - 河合隼雄対話集』p.41-62.所収、『安部公房全集 <029>』p.216-225.所収)

  59. ^ 1992年1月1日に行なわれた養老との対談「迷路を縫って」(初出:「新潮」1992年1月号 / 再録:『安部公房全集 <029>』p.232-243.所収)

  60. ^ 初出:『安部公房全集 <023>』贋月報 / 再録:安部ねり『安部公房伝』p.310

  61. ^ 山口果林『安部公房とわたし』p.125

  62. ^ 『新潮日本文学アルバム51 安部公房』p.58-59

  63. ^ 「負けるが勝ち カフカの生家を訪ねて」(初出:中央公論社刊 世界の文学18 ドストエフスキイ 付録)、「美しい石の都プラハ」(初出:世界文化社刊 世界文化シリーズ9 東ヨーロッパ) / 再録:『安部公房全集 <020>』p.131-133

  64. ^ 『安部公房全集 <027>』p.60

  65. ^ (初出:「地球儀に住むガルシア=マルケス」 / 再録:『死に急ぐ鯨たち』、『安部公房全集 <027>』p.122) なお、エリアスとその妻ベーツァの著作は岩田行一池内紀などの訳出で法政大学出版局から出版されている。

  66. ^ a b 『ダ・ヴィンチ解体全書vol.2 - 人気作家の人生と作品』p.122

  67. ^ 『新潮日本文学アルバム51 安部公房』p.50-51,66

  68. ^ 『安部公房全集 <028>』p.277-278

  69. ^ a b 安部ねり『安部公房伝』p.218

  70. ^文字とともに歩む――伊藤英俊氏に聞く”. 加藤弘一 (2003年4月15日). 2012年3月25日閲覧。

  71. ^ 夢みる機械~安部公房、キューブリック、ピンク・フロイドの眼 (その2) スローリィ・スローステップの怠惰な冒険 (2014年12月27日投稿) リンク先にも安部が1985年のNHK訪問インタビュー出演時に同機器を操作した映像がある。

  72. ^ 『新潮日本文学アルバム51 安部公房』p.3

  73. ^ 安部ねり『安部公房伝』p.310

  74. ^ 山口果林『安部公房とわたし』p.129

  75. ^ ドナルド・キーン、安部公房『反劇的人間』

  76. ^ 『安部公房全集 <003>』p.85

  77. ^ 『死に急ぐ鯨たち』所収

  78. ^ 『新潮日本文学アルバム51 安部公房』p.59、安部ねり『安部公房伝』帯文

  79. ^ 初出:安部公房スタジオ会員通信8 / 再録:『安部公房全集 <026>』p.401

  80. ^ 『安部公房全集 <026>』巻末資料p.16

  81. ^ 『時間の園丁』「エピソード-安部公房の否(ノン)p.89.

  82. ^ 初出:『若い読者のための短編小説案内 第4回 小島信夫「馬」』(文藝春秋「本の話」1996年4月号) / 再録:『若い読者のための短編小説案内』(文庫版)p.66

  83. ^ 初出:『安部公房全集 <021>』贋月報 / 再録:安部ねり『安部公房伝』p.301

  84. ^ 初出:『安部公房全集 <021>』贋月報 / 再録:安部ねり『安部公房伝』p.302

  85. ^ 『大江健三郎 作家自身を語る』p.234

  86. ^ 友達 - MOVIE WALKER PRESS

参考文献[編集]

関連人物[編集]


外部リンク[編集]

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安部公房の作品

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 第25回芥川龍之介賞

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第3回谷崎潤一郎賞

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花田清輝

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花田 清輝
(はなだ きよてる)

1948年

誕生1909年3月29日

大日本帝国福岡県福岡市東公園死没1974年9月23日(65歳没)

日本東京都新宿区信濃町
慶應義塾大学病院墓地

日本千葉県松戸市
八柱霊園職業文芸評論家
小説家言語日本語国籍

日本最終学歴京都帝国大学文学部英文学科除籍活動期間1931年 - 1974年ジャンル評論小説戯曲文学活動新日本文学会
第一次戦後派作家代表作『復興期の精神』(1946年)
『二つの世界』(1949年)
『アヴァンギャルド芸術』(1954年)
『鳥獣戯話』(1962年)
『日本のルネッサンス人』(1974年)主な受賞歴週刊読売新劇賞(1958年)
毎日出版文化賞(1962年)デビュー作「七」(1931年)親族花田十輝(孫)

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花田 清輝(はなだ きよてる、1909年明治42年〉3月29日 - 1974年昭和49年〉9月23日)は、作家文芸評論家。巧みなレトリックを駆使した文体を特徴とし、映画や演劇の評論も多く手がけ、日本のアヴァンギャルド芸術論の先駆的存在であった。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

福岡県福岡市東公園に生まれ、一人っ子として育つ。先祖は毛利輝元であり、清輝の曽祖父は黒田藩右筆で、名前には代々「輝」の字を付ける習いだった[1]。旧制福岡中学(現・福岡県立福岡高等学校)時代は柔道に熱中し、また父ともに短歌を新聞等に投稿していた。

鹿児島の第七高等学校に入学し、西田哲学に没入、また寮誌『白光』を創刊し長編詩「樹下石上」などを発表。しかし読書に熱中して出席日数不足で2度続けて落第し退学、福岡に戻って九州帝国大学哲学科の聴講生を経て、1929年に京都帝国大学文学部に選科生として入学。この時期、『白光』に小説「ひとつの習作とそのはかないひとりごとの話」、戯曲「窓」「無構成の美学-エドガア・ポオ瞥見」掲載。1931年に小杉雄二のペンネームで『サンデー毎日』大衆文芸に応募した小説「七」が、入選し掲載される[2]。 父親の事業の失敗により学費が払えなくなり、同年11月、京大文学部英文科を除籍される。しかし滝川事件が起こると、古谷綱正高木養根らとともに文部省による大学自治への干渉に反対する文学部の運動を指導した。福岡で父の経営する食堂で働いたが、1933年に上京、翻訳の下請けなどで生計を立て、七高時代の友人辛島紅葉の義兄にあたる三浦義一の家に一時滞在した。新聞広告を見て、朝鮮人ジャーナリストで独立運動家の李東莢の秘書をつとめる。

戦前・戦中まで[編集]

1935年に朝鮮人ジャーナリストの依頼で満州に渡り、朝鮮人のコロニーを取材。また福岡中学の先輩で中野正剛の秘書をしていた我観社の進藤一馬の知遇を得て、東方会の機関誌『我観』(後『東大陸』に改名)に「朝鮮民族の史的変遷」など時事論文などを執筆。また大野正夫、片山敏彦長谷川四郎らの雑誌『世代』、大井廣介らの『現代文学』に文芸論を発表した。1939年には東大陸社に入社して『東大陸』の実質的編集長となり[3](これらは、戦後吉本隆明との論争において「東方会の下郎」と誹謗される根拠となった)、中野正剛の実弟中野秀人野口米次郎、福池立夫らと「文化再出発の会」を結成し、中野正剛から資金を得て機関誌『文化組織』を創刊。『自明の理』や『復興期の精神』としてまとめられる一連の文章を発表した。1940年に『東大陸』編集を辞め、秋山清の紹介で林業新聞社に入社。1941年に文化再出発の会の「魚鱗叢書」として『自明の理』を刊行するが、「文化再出発の会」は中野正剛との関係が絶たれ、経営は苦しくなった。1942年以後サラリーマン社『時局月報』、木材通信社『木材通信』、軍事工業新聞社『軍事工業新聞』など記者、社説の執筆なども務める。また1943年に『現代文学』誌に、大東塾顧問三浦義一尾崎士郎の対談や影山正治を批判した「虚実いりみだれて」を発表し、大東塾関係者に暴行を受け、謝罪文を書かされる。また戦時下の雑誌統合で『文化組織』は終刊となる。

アヴァンギャルド論[編集]

鎌倉材木座で敗戦を迎え、1946年には中野正剛の息子の中野達彦泰雄兄弟の要請で出版社・真善美社の編集顧問となり、『我観』を改題した『真善美』の編集に参加、北多摩郡狛江村にある戦中に緒方竹虎が疎開していた中野家宅に移り住む。主に戦中のエッセイ『復興期の精神』を真善美社の処女出版として刊行、戦中と戦後のエッセイを収録した『錯乱の論理』、永井荷風太宰治椎名麟三坂口安吾らへの批評を含む『二つの世界』などで注目されるようになる。「砂漠について」(『二つの世界』)は安部公房の『砂の女』執筆に影響を与えた[4]。また加藤周一中村眞一郎福永武彦小野十三郎野間宏福田恆存佐々木基一埴谷雄高など第一次戦後派作家の作品を「アプレゲ—ル新人創作選」として出版、これにより「アプレゲール」という言葉が一般化した。戦前木材通信社で知り合った田中吉六の『スミスとマルクス』も花田の斡旋で真善美社より刊行され、題名も花田の薦めで決まった。同年『近代文学』の同人になる。1947年岡本潤、加藤周一、関根弘、中野秀人、中村眞一郎らと「綜合文化協会」を結成、真善美社に事務所を置き、機関誌『綜合文化』を発行。同年、埴谷雄高、佐々木基一、野間宏、岡本太郎、関根弘と「夜の会」結成。1948年に野間宏、寺田透杉浦明平らの「未来の会」に参加。1949年に日本共産党に入党、月曜書房の戦後文学賞銓衡委員となり、安部公房「デンドロカカリヤ」を推薦した。1950年、月曜書房から田中英光の遺書に従って『田中英光選集』刊行。

新日本文学会には1946年に入会し、1948年に『新日本文学』編集員、1952年に編集長、1954年には宮本顕治の持ち込み原稿を拒否したたことから編集長を解任された。

1950年代から美術、映画評論に力を注ぎ、『アヴァンギャルド芸術』『さちゅりこん』『政治的動物について』などの著書で、若い世代に強い影響を与えた。1957年に安部公房、岡本太郎、大西巨人竹内実、長谷川四郎らと「記録芸術の会」結成、機関誌『現代芸術』を創刊、総合芸術・共同制作の実現を目標とした。1959年、安部、千田是也木下順二、野間らと演劇運動の「三々会」を結成。

論争[編集]

1955年に「ゴロツキの弁」(『群像』)、「反俗物的俗物-高見順氏に」(『文学界』)を発表し、高見順とのゴロツキ論争となる。1956年には「モラリスト批判(『群像』)を発表し、荒正人や埴谷雄高ら『近代文学』同人とのモラリスト論争。また1956年の『現代詩』誌上での岡本潤、吉本隆明との鼎談「芸術運動の今日的課題」を発端とし、続いて1957年「ヤンガー・ゼネレーションへ」、1959年に「戦後文学大批判」(『群像』)、「プロレタリア文学批判をめぐって」(『文学』)に、吉本は「不許芸人入山門-花田清輝老への買コトバ」(『日本読書新聞』)を書き、これに「反論-吉本隆明に」(同紙)など、吉本隆明らと転向、戦争責任問題について花田・吉本論争を繰り広げた。 1961年の日本共産党第8回大会にあたって、新日本文学会の共産党員グループによる党運営を批判する声明書などを公表、党を除名される。 1966年新日本文学会議長に選出される。

戯曲・演劇[編集]

1957年安部公房岡本太郎大西巨人竹内実長谷川四郎らと、総合芸術・共同制作を目指す「記録芸術の会」結成し、1958年に歴史ものの長編戯曲『泥棒論語』を執筆。その年の秋に舞芸座によって俳優座劇場で公演され、第1回週刊読売新劇賞受賞。

1962年劇団俳優座から公演台本として依頼された「爆裂弾記」を発表したが、公演スケジュールに間に合わず、代わりに1963年に劇団演劇座などの有志によって俳優座劇場で公演された。戯曲について和田芳恵は「壮士は書くが浩然の気を感じさせる明治調がこの戯曲のようにあらわれたものが、これまでなかったような気がした」と評したが、公演の入りはガラガラという状態だった。

続いて1963年に「ものみな歌でおわる」を日生劇場開場記念公演として書き下ろし、千田是也演出、水谷八重子仲代達矢などの出演で公演したが大不評で、「ものみな不入りでおわる」と題した記事も書かれた。

「爆裂弾記」は1968年に劇団演劇座により明治百年批判公演として上演された。

1973年長谷川四郎佐々木基一広末保、うえまつたかしの5人が「記録芸術の会」に続く新しい演劇活動を起こそうとして、演劇団体「木六会」を結成し、1974年に第1回公演で「ものみな歌でおわる」を六本木の俳優座で再演、千田是也一門の中堅、若手の俳優が演じ、満員の大盛況となった。 木六会の第2回公演では、花田の提案で魯迅の「故事新編」を素材とした共同制作を行うこととし、4編のうち花田は「首が飛んでも-眉間尺」を執筆。しかしこの上演された1974年11月を前に花田は死去し、公演は追悼公演として行われた。

他に戯曲としては、ラジオドラマ「わたしは貝になった」、テレビドラマ「就職試験」「佐倉明君伝」がある[5]

小説[編集]

1960年から「鳥獣戯話」「小説平家」などの歴史ものの小説執筆を始める。1962年『鳥獣戯話』で毎日出版文化賞受賞。埴谷雄高が「花田の小説は『或る事物への感覚的な集中表現』がない」と批評したことに対して、「かれは小説らしい小説が好きなのだろう。せいぜい、柄杓の上に羽を休めているやんまのイメージでも描くがよい」と、森鷗外阿部一族」のディテール描写の俗物性を引き合いに、自身の立場を表している(「方法序説」『箱の中の話』)。


1974年5月に慶応病院に入院、一旦退院するが再入院し、9月に脳出血のため同病院で死去。

1963-66年に『花田清輝著作集』全7巻が未来社から、没後『花田清輝全集』全15巻・別巻2巻が講談社から刊行された。

東北大学金属材料研究所教授であった花田黎門は息子。アニメ脚本家花田十輝は孫。

著書[編集]

  • 『自明の理』文化再出発の会・魚鱗叢書、1941年 (戦後再編集して『錯乱の論理』と改題)

  • 『復興期の精神』我観社 1946年 のち角川文庫講談社文庫講談社学術文庫講談社文芸文庫

  • 『錯乱の論理』真善美社 1947年 のち講談社文芸文庫

  • 『二つの世界』月曜書房 1949年 のち講談社文芸文庫

  • 『カフカ小品集』世紀の会 1950年(翻訳)

  • 『アヴァンギャルド芸術』未來社、筑摩叢書、講談社文芸文庫

  • 『さちゅりこん 花田清輝評論集』未來社 1956年

  • 『政治的動物について 現代モラリスト批判』青木書店 1956年

  • 『乱世をいかに生きるか』山内書店 1957年

  • 『大衆のエネルギー』大日本雄弁会講談社 1957年

  • 『映画的思考』未來社、1958年(1962年に収録文章を一部さしかえて『新編映画的思考』とする) のち講談社文芸文庫

  • 『泥棒論語・七』未來社 1959年(戯曲)

  • 『近代の超克』未來社 1959年 のち講談社文芸文庫

  • 『もう一つの修羅』筑摩書房 1961年 のち講談社文芸文庫

  • 『鳥獣戯話』講談社 1962年(小説)のち講談社文芸文庫

  • 『いろはにほへと』二村次郎写真 未來社 1962年

  • 『シラノの晩餐』未來社 1963年

  • 『爆裂弾記』未來社 1963年(戯曲)のち講談社文芸文庫

  • 『ものみな歌でおわる かぶきの誕生に関する一考察』晶文社 1964年(戯曲)のち講談社文芸文庫

  • 『俳優修業』講談社 1964年(小説)のち講談社文芸文庫

  • 『恥部の思想』講談社 1965年 のち講談社文芸文庫

  • 『小説平家』講談社 1967年(小説)のち講談社文芸文庫

  • 『古典と現代』未來社 1967年

  • 『随筆三国志』筑摩書房 1969年 のちレグルス文庫、講談社文芸文庫

  • 『乱世今昔談』講談社、1970年(講談社文芸文庫収録にあたって『ここだけの話』と改題)

  • 『東洋的回帰(現代のエッセイ)』文藝春秋、1971年

  • 『冒険と日和見 文藝評論集』創樹社 1971年 のち増補版

  • 『室町小説集』講談社、1973年(小説)のち講談社文芸文庫

  • 『日本のルネッサンス人』朝日新聞社 1974年 のち朝日選書、講談社文芸文庫

  • 『箱の話』潮出版社 1974年 のち講談社文芸文庫(合冊)

  • 『洛中洛外図』平凡社 1974年

共編著[編集]

全集、作品集[編集]

  • 『花田清輝著作集』未來社、1963-66年

第1巻 (復興期の精神,錯乱の論理) 1964年

第2巻 (大衆のエネルギー,二つの世界) 1963年

第3巻 (アヴァンギャルド芸術,さちゅりこん) 1964年

第4巻 (近代の超克,もう一つの修羅) 1964年

第5巻 (仮面と顔,胆大小心録) 1965年

第6巻 (泥棒論語,爆裂弾記,ものみな歌でおわる,就職試験,佐倉明君伝) 1965年

第7巻 (鳥獣戯話,俳優修業,冠者伝) 1966年

  • 『さまざまな戦後 花田清輝芸術論集』読売新聞社、1974年

  • 『花田清輝全集』全15巻別巻2 講談社 1977-80年

  • 『ザ・花田清輝 花田清輝二冊全集 大活字版』第三書館 2008年

  • 『日本プロレタリア文学大系 8、別巻2』三一書房 1955年

  • 『現代日本文学全集 95 現代文芸評論集』筑摩書房 1958年(「変形譚」「絶望について」などを収録)

  • 『日本現代文学全集 104』講談社 1966年

  • 『現代短篇文学全集 48』筑摩書房 1969年

  • 『現代日本文学大系 84』筑摩書房 1972年

  • 『現代の文学 4』講談社 1974年

  • 『筑摩現代文学大系 71』筑摩書房 1978年

  • 『現代推理小説大系 別巻2』講談社 1981年

  • 『鳥獣戯話・小説平家』講談社文芸文庫 1988年

  • 『七・錯乱の論理・二つの世界』講談社文芸文庫 1989年

  • 『花田清輝評論集』粉川哲夫岩波文庫 1993年

  • 『ちくま日本文学全集 60 花田清輝』筑摩書房 1993年

  • 『日本幻想文学集成 29 花田清輝』池内紀国書刊行会 1994年

  • 『箱の話・ここだけの話』講談社文芸文庫 1994年

  • 『ものみな歌でおわる・爆裂弾記』講談社文芸文庫 1996年

  • 『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』清流出版 2007年

参考文献[編集]

  • 『別冊新評 花田清輝の世界』新評社 1977年

  • 島田昭男、伴悦「花田清輝年譜」(『日本現代文学全集 104』)

  • 島田昭男「年譜」(『復興期の精神』講談社学術文庫 1986年)

注[編集]

  1. ^ 小沢信男「作家案内」(『室町小説集』講談社文芸文庫 1990年)

  2. ^ 『泥棒論語』(1959年)で単行本初収録された。千葉亀雄は「凝りに凝ったしっとりした重苦しさを備え」「ドイツの怪奇小説でも読む感触」「解決が予想外に出た巧さも、すべて珍しい作物だ」と評している。

  3. ^ 武井昭夫『芸術運動家としての花田清輝——対立物を対立したまま統一する花田弁証法の実践』社会評論110号

  4. ^ 佐々木基一「著者に代わって読者へ 砂漠の思想」(『七・錯乱の論理・二つの世界』講談社文芸文庫 1989年)

  5. ^ 小沢信男「雲をつかむ男-劇作家花田清輝」(『ものみな歌で終わる・爆裂弾記 現代日本の戯曲』講談社文芸文庫 1996年)

関連書籍[編集]

外部リンク[編集]

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