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北海道の金融史をダイジェストで!〜札幌解体新書vol.3「2時限目 金融」レポート〜

『札幌のイマを解き明かす!?過去からさかのぼって現在を眺め、未来の札幌への提言をおこなう連続トークライブ企画「札幌解体新書」』は、北海道経済コミュニティ「えぞ財団」と札幌のワクワクをつくる「札幌移住計画」のコラボイベントです。
都市計画、金融、ビジネス(起業、就職、仕事環境、フリーランスetc.)、暮らし(家族で暮らす、女性の社会進出、余暇、教育)などなど、札幌という街の「光と影」「可能性と課題」といったリアルを、時間を遡って解体し解き明かし、札幌を、過去から紐解き、今を浮き彫りに、そして未来への提言までつなげていきます。

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・講師〜金融〜:齋藤 一郎(さいとう いちろう)先生
小樽商科大学 大学院商学研究科 アントレプレナーシップ選考 教授 
・担任:和田 哲(ブラサトル)先生 
O.tone編集デスク「古地図と歩く」を連載
・学級委員長:神門 崇晶(かんど たかあき)くん
小樽商科大学3年生
・生徒 / 解体新書係:五十嵐 慎一郎(いがらし しんいちろう)くん 
株式会社大人 / 札幌移住計画代表
・生徒:穴田 ゆか(あなだ ゆか)さん 
ACT NOW代表取締役
・生徒:大久保 徳彦(おおくぼ のりひこ)くん 
POLAR SHORTCUT代表取締役
・生徒:高橋 幸裕(たかはし こうすけ)くん 
サツドラHD / 北海道のデジタル地域通貨普及プロジェクト

全編配信映像はこちらから▼

【2限目】札幌解体新書...

Posted by 札幌解体新書 on Friday, July 30, 2021

神門:起立〜礼!これから、札幌解体新書【2限目】の授業 「金融」編を始めます。

五十嵐:今年の4月より「なんで今の札幌はこうなったんだろう?!」という所をいい部分も悪い部分も含めて知りたい!という願望から始まった企画です。

過去を遡って解体するだけじゃなく、それを元に未来に向かって「どんな街になったらいいんだろうね!」というのをみんなで勉強して、みんなで考える企画にしよう!と生まれました。今回が2回目。大体1〜2ヶ月に1回くらいのペースで色んなテーマを語り尽くしていきたいと思っています。

最終的には、どどん!と出版をしたいと思っています。未来の札幌市長のマニフェストになるくらいのものをつくってやろうという壮大な野望(?)になってますので、ぜひ、みなさん乞うご期待でお願いします!

2限目「金融」のテーマは「空間的に金融を捉える」

〜時間割〜
sec1.北海道金融史      
sec2.現在まで続く戦後金融体制
sec3.北海道にとっての地域金融
sec4.まとめ         

齋藤先生:金融はお金の動きなので「誰から誰へ」という動きと「どこからどこへ」という流れがあることを空間的に金融を捉えると表現しています。

神門:仏教の華厳経「融通無碍(むげ)」で「人々が碍りなく心を通わせること」が金融という言葉の語源だったそうなんです。お「金」を「融」通する相互扶助の役割もあり、二宮尊徳の五常講などがありました。

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▲日本の金融の歴史(開拓〜日清戦争)

神門:国立銀行条例により、今、大河ドラマにもなっている渋沢栄一が1873年(明治6年)に日本初の国立銀行である第一国立銀行(現:みずほ銀行)を設立し、明治16(1883)年の国立銀行条例改正により、銀行券が日本銀行に統一されました。

sec.1-1 北海道金融史〜函館〜

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▲函館金融史

齋藤先生:明治11(1878)年に設立された第百十三国立銀行は、函館の商人たちが中心となりつくりますが、百四十九国立銀行は、島原藩と大分臼杵(うすき)の藩士が協力し合ってつくりました。九州の侍が北海道で銀行をつくった背景には、当時、各地に銀行をつくりたいという国策があり、もう北海道くらいにしか銀行をつくれないという事情もありました。

神門:第百十三国立銀行は、どういう存在だったのですか?

齋藤先生:第百十三国立銀行は、相馬家など地元の大財閥が海運の資金調達で利用していました。一方、九州の士族がつくった百四十九国立銀行は、その後倒産し東京の銀行と合併、三菱UFJ銀行になります。

五十嵐:先生、数字の名前の銀行と、数字じゃない名前の銀行があるのは、この時代どういう状態だったのでしょう?

齋藤先生:数字の国立銀行は、第一銀行から始まって第百五十三銀行までありました。唯一、私立の銀行として成立したのが三井銀行です。三井銀行だけが、生まれながらにして三井銀行でした。たとえば、第三国立銀行は、安田銀行になり、その後合併によってみずほ銀行になりました。

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▲三井銀行 函館出張店

神門:こちらが三井銀行函館出張店なのですが……出張店だから控えめな建物なんですか……?

齋藤先生:だいたい昔の銀行は、こんな感じですね(笑)建物の脇に耐火構造の蔵があります。

五十嵐:この蔵にお金があったんですか?

齋藤先生:そうですね。貴重品や現金が保管されてました。

五十嵐:手前の壁から壊していけば……こう……

神門:しちゃダメですよ。

齋藤先生:我々の使っている銀行は誰もが訪れますが、当時は大きなお店をしている人たちだけがやってくるようなところでしたので、めったに人は来なかったんです。

神門:庶民というよりかは、富裕層が利用していたのですね

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▲第百十三国立銀行 函館本店

齋藤先生:函館の金融を支えた第百十三国立銀行が、昭和3(1928)年に旧・北海道銀行と合併し解散します。

ブラサトル先生:ちなみにこの建物は、現在も残っています。大火が多かった函館は、銀行を石造りの燃えないような頑丈なつくりにしていました。

齋藤先生:銀行建築は、ギリシャ・ローマ様式の荘厳な印象を与えるものが多いですよね。「銀行は信用できるものなんだな」と思ってもらえるように工夫していたのでしょう。

神門:なぜ当時の金融の中心地は、函館だったのでしょう?

齋藤先生:本州から北海道開拓に入るときに、青森から函館のルートが一番近道だったという理由が大きいです。函館周辺に町を開き、そこを拠点として漁業や海運業を展開していました。

sec.1-2 北海道金融史〜小樽〜

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▲小樽金融史

齋藤先生:北陸からの移民に金融をつけていたのが、富山に本店がある十二銀行(現在の北陸銀行)で、小樽に支店をつくりました。

地場銀行としての役割があったのが、余市銀行。余市は、水産業の町ですよね。漁船をつくるためにお金を調達して、木材を買ってきて、船をつくって海へ乗り出すので、金融が必要になってきます。舟材は、赤井川村から木を切り取り、余市で加工して船にしました。余市銀行の規模が大きくなるにつれ、海運の拠点になってきた小樽に支店を出しました。小樽に鉄道が開通し、輸出港としても発展し始めた頃でした。

神門:小樽の無尽が、北洋銀行や北海道銀行のような銀行に育っていったんですね。

※無尽:
日本で一般の人々の間で古くからあった相互扶助的な金融方式

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齋藤先生:野球でいうトーナメント戦のような動きが、銀行では起きていました。最終的には、昭和19(1944)年に北海道拓殖銀行にすべて吸収合併されました。昭和11(1936)年の一県一行主義により、全国で銀行の合併が進みます。日中戦争が始まり、効率的に戦時国債を発行したいという背景がありました。

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神門:今とむかしの金融の違いとは、一体なんなのでしょう?

齋藤先生:現在では、リーマンショックのように金融が先に立ってしまうケースもありますが、人の経済・モノの経済のあとに金融がついてきたというのが、本来の流れでした。人やモノの動きに金融が合っていたという言い方もできるのかもしれません。

sec.1-3 北海道金融史〜その頃、札幌は?〜

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▲大正10(1921)年に「有限責任山鼻信用組合」として設立し、昭和10(1951)年に「札幌信用組合」に改称、昭和26(1951)年「札幌信用金庫」と改称を経て、平成30(2018)年ほか2金庫と合併し「北海道信用金庫」になる

神門:現在の北海道信用金庫は、札幌・小樽・北海(余市本店)信用金庫が合併してできました。こちらの写真が、創業当時の山鼻信用組合です。

齋藤先生:神田組合長宅とありますが、個人の家だったんですね(笑)

神門:最初、庶民の信用金庫として始まったというところが余市と似てますね。

齋藤先生:屯田兵たちが住民化していくなかで、商工業が発展していきます。だけど、商工業を支えてくれる金融機関がなかったため、自分たちでつくろう!となったようです。

2018年に誕生した北海道信用金庫は、メインバックシェア6.36%で道内3位になり、道内初の預金量1兆円信金になりました。金融機関として大きく発展したというプラスの面と、エリアが広くなり地域密着度が薄くなってしまったというデメリットの両面を持ち合わせているという気がしています。

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神門:信用組合・金庫と銀行の違いとはなんでしょう?信用金庫は、銀行と組合の中間という印象があります。

齋藤先生:古い言葉でいうと利潤原理に則って活動するのが銀行、それに対して相互扶助を基礎にしているのが信用組合。その中間として戦後できたのが、相互扶助の精神を持ちながら、業務としては銀行に近い信用金庫です。

sec.2 現在まで続く戦後金融体制〜札幌金融史〜

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▲札幌金融史

神門:この年表を見ていただきたいのですが、明治42(1900)年北海道拓殖銀行設立から、昭和19(1944)年拓銀、旧北海道銀行を吸収合併するまで、ほぼ大きな動きがなかったのが札幌金融史です。明治42(1900)年に拓銀は、官民の資金による特殊銀行として設立されました。

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▲初代・北海道拓殖銀行札幌本店

神門:官は、日清戦争の賠償金と皇室からの御下賜金です。当時の国家予算の4倍の賠償金が清から払われ、それを使い拓銀ができました。民は、日本全国から株主を募りました。時は、流れまして……1997年経営破綻をして拓銀の歴史は終わりをむかえます。1998年には、北洋銀行と中央信託銀行(現三井住友信託銀行)に営業譲渡をしました。

……なんか、銀行の運命って切ないですね。先生、拓銀設立の意義と価値とはなんだったのでしょう?

齋藤先生:国策銀行として建てられて名前が使命を表しているように、北海道の開拓を担うための資金を調達するための北海道拓殖銀行でした。開拓農民たちに貸付をバンバンと行い、北海道の開拓を進めていきます。農地を担保にしていたので、北海道一の地主とまで言われた時代もあったんですよね。

ところが開拓がひと段落してくると、銀行としてどうやったら発展していくのか?と思案します。旭川に本店があり内陸に支店を多く抱えていた絲屋銀行を吸収することで、一挙に全道展開を図ることに成功しました。そうするなかで開拓銀行としての性格を薄め、普通銀行としての役割を強めていきます。旧北海道銀行との競争のなかで、昭和19(1944)年に日銀の再建により北海道拓殖銀行を生き残すことで、北海道における一県一行主義が完成しました。

意義としては、北海道金融におけるファイナンス……開発金融としての意味が強かったのですが歴史が下るにつれてその性格を変えていきました。普通銀行に名実共に変わっていくことによって、北海道経済の全体を担うリーディングバンクとしての役割を担うようになります。

12行あった都銀行のなかでは、最下位のポジションであると同時に北海道経済で見るとトップであるという非常に微妙なポジションにありました。地方銀行に資金量で抜かれるようになっていくなかで、バブルの末期にインキュベート路線をとって不良債権の山をつくってしまったというのが、ひとつ破綻の原因であったのかなと思います。

神門:拓銀破綻の道内経済の影響は、どういうものだったのでしょう?

齋藤先生:そうですね……。経済における配電盤をなくしたような状態だったのではないでしょうか?

神門:配電盤をなくすって相当ですね……。

齋藤先生:公共事業に依存していた北海道にとって、お金を配る配電盤とほぼ同じ役割を果たしていました。そこが失くなったわけですから、心理的には恐慌をきたしたのではないか、と思います。

神門:それは、長引く北海道経済の低迷と関係があるのでしょうか?

齋藤先生:うーん、銀行員が拓銀破綻を教訓に慎重になり、新規事業の資金供給に対しても臆病になっている側面はあるかもしれませんね。

神門:貸し渋りをするというのは、北海道経済にとってはどうなんでしょう?

齋藤先生:新しい経済は未知なんですよね。だから、リスクは高い。そのリスクをどうやってとっていくべきなのか?ということを今後の課題として考えていかなくてはならないでしょうし、それができない銀行であれば、銀行としてのある種の存在意義はなくなる可能性もあるとは思います。

神門:なるほど……。

sec.3 北海道にとっての地域金融

神門:時間が押しているので、これからの課題をおひとりずつ聞いていこうかな、と思います。無茶ぶりなんですけど(笑)では、大久保くんから。

大久保:そうですね。私は、ベンチャーキャピタルファンドの運営をしているので、新しい産業をつくっていくためには、余剰の資金を銀行や銀行以外のところが資金投資をしていく必要性は感じています。ただ銀行が、まだ実績がないベンチャー企業やサービスをつくっている最中の会社に対してリスク投資をしていくというのは、北洋銀行、北海道銀行だけではなく、東京の銀行であってもなかなかそういう投資は難しいというところがあるので、銀行が直接投資をするわけではなく、私のようなベンチャーキャピタルファンドが投資をしたり、違うかたちで余剰資金をどう投資できるのか?ということを考えていくのが良いのではないかと思っています。

神門:ありがとうございます。穴田さん、お願いします。

穴田:うちは、ACT NOWというクラウドファンディングを運営している会社なんですけれども、無尽講の相互扶助の仕組みはクラウドファンディングの前身だと感じました。課題というと、銀行の職員さんでもいまだにクラウドファンディングを知らないという方がいらっしゃるのですが、銀行だけがお金を調達する手段ではなく、様々な調達手段を個人が選べる時代になってきていて、かつリスクも取れるので、それとどう向き合って産業を発展させることができるのか?大小に関わらず、可能性を増やしていく土壌をつくっていくということが大切なのではないかと思っています。また若い世代がお金に対するリテラシーを理解してくると、挑戦の仕方をもっと学べるのではと感じています。

神門:クラウドファンディングって、どこが発祥なのですか?

穴田:諸説あるのですが、2003年アメリカのアーティストシェアが始まりと言われています。日本では東日本大震災後に募金ではなく明確に使い道がある支援というかたちで広まりました。オンライン上で信頼を見える化するという側面があるので、地域に密着した寄り添い方もあるのではないかと思っています。

神門:ありがとうございます。高橋さん、お願いします。

高橋:私は地域通貨を主にやってきましたけれど、北海道だけで流通させる、北海道だけで売り買いすることができる通貨で、既存の円やドルや人民元と違う概念のものをつくっていこうとしているんですね。マクロの動きとしてもデジタル人民元やデジタル円という動きが出てきてますので、金融の考え方自体が変わってくるのかなぁと思いながらお話を聞いていました。ブロックチェーンのような新しい技術を使って独自で通貨を発行しけば海外への送金コストも減ってきます。大きな話をするとドルが基軸の世界が変化していきますので、未来に向けてのお話もしていけたらと思います。

神門:最後に齋藤先生お願いします。

齋藤先生:そうですね、銀行は変遷を迫られているという側面があり、金融は必要だけれども銀行は必要ないという時代がひょっとしたらきてしまうかもしれない。そうならないためにも、皆さんの声を拾い集めながら新しい金融や銀行の在り方を考えていきたいなと思います。

神門:ありがとうございました!

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レポート:Natsumi Miki

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