見出し画像

2024/3/22想像する楽しさについての私見

昭和の時代、思い返してみるとえぞひぐま少年は裕福なのか、貧乏なのか良く分からない生活をしていた。衣食住は質素なものだったにも拘らず、近所に住む祖父母に毎日駄菓子屋へ行くために小遣いをせびりに行っていた。
1日100円。
一回に駄菓子屋で使う額としては少ないのかもしれないが、毎日となると、月に3,000円の小遣いをもらう子どもである。
まだまだTVゲーム等が普及する前であるため、大きなお金を使う子どものそれほど多くなかった。

そんな娯楽の少ない時代に覚えたのがラジオ。
自分の住む家にも、祖父母の家にも車にもついていたラジオ。
このラジオと言う媒体は少年に想像する楽しさを教えてくれた。
話している人の年齢や顔、どんな所で話しているのか、スtタジオの外に中期に出ると見た事も聞いた事もない所の情景を描写して伝えてくれる。

そのラジオで覚えた耳で楽しんで考えたり想像したりする事。
その楽しみは長きに渡り人生の学びであり、娯楽であり続けている。
放送局によって全然違ってくる番組のテイスト、時間帯によっても変わってくるのはテレビも同じなのに、夕方の番組やお昼の番組が好きだった。

この時に覚えた想像する楽しさは日常生活にも波及し、お金を使わずに色んな事を考える妄想癖、空想癖のある少年として過ごした。
いや、今でもそんな事を日常的に考えるのが好きなので、三つ子の魂百までを実感している。

しかしながらそんな妄想えぞひぐまでも許容できないものがある。
それは映画に多い。
史実を映画にした場合、結末は歴史として答えが出ている場合が多い。
しかし創作の小説などが原作の場合、本は細かな描写や何気ない文章が、情景を想像する時の材料の積み重ねになるが、映画になると想像していたものが明確に映像化され想像できなくなる(当たり前)。
にも拘らず、時間の関係かなんかでカットされた部分は本を読んで映画を見た者には描かれていない部分を想像しながら見られるが、映画が初めての者には今見ているものの世界線がこの物語のものになる。
それはまだいい、イヤなら自分が本を読んで映画見ればいいだけの話しであるが、映画のラストを観客に委ねるどうにでも解釈できる終わりが、どうにも合わない。
どのように解釈するか、映像の端々にちりばめられたものが伏線となり、役者の目線、しぐさ、セリフの言い回しが伏線にしか思えなくなる。原作に忠実なら仕方ないが、映画なりの解釈や映画にした場合の伝え方など求めていない時にこれに当たる場合が多い。

演劇にしても同様の事が言える。
今までは観客の頭の中で想像しながら見ていたものを、可視化して正解を出してしまう。作品としての伝え方、演出家の考え、時代に合わせたと、いくらでも理由は見つかるが、私にとっては想像する楽しみを奪われた(大袈裟)と感じるのである。

絶対に可視化されないと思っていたラジオでさえ、スタジオの様子が配信される時代である。どのような娯楽をどのように楽しむかは自分で決めていかなければ、作り手や時代に合わせられてしまう。
変化を楽しもう、時代を受け入れようと風に吹かれる柳の様にしなやかに生きる時もあるが、絶対に落ちない岩の様にゆらゆら動くのにそこに居続けるそんな大人になりたいのかもしれない。