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水神切り兼光の話

「——お前は箱舟の話を知っているか?」

「箱舟ですか?」

 不意に言葉をかけられて、僕も逆に訊ね返した。雨がざあざあと降って少しも弱くなる気配がない。足元はぬかるみ、ひどく歩きにくい。

 まあ、自分はふわふわと浮いているような地に足がついているようでいないようなそんなアレだから、別に大した労力ではないんだけれど。

「以前、うちを訪れた南蛮人の宣教師どもが話していた。宣教師曰くーー連中の神とやらはずっと以前、愚かな人間どもに愛想をつかし、一度悪しき世界の全てを葬り去ろうとしたのだそうだ」

「えええ……い、いったい何事です。どうしちゃったんですか、その神仏は」

「悪しき世をちまちまと修正し続けるより、一度全部最初からやり直しをしようと考えたのだろう。その方が手っ取り早いし、よいものが出来るだろうとーーまあ、能力のない馬鹿な執政者が考えそうなことさ」

 道なき道を歩く我らの視界の先がようやく開けてきて、僕の主人は歩調を早めた。手に持った獲物で木々の枝を払いのけて進む。

「神様も徹夜続きだったんじゃないですか? 二日も徹夜が続けばそういう気分にもなります。ご主人さまだってよくあるじゃありませんか」

「ああ、しかし連中の神はすぐさまそれを実行に移した。大雨を降らせて洪水を引き起こし、悪しき地上の世界全てを押し流そうとしたそうだ」

 目の前が開けると、そこで道は終わっていた。

「はああ・・・・・・なるほど。神の裁き、というやつですか」

「しかし、ただ一人だけーー神の選定によってただ一人だけその洪水から許される人間が選ばれ、彼の家族や身内だけが洪水後の新しい世に生きることを許された。あとは全ての動物、全ての生き物がつがいの一組だけをその男の家族とともに残されて、古い世界は跡形もなく消え去ってしまったのだとさ。神の逆鱗の大雨で引き起こされた大洪水で、何もかも全てが押し流されてしまったのだと」

そうして主人が崖の上から下の様子を眺めた。

崖の下は川になっている。近日の酷い長雨で増水し、真っ黒に濁った水が諾々と水しぶきを上げて轟音とともに押し流れていく。

この有様ではいずれ堰は破れ、川下に積んだ土嚢も機能しなくなる。

「つまりーーだ」

 主人が呟いた。

「所詮、神などという存在はただの依怙贔屓が過ぎる愚かな執政者だ。箱庭で人形遊びでもしておればよかったものを、能力もないのに世界を拵えるからそのような羽目になる」

 僕は相槌の意を込めて二度、三度と頷いてみせた。主人は別の方を向けていたけどさ。

「ーー全部やり直しなどせずとも、俺ならもっとうまくやれたのに……」

「さようですな。ご主人様はまっこと大した執政者であらせられますもの。戦の腕はビミョーですが……ああ、でも退き陣の様は実にお見事で」

「負け戦の撤退ばかりを褒められてもちっとも心には届かんわい」

 振り返った主人はさも不機嫌そうな顔をして僕を睨んでいた。

「もしもこの大雨も、洪水も箱舟のおとぎ話同様に神の裁きだというならーー話は早い。

神を殺せば洪水も収まるというわけだ」

「か、神様を……殺しちゃって、バチはあたらないっすかねえ……?」

 僕がちらりとそちらを見やる。崖沿いに続いた細い道の先に暗い洞穴が見える。その先が件のそれだーー水神様の寝ぐらだとかなんとか……そういう話。まあ、傍目にはただの薄気味悪いほらあななんだけれども。

「安心しろ。うちの民は利口だ。誰に頭を垂れるかは自分で選ぶーーそうして、自分達に災いしか招かぬ悪しき者を“神”とは呼ばぬ。我ら人に仇なす神はただの“化け物”だ」

 化け物、という部分に特に意を込められたのがわかって、僕は一度頭を下げた。

「水の神か全能の神かは知らんが、俺の目の届く範囲、俺の領内でこのような愚かな真似をするなどとは万死に値する。上杉の領内で神を語り勝手を通すと申すなら、うちの軍神の大名物で俺自らが手束ら葬り去るより他なし」

 僕の主人が手に持ったそれを強く握りしめたのがわかって、僕は頷いた。強い覚悟を伴った決意の現れ。

 僕はそれーー彼が手に持った太刀、それ自身であるからそうしたことはよくわかるのだ。

「よしんばそれで神罰を受けようとも、それはもう致し方ないーー罰を受ける咎は儂一人で十分。それが名物を授けられた執政者の道理というものよ。

「……しかし、ほ、本当によろしいんで? 神様に呪われでもしたら、あなた一体どうなさるおつもりなんです」

「安心しろ。神罰が俺個人への被害のみに止まらなかったその時は、今度は俺がそいつを祟り殺して生かしてはおかん。これでも結構根に持つ性格なのでね」

 僕は肩を落とした。

「はあ、それは存じております。やれやれだ……おつきあいしますよ。どこへなりとも。どこまでも。僕だってこれでも一応“神”ですから、お一人よりは戦力になるかと」

 ——まあ、水神様と刀の付喪神とじゃあ天と地ほども差があるけど、それはとりあえずこの場合伏せておく。

「それでこそ、この直江山城守の愛刀。謙信公より譲り受けた甲斐もあろうというものだ!」

 僕の主人が高らかに言って手に持ったそれーーつまり僕だよーーを掲げた。

 酷い雨が降っている。あんまり雨には濡らさないでほしいよ。こちとら胡乱な存在とはいえ、本体が濡れれば冷たいんだから。

「いざ神殺しだ、兼光。この洪水が無事鎮まったその暁には、お前の号も新しく変えねばなるまいな! “水神殺しの兼光”とーー」

「うわあ……それはちょっと……だ、ダサくないすか……直江さま」

 この人のセンスは結構妙ちきりんで、それが何より僕は一番辛い。見た目の素材は抜群によいのに、着るものに全くこだわりがないところも地味に辛い。刀に全然興味がないのも辛い。放っておくと朝から晩まで本を読んでいるから、僕なんてのはてんで放って置かれている有様で。

 それ以外は概ね尊敬している。まあ……前の主人に比べたら戦もあんまりうまくはないんだけど。

 結局、“殺し”はさすがにアレだろうってんで……そうして僕はそのように呼ばれるようになった。

 水神を切って洪水を鎮めた長船兼光の太刀——水神切り兼光、と。

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