おじいちゃんと月の居場所-1-
水面に触れる前に こぼれ落ちた雫は溶け込み、空と一つになった。
月からは絶え間なく雫が溢れ、幾度となく真っ暗な世界を照らし溶けていった。
それはきっと「幻想的ですね」とか
「非日常的ですね」といった言葉で言い表されるのだろう。
けれど私は、その光景を 空っぽの心で ただ眺めていた。
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「お月さんのな、きれーーな場所があってな。
まーーきれいでな。
お月さんの縁からポタポターーっと雫が落ちて。
まーーきれいなんだ。
もう元気になったから。一回連れてってくれ」
数年前から、おじいちゃんは前立腺がんのため入院していた。
実家を離れ、上京していた私がそれを知ったのは、つい最近のこと。
容態が急激に悪化したという報せを受けて、
急遽職場に無理を言って帰省したのだった。
家族への挨拶もほどほどに、急いで入院している病院へと急ぐ。
が、病室で私達を迎えたのは、少し痩せてはいるけど私の記憶にある、いつものおじいちゃんだった。
病気なんて患っているのかと思えるほどケロッとしたおじいちゃん。
私が連絡を受けて帰ってくるまでの間に、みるみる回復していったのだそうだ。
あまりにピンピンしていて、「食事にはお肉がほしい」「おかわりが欲しい」「外に出たい」なんて言っていたらしい。
私はホッとしたと同時に気が抜けてしまい、
一定期間取った有給も、明後日で切り上げようかと思っていた。
でも、思い返せばここ半年ほどはまともに休みも取れなかったし、
家族……なによりおじいちゃんの勧めもあって、そのまま休みを取ることにした。
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実家にいる間は、毎日おじいちゃんのお見舞いに行った。
その度、余程家族と話せるのが嬉しいのか、
毎度 饒舌に次から次へと話が湧き上がってきた。
そして、必ずこんな話をする。
「お月さんのな、きれーな場所があってな」
おじいちゃんの話では、月から雫が絶え間なく溢れ落ち、
光の粒が黒の空に舞って、あたりに暖かな光を灯すのだそうだ。
美しい風の音がその時空を満たし、それはそれは美しい場所であるという。
入院当初から家族、親戚に会う度に話しているそうで、
高齢であることもあり、みなボケが始まってしまったかと言っていた。
毎日その話を聞きながら、「はいはい」と軽く流していたある日、
病室におじいちゃんと私だけになった時、急に声を潜めて写真を手渡してきた。
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ひどく色褪せた1枚の写真。
白黒を通り越して褪せている単色のその世界には、
黄金色に輝く大きな「月」が写っていた。
その月の縁からは、こぼれ落ちるように光の粒が滴り、空へと溶け込んでいく。
正確には「そう見えた」だけで、単色の写真では明確に描写しきれているわけではない。
けれど、その写真が目に飛び込んできた瞬間、
私は鈍器で後頭部を殴られたような衝撃と、
視神経に膨大な情報の濁流が流れ込んでくるような感覚に襲われた。
写真を前にあっけに取られている私へ、
「な。きれいだべ。
もう一回、 ここに行きたいんだ」
おじいちゃんは真剣な表情で語りかける。
私の目の前にある写真は、ごうごうと音を立ててうねるような、
引き込まれるというより飲み込まれそうな威圧感を放っている。
私は直感した。
この場所は『実在』する。
そして、
おじいちゃんをこの景色の中に『飲み込もう』としている。
私は、その写真の存在が恐ろしくなった。
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実家で過ごす最後の日。
ここまでおじいちゃんの容態はずっと安定していた。
山はすでに超えたものだと、皆胸を撫で下ろし安心していた。
最後のお見舞いを終え、病室をあとにしようとした時のこと。
「なぁ。どうしても、ダメか」
私はすぐに、「あの場所へ連れて行ってくれ」と言っているのだと察した。
親族は誰も信じていない以上、私一人でおじいちゃんを連れ出すわけにはいかない。
「このままよくなって退院したら、一緒に行こう。ね。
また有給とって帰ってくるからさ」
退院したあとなら、なんとかできるはずだ。
免許もあるし、すこしくらいなら家族も許すだろう。
私は、本気でそう思ったからこそ、そう言った。
「……。 ……そうか」
おじいちゃんの顔はひどく落ち込んでいた。
うつむき、影のできたおじいちゃんの顔は、胸騒ぎを覚えるほどに悲しげだった。
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深夜、突然 父親の携帯が鳴る。
発信者はおじいちゃんが入院している病院。
ディスプレイに写された文字を見た瞬間、
私の五感が即座に遮断されたような感覚に陥った。
――おじいちゃんとのお別れ。
私はそれを、悟ってしまった。
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<続きます>
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