「うんち・うんこ」論から〈社会業〉の蓄積として私たちを取り巻くシステミック差別構造の言及へと駆け上がってみた
Facebookのグループへの投稿と、そのコメントを以下、まとめました。
これのリンク先の出来事は、なんか表現論、記号論、言語哲学的に深いですね。語感と定義がなにげに合っているという。
さすが「ことだま」の國、我が朝のもろもろの智者たちの沙汰し申さるる……。
知らなかったらいいね👍
Posted by おもしろかったらシェア on Wednesday, February 9, 2022
学者たちの「賢しら」を嗤って複雑な皮肉をば労してみました。
本歌はこちら。
法然上人 一枚起請文
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9E%9A%E8%B5%B7%E8%AB%8B%E6%96%87
ちなみに、ここから皮肉ですよーという合図というか標は、「言霊」をあえて平仮名にして「國」を昔の漢字にしただけの分かりづらい違和感演出でしたが、そこから「我が朝」と受けて「本歌取り」。
「牽強付会」という四字熟語もありましたね。
ことだまのさきはふ國では「聞きなし」てふ言語現象も起こりますようで。
「うんち・うんこ」論は是まさにその延長かと。既にある発語に〈意味〉を強制付与し事態を分別するという「高度・最高難易度(?)」の離れ技。言語現象学的な曲芸。
しきしまの大和の國は
言霊の幸わう国ぞ
ま幸(さき)くありこそ
万葉集・柿本人麻呂
※言霊の幸はふ国:言葉の力によって幸せがもたらされる国の意。
まあ、いわゆる『呪術廻戦』でしょうか。←この作品観ても読んでもいませんが多分。其処は彼とさういふ消息のモティーフでわと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%9E%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%97
主体と客体という観点では、言葉は私たちの道具に過ぎません。
しかし一方見方を転じて、それを〈個と全体〉として観じるならば、例えば〈個〉ではどうしようも手出しができない社会制度や構造に潜んで組み込まれた「システミック・レイシズム」や「システミック差別」のような、不均衡で偏向した勾配は、存在するだろうとも思っています。
それを反映した「差別語」「ヘイトスピーチ」というものも。
なので、私たちは自身の〈実存〉と〈道具・ツール〉としての〈社会〉および〈諸-知見〉とともに、
サルトルがいう「実践的惰性態」(from『弁証法的理性批判』)としての、言い換えば、
社会構造の広がりと歴史の側に蓄積されていく人間の行為の連続態、
つまり物象化し制度化した人間行為史という観点、をも視野に入れる必要があるかなあと漠然と考えています。
それは、かつて私が仮設した「社会〈業〉」という仏教哲学に内在する観点に光を当てた用語に該当しています。
唯識の概念で、よくフロイトの「無意識」やユングの「集合的に無意識」として心理学的にばかり錯覚強調され誤読引用されがちな「阿頼耶識」に近い「因果・縁起情報」の共同記憶仕方です。
つまり〈業=行為〉の集合的蓄積と言える事態です。
つまり物象化し制度化した人間行為史という観点です。
私は仏教哲学的な見方を捨てて久しいので、その代替観点をキリスト教神学的に捉え返してきませんでしたが。
あえてキリスト教神学的にアプローチの概要を示すとすると、絶対存在たる主と、個としての〈私〉とのあいだに横たわる共同体の諸次元(教会から世俗社会さらに国家に至る)の〈歴史〉、
すなわち、主の救済史に照応する〈人類史〉という事になるでしょうか。
なお、「社会業」と言う場合、卒論でまとめた当時から強調して添えている考え方の基本があります。
それは、例えば、「差別」という事象について見る場合、「業が深い」と立言される時、もっぱら「被差別者」に対して「語られて」しまう事が多い歴史が、浄土真宗の差別戒名問題などに見られてきましたが、
実は「業が深い」のは、そういう社会的差別構造の傾き、システミック差別の勾配の両端に限らず、全ての関与者に、分かりやすく端的に、いわば極端に語ってみせると、「差別する」側の〈業=行為〉、さらに身近な問題にあえて引きつけると、いじめられる側の〈業=行為〉の問題だけではなく、いじめる側の〈業=行為〉の問題でもあり、
むしろ勾配のある社会意識においては忘れられがちで、光が当たりにくい、「差別する側」の社会における個としての顕在的・潜在的意識を伴う行為の束、
また、「いじめる側」の社会や家族構成との関わりにおける個の表現仕方という行為の束、
からの、歪んだ「差別-被差別関係」の「束縛」「結ぼれ」「結節」からの「解放」「贖い」「救済」こそ目指されるべき事態であり、
「いじめられる側」に光を当てるだけでなく、言葉や行動による暴力の犯行加害者、つまり、「いじめる側」の解放にも光を当てる必要がある、という見立てです。
何気ない事柄に見られる差異についての言及から文化批評を起こしていく、こうした一連の作業を反省的に振り返ると、何やら吉本隆明や柄谷行人氏や、あるいは小林秀雄や本居宣長らの仕事の手つきにも見えてきますが、そういう「思想」を展開するなどという心算はいささかもないのです。
ただ、主の恵みのうちに、主との霊的な交わりに導かれてある「われ」を取り巻く文化的・社会的環境も(さらに言えば政治的・世界情勢的・経済的環境も)、
私たちの「肉」すなわち「たましいとからだ」の延長として、主の愛の恵みの光(まさに私たちの教会の名前の実質がこの "The Light of Eternal Agape" です。)に照らされる企ての仕組みが必要だろうと観じています。
ちなみに、別角度から。
以上の考察は、人々の営みに根ざす文化慣習(エートス)が自然発生的に紡いだシソーラスとしてでなく。
この場合、極めて「人為的なシソーラス」の提案事例、とか?
受け入れるかどうかはあなた次第です、的なもの?
そこできわどいのが、確かに日常感覚での語感と経験的感覚とが、それこそ言語に内在する〈力〉によって、不自然なまでに合致しすぎ、癒着・粘着しすぎている、ここに生成された言語用法の危うさであります。
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