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時計じかけのオレンジ

無事に見終わる事ができて安心した。

大変申し上げ難い事になるが、いま、世間では元少年Aの絵や文章の芸術性がどうとか言われているが、それに似通ったものをこの映画に想像していた。

平たく言えば、暴力や痛みやグロテスク、性的倒錯が2時間続くと思っていたし、冒頭は本当にそういう感じだった。

無事に見終えた、というのは、私は暴力や痛み、グロテスクなものを見聞きすることが極端に苦手でテレビのニュースすら避けているので、見られるか不安だったのだ。ニュースに関しては自分でどうこうできない問題には触れたくないという思いもある。が、しかし、そこに価値が問われ芸術だと誰かが言ったなら、意図を汲み取らねば先に進めない。それがどんなに倒錯したエログロで暴力的だったとしても、だ。わたしは芸術には明るくない。しかし、惹かれるものは確かにある。例えば自分がどれほど孤立していてもそれを疑わない姿勢とか。苦手なものにわざわざどうして取り入る必要があるのか、それは生きづらさではないのかと言われる事も、もしかしたらあるかもしれないが、わたしは、新しいものを見たいという気持ちの方が余程強かったのだ。それが芸術性で優れているのなら尚更。

芸術の中には均一化された倫理や政治はなく、代わりに個々の哲学と思想がある。それぞれが生きるための正義と言ってもいい。正義は公平である。芸術とはすべての正義を内包する力である。すべての正義を表現してゆく新しい文化だ。理由のない愉快犯を認めはしなくとも、パフォーマンスアートなら反響し得るだろう。
曖昧かもしれない。いや曖昧なのだ。不安なのだ。だから知る必要がある。自分の正義の為に、理解する、または拒絶する必要がある。

だから、どんな不安や障害があっても苦しいのは自分だけなのだし、きちんと向き合わねば、というのが私の思うところだ。

まあ最後まで見終えてしまえば、確かに問題の多い作品、いや、問題提起がされている作品だった。プロパガンダ要素も感じられた。
徹底した暴力もあれば低俗な復讐もある。犯罪抑止か人間らしさか。変態女とレイプ男。見ていると、何が正しいのか、より、どこからが正しいのかがわからなくなってくる。物語の序盤に怯えさせられた主人公に、終盤すっかり同情する。自分の意思のど軽さと健忘症にも辟易する。


過ちなど他人がどうこう言おうが本人がそうと認めるか認めないかの2つしかないが、認める前に、人格をぶち抜かれたらどうなるだろうか?

自分の持つ道徳とは何が基準なのか?
どこに道理があるのか?真実とは?
そこにある現実はどうする?
理想の世界を如何に作る?

あと何回この映画を見たらいいんだろうか?

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