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東叡山 寛永寺

上野にある厳かな寺


寛永寺は天台宗の別格大本山の寺である。寛永2(1625)年に、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に、慈眼大師(じげんだいし)天海(てんかい)大僧正によって建立された。

後には第四代将軍・德川家綱公の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになった。また東叡山主を皇室から迎えた(輪王寺宮)ことで、江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となった。

しかし江戸時代の幕末の上野戦争により、敷地の大部分が現在の上野公園となった。また関東大震災や太平洋戦争の被害もあったが、戦後は新たに霊園を造営し一般の檀家を受け入れるなど、開かれた寺となった。


1.名称の由来
東叡山(とうえいざん)寛永寺(かんえいじ)
山号は「東の比叡山」の意、寺号は寛永年間に創建されたことによる。

2. 本尊
薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)
比叡山延暦寺の根本中堂のご本尊と同じく、伝教大師最澄が自ら彫られたと伝えられている。

3.寛永寺の歴史
寛永寺は、寛永二年(1625)慈眼大師天海大僧正(じげんだいしてんかいだいそうじょう)によって創建された。

徳川家康、秀忠、家光公の三代にわたる将軍の帰依を受けた天海大僧正は、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に寛永寺を建立した。

これは平安の昔(九世紀)、桓武天皇の帰依を受けた天台宗の宗祖伝教大師最澄上人(でんぎょうだいしさいちょうしょうにん)が開いた比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門に位置し、朝廷の安穏を祈る鎮護国家の道場であったことにならったものである。そこで山号は東の比叡山という意味で東叡山とされた。

やがて第三代の寛永寺の山主には、後水尾天皇の第三皇子守澄(しゅちょう)法親王を戴き、以来歴代山主を皇室から迎えることになった。

寛永寺の境内地は、最盛期には現在の上野公園を中心に約三十万五千坪に及び、さらにその他に大名並みの約一万二千石の寺領を有していた。

そして現在の上野公園の中央部分、噴水広場にあたる竹の台には、 間口45m、 奥行42m、高さ32mという壮大な根本中堂が建立され、本寺(現東京国立博物館)には、小堀遠州による名園が作庭された。

さらに清水観音堂、不忍池辯天堂、 五重塔、開山堂、大仏殿などの伽藍(がらん)が競い立ち、子院も各大名の寄進により三十六坊もあった。やがて徳川将軍家の菩提寺も兼ねて歴代将軍の霊廟も造営され、格式、規模において我国最大級の寺院としてその偉容を誇った。

ところが江戸時代の幕末の戊辰戦争では、境内地に彰義隊がたてこもって戦場と化し、官軍の放った火によって、全山の伽藍の大部分が灰燼に帰してしまった。(上野戦争)。

しかし、明治十二年(1879)、寛永寺の復興がなされた。現在地(旧子院大慈院跡)に川越喜多院より本地堂を移築、山内本地堂の用材も加えて、根本中堂として再建された。
また明治十八年(1885)には、天台宗の高僧を寛永寺に迎え、再出発することとなった。

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現在、上野公園内や周囲に寛永寺の本寺や建造物、子院が多く存在する。ただし、江戸時代の寛永寺は敷地はもっと広大であり、格式、規模において我国最大級の寺院であった。

先日、上野公園を訪れた時、「江戸時代の厳かな寛永寺を見てみたい」という、ノスタルジーな気持ちになった。


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