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大正デモクラシー


民意が力を増し、軍国主義化にもつながった


大正デモクラシーとは、1912年から1926年まで続いた大正時代の日本で展開された、さまざまな自由主義・民主主義的な運動の総称である。

大正デモクラシーは、日本における民主主義の芽生えであった。しかし、その一方で大正デモクラシーは良くも悪くも民意が政治参加する状態を作り出した。その結果、1930年代における日本の軍国主義化にもつながっていった。 

〈目次〉
1.大正デモクラシーとは何か  
2.大正デモクラシーが行われた背景
3.大正デモクラシーのはじまり
4.米騒動と本格的な政党内閣の誕生
5.政党内閣の誕生
6.改造の時代
7.普選運動と第二次護憲運動
8.大正デモクラシーの結果・影響
9.まとめ

1.大正デモクラシーとは何か
・大正期に高まった自由主義・民主主義的風潮のことである。その背景には産業の発展、市民社会の発展、第一次世界大戦前後の世界的なデモクラシー風潮の影響がある。

・民主主義思想が拡大し、普選運動、社会・労働運動や教育運動にもつながった。民衆の影響力が増し、民衆の政治参加が進展していった。その象徴的な出来事が、1925年に制定された「普通選挙法」である。

・一方で民衆の台頭は、必ずしも良い影響だけを与えたわけではない。歴史の流れが伝えるように、大正デモクラシーの後、1930年代の日本では急速に軍国主義化が進展した。

2.大正デモクラシーが行われた背景
・1880年代から1900年代にかけて、日本でも産業革命が進展していた。その結果、農村から都市への人口流入が増加し、工場労働者も増加するようになった。しかし、当時の労働者の待遇は悪かった。

・産業革命の進展と並行して、労働問題が深刻化してきた。加えて1905年以降日露戦争による戦災や増税が重なると、さらに人々の暮らしは困窮していった。

・こうした状況を背景に、労働者の苦境を改善するため労働組合の設立や社会主義の勃興が生じた。さらに、これらの動きは民衆運動に発展し、東京で1906年から1908年にかけて「電車賃値上げ反対騒擾」が発生するなど、デモ活動も頻発するようになっていった。

3.大正デモクラシーのはじまり
・大正デモクラシーの出発点と位置付けられるのは、1912年から1913年にかけて生じた「第一次護憲運動」と、その結果として生じた「大正政変」である。

①第一次護憲運動
その発端は1912年12月に立憲政友会主体の第二次西園寺公望内閣が倒され、第三次桂太郎内閣が成立した。これを藩閥による政権打倒と見なした人々は「憲政擁護会」を結成し、「憲政擁護・閥族打破」をスローガンに第一次護憲運動を展開した。

②大正政変
・そして1913年2月、政友会と国民党が国会で内閣不信任案を提出すると、民衆も国会前で激しい抗議行動を行った。その結果、第三次桂内閣はわずか53日で倒れた。これは日本史上最初の内閣が民衆の運動によって倒された出来事であり、「大正政変」と呼ばれている。

4.米騒動と本格的な政党内閣の誕生
・その後1914年に第一次世界大戦が勃発すると、日本経済にも転機が訪れた。大戦の勃発に伴い西欧列強がアジア市場から後退、代わりに日本の綿糸・織物業などが進出するようになったためである。

・その結果、大戦は造船や鉄鋼など重工業の発展や海運業の盛況ももたらし、日本経済は「大戦景気」と呼ばれる好景気を迎えた。
しかし大戦景気の一方で、依然として庶民の生活水準は向上しなかった。大幅な輸出拡大が国内の物資不足を招き、急激なインフレが進行した。さらに物価の高騰に対して、賃金の上昇は追い付いていなかった。

・このような状況下、特に深刻な問題となったのが米価の高騰である。これまで見てきたように、工業の急速な発展に伴い、都市人口が増加しました。その結果、米の需要の急増に繋がった。さらに1917年に「ロシア革命」が発生すると、状況は一層悪化していく。ロシア革命に対する「シベリア干渉戦争(シベリア出兵)」によって軍需米の大量需要が見込まれるようになると、商人の買い占めや地主の売り惜しみが起こった。

・そして1918年7月、ついに人々の不満が爆発した。富山県の魚津で漁民の妻たちが立ち上がり、町長や地主、米商人の家に押しかけて米の安売りを要求した。

・その後、新聞報道に触発されて、東京や大阪など1道3府38県で約70万人が暴動に参加した。この一連の暴動が、今日「米騒動」と呼ばれものである。 

・米騒動に対して、当時の寺内正毅内閣は新聞報道を禁じ、さらに警察や軍隊を動員して弾圧を図った。しかし言論擁護や内閣批判の声が高まり、これらの世論に押された結果、寺内内閣は米騒動の責任を取って総辞職することとなった。

5.政党内閣の誕生
・このような状況下、次の首相を天皇に推薦する役割を担っていた元老たちは、民衆の不満を抑える必要に迫られた。そして次の内閣は民衆の声を反映する必要があると考えた結果、立憲政友会総裁の原敬に組閣の大命が降った。
こうして1918年9月に成立した原内閣の特徴は、以下のとおりである。

・陸海軍大臣を除くすべての閣僚が、政友会員やその支持者から成り立っていた。日本ではじめて衆議院に議席を持つ人物が首相となった内閣であった。そのため原内閣は、日本における最初の本格的な政党内閣と呼ばれている。

6.改造の時代
・原内閣が成立した後、1918年11月に第一次世界大戦が終結した。大戦を通じて影響力を拡大したアメリカは、「新外交」の名の下に、自らの信奉するイデオロギーとして世界中に民主主義を普及させることを試みるようになっていく。

・このようなアメリカの動向は日本にも影響を与え、大正デモクラシーは新たな局面を迎えることとなった。民衆が政治参加以外にも、自分たちが抱えるさまざまな問題を提起し、その解決のために積極的に運動するようになった。
ここでは、第一次世界大戦後に生じた代表的な動きを紹介する。

①日本労働総同盟・・・1912年に鈴木文治らが設立した友愛会を母体に、1921年に「日本労働総同盟」が誕生した。労働総同盟は労働組合のナショナルセンターとして機能し、各地で大々的な労働争議を展開して資本家との対決姿勢を打ち出した。

②日本農民組合・・・農村でも、寄生地主に収奪されていた小作人たちが団結し、小作料の軽減や耕作権確保を求める小作争議が頻発するようになった。そして1922年には、日本で最初の全国的な農民組合組織として「日本農民組合」が結成された。

③小日本主義・・・1919年に柳宗悦が朝鮮で生じた「3・1独立運動」を武力弾圧したことを批判したほか、1921年には石橋湛山が「小日本主義」を提唱して台湾・朝鮮・満州の放棄を訴えるなど、日本の植民地政策への批判もされた。

これらの運動に加えて、被差別部落や女性のように差別されていた人々も、差別からの解放を目指して運動を展開している。たとえば、1922年、西光万吉らによって「全国水平社」が設立された。

・一方1920年には、「女性解放運動」を展開する平塚らいてうや市川房枝らによって「新婦人協会」が設立された。

7.普選運動と第二次護憲運動
・同じ頃、政治の分野では普通選挙の実現が争点となっていた。当時の選挙制度は、一定額の納税を行った男性だけが投票できる「制限選挙」であった。これに対し、制限の撤廃や女性参政権の実現を求める声が高まっていた。

・このような世論を背景に、原内閣は納税額を10円以上から3円以上に引き下げるなど、選挙法を改正している。しかし原は、普通選挙は社会主義の台頭を招くと考えていた。そのため1920年に国会に普選法案が提出された際、原は反対の立場を表明している。このように原は、普通選挙実現を求める「普選運動」とは敵対的であった。そして1920年から「戦後恐慌」が生じた影響もあり、1921年に原は東京駅で不満を抱いた青年に襲われて、殺害されてしまった。

・原内閣に続いて高橋是清内閣が倒れた後、しばらくは政党政治家ではない人物の組閣が続いた。しかし1924年に政党政治家を1人も入閣させずに清浦奎吾内閣が成立すると、政党勢力が激しい反発を示すようになった。

・具体的には、清浦内閣の成立後、憲政会の加藤高明、革新倶楽部の犬養毅、政友会の高橋是清が「護憲三派」を結成し、清浦内閣の倒閣運動を展開していった(この運動が、今日「第二次護憲運動」と呼ばれるもの)護憲三派は人々の支持を得るために、普選断行、政党内閣の実現、貴族院・枢密院改革、行政整理などを公約に掲げた。といった運動がされていた。そして5月に行われた第15回衆議院議員総選挙では、護憲三派が過半数を獲得して勝利を収めた。その後成立した護憲三派内閣は「衆議院議員選挙法」を改正し、1925年に公布している。この改正衆議院議員選挙法が、今日「普通選挙法」と呼ばれるものである。

・25歳以上の男性が選挙権をもつようになった結果、有権者数が約300万人から1240万人に増加し、国民の約20%が有権者となった。

・こうした変化を背景に、日本でも衆議院を基盤とする政党政治が定着していった。1932年に犬養毅内閣が倒れるまでの8年間、衆議院の多数党総裁が首相となる「憲政の常道」が続くこととなった。一方で護憲三派内閣は、普通選挙法の公布と前後して「治安維持法」も公布している。この法律は、主に社会主義者を取り締まるために制定された。その要因として、当時の政党政治家全般に、民衆が社会主義に走ることへの警戒感があったことが挙げられた。

・当時は民衆の影響力が増加する一方で、民衆が過激な主義主張に傾くことが警戒されていた。詳しくは後述するように、この懸念が現実のものとなったことが、1930年代における日本の軍国主義化につながっていく。

8.大正デモクラシーの結果・影響
・大正時代を通じてさまざまな人々が状況を変えるために立ち上がり、多彩な運動を展開した。そして一連の活動は第二次護憲運動をへて、政党政治の確立という形で結実することとなった。そのため大正デモクラシーは、日本における民主主義の萌芽として評価されている。

・このように、大正デモクラシーを「国民の間における民主主義的傾向」として評価する声は、同時期の欧米諸国にも存在した。一方で政党政治が確立され、民意が政治の動向を左右するようになったことは、さまざな問題点も生み出していく。
昭和期になると、二大政党であった民政党と政友会は選挙に勝つことを至上命題に掲げ、互いに激しい批判を繰り返すようになった。しかし政争が優先された結果、政治の停滞が生じてしまった。

・そして1930年に生じた「昭和恐慌」が深刻化していく中、国民は政党ではなく、満州の権益拡大を目指した軍部を支持するようになった。政党政治が十分な経済対策を打ち出せない一方で、軍部の行動を景気刺激策として歓迎する声が高まったためである。

・長引く不況の中では、政党の政権至上主義は国民生活から完全に遊離してしまう。大陸進出によって経済の混迷を打開できるのではと期待を寄せ、軍部に親近感を持つようになっていった。その国民の人気を獲得するため、選挙での勝利と政権争奪に血道を上げる政党は、軍部や反政党勢力に自ら接近し、その力を利用しようとした。しかし、その政党の思惑とは裏腹に、軍部の台頭を招く結果に陥ってしまった。

・つまり、人々が軍部を支持するようになった結果、民意が無視できなくなった政党は軍部の意向に沿うようになった。また民意が中国への侵略を支持するようになれば、侵略も正当化されるようになっていった。こうして民意が政党政治を離れ、軍部を支持するようになったことが、日本の軍国主義化を後押した。大正デモクラシーは良くも悪くも民意が政治参加する状態を作り出し、民意が日本の動向を規定するようになったきっかけであることが理解できたと思う。

9.まとめ
・大正デモクラシーとは、1912年から1926年まで続いた大正時代の日本で展開された、さまざまな自由主義・民主主義的な運動を指す。産業革命の進展と並行して、労働問題・都市問題が顕在化していったことが背景にある。大正デモクラシーは良くも悪くも民意が政治参加する状態を作り出し、民意が日本の動向を規定するようになったきっかけである。

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