見出し画像

小説 アダマの塵を、【再録】

※この作品は日本SF作家クラブの小さな小説コンテストの共通書き出しから創作したものです。
 https://www.pixiv.net/contest/sanacon

pixivに同ペンネームで投稿したものの再録になります。
締切に間に合わなかったので結局コンテストには出品しませんでした。



 朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。
 七日あれば充分だ。神は六日で天地を創造し、残りの一日を休む余裕まであったのだ。

 何かをこの手で作りたい。
 と、男は思った。四十路近くまで生きてきたが、男には何もなかったからだ。何も、成し得なかったからだ。
 聖書の神のように文字通り天地を創造するのは、人間たる身には不可能だ。立体地図やジオラマ、あるいはテラリウムのようなもので比喩的に「世界」を表現することも頭に浮かんだが、種々の設備や材料や道具などはもう揃うまい。大きなホームセンターやホビーショップはとうに営業を停止している。
 近所のスーパーはまだ営業していた。このところ特に頻発するようになった地震の中、男は徒歩でそこへ向かった。おもちゃコーナーの片隅に目当てのものを発見する。子供用の小麦粘土のセットだ。赤、青、白、黄、緑の五色に着色された粘土が小分けにパックされて、ボール紙の箱に収まっている。箱の表面に描かれた笑顔のキリンやライオンのイラストが、今しも終わろうとしている世界に対して著しく不釣り合いだった。
 一箇所だけ開いていたレジで会計を済ませて帰路につく。地震は続いている。もはや地震速報も流れない。

 世界が崩壊する具体的なメカニズムは、多くの大衆と同じく男にはさっぱりわからなかった。地下のマントルやコアの活動がどうで、ポールシフトがどうで――要するに、地軸が大きく変動するために地球全体に大天変地異が起こるらしい。陸は裂け砕けて沈下しあるいは隆起し、海は荒れ狂い氾濫し、沸騰し蒸発する。あらゆる火山が噴火し噴石とマグマを吹き上げ、大気は猛烈な嵐となって地上を一切合切薙ぎ払う。そんな中を、少なくとも現生人類が生き残れるはずもない。
 世界中の高名な学者たちによって破滅を回避する方法が研究されたが、それが避けられないと確定したのはここ数年のことだ。宇宙に脱出することも当然検討されたものの、現在の宇宙開発レベルでは、八十億近い人口を避難させることなど到底不可能だった。
 結局人類は地球と運命をともにすることになった。規模の大小問わずパニックや暴動はもちろんあったが、それもすぐに無気力な諦観に取って代わられた。スーパーの店員の淀んだ目を、表情に貼り付いた暗い虚無を、思い出す。自分も――そして今地球上にいる人間全員が、きっと同じ顔をしている。

 帰宅した男は、さっそく粘土を開封した。粘土板など持っていない。ワンルームマンションの手狭な台所からまな板を持ってきて代用する。どうせもう世界は終わる、自炊などしなくても構わないだろう。独身の一人暮らしでもあり、料理を振る舞う相手もない。
 五色の粘土を、全部合わせて捏ねる。しばらくは異様なマーブル模様がぐねぐねと動いていたが、やがて全体がくすんだ灰色になった。粘土塊をまとめるとソフトボールくらいの大きさになる。思ったよりも少ないが、まあ良いだろう。

そうしているうちに、一日目が終わる。

 男は現在無職だった。世界の終わりが確定したころ、勤務先の会社はひっそりと解散した。驚くことに、雀の涙程度ではあったが退職金は出た。それを蓄えと合わせれば終焉までの期間を過ごすのになんとか足りそうだったので、以降、何をするでもなくぶらぶらと生きている。世界が終わってしまうのだから、今さら転職もあるまい。
 粘土塊は、男の手の中で自在に形を変えた。体温で柔らかくなり、指や手のひらに吸い付くような小麦粘土の感触が懐かしかった。こんなものを触るのは幼稚園児の頃以来だ。
 男の通っていた幼稚園はミッション系で、お遊戯や絵本などで聖書の内容を知ったものだった。世界の終わりまで七日――今日でもう六日だが――に迫ったときに「創世記」の天地創造のくだりを思い出したのは、我ながら皮肉だと思う。旧約聖書の冒頭から始まるダイナミックな七日間は、幼かった男にはそうとうインパクトがあったのだろう。
 天地と海とそこに生きる生命を創造したあと、神は土を捏ねて人間を作った。最初から始めるまでは無理でも、最後の御業だけは自分にも真似られそうだと思った。
 それで、男は粘土を捏ねることを思いついたのだ。神が使ったのはアダマの塵で、男のは小麦粘土だったが、そこはご愛嬌だ。
 粘土で人を作るのだ。神を真似て。
 それぞれを人体のパーツにするつもりで、粘土塊をいくつかに分ける。無心にそれらを弄びながら、男はいつしか自分の過去を回想していた。妙に感傷的になっている自分がおかしかったが、世界の終わりくらいはそんな気持ちになっても良いだろう。

 ありふれた環境で育ったと思う。幼稚園から地元の公立小学校、中学校そして高校へと進学した。地方出身だった男はさらに都市部への進学を望み、大学の受験勉強には身を入れた。結果、第一志望の中堅私立大学に滑り込んだ。男の学力から考えればめいっぱい背伸びをしたランクの大学で、両親も学級担任も合格を自分のことのように喜んでくれた。男も心から誇らしく、嬉しかった。
 ――そこまではうまく進んでいたんだが。
 男は、手にしていた粘土塊の一つをまな板に叩きつけた。形が気に入らない。上から手のひらで潰し、また捏ねる。
 大学入学後の新生活に、どうにも男は馴染めなかった。都市部での一人暮らし、押し流されるようなテンポの早い毎日、都会のぎらついた攻撃的な雰囲気、我の強い学友、とっつきにくさしか感じられない講師や教授、すべてに。
 それらとうまく折り合えない自分に対しての焦りや自己嫌悪、こんなはずではなかったという挫折感が、男の中でしだいに、苦痛なほどに大きく膨らんだ。いつの間にか大学へは行けなくなり、毎日自室に引きこもるようになっていた。それで単位を取得できるわけもなく、憧れて入学したはずの大学を、男は四年を待たずに自主退学した。
 両親に泣かれたのが、今でも男の心にひどく痛い。合格をあれほど喜んでくれて、学費も嫌な顔ひとつせずに出してくれたのに。苦い後悔は消えない澱となって、今でも男の心の奥底に沈んでいる。
 捏ね直した粘土を、男は再び造形する。今度はなかなかうまくいっている。

 そして、二日目が終わる。

 大学を中退したあと、しばらくは何も手につかなかった。希望して入った大学だったし、合格したときは自分も周囲も喜んだものだったから、その反動として男を襲った絶望はとてつもなく大きかった。といってそれで自殺などするほどの勇気もなかったし、挫折感と敗北感は消えなかったものの、男はどうにかそこから生活を立て直そうとした。
 当時は両親とも健在であったのも大きかった。内心はどうあれ、両親は男に対して影日向に援助を惜しまなかった。その両親に対して何も報いられずに生きる、あるいは死ぬのは、あまりに不孝だと男は思ったのだ。
 生活するには、ともあれ食い扶持を稼がなければならない。特段やりたいこともなかった男は、無料の求人誌をぱらぱらと見、目についた企業に履歴書を送った。男にあったのは高卒資格と普通自動車免許だけだったが面接はとんとんと進み、男は営業マンとしてその企業に就職した。
 慣れない仕事に追われつつ何年かが過ぎた。その間になんとなく同僚の女性社員と社内恋愛の関係に至り、そしてそのまま結婚しようというムードになった。
 大恋愛であったわけでもなく、相手に運命めいたものを感じたわけでもない。ただ男も女性社員も適齢期だったし、手近なところでくっついた、と、男としてはそんな印象ではあった。
 それでも男の両親は喜んでくれた。大学に合格したときと同じくらい、またはそれよりも大きな喜びようだったと思う。大学をドロップアウトし、おざなりに就職して漫然と生きている自分にもまた親孝行ができたのだと、男は嬉しく思った。
 ――「思った」んだけどな。
 心づくしの結婚式を経て、男と、妻となった女性社員の暮らしが始まった。生活は順調だった。共働きだったので家事は分担し、休日には二人で出掛け、たまには喧嘩もするがともに笑って日々を過ごす。そうして平穏な家庭を築き、平凡に生きていくのだろうと思っていた。
 男と妻には子供がなかなかできなかった。当時男は三十歳になったばかりで、妻は一つ年下だった。どちらも若すぎもせず、年をとりすぎているわけでもない。
 妻は不妊治療クリニックに通い、男も勧められるままいくつかの検査を受けた。結果は数日で出て、男は妻と、診察室でそれを聞いた。
 不妊の原因は男にあった。精巣に問題があり、健康な精子がまったく作られないということだった。その詳しい原因はどうでも良かった。要は、男は自分の子供を望めず、妻も、男の妻である限りは同様ということだ。
 妻は思い悩み、人相が変わるほどげっそりとやつれた。愛嬌のある女だった妻を、そのように憔悴させ面変わりさせてしまったのは男だった。だから、死者のように固く、白いほどに青ざめた顔で妻が離婚を切り出したとき、男はそれを承諾した。拒む資格など無いと思った。
 手続きは煩雑だったが、離婚はあっさり済んだ。関係者は全員悲しんだが、同時に全員どこか「仕方がない」という空気を共有していた。子供好きだった妻は自分の子を熱望していたし、年齢などの事情を考えれば離婚は早いほうが妻のためでもあった。
 男はまた両親を泣かせた。
 このときも、あるいは大学を辞めるときも、両親は男を責めなかった。ただ、両親の涙はどんな罵倒よりも男の胸を深く抉った。自分のつらさよりも両親の失望のほうが大きいだろうとわかってはいるものの、それでも心の痛みと、叫び出したいようなやるせなさは耐えがたかった。
 自分は何も成し得ないのだと――大学で学位を取ることも、結婚して両親に孫の顔を見せることも、そういった「普通の」、大多数の人間が当たり前にしていることを何一つ成し得ない、その能力すらない人間なのだと、突きつけられる思いだった。それが男にはつらかった。何よりも、惨めだった。

粘土塊は少しずつ形になっていく。
 図画工作や美術の授業はそこそこ好きだった。中学生のときには粘土で塑像を作る単元もあり、男はそのときのことを思い出していた。席が隣り合ったクラスメイトをモデルに頭像を製作したのだったが、完成した後の作品をどうしたのか男の記憶にはなぜかない。捨ててしまったか、もしくは母校に置いたままなのか……
 自分の手で何かが創造されるというのは、独特の昂揚感と充足感があった。特に優れた技量があるわけでもないし、専門の訓練を受けているわけでもない。自分の行為が結局素人の手慰みでしかないことも、世界が終末を迎えようというときに何かを作り出そうなどとは無駄でしかないことも、頭では理解している。それでも目の前の粘土に向き合い、造形に没頭するのは心地よかった。単なる自己満足でしかないとしても、しかし自分を満足させて何がいけないというのか。
 ――「産めよ、殖えよ、地に満ちよ」の通りに生きるのは、自分には不可能だったけれど。
 神は自身の姿に似せて人を作ったのだと、牧師に教えられたのを思い出す。それならば、
 ――自分が神の姿を真似て作られたのならば、神の御業をも模倣しようと思うのも当然だろう。多少畏れ多かったとて、神はきっと赦し給うはずだ。
 
 三日目も、終わる。

 四日目のことだった。
 立っているのも難しいくらいの大きな地震が朝から何度か起きていた。電気は止まり、放送電波も停止したようだ。世界の終わりまでの日数を律儀にカウントしていたテレビも映らなくなったし、ラジオも入らなくなった。インターネット回線も、むろんことごとく断絶している。
 男の部屋も荒れきっていた。始めは倒れた家具を起こしたり落ちた雑貨を片付けたりしていたのだが、それもやめた。どうせすぐ新しい地震が来て徒労に終わるのだ。
 手洗いに立った男が――水道も止まったので、ビニールで覆った便器に新聞紙を詰めて用を足している――戻ろうとしたところで、また強い地震が来た。男は手洗い前の短い廊下に転び、そのまま立ち上がれずに四つん這いになって揺れに耐えた。高いところに残っている雑貨はほとんどなかったが、それでも、何かが次々と床に落ちる音がする。
 恐怖に固まっているうちに、揺れは唐突に止まった。低い地鳴りと、自分の心臓が暴れる音だけが聞こえている。男はしばしそのまま硬直していたが、どうやらもう揺れないと判断し、体を起こした。全身の筋肉が、痛いほどに強張っている。
 部屋に戻った男は、目の前の光景に呆然とした。
 まだかろうじて壁際に立っていた本棚がついにローテーブルの上に倒れ、本や雑貨が、見えない手に掴み出されてばら撒かれたように出鱈目に散乱している。
 しかし男が見ていたのはそれらではなかった。男の視線はローテーブルに、正確には、その上のまな板に釘付けられていた。
 まな板の真上に大判のハードカバー本が落下していた。光沢のある表紙と使い込んだまな板の間から、くすんだ灰色をしたものがはみ出している。
 男はふらつく足で――揺れは収まっているはずなのだが――そこに歩み寄った。棚をゆっくりと起こし、これもゆっくりと、まな板の上に落ちた本をどけた。
 男が見たのは予想通りのものだったとは言え、それでも、額と腋窩からは汗がどっと吹き出し、顔からは血の気が引いた。喉の奥からは無意味な呻き声が漏れる。
 無惨に圧し潰された粘土細工が、そこにあった。平たくまな板に張り付いたそれは、あたかも轢かれたカエルのようだった。男が苦心して作った細部の造形もみな、退化した器官の惨めな痕跡じみて、平坦な表面に寄った単なる皺へと変わり果ててしまっている。
 とりとめのない思考が、立ち尽くした男の頭の中を、遠く散り散りに流れていく。
 ――壊れてしまった。作り直すか? また最初から? あと三日もすればすべて終わるのに? 小麦粘土などではなく硬化するタイプの粘土で作れば良かっただろうか。だがこれしか手に入らなかったのだから仕方ないだろう。それよりこれからどうするのか。おれは、どうするべきか……
 どうするべきか。とても考えられなかった。
 ただ、潰れた粘土塊をうつろに見つめながら、自分は最後まで何も成し得ないのだろうという諦めの念が、音もなく胸の底を浸していくのを男は感じていた。最後までこうならば、いっそ自分らしくて良いのかもしれなかった。いつもこうなのだ。おれは、いつも、何もできない。何も、成し得ない。
 自嘲の苦味に唇が歪んだ。泣きたいような気持ちになったが、涙は出なかった。

 荒れ放題の部屋で、四日目はこうして終わった。

 五日目が明け、太陽が高く昇っても、男は部屋のソファに転がっていた。ベッドへも行かずそのまま睡眠を取り、おぼろに覚醒してはまたうとうととする。
 あと数日で世界が終わるというこの期に及んで、自分には「何も成し得ない」のだと――自覚していたつもりではあったけれど、いよいよそれは覆せないのだと改めて認識するのは、またひどくこたえた。心身が完全に虚脱している。
 ぼんやりとしているうちに、ふと両親の顔が思い浮かんだ。二人とも、何年か前に相次いで病を得て、すでに他界していた。それが世界の滅亡が確定するより前だったのは、まだしも救いだっただろうか。
 失望しかさせてこなかった両親は、あるいは自分を憎んでさえいたかもしれない。世界が終わるときにすら何もできない自分に、きっと両親はさらに失望するのだろう。
 しかしこれ以上何ができるというのだ。
 粘土細工は潰れ、残された時間もわずかだ。もう何もしたくなかった。何もかもが億劫だった。
 投げやりにソファの上で寝返りを打った――瞬間、また大きな地震が一帯を襲った。昨日の、粘土細工が壊れたときの地震よりさらに大きい。
 ソファが男ごと大きく跳ねて、男は床に投げ出された。間髪入れずに、上からソファが落下してくる。とっさに横に転がり、ぎりぎりで避けた。
 ソファ以外にも、ローテーブルや棚やその他の雑貨、そして男の体も、床の上にあるすべてが、洗濯槽に放り込まれたように無秩序に跳ね躍った。男は本能的に体を丸め、頭を腕で抱え込んでうずくまった。遠く近く建物が倒壊する轟音が聞こえ、自分のそばにも天井だか壁だかの一部が落ちてくる。鼻や口に感じる空気は、崩れた建材から来るのであろう粉塵が大量に混じって変に苦い。
 無限の時間のようでも、まばたきより短い一瞬のようでもあった。気がつくと揺れは収まっていた。恐る恐る身じろぐと、体に積もった塵がばらばらと落ちる。どうやら大きな怪我はしていない。
 生きている。と、思った。突然閃いた感情だった。
 ――おれは、生きている。この期に及んでさえ……何も成し得ないまま、不可避の天変地異をただ待っている、今このときに至っても。
 男はまだ五体満足に生きていた。生きようとしてしまった。それは明確な事実で、真実だった。
 肉体が生に執着するならば、神がみずからに似せて作ったというこの体が生命を保とうとしてしまうならば、それも――終末までのわずかな時間くらいそうしていても、きっと赦される。
 男は立ち上がって、あらゆるものが散乱した部屋を注意深く前進した。目指すのはほんの数歩先なのだが、この惨状ではその数歩が遠い。
 目的地に着いた男は、落ちていたまな板を拾い上げる。粘土がいまだにびったりと張り付いており、さらに塵や埃が大量に付着して汚いことになっているが、目立つごみだけでも取り除けばまだ使えるかもしれない。
 男は小さく笑った。
 ――天はみずから救くるものを救く、と言う。世界が終わろうというこんなときだ、最後までなんとかあがいて、生きようとしても……やりたいことをやっても、きっと良いのだろう。
 自己満足にすぎないのだとしても。すべて結局は無に帰するしかないのだとしても。

 粘土をまな板から剥がし、道具と作業スペースを発掘して、五日目が終わる。

 六日目未明から男は作業をしていた。時間はそうない。しかし――あるいはだからこそ、男の心は奇妙に静かだった。さざ波ひとつない、凪いだ水面のようだった。
 まな板にこびりついて取れなかった分もあり、粘土は最初より心持ち少なくなっていた。混入したごみのせいで捏ねる手触りもざらついているし、伸びも悪くなっている。それでも男は意に介さなかった。自分の手で何かを作るということだけに、自然と意識が集中した。
 ――人を作っているときの神も、同じような心持ちだったろうか。
 数日前にそうしたように粘土塊をいくつかの塊に分ける。今度こそ、これで人の形を作るのだ。
 胴体から取りかかる。背中を丸めた形をイメージする。地震の中で身を守ろうとしていた自分の姿に重なる。
 くの字に曲がった両脚を作る。胴体に比して短い。細かい造形を作り込む余裕はないし、足首から先は靴を履いた足のように一塊で表現することにした。なんとなく形がわかれば良いだろう。
 両腕を造形する。脚よりも小ぶりで細身だが、やはり肘を曲げた形にする。こちらも長さは短めだ。手の指の表現もそれほど作り込まない。両手とも軽く拳を握った形に見えるように整える。
 手も足も胴体も、正確な形にはこだわらずに全体の印象を表現することに男は心を砕いた。ふっくらと肉付きが良く、柔らかであたたかで、心地よい体温を感じるような……
 それぞれのパーツが、なんとなく形成されてきた。男は注意深くそれらを接続する。指では届かない箇所は、スパチュラ代わりに耳掻きや爪楊枝を使う。苦労したものの、なんとかうまくいっている。自分の手からどうやら「形」が生まれつつあることに、男は満足した。
 この日も短い間隔で襲ってくる地震に邪魔されながら、それでも男の作業は着実に進んだ。胴体に手足をつけたら、残った粘土で頭部を製作する。
 まず鼻の位置を決めてそれを作り、やや上に一対の眼窩を作る。そこに粘土を盛って、まぶたを閉じた目元を造形する。頬は下膨れ気味の曲線をイメージして粘土を盛る。頬のラインとのバランスを見ながら、口元と顎に取りかかる。上下の唇を、特に慎重に息を詰めて成形する。形が複雑な両耳は、手足の先と同様細部の造形はせず、おおまかな形を作ってそれらしく見えるように仕上げていく。
 不思議に幸福な時間だった。非常事態に対する防御反応でそう感じられるだけなのかもしれない。しかし男の感情は事実穏やかであったし、快い気分で作業していたのも本当だった。世界の終末という局面であまりに場違いな感情だったが、こんな気持ちで最後を迎えられるならば、それも悪くない。

 暗くなるまで作業をして、六日目が終わる。

 七日目――終末まであと何時間だろう。
 昨日よりさらに頻繁に、ほとんどひっきりなしに強い地震が起きている。男は夜明け前から目覚めていて、自分の身と、自分の被造物を守るのに必死だった。また潰されてはことだ――粘土細工も、もちろん自分自身も。
 奇跡的に、男が住むマンションはいまだに倒壊もせずに建っていた。部屋の窓ガラスは割れてなくなっているし、ドアも歪んで閉まらなくなってしまった。外から見れば、今にも崩れそうな廃墟にしか見えないだろう。しかし、世界が終わるまで保ってくれればそれで充分だ。

 午後の太陽がだいぶ傾いたころ、男は作業の手を止めた。
 地震にずっと揺られているせいか、ひどい船酔いのような感覚が続いていた。不用意に立ち上がると、地面の揺れと頭のふらつきとが相まって転倒しそうになる。男の三半規管はもはや身体を制御するのを諦めてしまったようだった。
 黄色っぽい太陽光が、割れた窓から斜めに入ってくる。その淡い黄昏色の中で、男は自分の被造物をしげしげと眺めた。
 丸くなって眠る赤ん坊の形をした粘土細工が、出来上がっていた。途中で一から作り直したのもあって細かい造形は放棄しているものの、全体的にはどうにかそれらしい形に仕上げられたように、男は思う。
 肉付きの良い体つき。ゆるく弧を描いた背中。体の内側に畳んだ短い手足。自分のへそを見るようにうつむく大きな頭。形の精密さよりは、あたたかでふくよかな雰囲気を表現した、つもりだ。
 粘土で人の形を作ろうと思ったのは聖書からの着想だったが、赤ん坊の形にしようと思った理由は、男にも正確なところはわからない。けっして持てない吾子への憧れから。子供を抱かせてやれなかった妻や、孫を見せてやれなかった両親への贖罪から。あるいは単に「生命を創造する」という意識からこういう形になっただけか。どれでもあり、どれでもなかったのかもしれない。
 穏やかに目を閉じ、眠る赤ん坊。素人が急ごしらえに作った粘土細工で、造形が洗練されているとは言いがたく、率直に言えば出来は稚拙だ。それでも男の心は、これまでになく深く満ち足りていた。不完全で不格好かもしれないが、これはまぎれもなく自分の産み出したもので、自分の被造物だった。何も成し得なかった自分が、成したものだった。
 アダマの塵から人を創造した神の気持ちを、男はありありと想像した。自分の被造物を見て、その出来映えに満足して「きわめて良し」とされた……
 低く続いていた地鳴りが大きくなってきている。足元から伝わる揺れも合わせて強まってきていた。マンションが軋み、不気味な破壊音が立て続けに聞こえた。
 刹那、目の前の壁に亀裂が走り、裂け広がった。と思う間に床が崩落し、男は宙に投げ出された。
 男の目に最後に映ったのは、視界を埋め尽くすいくつもの巨大な瓦礫と、放り出された粘土細工の赤ん坊だった。男は手を伸ばした。指先に粘土が触れる。体をひねり、腕をばたつかせ……届いた。男は必死にそれを掴んだ。握り込む勢いで少し歪んだが、男の被造物はその手に収まった。
 ――きわめて良し。
 唇が緩んで、薄い微笑と満足の吐息とともに、ひとこと言葉が漏れた。
「光あれ」

 そして、世界は暗転した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?